Kayaとののんびり生活 どいちゅらんど 

人生の半分ちかくになったドイツ生活のブログです。

こんなものまで残っているなんて。

2019-11-02 | 東のコト・モノ

 

今回父親が、色々なものを持ってきてくれました。
その中の一つ。

母親が買って、使わず残こしていたもの。イースターの卵の色付けようのシート。

1年しか住んでいなかったので、次の年に使うということもできず
日本でも使わず・・・36年後にまたドイツに戻ってきました。
ヘルンフートの星と同じパターンですね。その時の記事 

うさぎは、エルツのウサギに似ているし。可愛い!!

値段は、EVP -,20Mと書かれています。
マルク(M)!!!これって大事なことらしい。

当時、うっかりオストマルク(東のマルク)といった父親がお店の人に、
「オストマルクなんて存在しない、Mark der DDR (ドイツ民主主義共和国のマルク)」
と訂正されたらしい。(笑)
父親としては、俗語でウェストマルク(西のマルク)と言われていたので、
その対語としてオストマルクと言ったんですがね・・・

来年のイースターにこれを使うか???と考え中。
実は、今まで卵の色付けってやったことがないんですが。(笑)


ベルリンの展覧会へ ~東ベルリン 半分の首都~

2019-10-17 | 東のコト・モノ

さて、私が今回ベルリンへ行った一番の理由は、
お買い物をしに行ったのではないのです。(笑)

少し前からMuseum Ephraim Palais(市立博物館 エフライム宮殿)
といわれるニコライ地区にあるところで壁の崩壊から30周年を記念して開かれている
企画展 「東ベルリン ~半分の首都~」を見に行くためでした。

開催期間が11月9日の壁崩壊の日までだったため、
この機会に行っておかないといけないということになったわけです。


ここで展示されているものは、壁が建設された60年代から89年までの、
東ベルリンの人々の日常生活。
壁博物館などの展示物とは異なる、ベルリンの分断の歴史と、
忘れ去られつつある記憶でもある、普通の生活にスポットを当てたものでした。

 


東ドイツの首都ベルリンと書かれたプレート。見慣れたプレートです。(笑)


路面電車に乗って町並みを撮影したフィルムや、通りの様子のパノラマ写真。



仕事のシフト表や、その日の社員食堂のメニュー。


Kaufhalleと呼ばれるスーパーのロゴ。
家の前にあったので、毎日見ていたロゴです。見た瞬間に思い出しました。(笑)


学校から子どもの日に遠足で行ったKulturparkのポスターも。

 


ベルリンといえば熊。
当時お土産にたくさんクマのぬいぐるみをもらったものです。




当時住んでいた通りの名前を見つけて嬉しくなったり。
(東ドイツの政治家の名前だったので、現在は当然違う名前になっています。)

そう、展示物には私が知っているドイツがありました。(笑)

中でも、そこで暮らしていた人達の思い出の品とまつわるエピソードが
展示されているものが興味深く、じっくり読んでしまいました。


来場者にあなたの東ベルリンにまつわるエピソードを聞かせてくださいと書かれたプレート。

 

見ている間ずっと気になっていたので、帰る前に展示場におられる人に
今でもエピソードの募集をされているのか聞きました。(展示が来月の9日までなので)
エピソードが公開されるかはわからないけれど、メールで書いてと言われ
あなたは同時東ベルリンにいたの?というのはなしになりました。
どう見てもアジア人の私が、
昔の東ベルリンに住んでいたのに結びつかなかったんだと思います。

1年だけれど家族で暮らしていたことを伝え、色々な当時のものが
まだ実家にあるという話しをすると、ぜひメールで連絡を取るように言われました。
どんどん記憶から忘れ去られていくことがないように
記録するっていう作業をしているんだとか。

父親が滞在している間、
ちょっとメールの文章を考えて書いてみようかと真剣に考えています。
たった一年だけれど、
本当にいい意味だけではないけれど、
私の人生に影響を与えた1年なのでちゃんと向き合いたいなって思っています。

 


一人でふらりと行こうかな。

2019-10-02 | 東のコト・モノ

理由もなくここ数か月、私がずっと行きたい場所

ベルリン

相方君には、あんな都会になぜ??と言われるけれど・・・

学生時代から、なんだか気分が落ち込んで元気になれないときは、
週末切符を買って日帰りでよく行っていたんです。
当時は、友人も数人ベルリンにいたので友だちと会うこともしばしば。

一人で電車に乗って帰ってきたときは、いつもより少し元気になれていたり。
理由もなく好きなんです、ベルリンが。

さすがに電車での日帰りは難しいけれど、
調べてみたら、格安飛行機だと往復70ユーロを切っている。
父親が来週に来るので、一緒に行こうと誘いましたが断られたので、
やっぱり一人で行くしかないかな・・・

たまにこういう時あるんですよね、自分とドイツとの出会いの原点に戻りたいというか。
あの国はなくなってしまったけれど、
いいところも悪いところもあったあの国の面影をたまに見たくなる時があるのです。


上)小学校の友達と家のベランダで。ザンドラは、よくうちに遊びに来てくれた友だちの一人。
西側の国出身の私の家に来てくれる友達は、そんなに多くなかったんですよね。子どもの頃はよく理由がわからなかったけれど。
いま彼女は、どうしているのかな??

下)もう一生会えないかと最後チェックポイントチャーリーまで、見送りに来てくれた
教会の友だち家族。13年後にまた再会できた時は本当にうれしかった。


本当に今の街に住んでいる時間の方がずっと長いのに、
理由もなくベルリンや東の町が恋しくなることがたまにあります。

飛行機で安くいけるのなら、気軽にこれからも日帰りで行けるな・・・
って真剣に考えている私です。

そして、明日で東西ドイツの壁崩壊30年です。
時間が経つのは、本当に本当に早いものです。


胡桃のピラミッド。

2019-07-23 | 東のコト・モノ

小学生の頃に友達からもらった、小さな胡桃のピラミッド。

東ベルリン時代の友達が、私が日本へ帰国した後にプレゼントとして贈ってくれたものです。

友だちのご両親の出身地が、エルツ山地ということもあり
クリスマスには小さなエルツの工芸品を送ってくれていたのです。
当時は、どこで作られているかなんて知らなかったんですが・・・。


知り合ったころは、ドイツ語で普通に会話できていたのに、
日本に帰ってからは、ドイツ語で書くなんて無理!
英語で手紙を書くのも一苦労な状況の私が、
大人になるまで連絡を取り続けていた友人の一人です。

その後、就職をする前に父親とドイツ旅行を3週間くらいして、
仲良かった友人数人と、小学生以来の再会。

その時、もう一度ドイツ語を話せるようになってドイツで生活したいって思い、
2年後にはドイツに来ていた私です。

ベルリン時代の友人との交流が続いていなかったら、
今のドイツでの私の生活もないわけで。(笑)

この胡桃のピラミッドはそんないろんな思い出がある大切なものです。

ただ、年月とともに埃っぽくなり、数枚ある薄い羽根の部分が半分近く折れている・・・
気にはなっているけれど、修復することもできないなって諦めていました。

たまたま、インスタにこの写真を載せたら(綺麗じゃないし載せるか迷ったんですが・・・)
隣の州でエルツの工芸品を扱っているお店の方から、
ドイツに送ってくれたら、自分の所の職人さんが修復できるかもっていうコメントが。

その後すぐに、直接コンタクトを取りましたよ。(笑)
とっても古くていいものだから、ぜひ修復したいって言ってくださいました。
もう、これを作っていた工房はないし、お店のオーナーのお母さまが、
羽根以外はいい状態だし、貴重なものだし大切にしないとって言われてコメントをくれたそうです。
今でも同じようなクルミの作品は違う工房のものであるのですが、
私のは本当に細かくて、小さなキノコとかまでついているんです。

羽根が修復されてまた、くるくる回ってくれたら嬉しいな・・・

ということで、明日郵便で送る準備をしました。

ドイツまで持ってきてよかった・・・
そして、ドイツ語できるようになってよかった・・・(笑)

って思った、もうすぐドイツ生活丸22年目になる夏です。


ドイツ映画のDVDそして本を買ってみる。

2019-06-06 | 東のコト・モノ

少し前に、日本にいる映画好きの妹がとっても面白かったといっていたドイツ映画。
「Das Schweigende Klassenzimmer」邦題は、「僕たちは希望という名の列車に乗った」

こっちでは、去年の秋に公開されていたものなのでもう映画館で見られるはずもなく。
ってことで久しぶりにDVDを買ってみました。


時代背景はベルリンの壁ができる前の1956年東ドイツのある小さな町が舞台。
もうすぐ、卒業を控えている高校生たちですが、
彼らの5分間の行動が多くの人の人生を大きく変えたという実話。

 

この映画には、原作本があって2007年に出版されています。
日本語の翻訳本も出ているみたい。こちらの邦題は、「沈黙する教室」
原作本では映画では描かれなかった、亡命後の西ドイツでの出来事から、
40年後の同窓会での再会までが書かれているんだそうです。

私は、まずDVDを観てその後ドイツ語の本を読んでみようかなっていうことで注文。
久しぶりにドイツ語の本を読みたくなった私です。
翻訳だと、読みにくいって思うこともあるかもな??っていう判断なのですが
どこまで読めるか。(笑)
妹は、翻訳された本を買ったようなので一度感想を聞いてみようと思います。


 





ドイツ再統一25年と昔の教科書。

2015-10-03 | 東のコト・モノ
今日は、ドイツ統一の日ということで祝日です。




ドイツの「再統一」(Wiedervereinigung)と一般に言われていて、
祝日の正式な名称は ”Tag der deutschen Einheit” (ドイツ統一の日)です。

この日は毎年、記念式典をドイツの各都市で持ち回りで行い、
今年は25年という節目の年で、フランクフルトがその会場になっています。
その為街の中心は大きな歩行者天国になり、盛大な催しが行われるようです。
国の要人がフランクフルトに来るので、たくさんの警察車両をここ数日みかけました。


25年前の再統一は、ドイツ連邦共和国「西ドイツ」にドイツ民主共和国「東ドイツ」が編入されたのです。
旧東ドイツは東側の社会主義国の中では一番経済が発展していて、
「社会主義国の優等生」とよばれていたそうですが、
経済大国だった旧西ドイツとの格差は非常に大きかったと言われています。
今でも、東西の失業率、収入などの格差はあるし、本当の再統一にはまだまだ時間がかかりそうです。
でも、今の首相・大統領が旧東ドイツ出身というのは興味深いものだったりします。

私の場合、ドイツでの滞在が長くなっても、
東ベルリンで暮らした1年間の事を忘れることはありません。
私にとってのドイツはいつまで経ても東ドイツなんだろうな~って思います。
楽しい思い出ばかりではない1年だったし、
今から思えばよく登校拒否を起こさずに学校に通ったなって思います。

 

今回、父親に私が小学生の時に使っていた教科書を持ってきてもらいました。
私の記憶では、教科書は学校に返さなければいけない決まりになっていたのですが、
担任の先生が思い出に持って帰っていいと言ってくれたのだと思います。

  

ドイツ語の朗読の教科書には、普通のお話とお話の間に
テールマン(ワイマール共和期のドイツの政治家。ドイツ共産党 の党首。)
レーニンの伝記まで入っているというかなり政治色が濃いものです(苦笑)

  

初めて筆記体を練習させられた・・・万年筆ではなく鉛筆で書いて怒られたのもいい思い出(笑)




音楽の教科書には、メーデーの労働者をたたえる歌があるし・・・
(これは、授業で練習してメーデーの日に工場に歌いに行った記憶があります)

 

小学校の日常風景・・・まさに同じことしていました(笑)
 


あの頃はドイツ語が、ちゃんと理解できていなかったりで朗読の成績は本当に悪かったのです。
どんな内容だったのかというのが前から気になっていたので、
もう一度読み直してみようと思って持ってきてもらったのです。
西ドイツ出身の相方君はかなり呆れています。。。

東ベルリンの1年に比べたら、今の不便さやストレスは可愛いものだな~って思えます。
あのころは、もう一度ドイツで暮らせるなんて思っていませんでした。
東西ドイツの再統一なんてみんな考えていなかっただろうし・・・

良い事ばかりではないけれど、
やっぱり再統一できてよかったって改めて思う19年目のドイツ生活で迎える25年目の再統一記念日です。。

久しぶりに読書。

2015-08-04 | 東のコト・モノ
今年は、第二次世界大戦が終わって70年という事で
ドイツの戦争が終わった4月頃にたくさんの特集番組がテレビで放映されていました。

ドイツの戦後関連のことは、あまり知らないな~っと思いながら、色々な特集番組を録画しては見ていた私。
相方君は、結構呆れていましたが・・・
父親の専門が、ドイツの戦後文学だという事をちゃんと知ったのも数年前のこと。(苦笑)
読みたいジャンルの本はすでに、定年後売ってしまっていたのです・・・
もう少し前に興味を持っていたら~なんてあとの祭りです。

書庫にあったからと前回もってきてくれたのが、今読んでいる1990年!!に増補出版された


永井清彦著の現代史ベルリン


この本が本当に読みやすくて、戦後40年のドイツの軌跡が分かりやすく書かれています。

私の好きなドイツの政治家 西ベルリン市長、のちの首相になったヴィリー・ブラントの名前が
ペンネームだという事を知り、これはドイツ人の相方君も知らなくて得意げに説明した私です。(笑)
他にも、1953年6月17日に東ドイツで起こった市民蜂起(6月17日蜂起)のことを忘れないために
西ドイツ時代にはドイツ統一の日という祝日が6月17日にあったことなど、興味深いことが沢山。

ベルリンの地図が手元にないので、イメージできないところなどがあったり、
内容が堅いテーマだったりするのでさらりと読めるわけではありませんが、
とっても読みごたえがあります。

あ~また行きたいな。。。大好きな街ベルリン!(笑)

懐かしい味。

2014-08-13 | 東のコト・モノ
この間、相方君が仕事へ持っていくために
黒パンのサンドイッチを朝に作ってくれました。

黒パン、バター、チーズ、サラミといたってシンプルなドイツの朝ごはんです。(笑)

このパンを口にした瞬間、懐かしい味がしたんです。
そう、発酵バターの香りとサラミ、チーズ、そして少し酸っぱい黒パンの味は
小学校2年生から3年生を過ごした、東ベルリンの味でした。

今、私が17年もドイツで暮らしているのも、あの頃の1年があったからだと思います。
私にとってのドイツは、今でも東ドイツだったりするのです。(笑)
もうなくなってしまったんですよね・・・。


  

仲良くしていた家族のお兄さんが趣味で写真をやっていたので、たくさんの白黒写真があります。
カラー写真は結構珍しく、学校の友だちと一緒に撮ったらいつも現像して~と言われました。(笑)

これからたまに、あの1年のこと。
小学生の私が経験した事をブログにもたまに書いていこうかな??
と最近思い始めました。

春に帰った時に、当時の先生が私に書いてくださった、
ポストカードがすべて理解できたときはちょっとうれしかったんです(笑)

ドイツ語も、名前と住所しか言えず、ローマ字もあまり書けない小学生が、
鉛筆ではなく万年筆しか使ってはいけない国で
学校に行かなければいけなかったのは、正直かなりのストレスでした。

おまけに、8日目から3ヶ月はベルリンのSバーン、Uバーンを乗り継いで学校に通わなければいけませんでした。

あの頃の、ストレスよりはマシ!と思うと、
結構何でもやってこられた17年です。


ずっと探していた友だち。

2011-09-12 | 東のコト・モノ
この間、友だちが私の体験と重なる部分があるからと勧めてくれた本 

米原万里『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』を読みました。
内容(「BOOK」データベースより)
一九六〇年、プラハ。小学生のマリはソビエト学校で個性的な友だちに囲まれていた。男の見極め方を教えてくれるギリシア人のリッツァ。嘘つきでもみなに愛されているルーマニア人のアーニャ。クラス1の優等生、ユーゴスラビア人のヤスミンカ。それから三十年、激動の東欧で音信が途絶えた三人を捜し当てたマリは、少女時代には知り得なかった真実に出会う!
大宅壮一ノンフィクション賞受賞作。

知っている人は知っていると思いますが、
私は、小学2年の夏から3年の夏までの
1年間東ベルリンの小学校に通っていました。
通っていた時期も国も違うけれど、
同じ共産圏の小学校と言うこともあり
自分の小さな頃を思い出さされる内容でした。

著者と同じように私もずっと探している友達がいます。

彼女の名前と彼女が私が日本へ帰ったあと
少ししてから西ドイツへ行ったということしかわかりません。
日本へ帰国した後も、1,2年は文通のやり取りをしていたのですが、
彼女が西へ亡命してからは全く音信不通。

当時、書いた手紙が戻ってきて
もう二度と会えないのか・・・・
と子供心にも悲しかったのを今でも覚えています。

ドイツに私が来た理由の一つに、
昔の友達にもう一度会いたい。と言うのもありました。
でも、14年もこっちで暮らしていると、
そういう気持ちも日常生活と言う中に埋もれていったのですが・・・。

先月、父親が滞在している時に、
別の友だちの苗字を父親が覚えていたので
ドイツの同窓会サイトで私の小学校のクラスメートを
たくさん見つけることが出来ました。
来年のクラス会にはぜひ参加を!
と言われて飛び上がるくらい嬉しい私です。

でも、私の探している友人は依然不明。

その夜、ネットでいろいろと探しているうちに、
ドイツの国際放送事業体でラジオ、テレビ、
インターネットでサービス提供を行っている、
「ドイチェ・ヴェレ」のサイトに
投稿された去年の記事の内容のなかに友だちの名前が
著者の娘として書かれていたのです。


(実は数年前にも何度が探したのですが、その時は見つからなかったのです)
インターネットもこういうときには使える!!!!

おまけに彼の経歴が、
私の記憶のなかで彼女が西に亡命した時期とも一致したので
ドイチェ・ヴェレにそのジャーナリスト宛の手紙と
当時の写真を同封して送りました。

彼が友だちのお父さんなのか、もし違ったら間抜けだな・・・
と考えながら送ったのです・・・

昨日、メールが友達から来たのです。

そう、28年ぶりの手紙の返事。って感じです。
彼女も私の事を覚えていてくれて、
近くの街で服飾デザイナーの仕事をしているとのこと。
昔の事だから、あまり記憶に残っていなかったりするんだけれど...
と言いながらも、私の誕生日会に来てくれたことは覚えていた様子。

私の人生に大きな影響を与えた貴重な1年。
学校に行きたくない日もあったけれど、ちゃんと通えたのも
言葉の出来ない私を助けてくれたJuliaがいたからです。

近いうちに、彼女と会っていろんな話をしたいなと思っています。


今となれば小学2,3年生の記憶も馬鹿にしたものではない。
と言えるのですが、
以前は私にとっての空白の1年間。
そう、誰とも共有できずにいた時間。
たまに、あれは夢だったのではないだろうか?
と考えたこともありました。
だって、当時暮らした国は今はないのですから。

東ドイツ時代の1年間の貴重な体験をもう少し大切に探してみるのも良いかな??
と思った14年目のドイツの夏です。

2-bのクラスメートと。
ドイツ語が上手くない私はもちろん一番前。


みんながピオニアのスカーフをしているのに私とJuliaは私服(笑)