肥沼さんのブログで「添田馨」という方の「貨幣」に関する講演のことが紹介されています。(http://koesan21.cocolog-nifty.com/dream/2014/10/post-7ddd.html)
私は以前この方の貨幣に関する論文(ほぼ講演と同内容のもの《『「和同開珎」再考―上古貨幣を支えた社会経済思想』大阪経済法科大学アジア太平洋研究センター年報2012-2013 http://www.keiho-u.ac.jp/research/asia-pacific/pdf/publication_2013-01.pdf》)がネット上で公開されていることに気がつき読ませていただいたことがあります。そこでも「貨幣」に関して「年次」が遡上するという趣旨のことが書かれていました。
ところで、私はそれ以前から『続日本紀』記事についてその年次に疑問を持っていました。たとえば(これはすでに以前書きましたが)、「隼人」関連記事などは本来『書紀』の記述範囲の中ではなかったかということを考察したものです。以下にそれを簡単に振り返ってみます。
「天武紀」には「大隅直」等に対して「忌寸」姓を与えたという記事があり、その時点以前にすでに「大隅」地域の有力者に対して「直」という姓が与えられていたことが判明します。
「天武十四年(六八五年)六月乙亥朔甲午。大倭連。葛城連。凡川内連。山背連。難波連。紀酒人連。倭漢連。河内漢連。秦連。大隅直。書連并十一氏賜姓曰忌寸」
そう考えると、以下の「斉明紀」記事がそれに関連しているといえるでしょう。
「斉明天皇元年(六五五)是歳。高麗。百濟。新羅。並遣使進調。(百濟大使西部達率余宜受。副使東部恩率調信仁。凡一百餘人。)蝦夷。隼人率衆内屬。詣闕朝獻。新羅別以及餐彌武爲質。以十二人爲才伎者。彌武遇疾而死。是年也太歳乙卯。」
この時点で「内属」したとされ「倭国」の領土として組み込まれたというわけですが、この時点で「族長」などに対して「直」という姓が与えられたことを推定させるものであり、さらにそのことは「大隅国」という「国」の成立ももっと早かったのではないかという推測へとつながるものです。
他の地域に於いても「直」や「忌寸」がいるところは、「倭国」の内部の「諸国」として存在していたと考えられますから、少なくとも「忌寸」段階で「国」が形成されていたと想定することは充分可能でしょう。そうであれば「評制」もまたこの段階で既に施行されていたということも充分考えられることとなります。
たとえば『続日本紀』には「薩摩」と「肥」の人々による「反抗」等に類することが起きたとされています。
「(文武四年)(七〇〇年)六月庚辰。薩末比賣。久賣。波豆。衣評督衣君縣。助督衣君弖自美。又肝衝難波。從肥人等持兵。剽劫覓國使刑部眞木等。於是勅竺志惣領。准犯决罸」
「(大宝二年)(七〇二年)八月丙申朔。薩摩多�樊。隔化逆命。於是發兵征討。遂校戸置吏焉。…。」
「(同年)九月乙丑朔…戊寅。…。討薩摩隼人軍士。授勲各有差。」
この記事の中では「評督」という存在が書かれており、このことからこの時点で「薩摩」「肥」には「国制」が施行され、「国‐評‐里」という体制が建てられていたことを示すものと思われます。
ところで以下の記事の中には「大隅隼人」「阿多隼人」は出てくるものの、「薩摩」「肥」の「隼人」は出て来ません。
「天武十一年(六八二年)秋七月壬辰朔甲午。隼人多來貢方物。是日。大隅隼人與阿多隼人相撲於朝廷。大隅隼人勝之」
またここでは「大隅」「阿多」の両隼人グループが「朝廷」で相撲をとっており、彼らは早い段階から「倭国中央」に対して友好的であることが理解できます。つまり、「薩摩」「肥」とは異なり「大隅」「阿多」は「早期」に「倭国王権」に対して「帰順」したものと考えられるわけです。「持統紀」の「天武」の死に際しての誄にも「薩摩」「肥」の「隼人」は出てこないわけです。しかし、その「友好的」とは言えなかった地域である「薩摩」「肥」に「評督」「助督」が存在していたとされるわけですから、早くから友好的で「直」や「忌寸」などの「カバネ」を持った人物が存在していた「大隅」や「阿多」に「評督」がいなかったあるいは「評制」が施行されていなかったとは考えにくいこととなるでしょう。そう考えると『続日本紀』の「大隅国」についての以下の記事には疑いが発生することとなるわけです。
「(和銅)六年(七一三年)夏四月乙未条」「割丹波國加佐。與佐。丹波。竹野。熊野五郡。始置丹後國。割備前國英多。勝田。苫田。久米。大庭。眞嶋六郡。始置美作國。割日向國肝坏。贈於。大隅。姶良四郡。始置大隅國。」
ここでは「大隅国」の成立について「八世紀」に入ってからというように書かれている訳ですが、上に見た「大隅隼人」に対する対応からは、「大隅国」というものの成立が実はもっと早かったとしても別に不思議ではないこととなります。それはこの「大隅国」というものが「分国」であるということからも言えることです。
「分国」の場合はすでに治安その他が安定しているという前提があると思われ、それは「大隅地域」がそのような「安定さ」をすでに確立していたことを推定させるものであり、それは「斉明紀」以降継続していたものであることは確実ですが、それは「分国」そのものがもっと以前におこなわれて何ら不思議はないことも示します。
さらに『日本帝皇年代記』の「癸丑」の年(和銅六年条)の「分国」記事には「丹後国」と「美作国」の設置記事はあっても「大隅国」設置記事がありません。
「癸丑六割備前六郡始為美作国、割丹波六郡為丹後也、唐玄宗開元元年 稲荷大明神始顕現」(『日本帝皇年代記』より)
このように「大隅国」成立については触れられていないのです。このことは『続日本紀』の「大隅国」成立記事が真実なのか疑わしいこととならざるを得ないと思われます。
以上のことから、「大隅」に早い時期に「評制」が施行されていないというのははなはだ考えにくいこととなり、「評制」が施行されているとすると、その「評」は「国」の下部組織であるわけですから、その時点における「大隅国」というものの存在が強く示唆されることとなるでしょう。つまりこの記事に関しては『続日本紀』記事の「年次」には疑いがあるということとなるわけです。
「倭」から「日本」へという国号変更には、大義名分を「倭国」から継承しつつ「新王朝」であることをアピールする目的があったと見られますが、他方その変更において特に「日本」という名称が選ばれた具体的な理由づけとしては「遣唐使達」が口にしたように「倭」という名称が「雅」ではないと理解したからというのは確かにあったと思われます。その根底には「倭」というものが「倭国」が自ら名乗ったものではないと言うことが意識としてあったのではないでしょうか。
この「倭」というのは「古」から続く由緒あるものではあるものの、自称ではなく「中国」側から見てつけられた名前であると思われ、それを「倭国側」が臣従の証として採用していたと思われるものであり、そのような経緯から考えて変更することとなったものではないでしょうか。そう考えると「朱鳥」が「しゅちょう」などと言う「音」ではなく「あかみとり」と「訓」で呼ぶとされていることとつながるといえます。
この時点で「年号」も「国号」もその国の言葉で書かれまた読まれるべきであるという考え方が起きたとしても不思議はありません。これは「国風文化」の萌芽ともいえるものであり、そうであればこの時「国号」として採用された「日本」についても中国風の「音」ではなく「朱鳥」と同様」「訓」で呼んだという可能性があり、「ひのもと」と呼称したものではないかと推察されます。
そもそも「朱鳥」とは「四神」つまり「青龍」「玄武」「白虎」とならぶ「獣神」であり、「天帝」の周囲を固めるものでした。その起源は「殷代」にまで遡上するとされ、その時点では「鷲」の類であったとされますが、その後「鳳凰」やその意義を持った「雀」などの「鳥」とされるようになったものです。
(「『全唐詩』卷百六十九 李白」より)
「草創大還贈柳官迪」
「天地爲橐籥,周流行太易。造化合元符,交媾騰精魄。自然成妙用,孰知其指的。羅絡四季間,綿微無一隙。日月更出沒,雙光豈云隻。姹女乘河車,黃金充轅軛。執樞相管轄,摧伏傷羽翮。『朱鳥張炎威』,白虎守本宅。…」
(『論衡』物勢篇第十四 王充」より)
「…東方木也,其星倉龍也。西方金也,其星白虎也。『南方火也,其星朱鳥也。』北方水也,其星玄武也。天有四星之精,降生四獸之體。…」
(「『淮南子』天文訓」より)
「…南方,火也,其帝炎帝,其佐朱明,執衡而治夏;其神為熒惑,其獸朱鳥,其音徵,其日丙丁。…」
以上のような例を見ると、「朱鳥」は天球上の明るく輝く赤い星からのイメージと思われ、そこから転じて「火」や「火炎」の意義が発生したものでしょう。「五行説」でも「火」であるとされています。また、「鳳凰」は「火の鳥」ともいわれ、火の中から再生するともいわれており、「不死鳥」のイメージも併せ持っています。
位置的には「うみへび座」のアルファ星「コル・ヒドラ(別名アルファルド)」がそのイメージの原初的背景にある星ではないかと思われます。この星は二等星でありそれほど明るくはありませんが、周囲に明るい星がなくその意味では目立つ星です。また色は確かに「赤」く見えます。(天文学的には「赤色巨星」に分類されています。)
その位置する方位は「南」とされ、また「日」(太陽)に纒りつくともいわれますし、また「鳥」というものと「太陽神信仰」とは関係が深いという説もあるようです。
つまり、この「朱鳥」という年号名は「太陽」を指向したものであり、それが「日本」という国号になった時点での「年号」として選ばれた理由であると思われ、この両者には「太陽神信仰」あるいは「日神崇拝」という形で深い関係があると考えられるものです。
「中国」の歴代の史書は全て「受命」による「王朝」の交替と共に、前王朝についての「歴史」を「前史」として書いています。
『漢書』は「後漢」に書かれ、『三國志』は「晋」の時代に書かれ、『隋書』は「初唐」に書かれているわけです。そうであれば、『日本書紀』(日本紀)が書かれた理由も、「新王朝」成立という事情に関係していると考えられ、「前史」として書かれたものと推察できることとなります。それは『続日本紀』において「大宝」という年号が「建元」されたと書かれていることからもわかります。
「大寳元年三月…甲午。對馬嶋貢金。『建元』爲大寶元年。」(文武紀)
「中国」の例でも「禅譲」による新王朝創立の場合(たとえば「北周」から「隋」、「隋」から「唐」など)は「改元」であり、この「改元」の論理は「天子」が不徳の時、「天」からの意志が示された場合(天変地異が起きるなど)それを畏怖して恭順の意志を示すために「ゼロ」から再スタートする意味で「改元」するものです。そして、そのような「天」の意志に従わないとした場合は「天」は有徳な全く別の人物に「命」を下すものであり、このように「受命」を受けた場合は「建元」となります。
このようなことを考えると、「禅譲」は「天」の意志に沿っているといえ、この場合は「改元」されることとなります。つまり、「禅譲」は「前王朝」の権威や大義名分を全否定するものではないため(それは「天の意志」でもない)、「改元」は妥当な行為といえるでしょう。
たとえば『旧唐書』を見ると、「初唐」の頃に「江南地方」(旧「南朝地域」)などを中心に各所で「皇帝」を名乗り「新王朝」を始めたという記事が多く見受けられますが、それらは全て例外なく「建元」したとされています。これらの新王朝は「受命」を得たとし、新皇帝を自称して「王朝」を開いているわけですが、そのような場合には当然「建元」されることとなるわけです。このことの類推から、『日本書紀』という史書に使用されている「日本」とは「前王朝」の国号であり、それとは別に全くの新王朝として新しく「日本」が成立したと見るべきこととなります。
「前王朝」の名前を「冠」せられた史書が『日本書紀』であり『日本紀』であった、ということは「總持朝」の時代の国号が「日本国」であった、という事にならざるを得ず、「国号」が変更されたのは「總持朝」の時代であったという『旧唐書』や『新唐書』からの解析と整合することとなります。
時代は下がりますが中国の「清」の時代「鐘淵映」という人物が撰んだ書物に『歴代建元考』というものがあります。これはこの時点で知られていた国内外の「元号」について書き表したもので、その中の「外国編」の「日本」のところには以下のようにあります。
「持統天皇 吾妻鏡作總持 天智第二女天武納為后因主 國事始更號日本仍用朱鳥紀年 在位十年後改元一 太和」
つまり、彼らの「知りうる範囲の知識」では「日本」と国号を変更したのは「持統(總持)天皇」である、というわけです。この記述は上に述べた『旧唐書』に書かれた事を分析した結果と合致しており、国号変更に関する推察を補強するものです。
また、この記事では「国号変更」の時期としては「朱鳥」年号使用中(天武から引き続き)とされています。そして「紀年」つまり年次を記すのに「朱鳥」という年号を使用するというわけです。
ただし、「国号変更」が「王朝交代」などの事象を伴わないと考えるのは不可能といえるものであり、「禅譲」であるかないかを問わず「国号」変更は「新王朝」成立と深く関わる事象です。
「日本国」への国号変更が単に日の出るところに近いとか字が雅ではないからと言うようなある意味「些細」な理由で変更されるようなものではないことは常識的に考えても理解できるものでしょう。このことから「總持」の前代において「倭国王朝」にトラブルがあり、「總持」が新王朝として継承したと考えられます。これが「禅譲」であるかどうかは「改元」がどうかで判断できますが、「歴代建元考」では「朱鳥」を継続して用いるとされていますから、「禅譲」と推定できるでしょう。さらにそれに深く関係していると考えられるのが「大化」という年号の存在です。
『書紀』では「大化」は「改元」と書かれています。この「改元」という表記は上に述べたように「禅譲」という「王朝交替」を裏に含んでいることを示すと思われます。このことから、『書紀』の「大化改元」という主張は「七世紀半ば」に「旧王朝」から「新王朝」への「禅譲」が行われたという事を意味するものとも考えられますが、その際に「倭国」から「日本国」へ「国号」が変更されたとみることもできるでしょう。ただし、その場合「改元」された「年号」が「大化」であったかというと、『歴代建元考』が言うように「朱鳥」であったという可能性は否定できないと思われます。それは「倭国」から「日本国」への変更の理由として「雅」ではないと言うことが挙げられていることと、「朱鳥」という年号が、『書紀』によれば「あかみとり」という「訓読み」であるとされていることがつながっていると考えられるからです。
『新唐書』には以下のような記述があります。
「…其子天豐財立。死,子天智立。明年,使者與蝦? 人偕朝。蝦?亦居海島中,其使者鬚長四尺許,珥箭於首,令人戴瓠立數十歩,射無不中。天智死,子天武立。死,子總持立。咸亨元年,遣使賀平高麗。後稍習夏音,惡倭名,更號日本。使者自言,國近日所出,以為名。或云日本乃小國,為倭所并,故冒其號。使者不以情,故疑焉。又妄夸其國都方數千里,南、西盡海,東、北限大山,其外即毛人云。
長安元年,其王文武立,改元曰太寶,遣朝臣真人粟田貢方物。…」
この『新唐書』のこの部分は「歴代」の倭国王を列挙しながら、随時その時点(治世)に関連すると思われる「情報」を適宜挿入する形で記事が構成されています。そのようなことを踏まえると「天智」「天武」「總持」と続いたところで「咸亨元年」記事が挿入されているのが注目されます。この「咸亨元年」は「六七〇年」を意味しますから、「六六〇年代」という時点で既に「總持」(これは「持統」と思われている)まで、「代」が進行していることとなります。
また、その「挿入記事」である「咸亨元年」の「賀使」の文章中に、「後」という表現がされており、このような書き方は「年次」を表すそれ以前に書かれた「年号」や「干支」などから切り離すための文言と考えられ、それはこの「後」以降の記事が「咸亨元年」のことではないことをしめしますが、それが「いつ」なのかは明確ではないものの「長安元年」記事の前に挿入されているわけですから、「粟田真人」の遣唐使以前に別の遣唐使が派遣されているらしいと推定できます。そして、その時点で「倭国」から「日本国」への国名変更を説明していることとなると思われ、それは「總持」段階であるらしいことが理解できます。
この『新唐書』に対する理解は『旧唐書』からも裏付けられます。
『旧唐書』においても、時系列に沿って記事が構成されているのは一目瞭然であり、それによれば「国名変更」についての情報は「貞観二十二年」記事と「長安三年」記事」の間に書かれているのが改めて注目されます。つまり『新唐書』においても『旧唐書』においてもいずれも、「長安年間」の事として記された「(粟田)朝臣真人」の遣使以前に「国号変更」が伝えられていたことが推定され、「日本国」への国号変更というものが、一般に考えられているような「八世紀」に入ってからのものではないという可能性が高いと推定します。
また『新唐書』や『旧唐書』には「日の出るところに近いので」、「倭国自ら名称変更した」、「其の名が雅でないので」、「日本は旧小国であり、倭国を併合した」などと各自が答えたとされます。
重要な点は、この証言が外国史書に書かれたものであることです。「粉飾」などの心配のない情報であり、信頼性は高いと考えられます。また、聞かれて「虚偽」を答えなければならない必然性もないと考えられ、これらの証言には高い確度で「真実」が含まれているものと考えられるでしょう。また各々の答えが一見そのニュアンスが微妙に異なっているかのように見えるのが注目されるところでもあります。その答えから「倭国」から「日本国」への遷り変わりを検出してみることとします。
この「遣唐使」達が述べた「変更理由」を考察すると、「『倭国』が自ら変更した」という証言からは、「名称変更」した「倭国」は「自分たち(「遣唐使」たち)の王朝」ではない、というニュアンスを感じます。つまり自分たちとは違う「倭国」というものがあって、それが「名称変更」したものを「私たち」が継承したと理解されるわけです。
また、「『日本国』は、名称変更した『倭国』を『併合』した」と言うわけですが、このことは自分達「日本国」の王朝が「すでに名称変更して『日本国』となっていた」「倭国」を併合した、という意味合いと理解されるものであり、さらに(ここが重要なところなのですが)、「『日本』は旧小国」という表現は、現在の「日本国」の中枢をになう勢力が「元々支配していた地域」というものは、現在の「日本国」の中心地域(「畿内」)ではあるが、それは本来は「倭国」の内包する「諸国」のひとつであったものであり、「大義名分」のある国ではなかった、と言う事を意味すると思われるのです。つまり「現在の」「畿内」は「倭国」が「倭国」として存在していた時代には「旧小国」でしかなかった地域である、と言っていると考えられるわけです。
以上のことは、「倭国」がその「首都」を移動したこと。移動した先が「旧小国」であった地域であること。移動した時点か或いはその前に「倭国」から「日本国」へ国号が変更されたこと。その「日本国」は「遷都した先に存在していた旧小国」に「併合」されてしまったこと。「倭国」から「日本国」への「国号」の変更と、「倭国」の地を「旧小国」が併合する(つまり「権力」及び「大義名分」の移動)には「時間差」があること、等々を意味していると考えられます。
「併合」というような事態が発生するためには「倭国(日本国)」において「血筋」が絶えるような重大な事由が発生したと見るべきであり、そのため有力な諸国王の一つであった「近畿王権」に「大義名分」が移動するという事となったと推定できるでしょう。
つづいて「日本」という国号と「朱鳥」年号について考察します。
つまり「大宝律令」の中に「呉音」が存在していると思われるわけです。この「大宝律令」は「七〇一年」に出されたとされますが、少なくとも、「律令」が「施行」される前に「公布」されなければならず、「公布」されるためには律令の「研究」がされなければなりません。そうするとかなりの準備期間が想定されますが、研究が始められたときから「公布」に至る期間、使用されていた漢字の発音(「音」)は「呉音」であったと思われます。
従来の常識で言うと「漢音」の導入は「八世紀」に入ってから派遣された「遣唐使」が持ち帰った知識や資料によるとされていますから、時間的推移から考えても「大宝律令」は「呉音」で書かれていたと考えざるを得ない事となります。(例えば、「宮内省」を「くないしょう」と呼び「きゅうだいせい」とは呼ばないなど、「大宝令」により制定された「各省」の名前なども「呉音」で発音されていたものです。)
ところが、他方それと矛盾すると思われるのが「音博士」として王権内に存在していたと考えられる例の二人の「唐国人」である「続守言」と「薩弘烙」です。
彼等は「書紀」では「白村江の戦い」で捕虜になったとされています。それ以降「唐文化」の担い手として王権内に存在していたと想定されていますが、彼等がいたにも関わらず「呉音」しか知らなかったなどと言うことは考えられないことです。
「書紀」が「漢音」つまり「中国」の「北方音」で書かれているのは「森博達氏」の研究により明らかになっており、そうならば「大宝令」も必ず「漢音」で書かれたはずでしょう。なぜなら「書紀」の基本部分は(これは「α群」と呼称される)は「持統紀」にすでに書かれていたものと推定されており、そうであるなら「大宝令」に先行することとなるからです。少なくともこれらは同時期に書かれていて不思議はないこととなりますが、にも関わらず「大宝令」は「呉音」で書かれ、また「南朝系条句」をその中に含んでいたとされます。これは「矛盾」であるといえるでしょう。
既に述べたように「書紀」及び「続日本紀」の中には「唐」の二代皇帝「太宗」の諱に使用されていた「世」と「民」が「諱字」として全く避けられていないことが明らかとなっており、また「百済」をめぐる戦いの後倭国にやってきた「郭務宋」や「劉徳」の帰国に「続守言」「薩弘烙」の両人は同行しなかったと見られます。このことから彼らは「捕虜」として「倭国」に来たものではなくまたその時期も「太宗」の存命中のことではなかったかと推定しました。それを補強するものがこの「呉音」と「南朝系条句」の存在です。
彼等「続守言」達は「音博士」という職掌でしたから、間違いなく「呉音」を撤廃し「漢音」を導入するのに主たる役割を負っていたものとおもわれますが、彼等が存在していたにも関わらず「大宝令」とそれを元に作られた「王権」が「呉音」で埋め尽くされていたこととなってしまうのです。しかも「続日本紀」には「撰定律令」を担当した人物として当の本人である「薩弘恪」の名が挙げられているのです。
「(七〇〇年)四年六月甲午条」「勅淨大參刑部親王。直廣壹藤原朝臣不比等。直大貳粟田朝臣眞人。直廣參下毛野朝臣古麻呂。直廣肆伊岐連博得。直廣肆伊余部連馬養。勤大壹『薩弘恪』。…撰定律令。賜祿各有差。」
このことは「矛盾」の最たるものであり、「薩弘恪」が本当に「律令撰定」に関与したなら、「漢音」で「律令」が書かれたはずであり、そうでないことがこの記事の信憑性に疑いがもたらすものです。
事実としては「大宝令」には「漢音」が使用されず、また「武徳律令」を「範」としているとみられることから、彼等が「音博士」という役職に就く以前に「大宝令」はすでに作られていたという考えに傾かざるを得ないものです。つまり先の想定に拠れば「大宝令」とそれに先行する「浄御原朝廷制」なるものは「白村江の戦い」の以前に制定されたこととなりますから、その意味では「続守言」「薩弘恪」の両者の来倭時期とも整合するといえるでしょう。
またそのことは「天智紀」に「御史大夫」という職掌について「今の大納言か」という注が書き込まれており、また直後から文中に「御史大夫」ではなく「大納言」が使用されていることからも推定できます。
「御史大夫」は「始皇帝」の作った制度ですが、「後漢」の「光武帝」により廃止されたものです。この「御史大夫」を官職名として採用しているという「天智」の自己意識がどこにあるかもまた興味あるところですが、ここで「大納言」という官職名が出てくることにも注目です。この「大納言」の原型である「納言」は「隋」の「高祖」が「隋」建国後「官職名」として採用したものですが、その後「唐」の「高祖」により「武徳三年」に「侍中」に改められました。その後「武則天」の時代にまた復活したものです。
この経緯を考えると、「天武」「持統」治世期間には「遣唐使」が(正式には)送られていないことを考えると、彼らが「武則天」の政策に精通していたとも考えられず、「納言」については「唐」の制度を真似たものではなく、それ以前の「隋」の制度を真似たものという可能性が高いでしょう。そうであればその主役となったものは「遣隋使」であると考えざるを得ず、彼らからの情報が生きた制度として活用されたとすると、せいぜい「七世紀前半」程度までしか下ることができないことは間違いありません。
「書紀」で「大」「中」「少」という前置語なしで単独で「納言」として出てくるのは「天武紀」であり(以下の記事)、それは「浄御原律令」というものに「隋制」が大きな影響を及ぼしていることの証左と思われますが、他方それは「天武紀」の本来の年次が「七世紀前半」へと遡上する可能性を含んでいることを示すものです。
「(天武)九年(六八〇年)秋七月甲戌朔。…戊戌。納言兼宮内卿五位舎人王病之臨死。則遣高市皇子而訊之。明日卒。天皇大驚。乃遣高市皇子。川嶋皇子。因以臨殯哭之。百寮者從而發哀。」
「(持統)元年(六八七年)春正月丙寅朔。皇太子率公卿百寮人等適殯宮。而慟哭焉。納言布勢朝臣御主人誄之。禮也。誄畢。衆庶發哀。次梵衆發哀。於是奉膳紀朝臣眞人等奉奠。々畢膳部。釆女等發哀。樂官奏樂。」
「大宝令」は「続日本紀」において「大略以淨御原朝庭爲准正」という表現がされており、その「淨御原朝庭(律令)」が「開皇律令」を「範」としているらしいことと、既に述べた「浄御原朝庭」あるいは「浄御原天皇」というものが、(少なくとも)「七世紀半ば」の時代あるいはそれ以前の時代や倭国王を指すということを考え合わせると、「大宝令」とその前代の律令である「浄御原律令」の制定は「七世紀前半」が想定されるものであり、そうであれば「唐人」の指導等がなかったこととなりますから、多くの「呉音」が含まれることも当然といえることとなるでしょう。