ところで、「難波皇子」の子供が「栗隈王達」であるとすると、「年齢」に矛盾があることに気づきます。「難波王」は「守屋討伐」に参加していますから少なくとも当時「聖徳太子」と同じ程度(十五-六歳)にはなっていたと考えられます。しかし、それでは「難波王」の「子供達」とされる「栗隈王」や「石川王」の死去した年次についての『書紀』の記録などと整合しないようであり、これは何らかの錯誤が『書紀』にあるとされています。
確かに「難波王」が「五八七年」という時点で死去していたとして、この時点で既に「栗隈王」達が全員生まれていたとすると、『書紀』に書かれた年代には九十歳になるほどの長寿になることとなってしまいますが、にも関わらず「大宰」や「留守司」という現役の官人として活躍していることとなって矛盾するのは明らかです。
また「小野毛人」という人物は「小野妹子」の子供であり、その小野妹子は「春日王」の子供とされています。(『公卿補任』による)
「大宝二年条 参議 従四位下 小野朝臣毛野 同日〈五月十七日〉任。天武天皇四年十月為筑紫大弐。/小治田朝大徳冠妹子之孫。小錦中毛人之子也。…」
「弘仁十三年条 参議 従四位下 小野峯守 四十五 三月廿日任。元皇后宮大夫。治部大輔。近江守。同日兼太宰大弐。/征夷副将軍永見(陸奥介永見)三男。母。 延暦廿二四ー任権少外記。五月ー任春宮少進。大同二正月廿任畿内観察使判官。同四四十二従五下(イ任右少弁)。十四日兼春宮亮。十一月庚午式部少輔(亮如元)。同五九月丁未兼近江介。同月癸丑内蔵頭(輔如元)。弘仁三正辛未兼美乃守(少輔如元)。同四正辛酉従五上。同五正廿三兼左馬頭(守如元)。同六正十陸奥守。同十正七正五下。十一正甲申阿波守。廿七兼治部大輔。同十二正七従四下。十日兼皇后宮大夫。二月二日兼近江守。/〔頭書云〕敏達天皇―春日皇子―妹子―毛人―毛野―永見―峯守/イ押紙云。延暦廿二四ー権少外記。大同元三ー少外記。同五月ー春宮少進。同三正ー畿内観察使判官。四月従五下。任右少弁。兼春宮亮。」
このように彼は「難波王」の直接の子供ではないものの、同時代人であったと考えられる訳です。その彼らが死去した時点でかなりの高齢であったことは彼らの死亡記事がある程度の年次範囲に収まることでもわかります。(年次は通常考えられているもの)
(六七六年)「(天武)五年…六月。四位栗隈王得病薨。」(『天武紀』)
(六七七年)「小野毛人」死去(「墓碑」(表)「飛鳥浄御原宮治天下天皇御朝任太政官兼刑部大卿位」/(裏)「大錦上小野毛人朝臣之墓営造歳次丁丑年十二月上旬即葬」による
)
(六七八年)「(天武)七年…秋九月。…三位稚狹王薨之。」(『天武紀』)
(六七九年)「(天武八年)… 吉備大宰石川王病之。薨於吉備。天皇聞之大哀。則降大恩云々。贈諸王二位。」(同上)
(六七九年)「(天武)八年己酉朔癸酉条」「大宅王薨。」(同上)
(六八三年)「(天武)十二年…六月丁巳朔…壬戌。三位高坂王薨。」(同上)
このように兄弟の死亡時の年次が長兄である「栗隈王」から「末弟」の「稚狹王」や「高坂王」あるいは「甥」といえる「毛人」も含めて十年以内に収まっていることは、彼らがほぼ当時の平均寿命近くまで生存していたと見るのが相当であることを示すものです。
この当時の平均寿命などは全く不明ですが、七十代程度と見るのが相当ではないかと思われ、「七世紀第一四半期」の早い時期を生年として想定せざるを得なくなりますが、それでは「守屋討伐」で死去したはずの「難波王」が実は生きていたこととなってしまう不具合があります。
それについては『公卿補任』や『尊卑分脈』では「大俣王」という人物が「難波王」の子供におり、彼の子供達が「栗隈王」達であるとされています。しかしこの両記録とも相当後代のものであり、その真偽(正確性)にはやや問題があるとされます。たとえば『公卿補任』では「天平十年条」の「橘宿祢諸兄」のところには以下のように書かれています。
「天平十年条 右大臣 正三位 橘宿祢諸兄 正月十三日任。叙正三位。元大納言従三位。年五十五。敏達天皇之子難波親王〔男〕大俣王男贈従二位栗隈王男治部卿兼摂津大夫従四位下美努王一男。母縣犬養東人之孫。大夫人贈正一位三千代刀自(光明皇后兄弟也)。天平十年叙正三位。任右大臣。元大納言従三位。」
この中の〔男〕というのは後代の補注であり、本来はなかった字ではないかと思われます。それを含んでこの記録を読むと、この「大俣王」は「難波親王」の子供(男)であるとは断定的には言えないと思われます。
また『尊卑分脈』にも「大保(俣)王」なる人物が書かれていますが、「贈正二位」と書かれているものの「官職」などが書かれていません。それはその次の「栗隈王」についても「在職官位」などが書かれておらず、また「贈従一位」という表記があり、それは上の「公卿補任」の記事とも異なっている事が注意されます。また「美奴王」が「美好王」となっているなどその記述について信憑性にやや疑いを持たざるを得ない部分があるのが事実です。つまり、この「大俣王」は『書紀』で「難波王」の弟とされる「大派王」が誤伝したという可能性もあると思われます。これらの点については『書紀』などの資料の成立時点で、すでに年代に「矛盾」があることが既知となっていたことを示すと考えられ、『書紀』の記述に合理性を与えるため後代資料において「修正」が施されているのではないかと考えられます。
『古代氏族系譜集成』などには、この「大俣王」なる人物は出てきません。「難波皇子」から直接「栗隈王」達につながる形となっています。
つまり、ここでは『書紀』の記事に何らかの「改定」が行われている可能性が強いと考えられますが、「大俣王」という人物を挟むと整合するということは、「一世代」分どちらかの時代(年次)がずれている(移動されている)という可能性を示唆します。
しかし、上に見たように「難波王」が「押坂彦人大兄」の弟であることを疑わせる史料は存在しませんから、実際には「栗隈王」の時代が上ると理解すべきではないかと考えられます。「栗隈王」達が「難波王」の子供であるとすると、「栗隈王」達の生年は「六世紀後半」へと繰り上がらざるを得なくなるでしょう。
それが正しいと考えられるのが「遣隋使」派遣の時期です。
既に行った検討から「遣隋使」派遣の真の年代は「六世紀終わり」であるということと理解されることとなり、「小野妹子」の活躍時期も二十年ほど遡上することとなりました。それは即座に彼の子供とされる「毛人」の生存年代の問題と重なり彼も「六世紀末から七世紀第二四半期」程度が活躍の時代と見られることとなりますから、上に示された「死去」の年次はやはり三十~四十年ほどの遡上を検討することが必要と思われるわけです。
「難波王」達の系譜には誰か一代挟む必要があるということで「大股王」が措定されているわけですが、当然彼らだけではなく同時代を生きた全員にそのような改定が必要となるわけであり、そのような仮定が著しく不合理であるのは疑えません。
さらにそれを推測させるものが「威名大村骨蔵器銘文」です。
この骨蔵器は天明年間に大和国葛城下郡馬場村で発見されたもので、慶雲四年(七〇七年とされる)に四十六歳で没した「威名大村」のものです。そこには(蓋に)に銘文が刻まれており、それは以下のようなものでした。
「卿諱大村檜前五百野宮御宇天皇之四世後岡本聖朝紫冠威奈鏡公之第三子也」
つまり「大村」は檜前五百野宮御宇天皇の四世で、父は後岡本聖朝で紫冠だった「威奈鏡公」であるというわけです。
ところで『書紀』によれば「猪名公」は「宣化」天皇は「継体」の皇子である「上殖葉皇子」(『古事記』では恵波王)を祖としているとされます。
「(宣化)元年(五三六年)春正月。遷都于桧隈廬入野。因爲宮號也。…己酉。詔曰。立前正妃億計天皇女橘仲皇女爲皇后。是生一男。三女。長曰石姫皇女。次曰小石姫皇女。次曰倉稚綾姫皇女。次曰上殖葉皇子。亦名椀子。是丹比公。偉那公。凡二姓之先也。」
この二つの史料は微妙に食い違っています。銘文に出てくる「檜前五百野宮御宇天皇」とは、『書紀』では「檜隈盧入野宮」(『古事記』では檜?盧入野宮)に遷宮したと記される「宣化」を指しているとみられます。これは『書紀』の記述通りであり「宣化」―「上殖葉皇子」(二世)は間違いなさそうです。また「大村」本人からは父が「鏡公」であることから「鏡公」―「大村」の二代も明確です。
この二つの世代を単純に連続すると「宣化」―「上殖葉皇子」―「鏡公」―「大村」となり、これは「銘文」に合致するというわけです。しかし、『書紀』によれば「宣化」天皇は五三九年に没していることとなっており、そうであれば息子の「上殖葉皇子」は当然それより以前の出生となります。「鏡公」の生年がその「上殖葉皇子」の五十歳程度と遅く考えても息子の「鏡公」生年は五九〇年より遅くはならず、さらにその「大村」の生年を六六二年とすると「鏡公」七十二歳の息子ということになってしまいます。
このようなかなり無理な推定をしなければ代としてつながらないのです。これらのことは「宣化」の時代を繰り下げなければ成立しないことを示すとみられ、実祭には一世代つまり約三十年ほど繰り下がった六世紀後半を想定して始めて成立するといえます。
このように両者の例は『書紀』の記事にどこかに無理に引き延ばした部分があることを示唆するものであり、年次をそのまま信ずることができないことを示しますが、また合理的な解釈を施すことにより史料として使えることをも示すものです。
(この項の作成日 2013/06/07、最終更新 2017/02/25)(ホームページ記載記事を転記)