ところで「奴国」あるいは「狗奴国」という国名表記に使用されている「奴」という字については、これは「ぬ」と発音したと考えられ決して「な」あるいは「ど」「と」ではなかったと思われます。
たとえば『古事記』の中では「ぬ」の音表記について「奴」「怒」「農」などが使用されていますが、これらはいずれも「呉音」です。(その意味で『古事記』は「呉音」系資料とされます)
そこでは「農」が「ぬ」の表音として使用されている場合があることが見て取れます。さらに「ぬ」という平仮名は「奴」という漢字から作られたものであり、それは「奴」という漢字の発音が古くは「ぬ」であったことを示すものです。
また「毛野国」という国名は現在「鬼怒川」という川の名として残っており、これは(川の名が元々の地名を表していると見ると)「ぬ」という発音がその後「の」に変化したことを示すものと考えられます。(「毛」も以前は「き」であったものか)
他にも「其餘之傍国」とされた中にも「奴」の字を含む国が多くあり(「彌奴國」「姐奴國」「蘇奴國」「華奴蘇奴國」「鬼奴國」「烏奴國」「有奴國」)、これらについても「ぬ」と発音したものと思われます。そしてこの「ぬ」は後代になると「の」と変化したものと思われ、「吉野」が「えし『ぬ』」と呼ばれていたものが「よし『の』」と発音されるようになったように、一般に「の」へと音韻が変化したものと思われます。
またこれら『魏志倭人伝』の「奴」がつく国々は「原義」として「野」の意義があったことを示す可能性もあることとなるでしょう。そう考える理由の一つはこれらの国名が「奴」が国名の末尾に付く例が全てであるという点にあり、そのことはここで使用される「奴」は「名詞」的に使われるものであること、その前に「形容詞」的語があることを推察させるものだからです。このように末尾に「ぬ」が来て、その「ぬ」が後代「の」と呼称されるようになるということを考えると、この「ぬ」は元々「野」の意義があった事を意味すると考えるのが順当と思われますが、それは「野」を言祝ぐ意味から国名とされたものではないでしょうか。
「野」は元々「狩猟民」においても「農耕民」においても「収獲物」や「収穫物」を得られる場所であり、それが良い場所であることを言祝いで国名としていたという可能性が高いと思われるわけです。
言葉には「霊力」があったと思われるわけですから、国名を名付けるのは重要な作業であり、正しい国名でなければ「神」から祝福されず、良い「収獲物」や「収穫物」は得られないと考えられていたものと思われます。その意味では「野」を「国名」とするのは当然と思われると同時に理解されやすいものであったと思われます。
一般に「地名説話」というものは「神」や「神聖化」した「先王」などによる命名が一般的であり、その場合でもこの場所がどれほど良い場所であるかを特に主題として命名されている例が非常に多いと思われます。(後の『風土記』など見ても言えることです)
その意味では「野」が末尾に付く例が多いのは自然であると思われることとなるでしょう。ただし、その中では「奴国」は非常に特殊な例であると思われます。それは「美辞麗句」にあたる「形容詞」が前置されていないという点です。単に「野」と命名されたとすると非常に不審ですが、逆に言うと他の「~奴国」という例の淵源がこの「奴国」であって、それらの諸国はこの「奴国」にちなんで名前付けしているか、あるいは「分家」であったという可能性も考えられるでしょう。それは「奴国」が倭国内における伝統が耶麻壹国に比べ古いと考えられることと重なっているように感じられます。
後でも述べますが、「伊都国」と「奴国」はその官の名称が他の国と全く異なっており、中国〈特に周〉との関係が深いと考えられるものとなっています。そのような両国であれば「耶麻壹国」の台頭以前はこの両国が倭国の中心的位置を占めていた可能性が高く、彼らの分国が倭国内にあったとして不思議ではありません。
そのように「奴国」が中心的な位置にあったとすると、「奴国」の場所は他のどこよりも「素晴らしい」という必要があるでしょう。そこは肥えた土地があり水利もよく高い生産力がある場所であるはずです。そう考えるならば、その「奴国」の領域が「山地」を包含しているとは考えられないこととなります。
あくまでもかなり広い平野部にその領域が占められていると思われ、わざわざ山地をその「領域」に含むことはないと思われるわけです。当時はあくまでも「山地」は「自然国境」であり、山の向こう側は別の国という概念ではなかったかと考えられます。そう考えると北部九州の中でも「福岡平野」あるいは「筑後平野」などがその候補地である可能性が最も高いものと推量します。(そのような場所を「野」と称していたものではなかったか)
そもそもいつの時代でも「野」を語尾に持つ地名が相当数に上ることを考えるとそれが「古代」からのものであったとして不自然ではないということとなるでしょう。(美濃、信濃、大野等々)
以上の記述に対して「ろ」を示す語がその後「ら」を示すようになっている例を挙げて「奴」も元々「な」であったという説を述べたのが長田夏樹氏です。
彼は『邪馬台国の言語』(學生社一九七九年)の中で「末廬国」の「蘆」が現在も「まつうら」と呼称されているように当時も「ら」と発音されたものとし、その音韻体系が共通する(とされる)「奴」の発音に対しても「ぬ」や「の」ではなく「な」であるとしたものです。
しかしこの論は「韻鏡」に拠ったものであり、その「韻鏡」の成立ははるか後代です。(南北朝の頃か)たしかにそこでは「蘆」「都」「奴」は同じ音韻系列に含まれていますがそれが『魏志倭人伝』まで遡上するものかは別途証明が必要と考えられます。(一般に『韻鏡』の示す音韻は「中古音韻」と考えられており、「上古」のものに対して適用可能とは考えられていないのが実情のようです。)
(この項の作成日 2014/07/08、最終更新 2016/11/20)