■トリック/エマヌエル・ベルクマン/ 2019.9.16
エマヌエル・ベルクマンの 『トリック』 を面白く読みました。
童話なのですが、ひとりの食えないお年寄り奇術師の一生の話しです。
時代の波にもまれ、本人の性格的なこともあり淋しい人生なのですが、生き方は滑稽です。
同じ年寄りとして、ぼくも身につまされる話しの数々でした。
もしかして、魔法の呪文か、なんかそういうやつを、僕に聞かせてくれないかなって。
ダッドとマムがまた愛し合うようになって、ダッドが家に戻ってくるように
さて、ここからは登場人物の話です。
■ライブル
ライブルは、この世界のありさまについて、おおよその想像がつくようになっていた。
なにより、この世界が本来どうあるべきかについて。というのも、晴れ渡った空にも似て明瞭な神の創造と、我々人間がなんとか乗り切らねばならない雨続きの腹立たしい日常とのあいだには、多少の隔たりがあるように思われるからだ。
人生がどれほど辛かろうと、日常という薄いヴェールの奥には素晴らしく華麗な世界が広がっている。その世界は、常にライブルを魅了してやまなかった。
「ここに存在していることが、生きていることが、それだけでもう、ひとつの祈りなんだ」というのが、ライブルの口癖だった。
モシェは、この世界でライブルに唯一残されたものだ。だがそのモシェが、時がたつにつれて、水平線を渡っていく船に似て見えるようになっていく。遠く、おぼろげで、手に届かない存在に。
■マックス
ダッドは、人生というのは、下さねばならない決断の連続だ。と言っていた。だが、そんなものはくだらないたわごとだということがはっきりした。人はすべてを手に入れることができる。これが大人になるということか。
「誕生日には、なんでも好きなものを買ってあげる」とマムは言った。
マックスの愛情を買おうという見え透いた作戦だ。とはいえ、誰にもその人にふさわしい値段というものがある。そしてマックスのそれは、特に高くはなかった。
マックスはおばあちゃんの手を握った。ほんの一メートル離れているだけなのに、おばあちゃんはまるで別の世界にいるようだった。歳を取った人たちには目には見えない傷があることを、マックスは悟った。
老人にとって、過去を語る以上の楽しみはない。マックスはそれをよく知っていた。年寄りは過去に生きている。残り少ない未来に待っているものといえば、歩行器や差し込み便器、痛風くらいのものだから。
■ハリー
いまや夫は、引きはがすしかない絆創膏のようなものだった。早ければ早いほどいい。
ふたりは、文明人として理性的に話し合おうと心がけてはいたが、対話はほとんどいつもヒステリックな喧嘩に発展するのだった。
ハリーは私生活においては、いかなる摩擦も避けるようにしている。
■デボラ
妻のデボラのほうは、人と衝突することをそれほど恐れてはいなかった。自分は仏教徒だと公言している割に、デボラは争いになると途端に生き生きして見えた。ハリーは妻をいつも、「怒れる仏教徒」と呼んでいた。デボラは、そんな呼び名を愉快だとは思わなかった。そもそもここ最近は、まもなく「元夫」になる男に関しては、ほぼどんなことも愉快だとは思えなくなっていた。ハリーがそこにいるだけで、デボラは激しい怒りにとらわれた。
■ザバティーニ
「これがメンタリストの技。メンタリストっていうのは、心の魔術師なんだ。魂の秘密を解き明かす。メンタリストは予言者で、読心術師で、睡眠術師でもある。偉大なメンタリストは、周りから恐れられる。無理もないよな、だって人の考えを操ったり、人の心を読んだりできるんだから」
「じゃあ、ザバティーニもそういうメンタリストだったの?」
「そうだ」
「112号室に行ってみろ。でも、あのじいさんは人の心なんて読まないぞ。読むのはポルノ雑誌だけだ」
頭はほぼ禿げ上がり、頬は垂れ下がり、眉毛はもじゃもじゃで、鼻はジャガイモのようだ。失望続きの歳月が刻まれた、哀しい顔だった。
魔術っていうのは、素晴らしく美しい嘘なんだよ
「もちろん」ザバティーニは少し気分を害した声で答えた。
「私、大サバティーニ。すごい魔法かけられる。偉大な魔術師!」
「でも昨日、魔法なんてないって言ってたじゃん」
そんなことを言ったのか? なんと馬鹿なことをしたものだ! ザバティーニはとりあえず魅力的な微笑みを作った。そして言った。「夢、信じるなら、夢のままで終わらない」
あることを思いついたのだ----自分のみならず、誰もがどれほど愛に頼って生きているかを思い知ったのだ。僕たちはみんな愛を必要としている、とモシェは思った。
自分が----サロンで披露する堅実な読心術にもかかわらず----決して奇術師のなかで最も革新的でもなければ、最も才能溢れる存在でもないことに、モシェは薄々気づいていた。だがいまこの瞬間には、才能のあるなしなど、なんの違いももたらさないようだった。正直に言えば、モシェはむしろ平凡な手品師であり、自分の演目をきちんと遂行することは出来ても、最後の高い壁に挑もうという----すなわち、自身の芸術を深め、新たなるアイディアを発展させ、未知の領域へと踏み出そうという----心意気はなかった。モシェは、すでに馴染んだものに安住する奇術師だった。だが、それのなにがいけない? なんだかんだ言っても、それでうまく行っているのだ。いくつかの手堅いトリックで、空恐ろしいほどの名声と富をつかんだ。なぜ、さらなる努力をする必要がある? 客たちは、サバティーニの足元にひれ伏している。ザバティーニの信奉者たちにとって大切なのは、彼ら自身の魔法への渇望のみだった。
「生きていることが、それだけでもう、ひとつの祈りなんだ」ザバティーニが言った。
■半月男
半月男は再び鏡に目を戻し、化粧を続けた。「最高の嘘は」と言う。「真実だ」
通底しているのは、悲しく切ない話なのです。
ローズルの父は親衛隊員の目をまっすぐ見つめ、穏やかそのものの声で言った。 「妻の行くところに、私も行きます」
『 トリック/エマヌエル・ベルクマン/浅井晶子訳/新潮社 』
エマヌエル・ベルクマンの 『トリック』 を面白く読みました。
童話なのですが、ひとりの食えないお年寄り奇術師の一生の話しです。
時代の波にもまれ、本人の性格的なこともあり淋しい人生なのですが、生き方は滑稽です。
同じ年寄りとして、ぼくも身につまされる話しの数々でした。
もしかして、魔法の呪文か、なんかそういうやつを、僕に聞かせてくれないかなって。
ダッドとマムがまた愛し合うようになって、ダッドが家に戻ってくるように
さて、ここからは登場人物の話です。
■ライブル
ライブルは、この世界のありさまについて、おおよその想像がつくようになっていた。
なにより、この世界が本来どうあるべきかについて。というのも、晴れ渡った空にも似て明瞭な神の創造と、我々人間がなんとか乗り切らねばならない雨続きの腹立たしい日常とのあいだには、多少の隔たりがあるように思われるからだ。
人生がどれほど辛かろうと、日常という薄いヴェールの奥には素晴らしく華麗な世界が広がっている。その世界は、常にライブルを魅了してやまなかった。
「ここに存在していることが、生きていることが、それだけでもう、ひとつの祈りなんだ」というのが、ライブルの口癖だった。
モシェは、この世界でライブルに唯一残されたものだ。だがそのモシェが、時がたつにつれて、水平線を渡っていく船に似て見えるようになっていく。遠く、おぼろげで、手に届かない存在に。
■マックス
ダッドは、人生というのは、下さねばならない決断の連続だ。と言っていた。だが、そんなものはくだらないたわごとだということがはっきりした。人はすべてを手に入れることができる。これが大人になるということか。
「誕生日には、なんでも好きなものを買ってあげる」とマムは言った。
マックスの愛情を買おうという見え透いた作戦だ。とはいえ、誰にもその人にふさわしい値段というものがある。そしてマックスのそれは、特に高くはなかった。
マックスはおばあちゃんの手を握った。ほんの一メートル離れているだけなのに、おばあちゃんはまるで別の世界にいるようだった。歳を取った人たちには目には見えない傷があることを、マックスは悟った。
老人にとって、過去を語る以上の楽しみはない。マックスはそれをよく知っていた。年寄りは過去に生きている。残り少ない未来に待っているものといえば、歩行器や差し込み便器、痛風くらいのものだから。
■ハリー
いまや夫は、引きはがすしかない絆創膏のようなものだった。早ければ早いほどいい。
ふたりは、文明人として理性的に話し合おうと心がけてはいたが、対話はほとんどいつもヒステリックな喧嘩に発展するのだった。
ハリーは私生活においては、いかなる摩擦も避けるようにしている。
■デボラ
妻のデボラのほうは、人と衝突することをそれほど恐れてはいなかった。自分は仏教徒だと公言している割に、デボラは争いになると途端に生き生きして見えた。ハリーは妻をいつも、「怒れる仏教徒」と呼んでいた。デボラは、そんな呼び名を愉快だとは思わなかった。そもそもここ最近は、まもなく「元夫」になる男に関しては、ほぼどんなことも愉快だとは思えなくなっていた。ハリーがそこにいるだけで、デボラは激しい怒りにとらわれた。
■ザバティーニ
「これがメンタリストの技。メンタリストっていうのは、心の魔術師なんだ。魂の秘密を解き明かす。メンタリストは予言者で、読心術師で、睡眠術師でもある。偉大なメンタリストは、周りから恐れられる。無理もないよな、だって人の考えを操ったり、人の心を読んだりできるんだから」
「じゃあ、ザバティーニもそういうメンタリストだったの?」
「そうだ」
「112号室に行ってみろ。でも、あのじいさんは人の心なんて読まないぞ。読むのはポルノ雑誌だけだ」
頭はほぼ禿げ上がり、頬は垂れ下がり、眉毛はもじゃもじゃで、鼻はジャガイモのようだ。失望続きの歳月が刻まれた、哀しい顔だった。
魔術っていうのは、素晴らしく美しい嘘なんだよ
「もちろん」ザバティーニは少し気分を害した声で答えた。
「私、大サバティーニ。すごい魔法かけられる。偉大な魔術師!」
「でも昨日、魔法なんてないって言ってたじゃん」
そんなことを言ったのか? なんと馬鹿なことをしたものだ! ザバティーニはとりあえず魅力的な微笑みを作った。そして言った。「夢、信じるなら、夢のままで終わらない」
あることを思いついたのだ----自分のみならず、誰もがどれほど愛に頼って生きているかを思い知ったのだ。僕たちはみんな愛を必要としている、とモシェは思った。
自分が----サロンで披露する堅実な読心術にもかかわらず----決して奇術師のなかで最も革新的でもなければ、最も才能溢れる存在でもないことに、モシェは薄々気づいていた。だがいまこの瞬間には、才能のあるなしなど、なんの違いももたらさないようだった。正直に言えば、モシェはむしろ平凡な手品師であり、自分の演目をきちんと遂行することは出来ても、最後の高い壁に挑もうという----すなわち、自身の芸術を深め、新たなるアイディアを発展させ、未知の領域へと踏み出そうという----心意気はなかった。モシェは、すでに馴染んだものに安住する奇術師だった。だが、それのなにがいけない? なんだかんだ言っても、それでうまく行っているのだ。いくつかの手堅いトリックで、空恐ろしいほどの名声と富をつかんだ。なぜ、さらなる努力をする必要がある? 客たちは、サバティーニの足元にひれ伏している。ザバティーニの信奉者たちにとって大切なのは、彼ら自身の魔法への渇望のみだった。
「生きていることが、それだけでもう、ひとつの祈りなんだ」ザバティーニが言った。
■半月男
半月男は再び鏡に目を戻し、化粧を続けた。「最高の嘘は」と言う。「真実だ」
通底しているのは、悲しく切ない話なのです。
ローズルの父は親衛隊員の目をまっすぐ見つめ、穏やかそのものの声で言った。 「妻の行くところに、私も行きます」
『 トリック/エマヌエル・ベルクマン/浅井晶子訳/新潮社 』