Cokoが興奮して帰って来ました。
サンフランシスコの沖縄県人会に行き、今日は凄い人たちに会ってきた!。
Cokoは、対馬丸の生存者のマリア、宮城さん(80歳)御夫婦とお会いしたそうです。
宮城さんから直接に対馬丸撃沈の時のお話は、涙なしではきけない。宮城さんの著書を私に読んで欲しいとCokoから渡されました。
執筆の手を休めて、一晩がかりで読み上げましたが、対馬丸撃沈の日が1944年、8月22日で、私の誕生日と同じ日だったので、ビックリしました。
私がこの世に誕生したときに、対馬丸で大勢の人が亡くなったことを思うと、亡くなった方の冥福をお祈りすると共に、戦争の悲劇を繰り返さない世界へ向けてメッセージを送り続けなければと思いました。
宮城さんの著書「対馬丸の悲劇」には、まだ当時14歳という年齢とは思われないような、勇敢な行動力は、霊感に導かれているとしか思えない迫力を感じたくらいです。
マリアさんは、撃沈される直前には、なぜか甲板にいて、海に飛び込んだために,筏に救助されたこと。
漂流4日目には、守護霊が現れ、すぐに救助隊が来ますというお告げをもらわれたそうです。
お告げの通りに救助されました。
宮城さんは、霊感が強い方だそうです。
対馬丸の悲劇からすぐ後には、東京大空襲にも遭われていますが、二重の大惨事の中で奇跡的に生存されました。
Cokoが言うには、「マリアさんは素晴らしいオーラーを発してしてありました。めったにない出会いをさせてもらった」と、興奮していました。
いつか宮城さんにお会いする機会があれば、彼女のオーラーを感じてみたいですね。
霊感を磨くことは、今のこの時代の危機管理にも必要ではと思いました。
「対馬丸の悲劇」自費出版/生存者マリア宮城・バートラフさん1999年12月18日
1944年、米潜水艦の攻撃を受け沈没、1484人の学童らが犠牲になった学童疎開船「対馬丸」の生存者、マリア宮城・バートラフさん(68)が近く、撃沈時のすさまじい混乱の様子や、漆黒のやみ夜の中を漂流した恐怖を克明に描いた体験記「学童疎開船・対馬丸の悲劇」を自費出版する。宮城さんは現在、米国カリフォルニア州在。
対馬丸沈没で、弟、祖母ら身内三人を失った悲しみを乗り越え、「思い出すたびに、あふれ出る涙をこらえながら」(宮城さん)体験を書きつづった。宮城さんは「対馬丸の悲劇の真相を後生に伝えるのは生き残った者の義務。(体験記を通して)平和の大切さと戦争の悲惨さを知ってもらいたい」と話している。
宮城さんは現在、出版準備のため宜野湾市の実家に滞在しており、体験記は来年1月15日に発刊される予定だ。
宮城さんは国頭村生まれ。県立第三高等女学校2年の14歳の時、11歳の弟ら身内五人と対馬丸に乗り、船は撃沈された。宮城さんは4日間にわたる漂流の末、海軍の駆逐艦に救助された。
体験記には、魚雷が命中して沈没するまでの子ども、老人らの絶叫や、家族を求めて泣き叫ぶ様子、「食べず、飲まず、眠らず、冷え切った心身」(宮城さん)の漂流状況下で、サメの大群が襲い掛かり、悲鳴を上げながら人々が海に引きずり込まれていく悲惨な情景などが克明に記されている。宮城さんは「あの悲惨な体験だけは、50年以上たった今でも、目と耳にはっきりと焼き付いている。
思い出すたびに悲しくて、原稿用紙が涙でびしょびしょになった」と唇をかみ締めながら語った。
弟の壮吉さんとは、魚雷が命中する直前に「静かに寝なさい」と言葉を交わしたのが最後になった。壮吉さんは当時11歳。
体験記を書くきっかけになったのは、サンフランシスコの日系人を中心に読まれている「日米タイムス」に対馬丸の体験を書いたこと。
読者に大きな反響を呼び、「詳しく知りたい」という投書が相次ぎ、宮城さんに悲しみを乗り越えながら書く決意を固めさせた。宮城さんは「犠牲になった方々の死を無駄にだけはしてはいけない。生きている限り平和の大切さを訴え続けたい」と語った。
サンフランシスコの沖縄県人会に行き、今日は凄い人たちに会ってきた!。
Cokoは、対馬丸の生存者のマリア、宮城さん(80歳)御夫婦とお会いしたそうです。
宮城さんから直接に対馬丸撃沈の時のお話は、涙なしではきけない。宮城さんの著書を私に読んで欲しいとCokoから渡されました。
執筆の手を休めて、一晩がかりで読み上げましたが、対馬丸撃沈の日が1944年、8月22日で、私の誕生日と同じ日だったので、ビックリしました。
私がこの世に誕生したときに、対馬丸で大勢の人が亡くなったことを思うと、亡くなった方の冥福をお祈りすると共に、戦争の悲劇を繰り返さない世界へ向けてメッセージを送り続けなければと思いました。
宮城さんの著書「対馬丸の悲劇」には、まだ当時14歳という年齢とは思われないような、勇敢な行動力は、霊感に導かれているとしか思えない迫力を感じたくらいです。
マリアさんは、撃沈される直前には、なぜか甲板にいて、海に飛び込んだために,筏に救助されたこと。
漂流4日目には、守護霊が現れ、すぐに救助隊が来ますというお告げをもらわれたそうです。
お告げの通りに救助されました。
宮城さんは、霊感が強い方だそうです。
対馬丸の悲劇からすぐ後には、東京大空襲にも遭われていますが、二重の大惨事の中で奇跡的に生存されました。
Cokoが言うには、「マリアさんは素晴らしいオーラーを発してしてありました。めったにない出会いをさせてもらった」と、興奮していました。
いつか宮城さんにお会いする機会があれば、彼女のオーラーを感じてみたいですね。
霊感を磨くことは、今のこの時代の危機管理にも必要ではと思いました。
「対馬丸の悲劇」自費出版/生存者マリア宮城・バートラフさん1999年12月18日
1944年、米潜水艦の攻撃を受け沈没、1484人の学童らが犠牲になった学童疎開船「対馬丸」の生存者、マリア宮城・バートラフさん(68)が近く、撃沈時のすさまじい混乱の様子や、漆黒のやみ夜の中を漂流した恐怖を克明に描いた体験記「学童疎開船・対馬丸の悲劇」を自費出版する。宮城さんは現在、米国カリフォルニア州在。
対馬丸沈没で、弟、祖母ら身内三人を失った悲しみを乗り越え、「思い出すたびに、あふれ出る涙をこらえながら」(宮城さん)体験を書きつづった。宮城さんは「対馬丸の悲劇の真相を後生に伝えるのは生き残った者の義務。(体験記を通して)平和の大切さと戦争の悲惨さを知ってもらいたい」と話している。
宮城さんは現在、出版準備のため宜野湾市の実家に滞在しており、体験記は来年1月15日に発刊される予定だ。
宮城さんは国頭村生まれ。県立第三高等女学校2年の14歳の時、11歳の弟ら身内五人と対馬丸に乗り、船は撃沈された。宮城さんは4日間にわたる漂流の末、海軍の駆逐艦に救助された。
体験記には、魚雷が命中して沈没するまでの子ども、老人らの絶叫や、家族を求めて泣き叫ぶ様子、「食べず、飲まず、眠らず、冷え切った心身」(宮城さん)の漂流状況下で、サメの大群が襲い掛かり、悲鳴を上げながら人々が海に引きずり込まれていく悲惨な情景などが克明に記されている。宮城さんは「あの悲惨な体験だけは、50年以上たった今でも、目と耳にはっきりと焼き付いている。
思い出すたびに悲しくて、原稿用紙が涙でびしょびしょになった」と唇をかみ締めながら語った。
弟の壮吉さんとは、魚雷が命中する直前に「静かに寝なさい」と言葉を交わしたのが最後になった。壮吉さんは当時11歳。
体験記を書くきっかけになったのは、サンフランシスコの日系人を中心に読まれている「日米タイムス」に対馬丸の体験を書いたこと。
読者に大きな反響を呼び、「詳しく知りたい」という投書が相次ぎ、宮城さんに悲しみを乗り越えながら書く決意を固めさせた。宮城さんは「犠牲になった方々の死を無駄にだけはしてはいけない。生きている限り平和の大切さを訴え続けたい」と語った。