ゆめ未来     

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老いのゆくえ

2019年09月09日 | もう一冊読んでみた
老いのゆくえ/黒井千次  2019.9.9  

ぼくは、外の方の老いを生きるに興味があります。
豊かな老後を過ごされている方の人生に接すると「老いは突然やって来たのではない」。
このことを深く実感します。
若いときからの集大成なのですね。

ところで、あなたの老いはどのようにやって来ましたか。
ぼくは、先ず、髪の毛が抜け始め、続いて歯がぐらぐらになりやがて抜け落ち、眼は悪くなりました。
耳は、今のところまだ健在です。
頭は、この間ずっと悪くなり続けていたのでしょうが、徐々に徐々にで幸いにも気づかず。

最近、気づいた老いは、コピー&ペーストが上手く出来ないことです。
マウスのカーソルの移動が、狙ったところにサッと動かない。
動かそうとすると手が硬直してしまい上手くいかない。 緊張が嵩じる。
だんだん手も動かなくなるのかと怖くなります。

さて、最近、黒井千次著 『老いのゆくえ』 を読みました。
ぼくは、まだ八十代ではありませんが、ここに書かれていることはよく理解できます。
そこで、共感したところをあげてみました。

 それだけでも困ったことなのに、次にガマンして曲げた腰が今度は前のように簡単に伸びなくなってしまう事態に襲われる。曲げられない不便の後に、次は伸ばせない恐れが待ち構えている。

 これはもう老人そのものが危険のもとであることを示すのか。それとも、「危ない」とはなによりも生きている証拠なのだ、とでも考えるべきなのか。

 すると、今迄にない不思議な気分が湧いて来るのを覚えた。----いいんだ、それはもう諦めろ、という静かな声がどこかから届いた。その声を聞くと、あたりに穏やかな光が漂うな気分を味わうことが出来た。仕事の上の必要とか、気持ちの傾きなどとは別の、時間の持つ透明な枠の如きものが自分のまわりにあるのを感じた。その枠は必ずしも窮屈なものでなく、そこは温かく自然な場であるように感じられた。

 そうか、老いはいつも忍び足でやって来て身体のどこかに潜り込み、正体を現わす適当な機会を狙っているのかもしれないぞ、とようやく感づくに至る。

 日に一度は外を歩かないと気分が澱んでしまう自分を発見した。薬を飲むかわりに始めた運動としての散歩であったはずなのに、それはいつか精神的な働きをもつ身体の動きへと変化したようだった。

 実際に、老いは容易に一筋縄で捉えられるようなものではないのかもしれない。時にそれは温顔を備え、悠揚迫らぬ態度で緩やかに振る舞い、長い歳月を踏み越えて来た故の知と温もりを備えた存在であるように思われる。
 しかしそのすぐ裏側には高齢故の不機嫌も隠れているかもしれないし、意外な意地の悪さも身を潜めている可能性がある。
 だからこれから老いに向かう者は、充分に用意してかからねばならぬ。


 老いは放置しても自然に成長する。

 年寄りは多忙である----。
 ある時期から、しきりにそう感じるようになった。
 かっては、そんなふうに考えも感じもしなかったが。


        『 老いのゆくえ/黒井千次/中公新書 』


コメント
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