新型コロナで大打撃、それでもわたしが「レズ風俗」を続ける理由
新型コロナウイルスが猛威を振るい、飲食店や遊興施設の営業に自粛が求められるようになってからこの約1~2ヶ月の間、夜の業界では激変が起きている。
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2018年に開業し、わたしがオーナー兼キャストを勤めている“対話型”レズ風俗 Relieve~リリーヴ ~(以下、リリーヴ )はこの状況を鑑みて、ノンアダルト、つまり性的なサービス抜きでオンライン接客を続けることにした。レズ風俗は通常、女性のキャストが女性客に対して疑似恋愛体験または性的行為を提供するサービスだ。
風俗店がなぜこのような異例の対応をしているのか、そして夜の業界で今何が起きているのかを当事者の目線から伝えたい。
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奪われた“ライフライン”
「びっくりするほど人がいない…」
新型コロナウイルスの脅威が巷にも忍び寄って来た、2020年3月中旬。わたしが先約のあった仕事のために池袋を訪れると、街の様相は一変していた。いつもは池袋北口にたむろしている風俗のスカウトマンはなりを潜め、足早に行き交うデリヘル嬢たちも見当たらない。
わたしの店も3月以降、予約が激減していたが、どうやら他の店でも同じような状態らしい。風俗業のメッカである東京・吉原は開店して営業を続けているようだが、お客さんが一人も付かない日が多いという。自分の身を守ることを考えれば、利用者側が他人と密室で一定時間触れ合う水商売を敬遠するのももっともだ。
今、こういった状態で水商売についていた人たちはどうしているのか。副業として働いていた人は生活が厳しくてもひとまず本業に戻ればいいが、大多数の人たちはそうはいかない。
詳しくはこちらの連載に書いているが、わたし自身、都内の有名大学を出ていったんは就職したものの、精神的な病気を理由に新卒三ヶ月で突然解雇され、生きる道を見つけるためにこの世界に飛び込んだ。病状が不安定な時期でも働ける程度に労働時間が短かく高給で、職歴が付かなくても採用してもらえる唯一の職業だったからだ。
この業界ははわたしのような例以外にも、何らかの理由で昼の安定した仕事に付けない人、まとまったお金が必要な人たちの命綱として機能してきた。風俗、援助交際、古くはブルセラなどは困窮した人たちがひとまずの生活をつなぐ“ライフライン”だったのだ。今回の新型コロナウイルスは、その広義のライフラインすらもわたしたちから奪っていった。
公的支援は救いになるか?
水商売以外にも、手軽に付けるアルバイトさえ激減している。わたしも風俗業以外にもアルバイトを掛け持ちしていたが、それも休業になってしまった。もはや自助努力ではどうにもならず、本質的なセーフティネットであるはずの公的支援に頼らざるをえなくなる。
今回の新型コロナウイルス感染症の流行に際して、収入の減少が認められ、緊急かつ一時的な生活維持のためにお金を必要としている人たちのために、緊急小口資金貸付という制度が設けられたことは、広く知られているだろう。同制度の申請には職種を問われないため、水商売経営者またはキャストももちろん利用可能だ。しかし、申請の過程にはいくつもの壁がある。
今回の感染症に関連する各種貸付・給付金の申請には減収証明が必要になるが、その基準は前年同月との比較で判断される。
風俗に限らず、水商売は年末年始の過ぎた1月から閑散期で、新年度になる4月までは一年の中でもっとも儲からない時期に当たる。お客さんの多くは年末年始の休暇にお金を使ってしまい、新年度は何かと物入りだからその間は娯楽に対して財布の紐を締める傾向がある。すなわち、もともと儲からない時期なので、前年と今年を比較しても減収したと証明できないケースも出てくる可能性があるのだ。
また、わたしのように事業を始めたばかりの人などは、順調なら前年よりも成長しているはず。コロナ騒動が本格化する前の1~2月までの比較だと、前年より収入が増えていると判断されるケースだってあるだろう。
さらには、何らかの事情があって申請が受理されなかった場合、不服を申し立てる先が曖昧なことも問題として挙げられる。申請側の抗弁をきちんと聞いてくれる先があるかも不明だ。
公的支援の窓口にありがちなことだが、担当者によって対応に差があり、本来救済されるべきだった人があえなく追い返されてしまうことも少なくない。夜の仕事についている人たちは、こうした公的な支援を受けることにさまざまな理由(例えば、精神的な疾患や発達障害、自己責任論由来の罪悪感など)から積極的ではなく、困難さを感じる傾向がある。めげずに自分の権利を主張することを、諦めてしまうことだってあるだろう。
経済打撃へのさらなる対策として、中小企業やフリーランス含む個人事業者を対象にした「持続化給付金」も4月14日に発表された。先述の緊急時小口資金貸付よりも当てはまる人の幅が広いようだが、こちらは昨年度分の確定申告が前提のようだ。対象者を広げたところで申請制のハードルそれ自体は依然として残っており、それは救われる人・そうでない人の線引きがされていることと同義でもある。
命を蝕むのは感染症だけじゃない
こういったことを聞いて、こんな風にいう人もいるかもしれない。
「でも、水商売以外の人たちだって困っているんだよ?」「生きているだけでありがたいじゃない」「救われないことを嘆いていないで、出来ることから頑張りなよ」そして、「そういった仕事を選んだ自分にも責任があるんじゃないの?」
……果たして、その辛抱と自己責任論は、健全に生き残る手立てだと言えるのだろうか。
世の中を取り巻く状況が悪くなり個人に余裕がなくなってくると、他人が得ている得に敏感になり、向ける眼差しが厳しくなってくる。自分は頑張っても報われないのに、耐えているのに、どうしてあの人はいい思いができるのか? そういった気持ちに囚われている人は、今この日本にたくさんいる気がしている。
それは水商売を批判する人たちだけじゃない、わたしたちキャストや風俗経営者、そしてお客様の心の中……、この状況では誰にだって、そういった思いが忍び込んでくる。感染症はわたしたちの体を蝕み、時には命を奪うだろう。
でも、「生きているだけでありがたいのだから、前向きに頑張り続けよう」という同調圧力に耐え、自分の苦しい思いを飲み込み続けていると、たとえ感染症にかからなくても、別の形でわたしたちの命を蝕んでくるかもしれない。
わたしたちは感染症そのものに気をつけるだけではなく、自分の心を助けていかなくてはならないタイミングにもきているのではないか。
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いま、なぜ「風俗」が必要なのか
生活の安定があってもなくても、一人で家にこもっていると自身の輪郭がぼやけ、自分の考えや欲求がわからなくなることがある。
たとえば平時であっても、インターネットには様々な意見や情報が玉石混交に溢れている。友人や同僚など身近な範囲の人間にリアルで対面し、会話することで情報がふるいにかかり、自分にとっての「玉」を見極めながら自身の価値観が形成されていくはずだ。
しかし日常生活に制限がかかるほど社会が混乱している時は、情報の質を見極めることこそが困難になる。情報収集の過程でなんとなく他人の意見や批判を目にして、知らず知らずのうちに普段とは違った主義・主張に同調していたりすることもあるだろう。
誰かとの接触や会話などで「自分がどう思うか」を話し合う機会がないと、得た情報を咀嚼できず受動的になってしまうのも無理はない。
たとえその外部から忍び込んできた価値観が、自分の本来の考えと食い違っていてもそれと気づくきっかけが減っている現状では、「そういうものか」と見聞きした意見を飲み込み続け、知らないうちに心を摩耗していたりする。
わたしがオンラインでも接客を続けているのは、経済的な理由だけではなく、そんな気持ちにさいなまれるお客さんや自分自身を助けたいという思いもあってのことだ。誰かに話すことで自分の考えも整理されるし、誰かの目にさらされることで自分の社会的な立ち位置を思い出したり、隠れた自分の欲求に気づいて自分自身を取り戻すことができる。
もともとわたしのお店では、“対話型”と銘打って、性的サービスだけではなくお客さんに向き合って対話することをお店の売りとしている。性的な行為がなぜかできない、人と繋がれない、恋愛感情がわからないなど、医療施設にかかる必要性を感じていない人の性や対人関係の悩みに、一緒に向き合ってきた。
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風俗とも福祉とも言い切れない、曖昧なカテゴリーのお店だからこそ、性的サービス抜きのオンライン相談や雑談に切り替えることができたのだと思っている。
お店にきてくれるお客さんの背景は様々で、休業中の人もいれば、会社員で自宅勤務に切り替わった人、専業主婦、フリーランスなど多様だ。当面の間、オンラインでサービスを受ける人は、既存の接客を受けていたリピーターが中心かもしれないが、これを機に気になってくれた方にも気軽に利用して欲しいと思っている。
命を守るためにと頑張って狭い範囲でのみ過ごしていると、閉じた環境だからこそ生じてくる人間関係のトラブルだってあるだろう。自宅中心の生活になることによって、同居者間のDVや虐待などが起きているとも伝え聞く。
わたしのお店は、平時以上に困難な毎日を少しでも心安らかに過ごせるように今日もオンライン上でオープンしている。身体だけではなく、自分の心もケアすること。そうすれば、また事態が落ち着いたときに、「あのとき生き延びてよかった」と思える日々を迎えられるはずだから。