■■■■■■■■■■日本の無念■■■■■■■■■■■■
■「勝算なき戦争の真実」
●終戦の8月15日は、いつになく厳しく暑い夏の日だった。
毎年この日になると、必ず思う事がある。あの忌まわしい戦争は、
なぜおきたのか、なぜ南進したのか、
●いまから75年前、石油の90%の輸入を米国に頼っていた日本は、
中国に対する米国の出方を見誤った事で,外交的に瞬く窮地に落ち
入っていった。
その結果、南方に石油資源を求める国策のために、アジアに進出し
ようとして、最終的に世界列強を相手に覇を競うことになる。
20世紀は「石油の世紀」と呼ばれ,石炭に代わり石油が全てのエネ
ルギーと覇権を生み出した。世界の列強は、競って石油資源の利権
獲得に走った。その結果、第一次世界大戦後、米英が中東はじめ全
ての石油利権を握ることになる。
(戦前の植民地勢力図・アジアの独立国は日本とタイ 2国だけだった)
●そして大東亜戦争は、この「石油」で始まったと言われる。当時
石油のほとんどを米国からの輸入に頼っていた日本は、その米国から
「日中戦争、なかんずく中国から手を引くよう」外交圧力をかけられ
たという。
●その頃、日本は欧米枢軸に対抗するために「日独伊3国同盟」を
締結した。実は当時の日本には、提携したナチスドイツが、ユダヤ民
族の絶滅を目指す非人道国家であるという認識が全くなく、後々大き
な禍根を残すことになる.
そのために当時の日本は、米英枢軸国から ナチスとおなじ非人道的な
過激国家という烙印を押され 大きな誤解を生んた節がある。
●こうして様々な要因が重なり、米国はついに 日本に対し石油禁輸の
経済制裁を発動してくる事になる。開戦に至るまでの近衛内閣と軍部と
の葛藤、外交努力の足跡や、開戦に至るまでの過程は、既に多くの書物
や外交資料が収録する通りである。
■「太東亜戦争の勃発」
●石油を絶たれたことから始まった昭和16年12月8日の日米の開戦、
は、この真珠湾を皮切りに欧米枢軸の世界列強を相手にした、勝ち目の
ない世界大戦に向けて、日ごと拡大していくことになる。
■「イカロスたちの夏」
●作家、猪瀬直樹著「昭和16年夏の敗戦」は、この戦争を描いた
極めて異色の力作といっていい。
この第2章「イカロスたちの夏」では総力戦力研究所の模擬内閣が
開戦後、様々な課題と取り組むシュミレーションの様子を描く。
勿論、石油備蓄と生産性と戦況の問題、日独伊の関係など、実際
にあったことを探って書かれたいわばドキュメンタリーに近い作
品だが、中でも開戦前の昭和15年8月5日から始った総力戦研究所
の第3期演習では
・米国の対日本融和申入に対し遅延策をとる事
・日ソ中立条約をソ連が守る事
・タイにたいし、政治、軍事提携の強化を図る事
など 戦略的な価値ある施策が、見て取れて頼もしい。
■「タイ進駐の賭け」
●日本は開戦すると同時に英国統治のマレー半島やビルマ(現マ
レーシア)に進攻するため、隣接するタイに「事前平和進駐」す
る必要があった。
そこで開戦をまじかに控えて「平和進駐」の協力を いつピプン首
相に要請するか、バンコクでは連日のように日本側の外交画策が
秘密裏に始まっていた。
しかし「中立を維持するタイ国としては,日本の要請を受け入れる
可能性は少ない」との観測が多く現地日本側は暗澹たる空気に包
まれていた。
●それを察してか開戦前夜、日本軍の平和進駐を躊躇したピプン
首相の失踪などで、開戦当日には 待ちきれない日本軍のタイへの
上陸行動が始まり、一部ではタイ国軍との間で交戦もあったと聞く。
●開戦当日12月8日の午後 やっと日タイ平和進駐交渉が妥結さ
れた。そして名将 山下奉文大将率いる日本南方軍は、マレー半
島への奇襲上陸作戦を強行し、世界戦史に残る大成功を収める事
になる。
●しかしそれから約3年半余り、この戦いは 残念ながら敗戦に終
わった。
石油に始まり、石油に終わった、極めて悲惨な完敗の戦争だった。
この間、日タイ間の駆け引きや、国思うピプン首相の苦渋の決断な
ど、驚くほど多くの隠された外交秘話が 残されているという。
●当時のタイ王国は、周囲を植民地諸国に囲まれ、極めて厳しい立
場にあつたにもかかわらず、優れた外交力を駆使して中立を維持し
ていた。一方日本は王室間の友好関係もあり、タイをアジアの協力
拠点として、特別の外交関係を保ち続けていた。
そしてバンコクのタイ王国日本大使館には、坪上大使や浅田総領事、
田村武官など有能な外交官や武官を配し、タイ政府やピプン首相と
の親交を深めていた。
(フイリピンに再上陸した連合国軍)
■「涙で聞いた玉音放送」
●当時勤労動員先の軍需工場で天皇の終戦放送を聴いた作家 半藤一利
さんは「中学3年の15歳だった。工場内の機械はいっせいにとめられ、
ラジオの前に集まった。
[耐え難きを耐え、忍び難きを忍び]と、そこだけはハッキリと耳に入り
ました。[ああ、戦争に負けたんだ!と言う事はわかりましたよ、いくら
ぼんくら中学生でもと自著[あの戦争と日本人]の冒頭に記している。
●やがて戦後70回目の8月15日がやって来る。
当時23歳だった作家山田風太郎は、著作「戦中派不戦日記」で当日
の様子を次のように書きつずつている。「明るい、くらくらするほど夏の
太陽は白く燃えている。負けたのか! 信じられない。
この静かな夏の日の日本が今の瞬間から、恥辱にみちた敗戦国となったと
は 「眼が涸れ果てて涙も出なかった。と。
(国敗れて山河あり)
●日本は、この大東亜戦争、別称太平洋戦争で310万の同胞の血涙を流した、
予期できなかった日本の破滅、その結果は極めて厳しいものだった。
そして日本は、やがてさまざまな恩讐を超えて 世界の平和をリードする確か
な自信と自立を取り戻す事になる。
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