古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

道光律師と浄御原天皇

2014年11月03日 | 古代史
 「鎌倉時代」の僧である「凝然」が書いた「三国仏法伝通縁起」に「道光」という「僧」についての事績が書かれています。

「三国仏法伝通縁起(下巻)」
「…天武天皇御宇。詔道光律師為遣唐使。令学律蔵。奉勅入唐。経年学律。遂同御宇七年戊寅帰朝。彼師即以此年作一巻書。名依四分律鈔撰録文。即彼序云。戊寅年九月十九日。大倭国(一字空き)浄御原天皇大勅命。勅大唐学問道光律師。選定行法。(已上)奥題云。依四分律撰録行事巻一。(已上)(一字空き)浄御原天皇御宇。已遣大唐。令学律蔵。而其帰朝。定慧和尚同時。道光入唐。未詳何年。当日本国(一字空き)天武天皇御宇元年壬申至七年戊寅年者。厥時唐朝道成律師満意懐素道岸弘景融済周律師等。盛弘律蔵之時代也。道光謁律師等。修学律宗。南山律師行事鈔。応此時道光賷(もたらす)来所以然者。…」

 この記述には疑問とするべき点がいくつかあります。まず「天武天皇」の時代に「遣唐使」が送られたという記述が「書紀」にないことです。しかもここに書かれた「道光」という人物は「白雉年間」の遣唐使として派遣されたという記事が「書紀」にあります。

「(白雉)四年(六五三)夏五月辛亥朔壬戌 發遣大唐大使小山上吉士長丹 副使小乙上吉士駒 駒更名絲 學問僧道嚴 道通 『道光』 惠施 覺勝 弁正 惠照 僧忍 知聰 道昭 『定惠 定惠内大臣之長子也』 …」

 これによれば彼が派遣されたのは「孝徳」の時代のことと思われ、「天武」の時代ではなかったと見られます。またそれを示すように上の「三国仏法伝通縁起(下巻)」中では「定慧和尚同時。道光入唐。未詳何年。」とも書かれており、「定慧(定惠)」と同時に入唐したとされている訳ですが、そのことも「白雉年間」の記事と合致しています。
 しかし、「三国仏法伝通縁起(下巻)」によれば、「道光」が帰国後著した「一巻書」として「依四分律鈔撰録文」という「戒律」に関する「書」があり、その「序」として「浄御原天皇大勅命。勅大唐学問道光律師。選定行法。」とあったとされていますから、この文章も「書紀」とは合致しないものです。
 また「帰国」については「戊寅年」とあり、これは「六七八年」と推定される訳ですが、これは「天武七年」にあたり、もし彼の派遣が「天武」の治世期間のことであったとすると「派遣」から帰国まで「七年以内」であったこととなります。しかし、これは当時の「仏教」の修学の年限としてはかなり短いのではないでしょうか。
 この時入唐が同時であった「定慧(定惠)」の場合、「書紀」に引用された「伊吉博徳言」によれば「乙丑年」に「劉徳高」の来倭に便乗して帰国したこととなっています。

「伊吉博徳言 學問僧惠妙於唐死 知聰於海死 智國於海死 智宗以庚寅年付新羅舩歸 覺勝於唐死 義通於海死 『定惠以乙丑年付劉高等舩歸』 …。」

 この「乙丑年」は「六六五年」であるとされ、この場合「十二年間」の滞在となりますが、少なくともこのぐらいは修学の年限として必要であったと思われます。
 このことについては、「凝然」自身も「不審」を感じているようであり、そのため「道光入唐。未詳何年。」としているわけです。つまり記述にもあるように「天武元年」以降「七年」までのどこかであるとは思っているものの、そのような記録は「書紀」と整合しないことを知っていたものと思われます。
 「書紀」で「遣唐使」として「道光」と名が出てくるのが「孝徳紀」であり、そこに「入唐」した日付等が書かれているにも関わらず、「未詳」としているのは、「孝徳紀」の記録に気づいてなかったと云うことも有り得るかも知れませんが、知っていて「無視」したとも考えられます。それは「道光」の書いた「序」に「浄御原天皇」とあることを重視したからではないかと考えられるでしょう。これに注目した結果「孝徳紀」の「道光」について念頭から外したのかも知れません。(「別人」とでも考えたとも考えられます。)
 しかし、実際には彼は「白雉年間」に派遣されたものであり、その時点の「倭国王」を「浄御原天皇」と呼称していることとなります。
 ところで、「書紀」を見ると「浄御原」の宮号は「朱鳥」改元とリンクしていますから、このことは「朱鳥」という年号についても「七世紀半ば」に遡上する可能性を含んでいます。

 「秋七月己亥朔…戊午。改元曰朱鳥元年。朱鳥。此云阿訶美苔利。仍名宮曰飛鳥淨御原宮。」(天武紀朱鳥元年(六八六年))

 ただしこの文章は意味が通じていないことで有名です。「朱鳥」という改元とそれを「あかみとり」と訓読みすることと「宮号」が「飛鳥浄御原」と名付けられたことの間には何の関係もないように感じられます。これは何を意味するものでしょうか。
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「此後遂絶」(続き)

2014年11月01日 | 古代史

 前の記事では『隋書』のうち特に「夷蛮伝」を含む「列伝」の成立が「貞観十年付近」であり、この時点まで「遂絶」と書かれた国については国交回復がなされていなかったという可能性を考えました。その可能性を強く示唆するものが「中国側史料」において「高表仁」の「来倭」の年次に複数の説があることです。
 「高表仁」の派遣時期については『旧唐書』では「貞観五年」(六三一年)となっているのに対して、『唐会要』では「貞観十五年」(六四一)であり、『冊府元亀』だと「貞観十一年」(六三七年)となっているなど史書によりバラつきがあります。また記事内容についても「高表仁」と「禮」を争った相手が『旧唐書』だけが倭国「王」ではなく、「王子」となっているなど明らかに違いが見受けられます。

「貞觀五年(六三一年)、遣使獻方物。大宗矜其道遠、勅所司無令歳貢、又遺新州刺史高表仁持節往撫之。表仁無綏遠之才、與王子爭禮、不宣朝命而還。至二十二年(六四八年)又附新羅奉表、以通往起居。」(『旧唐書』「東夷伝」)

「貞觀十五年(六四一年)十一月。使至。太宗矜其路遠、遣高表仁持節撫之。表仁浮海、數月方至。自云路經地獄之門。親見其上氣色蓊鬱。又聞呼叫鎚鍛之聲。甚可畏懼也。表仁無綏遠之才。與王爭禮。不宣朝命而還。由是復絶。」(『唐會要』巻九十九 倭國)

「唐高表仁、太宗時為新州刺史。貞觀十一年(六三七年)十一月、倭國使至、太宗矜其路遠、遣表仁持節撫之。浮海數月方至。表仁無綏遠之才、與其王爭禮、不宣朝命而還、由是復絶。」(『冊府元亀』六六四 奉仕部(十三)失指 高表仁)
  
 『隋書』の記事内容とその編纂に関わる年次の推定から「貞観十年付近」までは国交回復がされていなかったとみたのですから、少なくとも『旧唐書』の示す日付が正しいという可能性はかなり低くなるでしょう。
 これについては『唐会要』でも『冊府元亀』でも末尾に「由是復絶」と書かれており、これは絶えていたものが一度復活したものの「これ」つまり「高表仁」の起こした事件によって再び絶えたという意味に受け取ることができます。このことから「高表仁」来倭の契機となったこの前年の「倭国」からの「遣唐使」は「国交回復」のための使者であったことが知られ、このことからも「使者」の派遣は「貞観十年」付近よりも後であろうと考えられることとなります。
 
 ところで『書紀』には「高表仁」の来倭記事の前年のこととして「百済」の「義慈王」から子供の「扶余豊」(豊章)という人物の「来倭」(実質的には人質)記事が置かれています。つまり「高表仁」の「来倭」記事と「扶余豊」の「人質」記事は年次として連続しているわけであり、一連のものとして考えるのが正しいと思われますが、それは「扶余豊」の「人質」の年次としても「貞観十年」を下る時期が想定できることを示しています。
 つまり『隋書』の記事の考察からは「扶余豊」の来倭は『書紀』に書かれたような「六三一年」ではなく「11年」程度下った「六四二年」付近であるという可能性が高いと思われることとなります。
 それは同じ「六四二年」のこととして「百済」の「義慈王」と「高句麗」の「淵蓋蘇文」との間に「麗済同盟」が締結されていることからも窺えます。このような軍事的な行動の裏には「倭国」との関係をある程度良好なものにしたという背景があったと考えられ、それはほぼ同時期に「義慈王」の「王子」を「倭国」に質に入れていたとすると良く理解できるものであり、「扶余豊」の「来倭」が「六四二年付近」と推察した場合に合理的な理解が得られることとなるものです。

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