織田信長なき後、豊臣秀吉に天下をとらせた人物の人生とは?
1 兵庫県の姫路城は若き日の官兵衛の居城。
ここで、官兵衛は小寺氏に仕えて、毛利と織田のはざまでゆれ動くなか、織田につくことを進言。(官兵衛の情報源は廣峯神社の御師)
信長に「誰か家来を播磨に送ってくれば、自分が播磨を信長様のものにまとめる」と直談判した官兵衛は、そのもの言いに感激した信長から名刀をもらう。(先を読む力が認められた)
2 荒木村重の謀反
兵庫県有岡城に乗り込んだ官兵衛は村重に取り押さえられ、1年半もつかまっていた。
忠義の武将と認められることになる。
3 官兵衛の復活
有馬温泉で鋭気を養い、秀吉の軍師として腕をふるう。
まず、備中(岡山県)高松城でのこと。高松城の周りは沼地で攻められず。
→「水攻め」(川をせきとめて、城を水没させるというもの)
そのためには、杭をうって3kmもの堤防をつくり、川をせきとめる。
4 本能寺の変
ここで、明智光秀によって、織田信長が討たれる。秀吉は呆然。
しかし、官兵衛の「天下をとるチャンス」という言葉で、目覚める。
官兵衛は、7日間で京都へ帰り(いわゆる「中国大返し」)山崎の合戦で勝利。
その時、官兵衛の用いた奇策とは、毛利の旗を和睦の時にもらってきて、それを明智方に見せることで、毛利も秀吉の味方になったように思わせて混乱させた。
5 大分県中津の12万石の大名に抜擢されるが、家督を息子に譲り、自分は如水(じょすい) という名前に
ホウボウという魚で高級魚料理
官兵衛は全国から優秀な職人を集めて、中津を博多と並ぶ町に
中津大津江音頭
連歌の会で全国の情報収集
大阪と中津を3日で結ぶ会場交通網を作る
6 関ヶ原の戦いでは
九州の大名がほとんど光成方についたのに、情報で徳川が勝つことを見通して、徳川に味方し、周りからの攻めにも銀をあげて兵士9千を集めて防御するだけでなく、九州の城を攻め落とした。
家康からどこでも領地をあげると言われたが、茶壺1つをもらったのみで、中津にとどまる。
7 晩年
福岡に移り住み、生涯1人の妻光(てる)と仲良くくらす。享年59歳。
大きな2人の墓が福岡にある。そして、福岡の今日の繁栄を招く。
8 今、姫路の商店街は官兵衛グッズが100種類。かんべいくんも大人気に。
すごい、人生!!美しき人生かな!!!