サステナブル(Sustainable)とは、本来は「維持できる」「耐えうる」「持ちこたえられる」を意味する形容詞です。 ただし近年は、地球環境の持続可能性、人間社会の文明・経済システムの持続可能性の意味や概念として一般的に用いられるようになりました。
漠然と温暖化問題のように完全な理論が形成される前に『二酸化炭素が悪い』と決め付けて問題視するけど実際には何も対策出来ないでいるような騒ぎとそれに伴う対策がアンバランスな状況だけが健全な状況を蝕んでいます。
そもそもアフリカなどに多く見られた飢餓や貧困は非計画的な問題で、温暖化のような漠然とした騒ぎではありません。
食糧問題以前に人口抑制が出来ていませんから。
それに旱魃に耐えられる農業すら、治水すら計画的ではありませんよね。
その一方で全てに公平にするような考えから昨日もテレビでやっていた昆虫食みたいに西側のマスコミはおかしな思想に取り憑かれていますよね。
基本そんな事は不可能以前にそんな馬鹿げた事をやりたいなら、マスコミ関係者のパーティでやればどうなんだろうか?
番組の打ち上げに昆虫食どころか虫を食べるイベントにして実際にこの前の打ち上げの時に階段から落ちたみたいに世間から疎外されれば気がつくのではないか?
実際の問題で本当に対策しなければならないような問題とは別にマスコミが勝手に作り出すような騒ぎはむしろ危険でしかない。
温暖化で線状降水帯のような現象への対策とか必要なのにそう言うのは騒がないで不要な事ばかり次から次へと馬鹿を晒すのはやはりその流れを嘘でも騒いでおきたい状況なのだろう。
世紀末思想が心理的な不安から短絡的にアナキーな世界観へと誘うように、そのアンチテーゼのサステナブルを煽るのも短絡的に非科学的な世界観への落とし穴になり兼ねない。
テレビはこれまでも幽霊とか占いとかUFOとかツチノコとか騒げるような現象で視聴率を取得するのを躊躇わなかった。
結果として、淘汰された物もあるとしてもその系譜は結局温暖化や食糧問題などの漠然とした話題のベースになっているのかと思う。
根拠はハッキリしないが皆んなして怯えてそれが恰も大問題のように振る舞う。
しかしながら、本当の問題はそんな事で解決するはずもない、まともに人口抑制や経済開発の中での緑化や環境対策、それにきちんとした計画に基づく省エネや代替化なのだろう。
安直な人達相手の怯え雰囲気が通用したのは同調する可愛さ、けなげさを求めていたに過ぎない。
実際に持続可能な話をするなら、より具体的にしかも計画的に行い、効果を測定して成果へと導く為にそれなりに厳しい話です。
例えば、少子高齢化の日本を元のようなピラミッド型の人口構造に戻すのに何が必要で具体的にどうするのかみたいなのでしょう。
ところがそれをサステナブルと呼ばないどころか重要でもない方を騒ぐだけのマスコミ関係者ってイカれていますよね。
戦後の左派で本気で革命に没頭していた一部の暴力的な組織の人達のように世間とは相容れない思想に近い考えがマスコミ界の土壌にあるので仕方ないのかと諦め顔です。
共産主義思想もそうなんですが、現実に国家として実践すれば問題点が挙げられるようにサステナブルな社会を実施すればそこにもまた違う問題が内在するんでしょう。
持続可能な社会と言う前に今起きている事柄を止めないといけない方が優先されていてもそれを取り上げられるだけの状況にないのも分かっているはず。
具体的な話をするに堪えないから、避けてでもそれに至るほど社会は冷たく、かつその象徴的なのはマスコミなのです。
形式的には今消えていく者へと提言しているようには見えても実際には競争と知名度を高めさす宣伝等で販売競争を煽っていますよね。
それに多様な価値でネタを振るから同業他社でなくても個々の宣伝同士も顧客の取り合いになります。
ですが、一番に問題なのはこれまで先進国の援助支えられてきた開発途上国の問題でこれには国連も相当に関与している。
それで国連の出す概念や目標が曖昧かつ全体的な負担にならなかったから、開発途上国に変な誤解をさせている。
その誤解は開発途上国も先進国のようになる事が幸福なように思う価値観でそれを真顔でそうなるんだと信じている。
ところが、現実には新興国がそうだったように決してそのように上手くもいかないし、かつそれぞれの国の事情はある。
それを考慮しないような考え方が闊歩するからサステナブルと言うような概念先行は危険なのである。