3月27日(木)曇
3月は送別会のシーズンである。僕の周りでも退職して職場を去っていく人たちがいる。いずれは自分もそうなる身ではあるけどさみしいものである。自分の職場だけでなく僕の恩師も、この3月で大学を去るそうである。先月いっしょに5時間も昔話に花を咲かせることができた。そして今日メールで新しい連絡先やこれからのことなど知らせてもらった。仙人のような号を勝手に付け、どうやら庵を作るつもりらしい。山好きの先生らしい発想だとうらやましい気もするが、年金だけで優雅なシニアライフが送れるのかよくわからない。多分先生は質素だし、贅沢を好まない人だから充分エンジョイできるかもしれない。大学の教授は退官後も私学の講師を勤めているケースが多いが先生はやらないらしい。その分暇になるようで今年は僕のヨットにも遊びに来たいと言っている。多分5月にはヨットのブログに登場することだろう。
もう一人夜の飲み仲間であり、毎年ヨットの整備も女の子達を引き連れて来てくれる先輩も3月で退職して週に4日は田舎で百姓と介護、週に2日はちょっとした仕事をするようである。多分百姓の繁忙期を除けばヨットにも来てくれるものと思う。これから会社の帰りに飲む機会はほとんどなくなるかもしれない。いままで女の子を連れてはランチに来たり、お茶に来たりしてくれていたのもなくなるかもしれない。まぁ僕もいずれは安住の地に戻ることになるのだろうがその時自分の人生をエンジョイできるかどうかはなはだ心もとない気がする。
うちの職場でも去っていく人たちがいる。昨日ささやかな送別会を開いた。どちらも特定のスキルを持った人たちだ。その職人技が消えてしまうことを思うと残念な気もするが、こちらの都合でいつまでも引っ張ったところで彼らの人生の責任が持てるわけではない。企業と言うところはなければないようにやって行けるところでもある。いままで支えてくれた人がいなくなることによって違う人が成長するのかもしれない。単に個人的な感情から今の若い奴らにはできないと思い込んでいること自体僕も老害の域に入った証拠かもしれない。
年々自分が職場を去る順番が近づいて来る度になんとも言えないあせりを感じるのは僕だけなのだろうか。最近般若心経をよく読んでいる。でも意味はわかっても心を空にすることは未だにできないでいる。いくら座禅をしても無心になることはできないかもしれない。
もっとも人間に生まれて喜怒哀楽の中でもがき苦しんで、そんな自分を自然体として受け入れることができるのも凡夫の悟りなのかもしれないと勝手に思っている。ひょっとすると般若心経の教えと言うのは、善きにつけ悪しきにつけ、置かれた境遇に日々感謝し、あるがままの自分の心を素直に見ることなのかもしれないと思う。また機会があれば般若心経267文字を勝手に解釈してみたいと思います。このブログには老荘に始まり、儒教、神道、そして仏教にまで乱読の講釈を載せていますが自分にはこれらのどれにも共通していることは多分人の心のあり方に対する知恵なのだと思う。いずれこれらの哲学としての相違点と共通点の講釈もしてみたい。
3月は送別会のシーズンである。僕の周りでも退職して職場を去っていく人たちがいる。いずれは自分もそうなる身ではあるけどさみしいものである。自分の職場だけでなく僕の恩師も、この3月で大学を去るそうである。先月いっしょに5時間も昔話に花を咲かせることができた。そして今日メールで新しい連絡先やこれからのことなど知らせてもらった。仙人のような号を勝手に付け、どうやら庵を作るつもりらしい。山好きの先生らしい発想だとうらやましい気もするが、年金だけで優雅なシニアライフが送れるのかよくわからない。多分先生は質素だし、贅沢を好まない人だから充分エンジョイできるかもしれない。大学の教授は退官後も私学の講師を勤めているケースが多いが先生はやらないらしい。その分暇になるようで今年は僕のヨットにも遊びに来たいと言っている。多分5月にはヨットのブログに登場することだろう。
もう一人夜の飲み仲間であり、毎年ヨットの整備も女の子達を引き連れて来てくれる先輩も3月で退職して週に4日は田舎で百姓と介護、週に2日はちょっとした仕事をするようである。多分百姓の繁忙期を除けばヨットにも来てくれるものと思う。これから会社の帰りに飲む機会はほとんどなくなるかもしれない。いままで女の子を連れてはランチに来たり、お茶に来たりしてくれていたのもなくなるかもしれない。まぁ僕もいずれは安住の地に戻ることになるのだろうがその時自分の人生をエンジョイできるかどうかはなはだ心もとない気がする。
うちの職場でも去っていく人たちがいる。昨日ささやかな送別会を開いた。どちらも特定のスキルを持った人たちだ。その職人技が消えてしまうことを思うと残念な気もするが、こちらの都合でいつまでも引っ張ったところで彼らの人生の責任が持てるわけではない。企業と言うところはなければないようにやって行けるところでもある。いままで支えてくれた人がいなくなることによって違う人が成長するのかもしれない。単に個人的な感情から今の若い奴らにはできないと思い込んでいること自体僕も老害の域に入った証拠かもしれない。
年々自分が職場を去る順番が近づいて来る度になんとも言えないあせりを感じるのは僕だけなのだろうか。最近般若心経をよく読んでいる。でも意味はわかっても心を空にすることは未だにできないでいる。いくら座禅をしても無心になることはできないかもしれない。
もっとも人間に生まれて喜怒哀楽の中でもがき苦しんで、そんな自分を自然体として受け入れることができるのも凡夫の悟りなのかもしれないと勝手に思っている。ひょっとすると般若心経の教えと言うのは、善きにつけ悪しきにつけ、置かれた境遇に日々感謝し、あるがままの自分の心を素直に見ることなのかもしれないと思う。また機会があれば般若心経267文字を勝手に解釈してみたいと思います。このブログには老荘に始まり、儒教、神道、そして仏教にまで乱読の講釈を載せていますが自分にはこれらのどれにも共通していることは多分人の心のあり方に対する知恵なのだと思う。いずれこれらの哲学としての相違点と共通点の講釈もしてみたい。