「八色の姓」については「天武十三年」(六八四年)に以下の記事があります。
「(天武)十三年(六八四年)冬十月己卯朔条」「詔曰。更改諸氏之族姓。作八色之姓。以混天下萬姓。一曰眞人。二曰朝臣。三曰宿禰。四曰忌寸。五曰道師。六曰臣。七曰連。八曰稻置。」
しかし、「二〇〇九年」になって韓国の古代の「百済」の中枢部である「扶余」の遺跡から「ナ尓波連公(なにわのむらじきみ)」(ナは那の異体字)と書かれた「木簡」が出土しています。この遺跡の年代としては「七世紀中頃」と考えられていますし、そもそも「百済」は「六六〇年八月」に「滅亡」しますから、これ以前の遺跡と考えるのが妥当というものでしょう。
ここに書かれた「ナ尓波連公」というのは「難波連」のことと考えられますが、『書紀』には「難波連」という人物については、「天武十年」(六八一年)年正月に、「草香部吉士大形」に「難波連」という「姓」(かばね)を授けた、という記事があります。
「天武十年」(六八一年)「春正月(中略)丁丑。是日。親王。諸王引入内安殿。諸臣皆侍于外安殿。共置酒以賜樂。『則大山上草香部吉士大形授小錦下位。仍賜姓曰難波連。』」
この記事は不明な部分が多い記事ではあります。そもそも「賜姓」の理由が不明です。この「草香部吉士大形」に何らかの「功」があったものと考えられますが、『書紀』中には何も書かれていません。また、「賜姓」とありますが実際には「難波」という「氏」(うじ)も与えられているようです。「姓」は「連」部分だけをいうものであり「難波」というのは「氏族名」です。本来「氏」を新たに与える場合はすでに存在している「氏」名は避けるものです。でなければ「同族関係」が混乱するからです。
しかし、ここでは、「草香部氏」である「大形」を「難波氏」に変更しているわけですが、これが「昇格」を意味していると言う事から、「草香部氏」は「難波氏」に仕えるような「一支族」であったのかもしれません。
そして「吉士」に変え「連」を与えているわけですが、「吉士」が渡来系氏族に特有の「姓」であるところから考えて以前はあくまでも「外様」的扱いであったものが、それをより「倭国王権」中枢に近い立場(「譜代」的立場)に変更する、という「優遇策」を与えたものと思料します。
ただし、このことはあくまでも「大形」個人に関連することと考えられ、「難波」氏族全体として「連」に変わったということは意味しませんし、「草香部氏」が全て「難波氏」に変わったと言う事も意味しないと思われます。
しかし、明らかにこの「難波連」という「存在」は『書紀』による限り「六八一年」以前には存在しない「はず」のものであることは確かですから、その「存在しないはず」の「難波連」という名前が書かれた木簡が「六六〇年以前」と考えられる遺跡から出土したということは不審と云うべき事となるわけです。
この「賜姓記事」問題は「正木氏」により「書紀の三十四年遡上」問題として捉えられ「六四七年」の事実であったと推定されることとなり、この時点であれば「木簡」の記載と矛盾しないと論究されました。この「連」授与という記事はその後実施される「八色の姓」改制などや諸氏に対する「連」や「宿禰」という「姓」の授与記事と一連を成すものですから、この「難波連」賜姓記事の「記事移動」という考えが「合理的」であるなら、「小野氏」への「朝臣」賜姓ということも同様に遡上すると考えるべきと思料されます。
また「位階」の問題については「死去」した時点における「増階」であり「四階級特進」という(異例なことではありますが)栄誉を受けたものではなかったかと思われますが、そのことは「墓誌」を作る親族など彼の親しい関係者以外には伝達されなかったか、あるいはその情報がどこかで亡失したか(この場合は「王朝」の継続関係に問題(断絶など)があったと想定する場合です)により『続日本紀』にそれ以前の位階である「小錦中」が書かれたものと推察します。
つまり年代的には「墓誌」が先行しているのであり『書紀』と『続日本紀』はそれとは別個に(あるいはその墓誌の存在を知らずに)後で書かれたものと考えられる訳です。(墓誌は「埋納」されてしまいますからその存在が忘れられるあるいは広く知られないという性格があります。)
さらに「(飛鳥)浄御原治天下天皇」という表現がされていますが、これについては既に指摘しているように本来「七世紀半ば」という時期に在位していた倭国王に対する表記とみられると推察したわけであり、「丁丑年」(六七七年)という墓の作られた年次の直近で亡くなったこととなれば、活躍していた時期はもっと早い時期が想定されます。それは「飛鳥浄御原治天下天皇」という表記にも現れています。このような書き方は「現在の天皇」ではない場合に行われるものと思われ、「毛人」が亡くなる時点の「天皇」ではなく「刑部大卿」や「太政官」などを歴任した時点の「天皇」の名称であることが推察され、在位していた年代としては「丁丑年」をかなり遡上するという可能性も考えられるでしょう。(続く)
「小野毛人朝臣墓誌」というものがあります。これは江戸時代に最初に発掘されたものでその後再度掘り出され現在は京都博物館に国宝として保存されています。(以下その銘文)
(表)「飛鳥浄御原宮治天下天皇御朝任太政官兼刑部大卿位」
(裏)「大錦上小野毛人朝臣之墓 《営造歳次丁丑年十二月上旬即葬》」
この「小野毛人朝臣」の墓誌はその当時から注目されてきました。それは「毛人」という人物がその該当する時代の史料に現れないことと、それにもかかわらず「墓誌」の中では「高位」の官人であったことが記されていてそのギャップが不審とされていたのです。
彼はこの墓誌によれば「小野毛人朝臣」とされ、また「大錦上」という位を持っていたと書かれています。さらに、彼の「墓」が作られたのは(年号が使用されず)「丁丑年」とされており、これは通常「六七七年」とされています。
「大錦上」という「位階」は「六六四年」以降のものとされており、一見矛盾はありません。しかし『続日本紀』の記事では(「小野毛野」の死去記事の中で)「毛人」について「小錦中」と書かれており、これが「矛盾」と見えるわけです。
「(和銅)七年(七一四年)…夏四月辛未。中納言從三位兼中務卿勲三等小野朝臣毛野薨。小治田朝大徳冠妹子之孫。小錦中毛人之子也。」
さらに、「朝臣」という姓については「小野氏」が「朝臣」の姓を授かったのは『書紀』では「天武十三年」とされており、これは通常「六八四年」とされていますから、「墓誌」の示す年次とも「矛盾」するといえるでしょう。
これらの点から通説では「墓誌」の完成を「六八四年」以降(六九〇年代など)に考えるわけですが、しかし「朝臣授与」の年次は『書紀』の記述範囲の中であり、それが『書紀』に記されていないことが不審であると同時に、「毛人」の子の「毛野」の死去の際の追贈として、その時期に「墓誌」が書かれたとするなら「墓誌」と『続日本紀』の記事で「位階」が合わないのはおかしいこととなるでしょう。「大錦上」という臣下として最高位の位階を「毛野」の死後追贈されたならば、それが『続日本紀』に反映していないはずはないからです。
つまり「墓誌」が「追贈」された際に改定されたという考え方にとってはこの位階の違いは「致命的」なのです。(同様の指摘は既に「古田氏」によって為されています(※))
しかも、そのような仮定はそもそも「恣意的」であり、「不自然」なのです。それは「墓誌」に「小野毛人朝臣之墓営造…即葬」つまり「墓」を「営造」してすぐに「葬った」とされていることと食い違うといえるからです。
通説のように「六八四年」以降にこの「墓誌」が作られたとするならば、それまでの「七年間」(あるいはもっと長期間)墓に「墓誌」がなかったこととなるという「不自然」があることとなります。また「墓誌」を改定したという考え方は『続日本紀』と合わないという問題が発生します。
さらに弱点と言えるのはこのような考え方が、「金石文」である「墓誌」の記述を優先させず、『書紀』及び『続日本紀』の記事のほうを正しいとみる立場にあります。このような考え方が「適切」なものではないのは、改めて述べるほどではないのですが、この墓誌の解析をされた方の「(古田氏を除く)全員」がそうとは考えていないようであることに驚かざるを得ません。
明言しますが、「墓誌」の記述を解析する場合、それが『書紀』や『続日本紀』と矛盾するならば、問題を抱えているのは決して「墓誌」ではなく『書紀』であり『続日本紀』の方です。つまり『書紀』の「朝臣」授与記事や『続日本紀』の「位階」記事の方にこそ問題があると考えるのが正しいのです。(同様の例は「長屋親王」と書かれた木簡と『続日本紀』の記事の「長屋王」表記の矛盾の理解においても現れていました。)
このような史料同士のプライオリティなどというものの原則をここであらためて言わなければならないのは情けないというべきですが、「金石文」や「木簡」のほうが優先するのであって、『書紀』や『続日本紀』の優先度は原則としてその後に列します。
「近畿王権一元論者」はたいていの場合「『書紀』絶対論者」でもあるようであり、さらに『続日本紀』については「立場」を超えて「絶対視」する人たちもまた多いと思われます。彼らは『書紀』や『続日本紀』に書いてあることと「木簡」や「金石文」が食い違う場合は『書紀』や『続日本紀』の側に立って考える者たちであり、「それは『書紀』などに書いてあることと違う」というクレームを投げつけたりすることを「平気」で行うものたちなのです。それを「おかしい」とは感じない精神構造となっているのであり、「度し難い」という言葉を呈せざるを得ないのが甚だ残念です。
「木簡」や「金石文」そのものやそれに基づいた研究結果などが『書紀』などと食い違うという場合、問題があるのは『書紀』の側であってその矛盾は『書紀』の解釈などの変更などによって解消するしかないと考えられる訳です。もちろんこれは「大原則」ですから、「木簡」が間違って書かれていたなどと言うことも視野に入れる必要はあるでしょうが、決してそれが「本線」となることはありません。
この場合「墓誌」の記述が正しいとすると、「六八四年」という「姓」の授号記事に問題があることとなりますから、実際にはそれをかなり遡上する時期に「姓」の授号が行われていたこととなるでしょう。これに関しては同じ年に行われた、いわゆる「八色の姓」についての疑いと共通していると言えるでしょう。(続く)
『隋書俀国伝』に「此後遂絶」という文言がある件について、それが「高表仁」の来倭の時期と関連しており、『唐會要』に言う「貞観十年」付近が最も可能性が高いことを述べましたが、それを補強すると思われるのが「朔旦冬至」の儀式についての考察です。
『書紀』(「斉明紀」)に「伊吉博徳書」からの引用があります。そこでは「遣唐使」として派遣された彼らが「冬至之會」に参加した様子が書かれています。それは『書紀』からも『旧唐書』からも、また「暦」の解析からもそれが「六五九年」であることが確実とされています。つまりこの年は19年に1回という「朔旦冬至」の年であり、それを「皇帝」が国内国外から多くの使者を招集し祝賀の儀を催したと考えられています。そしてこのとき彼ら遣唐使は「蝦夷国」の人を従えて参加したとされ、唐の皇帝から好奇心を以て迎えられたとされています。
ところで「十三世紀」に編纂されたという『佛祖統紀』という書物に以下のような文章があります。
(「大正新脩大藏經/第四十九卷 史傳部一/二○三五 佛祖統紀五十四卷/卷三十二/世界名體志第十五之二/東土震旦地里圖」より)
「…東夷。初周武王封箕子於朝鮮。漢滅之置玄菟郡…蝦夷。唐太宗時倭國遣使。偕蝦夷人來朝。高宗平高麗。倭國遣使來賀。始改日本。言其國在東近日所出也…」
この記事によれば「唐」の「二代皇帝」「太宗」の時(在位六四八年まで)に「蝦夷」を引率して遣使したとされています。
この記事自体は後代成立ですから、資料として古いものではありませんが、これは「蝦夷」に関して書かれた部分であり、このような異伝が書かれているのは何らかの徴証となるような(私たちの知らないような)記録が伝わっていたという可能性もあるでしょう。そう考えると、「高宗」の時ではなく(あるいはその時以外にも)「蝦夷」の人が「唐」を訪れていたという可能性があることとなるでしょう。
また「冬至之會」についていうと、この「朔旦冬至」という年次は19年に一回訪れますので、その19年前の「六四〇年」も「朔旦冬至」であり、同様の「冬至之會」が開催されたという可能性があります。
この「六四〇年」という年は確かに「朔旦冬至」の年ですがさらにその日が「甲子」であるという「甲子朔旦冬至」というかなり珍しい日であり、これは「甲子」が「暦」の始まりとして意識されていたことを考えると「六五九年」よりも大々的な催しが営まれたとして不思議はないと思われます。そうであれば「太宗」時点のこととなり、この時点で「倭国」からの使者が「蝦夷国」の人を伴ったとするなら記事と整合します。
つまり「六四〇年」(十一月)に「倭国」からの使者が到着したものであり、その帰国に「高表仁」が同行したと言うことではないでしょうか。つまり「高表仁」の来倭は「六四一年」ではなかったかと考えられることとなるでしょう。
「唐會要 巻九十九 倭國」
貞觀十五年十一月。使至。太宗矜其路遠、遣高表仁持節撫之。表仁浮海、數月方至。自云路經地獄之門。親見其上氣色蓊鬱。又聞呼叫鎚鍛之聲。甚可畏懼也。表仁無綏遠之才。與王爭禮。不宣朝命而還。由是復絶。
ここにいう「路遠」という表現も「蝦夷」が念頭にあったという可能性もあるでしょう。
ただし、月でいうとこの「唐會要」の記事は整合していますが、年次が一年異なるように見えます。しかし「高表仁」の来倭に関する複数の記事の中ではこの「唐會要」だけが「月」が書かれており、「十一月」となっています。これは明らかに「冬至之會」の日付である「十一月一日」を示唆するものであり、そう考えるとやはり「冬至之會」への参加が行われたとみるべきであって、書かれた「貞觀十五年」という年次は倭国からの使者が訪れた年にかかるものではなく、本来「高表仁」を派遣した年次を示すものであったのではないでしょうか。
これに関して『新唐書』を見ると以下のようなことが書かれています。
「…其子天豐財立。死,子天智立。明年,使者與蝦夷人偕朝。蝦夷亦居海島中,其使者鬚長四尺許,珥箭於首,令人戴瓠立數十歩,射無不中。…」(新唐書日本伝)
つまり上の記事によれば、「天智」は「蝦夷」を引率した「遣唐使」を即位の翌年派遣したとされています。
この点について『書紀』では「六三〇年」の「犬上君」等の遣唐使はその前年の「舒明」即位と一連のものとして書かれています。
つまり、この「遣唐使派遣」が「六四〇年」のことであり、その前年の「天智」即位と一連であるとすると、整合するといえるでしょう。
また「百済」から「扶余豊」が「質」として来倭したのは、『書紀』では「遣唐使」派遣と同じ年とされており、これを「六四〇年」と見ると、これが「新・倭国王」の即位という状況と関係があるとみるのが相当でしょう。(以前六四二年と見ていましたが訂正します)
(「伊吉博徳」自身は「高宗」の時代に訪問したことは「百済滅亡」の記事からほぼ確実と思われますが、彼も二回唐へ訪れたという可能性も考えられるでしょう。)
「(推古)十七年(六〇九年)夏四月丁酉朔庚子条」「筑紫大宰奏上言。百濟僧道欣。惠彌爲首一十人。俗人七十五人。泊于『肥後國』葦北津。是時。遣難波吉士徳摩呂。船史龍以問之曰。何來也。對曰。百濟王命以遣於呉國。其國有亂不入。更返於本郷。忽逢暴風漂蕩海中。然有大幸而泊于聖帝之邊境。以歡喜。」
これについては一般的には「潤色」という考え方がされているようですが、その根拠としては「令制国」の発祥が「律令制」と関連しているとするためであり、早くても「七世紀後半」あたりが想定されているようです。
しかしこの記事を「素直」に考えれば、これは「南朝滅亡」という時期に既に「肥」が「前・後」に分けられていたことを示すと考えることができますが、「和名抄」など見ても「肥後」と「肥前」はつながっておらずそこには「筑後」が割り込んでいます。つまり「肥」についてはいわば三分割されたものであり、中央部分が「筑後」(筑紫後国)とされたものです。つまり「筑紫」についていうと元の「筑紫」を「前・後」に分割したわけではなく「筑紫」を拡大したわけであり、「肥」の一部を「筑紫」の一部へと編入したわけですが(これは「肥」の分割と「筑後」の成立が同時に行われたことを物語るものですが)、二〇一二年に大宰府から発見された木簡からは「竺志前國(嶋評)」という呼称や表記法が実用されていたことが窺え、「拡大筑紫」であったとしても「前・後」を付されて呼ばれていたことは確かのようです。
しかし他方「隋書俀国伝」の「大業三年」の年次には「裴世清」の派遣記事があり、その行路としての地名で「竹斯国」というのが出てきます。そこでは「竹斯『前』国」というような呼称がされていません。このことから、この「行路記事」は「肥」の分割以前のこととなるものと思われ、それらの分割事業が「遣隋使」が帰国した後に導入された「隋制」に基づくものと考えると、「裴世清」の初回訪問時点ではまだ「分割」は(当然)行われていなくて当然ともいえますから、この記事はその時点における来倭時点のものであったと考えることができるでしょう。
「肥後国」の成立が「州県制」という「隋」の高祖が行った制度改定の影響の元に行われたと考えると、この「肥後国」記事は既に「裴世清」が来倭した後のこととなりますが、「推古紀」の記事配列でもこの記事は「推古十六年」に行われた「裴世清」の「来倭」の翌年のこととされていますから、その意味では矛盾がありません。
ところで、「聖徳太子」に関する伝承などから「六世紀末」に分国作業が行われていたというのは既に古賀氏の論考(「続・九州を論ず―国内史料に見る「九州」の分国」『九州王朝の論理』所収)があり、この文章はその蛇尾に付する類のものですが、ただ私見ではそれらが何に基づいているかが明確ではなかったと思われます。当文章ではそれが「隋制」に基づいていると考え、「遣隋使」がもたらした情報に則って「国県制」が「倭国内」に施行されたという観点で書いています。更にその前提として「遣隋使」が「開皇」の初めという時期に派遣されたとみるわけであり、その点が新しいと言えば新しいと言えるでしょう。
このように考えると、この「大業三年記事」には深い疑いがあることとなります。本来「国交開始」のため「遣隋使」が派遣され、それに応じて「報表使」が派遣されたなら、その時点で「隋」として「倭国」に関する詳細な記録が作られたと見るべきであり、「行路」についても詳しい報告が為されて当然と思われます。この「大業三年記事」にそれが反映していると考えるのは当然であり、このときの「行路記事」はかなりの部分が最初の訪問時点のものであるという可能性が高いでしょう。しかし、他方途中に書かれている「隋使」を歓迎する様子は、その儀礼が「隋制」に則っているように見られ、これが最初の訪問時点のものではないこともまた確かであると思われ、「開皇二十年」時点のものが使用されていると思われます。つまりこの「大業三年記事」については、「行路記事」については「鴻臚寺掌客」としての最初の訪問時点の記録、「倭国王」との問答を含む「儀礼記事」は「文林郎」としての二番目の訪問時点のものの双方を巧妙に合成して記事を作成していると思われ、さらにそれを「大業三年時点」の記事として配置しているということとなります。
かなり複雑な作業であったというわけですが、そのようなことが行われた理由の最大のものは「大業起居注」の亡失であり、「大業年間」についての全般記録の不備です。にもかかわらず本来書けないはずの記事が書かれているのは「貞観修史」という国家的事業の完遂のために「開皇起居注」から記事を移動して「造った」という可能性が考えられます。しかもそれは一度「唐」の「高祖」により作る指示が出されたにもかかわらず、未完成に終わったものであり、「太宗」にしてみればこれがそのまま未完成で終わるというようなことがあっ場合、「皇帝」の権威にも関わることと考えたとしても不思議ではありません。そのため「開皇年間」の記事が「大業三年」記事として顔を出すという仕儀となったものではないでしょうか。
ところで「石神遺跡」や「飛鳥池遺跡」から発見された「木簡」の研究から「美濃国」においては「乙丑年」や「丁丑年」という年次の示す時期に「国-評-五十戸」という行政制度が既に形成されていたことが推定されており、全面的にであるかどうかは別として「令制国」と同様の広がりと内部組織を持った「国」というものが一般の想定よりもかなり早期にできていたらしいことが推定されています。
①「石神遺跡出土木簡 」
「(表)乙丑年十二月三野国ム下評」
「(裏) 大山五十戸造ム下部知ツ
口人田部児安」
②「飛鳥池遺跡出土木簡」
「(表)丁丑年十二月三野国刀支評次米」
ここで「乙丑年」や「丁丑年」という干支の示す年次については通常では「六六五年」や「六七七年」を指すと解釈されていますが、これについては干支一巡遡上した「六〇五年」「六一七年」という年次も可能性があると思われます。それは前段に示した「肥後国」という表記が示すところである、「六世紀後半」という「州県制」施行と何ら矛盾しないものです。(但しそう考えると従来考えられている「評制」の成立時期そのものも遡上する可能性があるわけですが、それについても既に言及していますので参照してください。(「評制」の施行時期について(一~四)))
ただし、この干支の示す年次が通常解釈の「六六五年」や「六七七年」であったとしても、「肥後国」表記が潤色とは言い切れないということもまた当然です。
「添田氏」の論に言うような「日付干支の一致による移動」が正しいかどうかは今現在は何ともいえませんが、この「年次移動」は確かにあり、それは「貨幣関係」だけではなく「大隅国」成立記事に見たように『続日本紀』の他の部分についてもいえることなのではないかと考えています。それを端的に示すのは「『始』めて」記事群です。
『続日本紀』を見ると「始めて」記事が多いことに誰もが気がつきます。しかもかなりのものが『書紀』とバッティングしています。つまり『書紀』に既にある、あるいは既に行われていることに対して「始めて」という語が置かれているのです。それは当然「矛盾」であるわけですが、この「矛盾」に対しては一元史観の立場からはほとんど議論にもなっていません。(試行的に行われていたことが正式なものとなったというような理解の様です。)
また「九州王朝論者」というか「多元史論者」では「近畿王権」あるいは「新日本王権」としては「始めて」というような議論が行われているようですが、これは「多元史論」からの演繹ともいえそうですが、他方『続日本紀』という資料に対して批判精神が欠けているという気もします。
私は「始めて」というものは「一回」しかなくて当然と思いますし、また「近畿王権」としても「倭国」の元々持っていた「大義名分」を犯してまで記事を書いていないのではないかという考えを持っていました。つまりこれらの「始めて」は「倭国」で初めての意であり、そう考えれば「年次」が移動されているのではないか、つまり実際の時期はもっと遡上するのではないかと考えていたのです。そう考えた契機は「正木氏」の「三四年遡上論」です。
『書紀』の記事(特に持統紀)に大きな年次移動があるなら、それに直接接続されている『続日本紀』にもなければならないはずと思ったのです。『書紀』と『続日本紀』は年次がつながっていますから、『書紀』に年次移動があるならそしてそれが『書紀』の末年まであるのならば『続日本紀』にその影響が及ばないはずがないと考えたわけです。
その「始めて」記事の中でも特に顕著に「矛盾」が感じられるのは「跪伏之令」に関する記事です。
「慶雲元年」には「跪伏之礼」を「始めて停める」とされる記事があります。
「慶雲元年(七〇四年)春正月丁亥朔辛亥条」「始停百官跪伏之礼。」
この記事は他の「始めて」記事とは意味が違います。それは何かを新しく始めると言うことではなく、「それまでの『跪伏之礼』を止める」と言っているわけであり、この記事には「それ以前」の情報が含まれているという点で違う種類の情報です。
これよって理解できるそれ以前の情報と『書紀』の「朝廷」における「礼制」に関する記述は「矛盾」に満ちています。
ここでは「跪伏之礼」が「始めて停められた」ように書かれていますが、「天武紀」には、「孝徳朝」に「立礼」になったと受け取れる記事が書かれています。
「天武十一年(六八二年)九月辛卯朔壬辰条」「勅。自今以後跪禮。匍匐禮並止之。更用難波朝廷之立禮。」
この記事からは「難波朝廷」の時に既に「立礼」になったとされているわけであり、それを「復活させる」という趣旨と理解されますが、またそのことはそれ以前に「立礼」から旧(つまり跪禮と匍匐礼)に復していたことを示していると思われるものでもあります。しかし、そのいきさつは「書紀」等に全く書かれておらず不明です。どこかの段階で「詔」などが出され元に戻されたと考えるべきですが、そのようなものは何も書かれていません。それを示す兆候が何もない中では、明らかにこれと「矛盾」する記事であると思われます。
そもそも「朝廷」における「禮」としては「推古紀」(以下)で「跪伏禮」様のものが定められたとされています。
「推古十二年(六〇四年)秋九月条」「改朝禮。因以詔之曰。凡出入宮門。以兩手押地。兩脚跪之。越梱則立行。」
これがその後「難波朝廷」時点で「立禮」に変更したとされているわけです。それがその後(いつかは不明)また「跪伏之礼」が復活していたという訳であり、それを「天武」の時代になって、再度「立礼」を採用すると言うこととなったというわけです。しかもそれが更にどこかの時点で「跪伏禮」に戻され、「文武朝」まで続き、そこでまたもや「立禮」となったと言う事になります。
また「書紀」の記事を信憑すると、「孝徳朝」以降「天武朝」までに「跪伏礼」が復活していたこととなりますが、この間は「遣唐使」も送られており、「唐」に学んだ諸制度が導入されたと見られる時期ですから、そのような中で「朝廷の禮」だけがなぜか「唐制」に拠らず「旧式」に戻ったこととなり、その意味が不明であると言わざるを得ません。(白村江の戦い以降「旧に復した」とするなら、それがまた「唐制」に準拠するようになったのはどういう理由で、何時のことなのかなど不審は消えません。)
記事から考えると「推古朝」以来「跪伏禮」→「立禮」(at難波朝)→「跪伏禮」(at天智朝?)→「立禮」(at天武朝)→「跪伏禮」(at持統朝?)→「立禮」(at文武朝)と変遷したこととなります。このような変転が正常なものとはとても思えませんから、そこに何らかの錯誤ないし混乱があると考えるのは当然とも言えます。
このような著しく「ぎくしゃく」した流れは、「始めて」の用語の示す「矛盾」と背中合わせのものであり、記事配列に大きな問題があることを感じさせます。