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日本語とは何か

2023年09月20日 08時31分59秒 | 日本の古典

 私たちは日本語を習うのに何の困難も感じません。うまれた所が東北であっても関西であっても、その方言に幾らかの違いが在っても、子供の時代にはどんな地方の方言でもたちどころに覚えて仕舞う。現代の東京弁と比べて地方出身ですと幾らか訛りがありますが、それは18歳で大學に入る為に上京すれば、4年間にあるは6年間に東京弁を話すようになります。そうすると、つい生まれ故郷の方言が懐かしくなります。方言は大切な地方文化の証です。意思疎通の道具である言葉を覚えるのは、子供時代です。この時代は成長期の段階として他の時代には無いとても大切な時期で、この時期に音に対する一つの根本的な言語野の微細構造が形成されると云う。この時期に母語形成に関する音声への感受性が形成される。この時期が子供に取って如何に大切かが思われます。此処で音へのスイッチ機構が数年を掛けて出来上がる。その凡その時期は、研究者に依って若干の差異はありますが、9歳ないし10歳くらいであろうと謂われています。この時期に脳内に母語の基本が設定される。

ですから、この時期以前ならば子供はどんな言語でも労せずして習得できる。日本は永く動乱の世界と隔絶し、その文明は世界最古の文明でもある。日本語は世界の言語に比べても最も古い言語であることは、世界の言語がいずれにせよインドヨーロッパ語族とかの系統樹化で説明できるのに、日本語だけは世界の如何なる言語とも異なっていることを挙げれば十分です。更に、言葉と謂うのは一種の眼に見えぬ国境であり、それは如何なる悪意を持つ者が、犯す事の出来ない防壁線なのです。日本語が滅びない限り日本文明が滅ぶことは無いと私は確信しています。

ですが、そのように難しい日本語を容易に習得してしまう子供でも、20歳を超えると他の言語の習得が困難になります。ことばが固定されて「母語」が確立されたいるからです。とは言っても、現代の日本に取って必要なのは、大陸の外国語を読解する力です。外国語の日本語への解読です。これは掛け値なしに絶対と言って良いほど不可欠なものです。話せなくても好いのです。要は読んで意味がつかめ、自分で文章を外国語で正確に然も上品に美しく書けることです。言葉の習得は、古来から、その不思議さを人々は思って居た事と想像します。言葉の習得は、他人との意思疎通に不可欠の物です。言葉無くして自分の思いを届けることが出来ない。言葉は美しく、相手の気持ちに伝わらなければならない。ですが言葉は難しいものです、自分の言った言葉に誤解を招くことも在るからです。言葉は或る意味では、相手次第であることも確かなのです。言い足りない稚拙なコトバでも相手が優れた感性の持主であれば、その真意を掴んでくれるかも知れないが、それを誰にも期待できる物では無い。言葉はその表現の意味や理解が、人それぞれに異なって居ます。それが伝達を難しくしている。

7歳~9歳と言われる、音声への感受性の形成が、あらゆる言語の母語形成の時期なのでしょう、それはどんな言語でも大体は同じ時期であるのは、大抵は人間の脳神経系の成長時期は同時期であるからです。多くの日本人は改めて日本語表現を学校では習わない。これは不思議な事です。ことばの仕様という物は習わなければ巧みで深く美しい表現が、そう簡単に出来る物では有りません。国語の授業の中でそんな教程があっても好さそうなのに、有りません。言葉は人間の技術の中で最も大切な物です。私が不安に想うのは、子供の大切な言語習得の時期に、母語形成を阻害する要因が無知の為に導入されている事です。それは小学校で英語と押し付けると言う様な、誰が考えても馬鹿げたことが、大手を振って強制されている事です。日本人の全てが英語など出来る必要は在りません。それよりもズーッと大切なのは、日本語を深く学ぶ事なのです。

日本語は簡単だと多くの人が誤解しているが、その様な、かんたんな言語ではないのです。一番大切な7歳~10歳の小学校の時期に英語を導入するという、英語というのは日本語と全く反対のことばです。これはまったく馬鹿げたことです。こんな事をしていると、その子供は日本語の母語形成が劣り、かと言って、一般の人には殆ど身に付く事の無い英語を、中途半端で挿入するという愚挙を犯している。文部省は知って居て遣っている。こんな馬鹿げたことを何故するかと云うと、寧ろ、これは日本人の知能を劣化せせる為の謀略のように感じてしまう。

日本人の聡明さは日本語の力であろうと思う。知的な日本語を使う者が見かけなくなる時代に成った。日本語の助詞は外国人が一番苦労する点であり、この点が日本語の独特な点であり、外国人には回りくどさがあるのだろう。外国語は云いたい事が最初に来る。日本語は最後まで聞かないとその趣旨が分らない。日本語は変幻自在でありたとえ主語を抜かしても充分に通じる言葉だが、例えば英語はそういうわけには行かない。単語の配置を違えては意味のないSentenceが出来上がる。それは謂わば通じないでたらめなSentenceになってしまう。その様なコトバであるが私たちは日本語の文章校正法という物を学校の教程で習った記憶はない。外国ではそのような文章を書く手順を習う課程があるらしい。何故、小学校に国語で文章作成法を学習しないのだろう。或る教材を与えてそれを読ませて放って置くという物に近い。日本語はそんな方法で身に付くほど簡単なコトバではない。言葉の問題をなぜ諄く言うかというと、日本文化は日本語で成り立っているからで、日本語が消滅すれば日本の文明は消え去ることは確実だからです。

日本語の起源は、とても特定が困難アンテーマですが、それは醍醐味です。

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