後にも述べますが、『書紀』による「押坂彦人大兄」についての記述と『古事記』による「日子人太子」の系図とは大きな食い違いがあります。それは「舒明」と「皇極」に関する部分です。
『舒明前紀』「息長足日廣額天皇。渟中倉太珠敷天皇孫。彦人大兄皇子之子也。母曰糠手姫皇女。」
「敏達天皇四年(五七五)正月是月条」「立一夫人。春日臣仲君女曰老女子夫人。更名藥君娘也。生三男。一女。其一曰難波皇子。其二曰春日皇子。其三曰桑田皇女。其四曰大派皇子。次采女伊勢大鹿首小熊女曰菟名子夫人。生太姫皇女。更名櫻井皇女。與糠手姫皇女。更名田村皇女。」
これらによれば「糠手姫皇女」は「舒明」の母であり、またその別名が「田村皇女」であったこととなります。
さらにこれを『古事記』で見てみます。
(『古事記』「敏達天皇条」)「御子沼名倉太玉敷命坐他田宮 治天下壹拾肆歳也 此天皇 娶庶妹豐御食炊屋比賣命 生御子 靜貝王 亦名貝鮹王 次竹田王 亦名小貝王 次小治田王 次葛城王 次宇毛理王 次小張王 次多米王 次櫻井玄王【八柱】 又娶伊勢大鹿首之女 小熊子郎女生御子 布斗比賣命 次寶王 亦名糠代比賣王【二柱】 又娶息長眞手王之女 比呂比賣命 生御子 忍坂日子人太子 亦名麻呂古王 次坂騰王 次宇遲王【三柱】 又娶春日中若子之女 老女子郎女生御子 難波王 次桑田王 次春日王 次大股王【四柱】
此天皇之御子等并十七王之中 『日子人太子娶庶妹田村王 亦名糠代比賣命』生御子 坐岡本宮治天下之天皇 次中津王 次多良王【三柱】 又娶漢王之妹 大股王生御子 智奴王 次妹桑田王【二柱】 又娶庶妹玄王生御子 山代王 次笠縫王【二柱】 并七王【甲辰年四月六日崩】 御陵在川内科長也」
『書紀』の「糠手姫」は『古事記』では「糠代姫」とされているようですが、この人物はさらに意外なことに「田村王」とも「寶王」とも同一人物とされているようです。
「…次寶王 亦名糠代比賣王」「日子人太子娶庶妹田村王 亦名糠代比賣命」
この文章では明らかに「寶王」と「田村王」とが同一人物であるかのように書かれています。しかもこの文章が奇妙なのは「日子人太子娶庶妹田村王 亦名糠代比賣命 生御子 坐岡本宮治天下之天皇」という部分において、「生御子」の名前が書かれていないことです。このような場合ここには「王名」が入るはずであり、それが書かれていないのです。その理由はその「王名」が母である「田村」と同じ名前だからであり、それでは大きな矛盾となってしまうからではないでしょうか。この事は逆に言うと「坐岡本宮治天下之天皇」という記述が本当かどうか疑わしいと考えられる事につながります。
この「寶王」という名称は「皇極」の名前とされる「寶女王」と同じでありまた「田村王」とは「舒明」の名前と同じとされますから、結局「舒明と「皇極」は同一人物という事とならざるを得ません。(「たむら」と「たから」と発音も似ています)
その場合当然『書紀』の記述には不審があることとなるでしょう。なぜなら『書紀』によれば「皇極」は「茅渟王」の子であり、その「茅渟王」は「彦人太子」の子とされているからです。しかし上に見るように『古事記』では「皇極」は「日子人太子」の「庶妹」であり、また「夫人」であったこととなるわけですから、「世代」が一つ遡上することとなります。つまり『書紀』は「田村」と「寶」という同一人物を、二人に分けて「縦」に年代差を以て配置していることとなります。それが「栗隈王」達の活動年代の矛盾として現れていると思われるわけです。
以上のことから「六世紀末」には「押坂彦人大兄王」と「難波王」、さらには「押坂彦人大兄王」の死後は「難波王」と「春日王」という「兄弟」により、それ以前とは「権威」「権力」の次元が異なる「強力」な政権が造られたものと推定できることとなります。
彼らは強力な「刑事」「警察」等の治安維持機能を保有し、その「力」によりこの「倭国」を「直接」統治していたものです。(それはこの時「部民」から解放された下層の人々の強い支持を受けていたと考えられます)
そのような「力」を「倭国」の隅々まで行き渡らせるために「郡県制」という階層的行政制度を施行し、各々の「郡」「県」には中央から「官」(国宰)を任命・派遣するなどの施策を実行していたものです。
さらに、広く「隋制」を採用し、「戸籍」「暦」「班田制」を導入すると共に、「屯倉」「屯田」など以前からの制度を拡充・拡大するなど多くの「地方」統治及び収奪の制度等の整備が行われたものと思料され、それまでの「倭国」とは全く異なる状況が作り出されたと考えられます。
(この項の作成日 2013/06/07、最終更新 2017/01/13)(ホームページ記載記事を転記)