rftgyふじこlp:今は反芻している…JP1NOM

のんべんだらりと生きてしまいましたよ。

二年参り

2008年01月01日 02時04分25秒 | ノンジャンル
ほとんどの宗教というのは社会の支配構造の一つに組み込まれているわけで、キリスト教はもちろん、神道や仏教も例外ではない。

一方で信仰心というのは一つの契機であり、意志であり続ける。

真の宗教とは宗教団体に属することではなく、経文を覚えることでもなく、儀式を執り行うことでもなく、いかに受けとめ、いかに行動するかだ。

そういう意味で原始キリスト教も原始仏教も実存哲学の一つといえる。


さて、丸一年棒に振った2007年。

上辺の付きあいに嫌気差し、無茶な業務改革に呆れ、人間社会など嘘の塊と悟って解脱を試みるも、所詮凡人には無理なことだ。むしろアンガージュマンを放棄したことで、自由を失ったといえる。

己のアンガージュマン復活の契機として二年参りが必要だったのである。

神社と呼ばれる物体と己という物体が存在することに意味はない。神社と己がどういう関係にあるかが問題なのである。天命を知ることが一つの意志だとすれば、願掛けもまた意志なのである。神などというあやふやな存在(?)に依拠するのではなく、己の意志を引き出す場としての神社、意志としての願掛け、行動としての二年参りである。

1600年頃に建立された菅原神社に霊的な力があるかどうか解らないが、意志を引き出す雰囲気こそが霊場たる所以なのではないだろうか?

神楽の舞と囃子、神酒、立ち上る炎。
厳かな雰囲気は己に覚悟を要求する。


2012年にはマヤ暦が終焉を迎えるという。世界はある意味で終了するのかもしれない。

マヤ世界の終焉が現代社会にとってどのような意味、影響があるのか解らないが、あと4年弱。圏央道がトウホグ道と繋がる前に終わりそうだが、四年間なんとか生きてみよう。

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