■■■■■■■■■■辞世の句■■■■■■■■■■
北條俊彦
経営コンサルタント・前 住友電工タイ社長
■■辞世の句 ]
⚫️辞世の句とは死に臨んでこの世に書き残す詩的な短文で、和歌・
俳句・漢詩など短型詩の一種であり、中世以降の日本において歴史
上多くの人物が辞世の句を遺している。
“死は厳存するが現存しない”しかも死後の世界は未知の世界である。
人は辞世の句を詠むことで突然、或いは必然に訪れる死と向き合い
“自分らしい最後”を迎えようとしたのであろうか。
詠み人の人生観によって死に対する考え方、死生観も異なり、辞世
の句の表現の仕方も様々であるが、生涯を振り返り、偽りなき心の
真実を象徴的に吐露されたものであることだけは確かである。
それだけに詠み人の時代背景とその生き様を深く知ることで、彼ら
の辞世の句は現在の我々にとって、示唆に富む優れたメッセージと
なっている。
■■天台宗開祖伝教大師最澄,辞世の句である。
「心形久しく労して一生ここに窮まれり」(享年54歳)
⚫️ この辞世の句からは “苦労多き生涯であったが, 諦めることなく
仏法の為に精一杯生き抜いた。“と、伝教大師の熱い心の叫びが伝わ
ってくる句である。
“密教の教えの共有“の為に空海への弟子入り, そして空海からの拒絶、
更には最愛の弟子泰範との別離など, この肖像に観る柔和な表情から
は想像できない苦難多き人生であったようだ。しかし虚心坦懐, 何事
も愚直にやり抜く心の強さを感じるのは, 私だけだろうか?
最澄は平安時代初期の仏教僧である。桓武天皇より入唐求法 (にっと
うぐほう)の還学生(げんがくしょう)に選ばれて, 唐に渡り仏教を学
んだ。帰国後は 比叡山に入り延暦寺を建立, 日本の天台宗を開宗し
た。弘仁13年(822年)に入寂、後の貞観8年(866年)に 清和天皇
より“伝教大師”の諡号が贈られ、以後,最澄は“伝教大師”の名で 広く
世に知られる。
⚫️私は天台宗について詳しく知る者ではないが, そのお勤めに「朝
題目(南無妙法蓮華経)夕念仏(南無阿弥陀仏)] があると聞く。転じ
て世間では“定見がない”との意味合いで「朝題目夕念仏」を 使われ
ているようだが残念である。
「一燈照隅 万燈照国」「忘己利他」は最澄の名言,意味は読
んで字の如く. 尚, 精進料理に使われる湯葉は最澄が中国から伝えた
ものらしい。
■■一遍上人(法諱智一真)辞世の句
「一代聖教みな尽きて南無阿弥陀仏に成り果てぬ」を遺し,所持する
経典以外,全ての書籍を自ら焼き捨てたと云われる.(享年55歳)
⚫️この辞世の句にある“南無阿弥陀仏”とは名号の一つで(仏や菩薩
の称名をもって“号ぶ”という意味)“阿弥陀仏への帰依”を 表明する
六字名号の定型句である。
因みに「南無」はサンスクリット語の「ナモ」が元になり“心から従
う、信じる“という意味で「阿弥陀」はサンスクリット語の「アミタ
ーバ」と「アミターユス」二つの言葉が元になり“量り知ることので
きない命・光“という意味を持つ。
そして「仏」はBuddhaの音写で、budh(目覚める)を語源として、
“目覚めた人”“真理、実相を悟った人”“悟りを開いた人”を意味する。
焼き捨てられたため、一遍の著作は現存していないが、門下の時衆
(念仏を唱える僧俗)が筆録した法語が現存する。また彼の生涯を知
り得る物では、弟子の聖戒と法眼円伊が, 一遍没後10年目の正安元
年(1299年)に完成させた「一遍聖絵」(全12巻)が現存する。
一遍上人布教の軌跡とその時代を彷彿とさせる素晴らしい絵巻(国宝)
である。
●国宝一遍聖絵念仏踊り
日本仏教の新しい宗派である浄土宗, 浄土真宗, 時宗, 日蓮宗,臨済宗、
曹洞宗など6宗を「鎌倉新仏教」というが,禅宗の興隆は武家政権
の確立と大いに関係し,他の宗派は戦乱と貧困に喘ぐ民衆が魂の救済
を強烈に欲したことによるのであろう。
●一遍上人
⚫️一遍は鎌倉時代中期の仏教僧で“遊行の念仏聖”と云われた 時
宗の開祖である。伊予の豪族河野一族河野道広(法名:如仏)を父と
して誕生し,10歳で母と死別した。 その後, 父の勧めにより出家して
いる。
河野(かわの)一族はご存知の通り、元寇で活躍した河野通有に代
表される瀬戸内海地域に君臨した水軍である。
●第36代弾正少弼河野道直像
戦国時代には、四国の雄長宗我部氏に臣従し, 後に豊臣秀吉の四国征
伐では長宗我部の前衛として居城の湯築城に籠ったが, 形成不利の中、
小早川隆景の説得に応じ降伏, 39代当主伊予守道直は安芸竹原に遷
る。後に道直は病死(享年24歳) 河野家は断絶する。自害させられ
たとする説もあり, その後, 幾度か旧家臣より河野家再興の嘆願がな
されたが、秀吉は一切認めなかった。
蛇足だが、家内は河野一族の系統であるらしい。 湯築城退去を前に
した39代伊予守河野道直が, 子を家臣の兵頭家に託し養育させたそ
の末裔に繋がるそうだ。因みに亡義父も神戸商船大を出て ジライン
(商船三井)のタンカーの機関長であった。36代道直と顔がよく似
ている。
■■毛利家外交僧安国寺恵瓊辞世の句
「清風払明月 明月払清風」
⚫️清らかな風は明月を払い清め、清らかな風もまた明月の輝きに払
い清められる。明鏡止水、即ち 死を前に“あらゆる執着や迷いのない
清々しい心境である(死ぬるに悔いなし)“と遺している。(享年61歳)
臨済宗禅僧瑶甫恵瓊は毛利の外交僧として活躍、信長の短命と秀吉
の技量を見抜いたことで有名である。本能寺の変後の毛利輝元と羽
柴秀吉との和睦を取り纏め、後に秀吉の近習並びに大名(異説あり)
として活躍したが、関ヶ原の戦いでは西軍に与し敗れ 1600年11月
6日石田三成・小西行長と共に六条河原で斬首されたのは 周知のと
ころ。
●安国寺
恵瓊の出自は安芸武田氏で毛利元就の攻撃で安芸武田氏が滅亡の後、
安芸の安国寺で出家した。名門の出自であり幼少の頃から英才の誉
も高く,将来を期待されていたようで京の東福寺では竺雲恵心の弟子
となった。後に安芸安国寺の他, 京の東福寺,南禅寺の住持にもなり、
中央禅林最高の位にもついている。
毛利家が竺雲恵心に帰依していた関係から, 恵瓊は外交僧として毛利
家に仕えることになった。頭脳明晰な切れ者である反面, 酒癖の悪さ
と衆道で、度々失態を重ねていたようだ。
同じ臨済宗禅僧として, 今川義元に仕えた政治軍事の師 “黒衣の宰相
”太原雪斎が有名である。
■■播州赤穂藩浅野家筆頭家老大石内蔵助良雄辞世の句
と言われる「極楽の道はひとすじ君ともに阿弥陀をそへて四十八人」
(享年43歳)
⚫️別の句
「あら楽しい思ひは晴るる身は捨つる浮世の月にかかる雲なし」も
よく知られているが, どちらも内蔵助が死に臨んで 詠んだ句ではな
く主君浅野内匠頭の墓前に捧げた句とも言われる。
因みに, 内蔵助の祖は関白豊臣秀次側近 大石良信でその二男良勝の
家系である。
兵庫県相生(あいおい)市に内蔵助の私領があった。備中松山城の 無
血開城の功により 浅野内匠頭より 昔“おお”と呼ばれた相生村(二百
石)が内蔵助の私領として与えられた。内蔵助は相生村に別邸を設け
愛妾お栄を住まわせ, 赤穂での藩政の合間を見ては訪れたようだ。
相生村でも 新田開発など治世に手腕を振るい, その新田の地が 今の
相生市“大石町”である。
“覚悟したほどには濡れぬ時雨かな“
こちらも内蔵助辞世の句と言われているが、内蔵助の手になる(真筆)
⚫️辞世の句は、吉良上野介を討ち果たした内蔵助以下17名の赤穂
浪士を預かった細川家家臣堀内伝右衛門に託されている。
今も現存しているようである。
その内蔵助辞世の句とは
『武士(もののふ)の矢並つくろふ 小手のうへに あられたはしる
那須のしの原』
■■次は曹洞宗の禅僧良寛辞世の句である。
「裏を見せ表を見せて散る紅葉」(享年72歳)
⚫️死期の迫った良寛のもとに貞心尼が駆けつけると,良寛は貞心尼の
手を取り
「いついつと まちにし人はきたりけり いまはあいみて 何か思わん」
と詠む。
そして、最後に貞心尼の耳元で「裏を見せ 表を見せて 散る紅葉」と
呟き亡くなったと伝えられている。
この句では“悪い面、良い面全てを曝け出した自分を受け止めてくれ
た貞心尼への感謝, そして貞心尼に看取られながら旅立つことができ
る幸せ“を表現しているのだろう。
●語り合う良寛と貞心尼
後に貞心尼は「この句は良寛自身の歌ではないが, 師のお心にかなう
もので云々・・・」と人に語っている。
実は、美濃の俳人で谷木因(たにぼくいん)の
「裏ちりつ表を散つ紅葉哉」が、この辞世の元である。
生涯懶立身
騰々任天真
嚢中三升米
炉辺一束薪
誰問迷悟跡
何知名利塵
夜雨草庵裡
双脚等閑伸
宮沢賢治の詩「雨ニモマケズ」を想起するが, これは良寛作の漢詩で
ある。良寛は漢詩人でもあった。また 曹洞宗道元禅師が法華経を最
も大切な経典として扱ったように, 良寛も法華経八巻二十八品それぞ
れに偈頌(漢詩)の形で讃を付したものを残している(法華讃百二首)
確か, 宮沢賢治も熱烈な法華経信仰者であった。
●良寛法華讃
「法華経」とは釈迦が最後に説いた最高の経典と言われるが, 真偽
の程は分からない。富永仲基の書で経典を分析し, 仏教思想の成り立
ちとその本質を論じた「出定後語」を一読されるのも良いかと。
⚫️最後に私も辞世の句を捻ってみたが・・・
「孤独 (ひとり) 生き 死ぬるも孤独 (ひとり) 冥土旅
船頭もなき 三途の渡し」
「この世ほど 面白き世は なきものと
識らずに行(逝)くわ ほなさいなら」
失礼しました(笑)
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