井頭山人のgooブログ

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

日本古典文学の様相ー最も日本的なもの

2023年12月03日 08時36分06秒 | 日本の古典

 日本の古典はすでに白鳳期に端を発し懐風藻以前の超古代の古文献「秀真伝」にも、その影が残されている。だが現代に残る出版された古典文学ではやはり平安朝の文学が、特に女流文学(女房連の)が、量・質ともに傑出している。それを一々挙げる事はしないが、此処では平家物語、方丈記、徒然草、などの現在の日本古典文学を考える上で欠く事の出来ない物を取り上げたい。上に挙げた三つの作品は日本人ならば殆どの者が知って居る筈である。中学や高校の教科書には必ず取り上げられて居て、日本人の最低限の教養の土台に成っいるからだ。この最低限の作品を知らない者が居るとしたら、辛辣な事を謂うが、それは高校の過程が済んで居ない証だろう。それは日本人としての最低限の教養である。

琵琶で語る「平家物語」の哀調は何とも一度聴いたら忘れられぬものだ。詠嘆とも祈りとも付かない其の語りは古代ギリシャの「オデッセイ」にも似ている。「祇園精舎の鐘の声諸行無常の響きあり・・・」、栄華を極め滅びゆく平家の一門、女房、郎党、を思わしむる。平家物語の作者は誰なのだろうか?、これ程の哀調をもって吟ずる文章は、只の者には書き得まい。物語は長いが一度は全巻を味わってみるべきだろう。

「方丈記」も、実に薄い本だがこれまた詠嘆と共にルポルタージュとも付かない面白さがある。鴨長明は鴨神社の神官の家に生れ、なかなか鴨一門の中でその地位を得ることが出来なかった。己の人生を諦めた長明は方丈の庵に住み、この回想記を書いたのだろうか?、もっと上手くやれなかったのだろうか?、後鳥羽院は其れなりの眼を掛けて居たのだが、長明の頑なさが彼をして方丈の庵に住まわしめた。この薄い回想記には実におもしろい事も飢饉の悲惨な実体も書かれている。長明が嘘を書くとは思えないので、飢饉の死者は京都だけで4万人を超したのだろう。何故飢饉が起きたのかは、当時の台風、冷害などの、今で謂う小氷河期気象の結果だろう。現代の気象科学の知見では、太陽活動に基づく冷害に起因する飢饉は容易に起きるのだ。

「徒然草」は、吉田兼好法師の随筆である。兼好法師は硯で墨を擦り筆に恃み、己の見たり聞いたりした事件や些事を書いた。今で謂うところのコラムにも似ている。一段、一段、読んでみると、ああ法師はこんな考えや人生観を持って居たのだな、と、遠い過去の人にもかかわらず、不思議と親近感を抱かせられる。当時の世相、人々の考え方や、物事への反応が手に取る様にわかり、面白いしまた感心させられる。読んでみて損はない随筆と言うべきだろう。

話は変わるが、わたしのブログは一日平均すると20人位、多い時で50人位の方が見ているらしい。「殆んどコメントは呉れないが」、どういう人が見ているのかは、多少気に成ります。主婦なのか?高校生なのか?サラリーマンなのか?、はたまた小中高大の教師なのか?、徒然草の兼好法師と同様に小生のブログは、徒然なるままに、そこはかとなく書きつればもの狂るおしけれです。誰がご覧に成っいるかに付いては、まあ気にしない事にします。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 南方熊楠の人生 | トップ | April Come She Will »

コメントを投稿

日本の古典」カテゴリの最新記事