かくて嫡子摂津守頼光の代となりて、不思議様々多かりけり。中にも一つの不思議には、天下に人多く失する事あり。死しても失せず。座敷に連なりて集り居たる中に、立つとも見えず、出づるとも見えずして掻き消す様にぞ失せにける。行末も知らず、在所も聞えずありければ、怖しといふばかりなし。上一人より下万民に至るまで、騒ぎ恐るる事申すに及ばず。
これを委しく尋ぬれば、嵯峨天皇の御宇に、或る公卿の娘、余りに嫉妬深うして、貴船の社に詣でて七日籠りて申す様、「帰命頂礼貴船大明神、願はくは七日籠もりたる験には、我を生きながら鬼神に成してたび給へ。妬しと思ひつる女取り殺さん」とぞ祈りける。明神、哀れとや覚しけん、「誠に申す所不便なり。実に鬼になりたくば、姿を改めて宇治の河瀬に行きて三七日漬れ」と示現あり。女房悦びて都に帰り、人なき処にたて籠りて、長なる髪をば五つに分け五つの角にぞ造りける。顔には朱を指し、身には丹を塗り、鉄輪を戴きて三つの足には松を燃やし、続松を拵へて両方に火を付けて口にくはへ、夜更け人定りて後、大和大路へ走り出で、南を指して行きければ、頭より五つの火燃え上り、眉太く、鉄ぐろにて、面赤く身も赤ければ、さながら鬼形に異ならず。これを見る人肝魂を失ひ、倒れ臥し、死なずといふ事なかりけり。斯の如くして宇治の河瀬に行きて、三七日漬りければ、貴船の社の計らひにて、生きながら鬼となりぬ。宇治の橋姫とはこれなるべし。
さて妬しと思ふ女、そのゆかり、我をすさむ男の親類境界、上下をも撰ばず、男女をも嫌はず、思ふ様にぞ取り失ふ。男を取らんとては女に変じ、女を取らんとては男に変じて人を取る。京中の貴賤、申の時より下になりぬれば、人をも入れず、出づる事もなし。門を閉ぢてぞ侍りける。
その頃摂津守頼光の内に、綱、公時、貞道、末武とて四天王を仕はれけり。中にも綱は四天王の随一なり。武蔵国の美田といふ所にて生れたりければ、美田源次とぞ申しける。
一条大宮なる所に、頼光卿が用事ありければ、綱を使者に遣はさる。夜陰に及びければ鬚切を帯かせ、馬に乗せてぞ遣はしける。彼処に行きて尋ね、問答して帰りけるに、一条堀川の戻橋を渡りける時、東の詰に齢二十余りと見えたる女の、膚は雪の如くにて、誠に姿幽なりけるが、紅梅の打着に守懸け、佩帯の袖に経持ちて、人も具せず、只独り南へ向いてぞ行きける。綱は橋の西の詰を過ぎけるを、はたはたと叩きつつ、
「やや、何地へおはする人ぞ。我らは五条わたりに侍り、頻りに夜深けて怖し。送りて給ひなんや」と馴々しげに申しければ、綱は急ぎ馬より飛び下り、
「御馬に召され侯へ」と言ひければ、
「悦しくこそ」と言ふ間に綱は近く寄つて女房をかき抱きて馬に打乗らせて堀川の東の詰を南の方へ行きけるに、正親町へ今一二段が程打ちも出でぬ所にて、この女房後へ見向きて申しけるは、
「誠には五条わたりにはさしたる用も侯はず。我が住所は都の外にて侯ふなり。それ迄送りて給ひなんや」と申しければ、
「承り侯ひぬ。何く迄も御座所へ送り進らせ侯ふべし」と言ふを聞きて、やがて厳しかりし姿を変へて、怖しげなる鬼になりて、
「いざ、我が行く処は愛宕山ぞ」と言ふままに、綱がもとどりを掴みて提げて、乾の方へぞ飛び行きける。綱は少しも騒がず件の鬚切をさつと抜き、空様に鬼が手をふつと切る。綱は北野の社の廻廊の星の上にどうと落つ。鬼は手を切られながら愛宕へぞ飛び行く。
さて綱は廻廊より跳り下りて、もとどりに付きたる鬼が手を取りて見れば、雪の貌に引替へて、黒き事限りなし。白毛隙なく生ひ繁り銀の針を立てたるが如くなり。これを持ちて参りたりければ、頼光大きに驚き給ひ、不思議の事なりと思ひ給ひ、
「晴明を召せ」とて、播磨守安倍晴明を召して、
「如何あるべき」と問ひければ、
「綱は七日の暇を賜りて慎むべし。鬼が手をば能く/\封じ置き給ふべし。祈祷には仁王経を講読せらるべし」と申しければ、そのままにぞ行なはれける。
既に六日と申しけるたそがれ時に、綱が宿所の門を敲く。
「何くより」と尋ぬれば、
「綱が養母、渡辺にありけるが上りたり」とぞ答へける。彼の養母と申すは、綱が為には伯母なり。人して言ふは、悪しき様に心得給ふ事もやとて、門の際まで立出でて、
「適々の御上りにて侯へども、七日の物忌にて候ふが、今日は六日になりぬ。明日ばかりは如何なる事候ふとも叶ふまじ。宿を召され候ふべし。明後日になりなば、入れ参らせ候ふべし」と申しければ、母はこれを聞きてさめざめと打泣きて、
「力及ばぬ事どもなり。さりながら、和殿を母が生み落ししより請取りて、養ひそだてし志いかばかりと思ふらん。夜とて安く寝ねもせず。濡れたる所に我は臥し、乾ける所に和殿を置き、四つや五つになるまでは、荒き風にも当てじとして、いつか我が子の成長して、人に勝れて好からん事を見ばや、聞かばやと思ひつつ、夜昼願ひし甲斐ありて、摂津守殿御内には、美田源次といひつれば、肩を並ぶる者もなし。上にも下にも誉められぬれば、悦とのみこそ思ひつれ都鄙遼遠の路なれば、常に上る事もなし。見ばや見えばやと、恋しと思ふこそ親子の中の欺きなれ。この程打ち続き夢見も悪しく侍れば、覚束なく思はれて、渡辺より上りたれども、門の内へも入れられず。親とも思はれぬ我が身の、子と恋しきこそはかなけれ」綱は道理に責められて門を開きて入れにけり。母は悦びて来し方行く末の物語し、
「さて七日の斎と言ひつるは何事にてありけるぞ」と問ひければ、隠すべき事ならねばありの儘にぞ語りける。母これを聞き、
「扨は重き慎みにてありけるぞや。左程の事とも知らず恨みけるこそ悔しけれ。さりながら親は守りにてあるなれば別の事はよもあらじ。鬼の手といふなるは何なる物にてあるやらん、見ばや」とこそ申されけれ。綱、答へて曰く、
「安き事にて侯へども、固く封じて侍れば、七日過ぎでは叶ふまじ、明日暮れて侯はば見参に入れ侯ふべし」
母の曰く、
「よしよし、さては見ずとても事の欠くべき事ならず。我は又この暁は夜をこめて下るべし」と恨み顔に見えければ、封じたりつる鬼の手を取り出だし、養母の前にぞ置きたりける。母、打返し打返しこれを見て、
「あな怖しや。鬼の手といふ物はかかる物にてありけるや」と言ひてさし置く様にて、立ちざまに
「これは我が手なれば取るぞよ」と言ふままに恐ろしげなる鬼になりて、空に上りて破風の下を蹴破りて虚に光りて失せにけり。それよりして渡辺党の屋造りには破風を立てず、東屋作りにするとかや。綱は鬼に手を取返されて、七日の斎破るといふとも、仁王経の力に依て別の子細なかりけり。この鬚切をば鬼の手切りて後、「鬼丸」と改名す。
同年の夏の頃、頼光瘧病を仕出だし、如何に落せども落ちず。後には毎日に発りけり。発りぬれば頭痛く、身ほとぼり、天にもつかず地にもつかず、中にうかれて悩まれけりか様に逼迫する事三十余日にぞ及びける。或る時又大事に発りて、少し減に付きて醒方になりければ、四天王の者ども看病しけるも、皆閑所に入りて休みけり。頼光少し夜更け方の事なれば、幽かなる燭の影より、長七尺ばかりなる法師するすると歩み寄りて、縄をさばきて頼光に付けんとす。頼光これに驚きて、がばと起き、
「何者なれば頼光に縄をば付けんとするぞ。悪き奴かな」とて、枕に立て置かれたる膝丸おつ取りて、はたと切る四天王ども聞きつけて、我も我もと走り寄り、
「何事にて候ふ」と申しければ、しかじかとぞ宣ひける。灯台の下を見ければ血こぼれたり。手々に火を炬して見れば、妻戸より簀子へ血こぼれけり。これを追ひ行く程に、北野の後に大きなる塚あり。彼の塚へ入りたりければ、即ち塚を掘り崩して見る程に、四尺ばかりなる山蜘蛛にてぞありける。搦めて参りたりければ、頼光
「安からざる事かな。これ程の奴に誑かされ、三十余日悩まさるるこそ不思議なれ。大路に曝すべし」とて、鉄の串に刺し河原に立ててぞ置きける。これより膝丸をば「蜘蛛切」とぞ号しける。
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jikan314
sakura
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