キクさんにとって、大空に続く人生の第二幕は大地との格闘、開拓だった。
1938年今度は、上里町の近くの神保原村の青年と結婚、当時はやりの満蒙開拓団の一員として、「満州国埼玉村開拓団」に入植した。
「空の女王」から「開拓地の花嫁」への転進は、全国を驚かせ、大きなニュースとなった。
冬は零下30度まで下がる極寒のなか、匪賊(盗賊)の来襲などの厳しい生活の中で、国民小学校の開校で小学校の教師も務め、開拓地の子供たちの一年を記録した満州映画「開拓団の子供」にも出演した。
現地で夫を病気で失い、再婚して、在満国民学校の教師も務めた。
再婚相手は終戦の11日前に出征してシベリアに抑留された。乳飲み子の長男を抱え、苦難の帰国の途中、奉天(現・瀋陽市)の収容所で肺炎で失くした。
1946(昭和21)年6月9日、埼玉県庁にたどり着いた開拓団員は、出発時の492人中わずか133人に過ぎなかった。残りは長男同様、満州の地に果てた。満蒙開拓団の悲劇である。
それでも開拓への意欲は衰えず、鴻巣市間室中学校の教員のかたわら48年に地元の「七本木開拓地」に入植して、再び鍬を振るった。七本木中で教員、七本木小学校で教頭も務めた。
土壌が酸性で、必ずしも開拓向きの土地ではなかったものの、54年に夫が帰国すると教員を退職、農業に専念した。
その体験を書いた「酸性土壌に生きる(開拓15周年記念体験記)」は61年、農林大臣賞を受けた。
75年には、メキシコシティで開かれた国際婦人年の世界大会に参加、自伝「紅翼と拓魂の記」を出版した。
この本は、さいたま市の県立図書館にあるので、開いてみると、小説家はだしの筆さばきで、相当な文才の持ち主だったことが分かる。
76年に放映されたNHKの朝の連続ドラマ「雲のじゅうたん」は、飛行家という夢に向かって奮闘するヒロインの姿を描き、平均視聴率は40.1%、最高視聴率は48.7%だったというから、その人気がしのばれる。
キクさんはそのモデルの一人とされた。兵頭精さんももちろん、モデルの一人である
日本婦人航空協会理事としても活躍した。1979年、脳溢血で波乱の人生を終えた。66歳だった。
今流に言えば、「飛んでる女」だったキクさんの人生を振り返ると、飛行士時代の墜落、不時着、開拓時代の満州からの引き揚げの危機を生き延び、人生を全うできたのは、つくづく運に恵まれた女性だったことが分かる。
まさしく「紅翼」と「拓魂」に対する挑戦の意欲がその危機を乗り越えさせたのであろう。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます