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■ペレ賛歌

2023-01-15 | ●松本語録

■■■■■■■■■■■ペレ賛歌■■■■■■■■■■■
 
   松本光弘
筑波大学名誉教授・元 日本サッカー協会理事・元 筑波大学蹴球部監督

究極の時流
⚫️2022年12月29日サッカーの王様ペレが82歳で亡くなった
本名エドソン・アランテス・ド・ナシメント。
彼の誕生日は1940年⒑月23日である。

この偉大なサッカー選手は,現役当時ばかりでなく生涯を通して全世
にサッカーで多くの夢と希望を残していった。
サッカーの楽しさ,
サッカーの面白さ,
サッカーの明るさ,
・サッカーの広さ,
サッカーの奥深さ
・サッカーの意外性,
サッカーのおおらかさ,
・サッカーの可能性,
サッカー
の自由さ.
・サッカーにおける無念さ,
サッカーにおける悔しさ,
・サッカーにおける忍耐などなど。
彼が活躍した当時,世界のサッカーが大きくヨーロッパと南アメリカ
の2極化に分かれていた。その時代に双方を超越した存在としてサッ
カーというスポーツのすばらしさを全世界にとどろかせた唯一無二
の人物である。

           
⚫️1863年にイングランドのロンドンで創設されたサッカーは.大英
帝国の繁栄と当時の産業革命の世界への伝播と共に. ヨーロッパ各国
はもとより大西洋を越え南アメリカにも移入された
その代表国がアルゼンチンでありウルグアイでありブラジルであった。

母国語からもわかるようにアルゼンチン,ウルグアイは.スペイン語, 
ブラジルはポルトガル語である。スペイン、ポルトガルがいち早くこ
れらの国に移民を送り込み,新天地を切り開いた。特に鉄道はその中で
も中心的であった。この鉄道や港湾建設などのための移民が持ち込ん
だものに,サッカーというスポーツがあった。
南米で最も早くサッカー協会が設立されたのはアルゼンチンで1893年、
である。ロンドンでサッカーが正式に創設されてわずか30年後に大西
洋を渡ったはるか遠いアルゼンチンの地で早くもサッカー協会が設立
されている。これは当時の交通手段からすると驚くべき速さである。


⚫️サッカーは1863年ロンドンで創設されて以来またたく間にヨーロ
ッパ各国に伝播した。このサッカーはそれぞれのお国柄の民族性,歴史、
気質,気候,風土,宗教,規律,慣習,道徳,音楽などを背景にそのスタイルを
確立していった。
ドイツを中心としたコンチネンタルスタイルは組織を重要視し,役割分
担が中心のサッカーを発展させた。これに対してイタリア, スペイン,
ポルトガルを中心としたラテンスタイルは個人技中心で個人の技能や
発想を大切にする意外性を好む傾向のものであった。この大きな分け
方は現在のサッカーの傾向にも垣間見ることができる。

             
⚫️この個性を重んじ発想の豊かさをこよなく好んだラテンスタイル
のサッカーが大西洋を渡りアルゼンチン,ウルグアイ,ブラジルに移入
された。そのとき現地の先住民やアフリカからの移住民がサッカーと
出逢うことになる。
彼らは身体能力が高くリズミカルで、その上しなやかで特別の身体能
力を有していた。このラテンスタイルのサッカーと南米の身体能力の
秀でた選手の融合が高い個人技能を有した南米スタイルのサッカー選
手を生み出した。
その代表的選手がブラジルのペレでありアルゼンチンのマラドーナ
である。

                      ●(出典:YahooNews)
⬛️「ペレの偉業
⚫️特にペレは1958年のスエーデンで開催されたFIFAワールドカップ
に17歳で出場している。この大会はFIFAワールドカップの第6回大会
であった。第1回から第6回までの戦績は以下の様であった。

回数)開催年)  開催国)    優勝国)      準優勝国
1  1930   ウルグアイ     ウルグアイ   アルゼンチン
2  1934   イタリア    イタリア    チェコ
3  1938   フランス    イタリア    ハンガリー
4  1950   ブラジル    ウルグアイ   ブラジル
5  1954   スイス     西ドイツ    ハンガリー
6  1958   スエーデン   ブラジル    スエーデン

第5回までの戦績を見るとヨーロッパで開催らされた大会はヨーロッ
パのチームが南米で開催されたときは,
南米のチームがそれぞれ優勝
している。サッカーにおけるホームグラウンドでの試合はそのチー
ムにとって大きな力になることがこの優勝国の結果からもわかる。
それが第6回のスエーデン大会で異変が起きている。
弱冠17歳のペレ
の存在がすべてを決したのである。準決勝でフラン
スを破り,
決勝戦では開催国スエーデンを破っての南米ブラジルのヨ
ーロッパ開催の
ワールドカップの初優勝であった。
特に決勝戦では相手守備者の頭越しにボールを挙げ,相手の背後で地
上に落とさずにボレーで得点した曲芸的なプレイは現在でも映像に
残っている。芸術的な得点であった。
この大会での17歳のペレの活躍が後にFIFA(世界サッカー連盟)が
17歳以下の世界大会(U-17)を開催する大きなきっかけとなった
17歳以下の世界大会を行うことで世界中から第2、第3のペレを発掘
することをFIFA(世界サッカー連盟)は戦略的に狙ったものである。
この壮大な意図は1985年にアンダー17(U-17)の世界大会として中
国で第1回目が開催され現在も続いている。

 (神童19歳のPELE)出典:GEKISAKA)
⚫️ペレの2回目のワールドカップは1962年南米チリで行われてい
この時のペレは,途中ケガで最後までプレイができなかった。しかし
代役の選手の活躍もありブラジルは2回目の優勝を果たしている。

          
                               (出典:GEKISAKA )
⚫️第3回目はサッカーの母国イングランドで1966年に開催された。
この時のペレは悲惨であった。相手チームの選手から悪質な反則を繰
り返し受け,最後は負傷のためプレイ続行ができなくなってしまった。
このこともありブラジルチームもペレと共に姿を消した。悪質な反則
の中でもポルトガルの選手が最後に仕掛けた膝を狙っての反則はペレ
にとっては最大のダメージだったようである。

⚫️4回目のペレのワールドカップは1970年のメキシコ大会である。
この大会がペレの最後のワールドカップとなった
前回の大会が反則まがいのプレイが多くダーティーなイメージが強か
ったのに対してこのメキシコ大会はクリーンで技能的にもゲーム内容
からも最高レベルで歴代のワールドカップの中でも最高位の評価を受
けている。


                               (出典:文春Nunber)
特に西ドイツ,イタリア,イングランド,ブラジルのチームにはスター選
手が多くいてチームとしても傑出していた。そのような中でブラジル
チームは一際抜きんでていた。またその輝かしいブラジルチームの中
でもペレはまた別格であった。
このワールドカップメキシコ大会はペレの大会と言っても過言ではな
いくらいペレの存在は大きかった
例えば ゴールキーパーを欺くスルー(やり過ごし)のプレイ, ひと際
高い打点でのヘッディングシュート。味方ジャイルジーニョ選手への
意表をついたラストパス。どれをとっても当時最高級のサッカーのプ
レイであった。
また参加したすべてのチームのプレイ態度がフェアーであり清らかさ
とサッカーのゲームの内容の充実がこのワールドカップメキシコ大会
を素晴らしいものとした。

それにFIFAワールドカップの歴史にとってこの大会は特別なものであ
った。それはブラジルチームがワールドカップで3回の優勝国となった
のである。この3回の優勝は格別でありペレは3回とも選手としてかか
わっている。


(出典:LiveDoor)

⚫️1930年ワールドカップ創設に深く関わり第3代FIFA会長となった
ジュール・リメはワールドカップ優勝チームに送るトロフィーを
寄贈した。
          
純金の女神像,これをジュール・リメ杯と呼んだ。このジュール・
メ杯はワールドカップで3回優勝した国が 永久保持することが条
としていた。
このペレの活躍でブラジルが優勝したメキシコ大会は
ブラジルの3回
目の優勝となりジュール・リメ杯はブラジルの永久保
持となった.

⚫️ペレは1956年サントスFCに 入団している。それから 1974年まで
サントスFC一筋に活躍した。この間 ヨーロッパのビッグクラブから
の誘いもあったようだがブラジルを離れることはなかった。
その代わりサントスFCはそう大きなクラブでなかったため 経済的に
は裕福ではなく,資金調達のため世界各地に遠征した。
サントスFCは
南米のクラブ王者決定,コパ・リベルタドーレスで1962年と1963年に
優勝している。
またヨーロッパと南米のクラブ王者決定戦, インターコンチネンタル
カップでも1962年と1963年に優勝している。
ペレを擁したサントス
FCがアフリカに遠征した時コンゴ内は紛争さなかであった。
それをサントスFCの試合を実現するために紛争を一時休戦したという
話もあったくらいである。

(出典YahooJapan)

⚫️ペレの1000点目のゴールも 有名である。1000点目を達成した時,
当時世界最大といられていた マラカナンスタジアムは熱狂に進まれ
試合続行ができなかった。この1000得点を記念してブラジル政府は
翌日国をあげて休日にした。

彼はまた勉学にも勤しみフィジカルコーチの教えもありポルトガル語
ばかりでなく英語も話せた。このことは後のペレにとって大きな財産
であった。
1973年ペプシコーラと世界中の子供たちを対象に「インターナショナ
ル・ユース・フットボール・プログラム」というプロジェクト契約を
結んでいる。

(出典WiKipedia)
⚫️1974年10月2日ポンチ・ブレッタ戦が18年間過ごしたサントスFC
の最後の試合となった。最後の試合を終えペレは自分のユニフォーム、
背番号10番を片手で高く振りながらスタジアムを周回する姿を私たち
は映像でも何度も見た。その光景を見ながら新たな感動を覚え
たのを忘れない。
1974年11月19日来日し静岡,東京,広島でサッカー
教室を開催している。


80歳のペレ     (出典:YahooJapan)      
引退したはずのペレが再び現役に復帰する事態が発生した。それはサ
ッカーの不毛の地へのサッカー発展の伝道者的役割を果たす使命を感
じての決断である。
北米サッカーリーグ(NASL)ニューヨーク・コスモスとの1975年か
ら2年間の契約である。米国の要人からアメリカのサッカー発展に協
力してほしいとの公文書が送られたとも伝えられている。

(出典:LiveDoor)

その後はFIFAのフェアープレー委員、ユニセフの親善大使、映画出演
勝利への脱出)、音楽活動等々キャリアは多彩である。

1995年から1998年にはブラジル政府のスポーツ大臣にも任命されて
いる。

⬛️「ペレと私」   
⚫️私の研究室の正面の壁にはマラカナンスタジアムの絵はがきを添
えたペレのサイン入りの色紙が飾ってあった。 Peleの4文字ながら
端正な味わい深いサインである。
   
マラカナンスタジアムの絵ハガキはブラジルからの留学生が帰国後
送ってくれたものである。当のペレのサインはというとこれまた貴
重なものであった。ペレが所属していたブラジルのサントスFCは
世界を股にかけて遠征を行っていた。
日本にも1972年遠征してきている。
それよりももっと前サントスFCは,香港に遠征している。この遠征
際,飛行機の給油のため羽田空港に一時立ち寄った。この時報道関
係に
いた私の知人がペレから直接もらったサインの一枚を私にプ
ゼント
してくれた。これを私の宝物として額に入れ長く飾られてい
たもので
ある。 

⚫️私がペレに直接会ったのは1987年, スコットランドで開催された
U-17のFIFAワールドカップの時であった。
アバディーンのスタジアムでのことである。あらかじめ買い求めて
おいたペレのVTRにサインをもらった。
この時ペレはFIFAのフェアープレーキャンペーンを広める活動を行
っていた。

                       
⚫️最後に,以前BBC(英国放送協会)とTHE FA(英国サッカー協会)が制
作したこの偉大な尊敬すべき[ペレのドキュメント映像]があっ
た。


このブログの主唱者である山田さんが,日本国内の版権を獲得,日本語
版を制作し私が
日本語訳を担当した。素晴らしい貴重な資料だった。
いまを去る40年以上前の
話である。
日本サッカー協会技術委員会の監修,推薦を得て, 二人の協力でこれを
全国の中高の学校など
に普及した経緯があった事も付記しておく。

  

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