■刀と傘 明治京洛推理帖/伊吹亜門 2020.1.27
2020年版 このミステリがすごい! 国内編 第5位。
ミステリが読みたい 国内作品ランキング 第1位。
『刀と傘』 を読みました。
江藤新平、維新の男として生きる。新しい国作りのため、手段を選ばず、自らが正しいと信じた道を突き進む生き様と、彼と関わった者達の人生模様が描かれています。
「己の信ずるところを進むのに、何の遠慮が要るものか」
吟ずるようにそう云うと、五丁森はぐいと盃を干した。
「太政官に出仕して驚いた。どいつもこいつも偉そうに踏ん反り返るしか能のない、到底一緒に働くに価しない阿呆ばかりだ」
師光を見据え、だから君を探した、と江藤は云った。
「攘夷を旗印に維新回天を誓った者が、天下を獲るやその旗印を捨て欧米列強に媚び諂う。それが許されてよいのか。人の為すことだ、当然間違いもあろう。しかし、攘夷は誤りであったと認めるなら、今一度新たな旗印を掲げて天下を獲るのが正道ではないか。そうでなければ、道半ばにして倒れていった者たちに顔向けが出来ん」
『 刀と傘 明治京洛推理帖/伊吹亜門/東京創元社 』
■江藤新平の人物評
江藤新平
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
■副島種臣
「江藤新平という男は、ちょっと見ると鈍いような人であった。
そこで初めは人に重く見られなかった。
その頭角を現したるは維新後である。
自分は中野芳蔵から、初めて江藤の人物を紹介され、その後面会して話してみると、なるほど見る所がすこぶる卓越しておる。
それでやはり後輩よりも先輩が余計に喜んで、その意見を徹するようになり、次第に引き立てられたのである。
頭を擡げてからというものは、めきめきと栄進して、維新後初次の政府にあれだけの地位を得、先輩をも凌ぐばかりの勢力を占めた。
江藤がかつて自分にいうたには、『私は怒ることがあっても直ぐには怒らぬ。いつも三日ばかり考えてから怒った。即座に怒れば必ず好い結果は無い』と話したことがある。
それゆえ若い者にはなんだかボンヤリのようにも見られたであろう」
■松岡康毅
「当時、弁舌家では陸奥宗光などは台閣中のもっともなるものであったが、それでも江藤に比べれば弁論の重みが違う。かつ條理が明らかで、人を屈服する力があった」
■渋沢栄一
「学問があってよく物を知っていても、礼をわきまえなかったばかりに身を滅ぼした最も著しい例は、佐賀の乱で刑死した江藤新平である」
「実に何でもよく物を知ってた方で、これには私も始終驚かされてばかりおったものだ。
江藤氏は佐賀の枝吉神陽に経世学を学んだものということである。
経世学者であったので、礼のことなぞは一向頓着無く、如何に他人が迷惑しようが一切かまわず、やたらに自分の無理を通そうとした人である。
それがためには、好んで理屈をこねくり回したりなどもしたものだ。
遂にあんな最後を遂げられたのもこれが原因であろうと思われる」
「江藤氏はいったん自分がいい出したことは、いかなる場合にも押し通そうとし、腕力に訴えてまでも他人と争い、無理にも自分の意見を行おうとされたもので、時期の到来を待つとか、他人の意見を容れようなどということはまったくなかった方である。
大西郷や木戸公などがとても仁愛に富んだ方であったが、江藤氏はこれと正反対でむしろ残忍に傾く性格の持ち主だった。
江藤氏は人に接すれば、まず何よりも先にその人の邪悪な点を見抜くように努められ、人の長所を見ることなどは後回しにされたようである。
いや、極端にいえば人の長所はほとんどかえりみなかったといっともよいくらいであった。
あの佐賀の乱なども、はじめから起こすつもりはなかったろうが、目的のためには手段を選ばぬという主義であったため、ついいつの間にか知らず知らず邪道に踏み込んであんなことになったのであろうと思う。
江藤氏のごとき傑出した人物に、このような欠点のあったことは、誠に惜しむべきであったと思う」
2020年版 このミステリがすごい! 国内編 第5位。
ミステリが読みたい 国内作品ランキング 第1位。
『刀と傘』 を読みました。
江藤新平、維新の男として生きる。新しい国作りのため、手段を選ばず、自らが正しいと信じた道を突き進む生き様と、彼と関わった者達の人生模様が描かれています。
「己の信ずるところを進むのに、何の遠慮が要るものか」
吟ずるようにそう云うと、五丁森はぐいと盃を干した。
「太政官に出仕して驚いた。どいつもこいつも偉そうに踏ん反り返るしか能のない、到底一緒に働くに価しない阿呆ばかりだ」
師光を見据え、だから君を探した、と江藤は云った。
「攘夷を旗印に維新回天を誓った者が、天下を獲るやその旗印を捨て欧米列強に媚び諂う。それが許されてよいのか。人の為すことだ、当然間違いもあろう。しかし、攘夷は誤りであったと認めるなら、今一度新たな旗印を掲げて天下を獲るのが正道ではないか。そうでなければ、道半ばにして倒れていった者たちに顔向けが出来ん」
『 刀と傘 明治京洛推理帖/伊吹亜門/東京創元社 』
■江藤新平の人物評
江藤新平
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
■副島種臣
「江藤新平という男は、ちょっと見ると鈍いような人であった。
そこで初めは人に重く見られなかった。
その頭角を現したるは維新後である。
自分は中野芳蔵から、初めて江藤の人物を紹介され、その後面会して話してみると、なるほど見る所がすこぶる卓越しておる。
それでやはり後輩よりも先輩が余計に喜んで、その意見を徹するようになり、次第に引き立てられたのである。
頭を擡げてからというものは、めきめきと栄進して、維新後初次の政府にあれだけの地位を得、先輩をも凌ぐばかりの勢力を占めた。
江藤がかつて自分にいうたには、『私は怒ることがあっても直ぐには怒らぬ。いつも三日ばかり考えてから怒った。即座に怒れば必ず好い結果は無い』と話したことがある。
それゆえ若い者にはなんだかボンヤリのようにも見られたであろう」
■松岡康毅
「当時、弁舌家では陸奥宗光などは台閣中のもっともなるものであったが、それでも江藤に比べれば弁論の重みが違う。かつ條理が明らかで、人を屈服する力があった」
■渋沢栄一
「学問があってよく物を知っていても、礼をわきまえなかったばかりに身を滅ぼした最も著しい例は、佐賀の乱で刑死した江藤新平である」
「実に何でもよく物を知ってた方で、これには私も始終驚かされてばかりおったものだ。
江藤氏は佐賀の枝吉神陽に経世学を学んだものということである。
経世学者であったので、礼のことなぞは一向頓着無く、如何に他人が迷惑しようが一切かまわず、やたらに自分の無理を通そうとした人である。
それがためには、好んで理屈をこねくり回したりなどもしたものだ。
遂にあんな最後を遂げられたのもこれが原因であろうと思われる」
「江藤氏はいったん自分がいい出したことは、いかなる場合にも押し通そうとし、腕力に訴えてまでも他人と争い、無理にも自分の意見を行おうとされたもので、時期の到来を待つとか、他人の意見を容れようなどということはまったくなかった方である。
大西郷や木戸公などがとても仁愛に富んだ方であったが、江藤氏はこれと正反対でむしろ残忍に傾く性格の持ち主だった。
江藤氏は人に接すれば、まず何よりも先にその人の邪悪な点を見抜くように努められ、人の長所を見ることなどは後回しにされたようである。
いや、極端にいえば人の長所はほとんどかえりみなかったといっともよいくらいであった。
あの佐賀の乱なども、はじめから起こすつもりはなかったろうが、目的のためには手段を選ばぬという主義であったため、ついいつの間にか知らず知らず邪道に踏み込んであんなことになったのであろうと思う。
江藤氏のごとき傑出した人物に、このような欠点のあったことは、誠に惜しむべきであったと思う」