(以下は古田武彦氏の研究(※)に準拠しますが、自分なりのアレンジも加わっています)
中国の古典に『周禮』という書籍があります。この中に「天子の礼楽」について書かれた部分があり、そこには「周王朝」の第二代「成王」の摂政であった「周公」が死んだ後に、その死後も祀りを絶やさぬよう、「天子の礼楽」を以ってせよ、という「成王」の指示が書かれています。その内容は「夷蛮の楽」を大廟に納めなさい、というものです。
「四夷」の中で特に「夷」(東)と「蛮」(南)の二方向だけが、奉納するべき天子の楽とされているわけですが、その理由は、「後漢」の「王充」が表した書「論衡」により明らかになります。それによれば「周のとき越裳雉を献じ、倭人暢草を貢す」と書かれており、この故事にちなみ、「夷」「蛮」の領域には「周公」の治政の正しさが伝わったもので、そこからの奉納を、「周公」が死んだ後も続けることが彼を「祀る」ことになると考えたものと思料されるものです。
その後は「四夷の楽」と呼ばれ「東西南北」の各々の周辺諸国からの奉納という形に変わりましたが、原初的には「夷蛮」の二方だけであったものと考えられます。そして、この「夷蛮の楽」についてはひとつを「昧」と言い、「東夷」の楽を示し、もうひとつを「任」といい、「南蛮」の楽をいう、と書かれています。
ここでいう「東夷」の「昧」とは「マイ」と発音すると思われますので、今も日本語で「マイ」という発音である「舞」のことを意味しているものと考えられるでしょう。またこの「夷蛮の楽」が「いつ」奉納されたのか、というのは明記されていませんが、「暢草を貢」じたときと一緒に奉納されたもの、と考えるしかないのではないでしょうか。
「周の時(紀元前十二世紀)、天下太平、越裳白雉を献じ、倭人鬯草を貢す」( 「論衡」巻八、儒増篇)
「成王の時、越常、雉を献じ、倭人、暢を貢す」(「論衡」巻十九、恢国篇)
この「貢献物」を持参した際に一緒に「昧(舞)」も奉納されたものと考えられるわけです。それは異蛮の国からの国交が開始される時点における「礼儀」であったものであり、その点を「箕子朝鮮」から学んでいた、あるいはこの「貢納」の際に指示(示唆)されたためとみなせます。
従来このような時期の「貢献」などあり得ないと即断され、(縄文時代末期のこととなります)これらの記事は「架空」というのが「定説」でした。それが単なる「先入観」に過ぎないとわかったのは、「殷虚」の発掘がきっかけです。
「一九二八年」より始まり今に至ってなお発掘中の「殷」の都から「甲骨文字」が書かれた亀の甲羅あるいは牛の肩胛骨が発見されたのです。その後も続々と発見される甲骨文により、『史記』の「殷本紀」の記述が後代の作り話などではなく、「史実」であったことが示されました。それを見ると「殷」の歴代の王朝の王の名前なども全て合致しており、史書と遺跡からの出土が見事に整合した例であるわけですが、その整合した例の中には「箕氏」の名前もあり、このことにより『論衡』や『漢書』の記載も合理的な理解をすることが必要とされるようになりました。つまり、これら「倭人」の貢献というものが「箕氏朝鮮」を通じたものであったことは疑いを入れられないことになったわけです。
「箕氏」というのは「殷王朝」の有力者であったものが、「紂王」に憎まれ、「牢」に繋がれる身となっていたものであり、「周」の「武王」による「紂王」の打倒により解放されたものです。
彼は周王朝(武王)から朝鮮に「封」ぜられ、東夷に「周王朝」への従順を説いたとされています。この功績により「倭人」が周王朝へ「貢献」する、と云うことが行われたというわけです。このようないきさつが『史記』に書かれ、そのことが正しかったことが証明されたこととなります。
その結果「倭」の各地域では「周」の文物が導入され、「周」の制度に基づく官僚制度などを備えた国も出来たと考えて不思議はないこととなります。
「周」の「武王」の死後「成王」の即位を祝するために「箕氏」が「周」の都「鎬京」をめざし「殷虚」を通った際には「麦秋の詩」を詠ったと書かれています。この時「箕氏」は「鬯草」を持参し「舞」を奉納することを予定していた「倭人」と一緒であった可能性が非常に高いと考えられます。彼は「倭人」を引率して「周」の都へ来たったものであり、「成王」の即位記念とあれば奉祝として「倭人」の「舞」を奉納したとして当然ともいえます。
またこの時の「倭人」が「どこの」「倭人」かというのは、その朝貢物が「暢草」という一種の「薬草」であったとみられることから推測できます。それは「出雲」の王権です。
「出雲」が後の時代においても出色の「薬草」産地であり、『出雲風土記』には特産物として上げられたものが六十種類以上あります。また平安時代には天皇の侍医を務めていた例からもこの時の薬草貢献に「出雲」の権力者が関わっていなかったと想定する方が困難です。箕氏朝鮮と出雲の間にはかなり深い関係があると思われ、それは「大国主」にまつわる説話からも窺えます。因幡の白兎の例もそうですが、彼にまつわる「医薬」の話が特徴的であり、それは「国譲り」の以前の時期のこととして書かれていますからその意味でも弥生早期であり、「箕氏朝鮮」の時代と重なるといえそうです。
『後漢書』には「後漢」の「光武帝」が「金印」を授与した際の「倭」からの使者について、「倭人自ら大夫と称す」と書かれています。この「大夫」という「官名」は「周」の制度にあるものであり、「士・卿・大夫」という順列で定められたもので、「士」は「周」の国王の地位にあたり、その下に「卿・大夫」がいるわけです。「倭王」は「周」の王の配下の諸王の一人、と自分たちを考えていたものと考えられ、「士」の下の「卿」を自負していたと考えられます。そのため、派遣された「倭王」の部下はその下の「大夫」を名乗った訳です。これは明らかに「箕子朝鮮」のいわば「教育」の成果であるとみられるわけです。(また『魏志倭人伝』によっても「卑弥呼」の配下の人間は「大夫」を称しています)その意味でも「出雲」の権力者が「暢草」を貢じたとして自然といえるでしょう。
『漢書』によれば「楽浪海中倭人あり、分かれて百余国を為す、歳事を以て来たり献見す、と云う」と書かれまた、『後漢書』によれば、「前漢」の「武帝」(在位前一四一~八十七)が朝鮮を滅ぼして「楽浪郡」を設置してから「三十国」と使訳が通じるようになった、と書かれています。(「楽浪郡」設置は紀元前一〇八年)『魏志倭人伝』でも「今使訳通ずるところ三十国」と書かれています。
さらに「後漢」の「光武帝」の時代(紀元五十七年)「委奴国」は諸国統合の象徴である「金印」を授与されており、この時点で「奴国」がその三十国の王の王になったというわけです。そしてその「光武帝」が与えたという「金印」は江戸時代に「筑紫」の「志賀島」で発見されています。
これらのことを総合して考えると、「倭」における中心権力あるいは最大権力は、当初「出雲」にあったものがその後「筑紫」へと移動したという経緯がうかがえます。当初「出雲」にあったものがその後(「金印」が出てきた)「筑紫」に移ったものと思われ、当然「卑弥呼」の「都」も「筑紫」にあったものと推測するべきこととなります。(ただし「筑紫」に以前から地域的権力がなかったというわけではなく、「弥生」の始まり以来かなり強力な「王権」が存在し続けてきたと考えられるものではあります。)
「卑弥呼」が「親魏倭王」という称号を授けられた時点で、「邪馬壹国」を中心とする「王権」はその中心地である「筑紫」の伝統的な「舞」などを「魏」に貢上したということが考えられますが、「王権ごとにそのような「儀礼」の内容やその「付属物」(楽や舞など)などが「異なっていた」ということが推測され、「周」の「成王」に奉納したという「舞」が「筑紫」に継承されていたかは不明です。ただし論理から言うと「出雲」からの使者が「調草」と共に「舞」を奉納したと見るべきですが、その「舞」がその後継承されたのかどうかは現時点では不明です。それを示すようにその後「聖武天皇」の時(七三一年)「雅楽寮」の楽生の数を定める詔勅の中で、学び、残すべきものとして外国の楽である「大唐」の楽などと並び「国内の舞楽」として「諸県の舞」と「筑紫の舞」の二つが指定されていますが、すでにこの時点で「出雲」の舞が取り上げられなくなっています。
「諸県の舞」とは「日向」の舞のことであり、天皇家の出身地(天孫降臨の地)である、という理由が大きいものと考えられますが、国内ではそれ以外では「筑紫の舞」だけが指定されており、その「筑紫の舞」に長い伝統とその伝統が生み出す「重み」があり「絶やすべきではない」と「聖武」が考えたものであろうと思われます。「聖武」は「倭王権」に対する畏敬の念を持っていたと見られ、「筑紫」に対する態度がことのほか親和的でありその点で突出しています。
ところで、「後漢」から「奴国王」が拝受したという金印については、「偽物」つまり「光武帝」が授けたものではないという論も一部にありますが、そのサイズと重量が「漢制」に基づいており、また「金」の純度も非常に高いことが確認されていますから、「偽物」というには不審があると言えます。
また後に「雲南省」から発遣された「(てん)王印」と「面」の部分とその上の持ち手の部分である「鈕」の部分の重量バランスが「志賀島の金印」と全く同じとされ、これは「共通の型」の存在が想定されるでしょう。つまり「型」に入れて金印の原型をつくった後、面の文字と持ち手部分のデザインを行ったものと考えると、この重量配分が同じであることの理由になると思われます。つまり、「漢倭奴国王印」は「本物」であり、「(てん)王印」と制作年代が大きく異ならないばかりか同じ工房でつくられたという可能性さえあることとなります。
(※)古田武彦『邪馬一国への道標』(角川文庫)
(この項の作成日 2003/01/26、最終更新 2017/12/02)