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■タイに吹く風(4)

2014-11-16 | ●タイのクーデター

■■■■■■■■チェンマイゆがみの構造■■■■■■■■
阪南大学大学院   企業情報研究科兼経済学部  教授  石井雄二
特定非営利活動法人日タイ国際交流推進機構 理事

首都への一極集中化
🔵2006年9月19日の夜に、今日なお迷走・混乱の続くタイの政変を 主導
るタクシン派(赤シャツ)VS反タクシン派(黄シャツ)の対立の発端
となった軍
事クーデタが発生した

 
ちょうどその日、私はバンコクのスクンヴィット通り ソイ24界隈にある
行きつけの居酒屋におり,そこでクーデタ発生の一報を聞くことになった。
それから8年の年月が経っても、深い対立の溝は容易には埋まらない模様
で、2014年5月22日に、1932年の立憲革命から数えて19回目のクーデタ
による反タクシン派の政権奪還で 表面上は落ち着きを取り戻したが、根
本的な事態収束には至らない状況である。

🔵1990年代以降、タイの高度経済成長路線のもとで、さらに首都バ
ンコクへの経済的機能の一極集中が進み,外国企業の進出ラッシュがそれ
に拍車をかけ、世界都市レベルの巨大都市にランクインするまでに膨張・
拡大を遂げるようになった。
バンコクは、あらゆるタイの都市の中で群を抜く突出した地位占め、都
市人口規模でみても、第2位以下の人口規模が20万足らずなのに 対し
て、600万人をはるかに超えるメガシティとなり、各地方から人口を
吸引する坩堝と化した

    
🔵「バンコクでなければ、タイではあらず」 というほどに タイ経済にお
けるバン
コクの卓越した突出ぶりがうかがえる。 そのバンコクの急成長
による 雇用と所得の
好循環の累積的拡大の波及効果は、地方経済・地方
都市にも及び当然
チェンマイ市にもその恩恵は行きわたることになった。 

その結果,チェンマイ市も
北タイの地方中核都市として、その周辺地域に
影響力を及ぼす中心地機能
を強めることになった。
首都バンコクがタイ全土から仕事・雇用を求める人々を吸収する 中心地
機能をいっそう強めるなかで、そのミニチュア版として バンコク都市圏
との相互依存関係のつながりのもとで、チェンマイ市が 北タイ地方から
人口を吸引する中心地としての役割を果たすようになった。


■「チェンマイの歪の構造
🔵
いわゆるタイの繁栄と富を生み出す活力源ともいえる首都 バンコクへ
の極端
な一極集中の歪んだ地域構造を反映して,  同じ相似形の歪んだ構造
を北タイ地方にも作り出すことになった。こうした構造のもとで、チェン
マイ市もその波及で  経済的繁栄を謳歌することができるようになったが、
同時に高度成長の影の部分としての貧困化も進行した。 その貧困化は, 豊
かな社会がもたらした繁栄の中での新たな貧困化である。 


🔵とくに1990年代以降チェンマイ市の近郊農村では、タマネギ、ニ
ンニク、大豆
(枝豆)などの換金作物が栽培されるなど,農業の商業化に
よる競争が進展した結果、農家層の両極分解が起こり, 上層の富裕農家へ
の土地の集中化、そ
の一方で土地無し層が増加することになった。

そのため土地無し層の多くは、チェンマイ市に仕事・職を得て 移住ある
いは通勤を余儀なくされるような変化が生じた。また遠隔農村でも、商
品経済化の波が押し寄せて、お金のかかる生活がごく普通となり,チェン
マイ市へ通勤が困難な土地無しの貧困農民は、チェンマイ市に 向かわず
に、直接バンコクを目指して移住するようになった。

 
🔵こうした農村から押し出された 貧困農民の多くは、チェンマイや他の
地方都市
首都バンコクにおいて, 低賃金で不安定雇用のインフォーマル
部門の様々な都市
雑業的サービス業に従事した。それさえ実現できなかっ
た者は、都会で失業者や
根無し草的貧困生活者として漂流することになり、
タイ=バンコクの低賃金労働
力の予備軍のプールの役割を果たした。

タイの国際競争力の向上による経済成長は、こうした 農村からプッシュ
された人々
に支えられて実現してきた側面が強く、低賃金労働で生産性
を高め、その生産増
強にマッチする消費拡大をも補完してきた。
彼らは、タイの経済成長に貢献しなが
ら、その恩恵に与らなかった地方
の農民層と都市の貧困層であ
る。


🔵以上の経済的な観点らみた「チェンマイの歪みの構造」に象徴される
タイの貧困
化の側面は、それが常態化して、タイの貧困農民層が 解決不
能の苛立ちを感じて
いたときに、タクシンが弱者救済政策を掲げて颯爽
と登場する土壌となった。

それは,2006年以降から続くタイの政争の温床ともなったタイの雲散
霧消的に解決
できない構造的問題として理解される必要があろう。          
 
                                                                                                続く
ーーー

 


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