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■戦後70年、日本の夏(2)

2015-08-12 | ●昭和の敗戦●

■■■■■■■■■■日本の無念■■■■■■■■■■■■

勝算なき戦争の真実

終戦の8月15日は、いつになく厳しく暑い夏の日だった。
毎年この日になると、必ず思う事がある。あの忌まわしい戦争は、
なぜおきたのか、
なぜ南進したのか、

いまから75年前、石油の90%の輸入を米国に頼っていた日本は、
中国に対する米国の出方を見誤った事で,外交的に瞬く窮地に落
入っていった。

その結果、南方に石油資源を求める国策のために、アジアに進出し
ようとして、最終的に世界列強を相手に覇を競うことになる。

20世紀は「石油の世紀」と呼ばれ,石炭に代わり石油が全てのエネ
ルギーと覇権を生み出した。
世界の列強は、競って石油資源の利権
獲得に走った。
その結果、第一次世界大戦後、米英が中東はじめ全
ての石油利権
を握ることになる。


         (
戦前の植民地勢力図・アジアの独立国は日本とタイ 2国だけだっ
そして大東亜戦争は、この「石油」で始まったと言われる。当時
石油のほとんどを米国からの輸入に頼っていた日本は、その米国
から
日中戦争、なかんずく中国から手を引くよう」外交圧力をかけ
られ
たという。



その頃、日本は欧米枢軸に対抗するために「日独伊3国同盟」を
締結した。
実は当時の日本には、提携したナチスドイツが、ユダヤ民
族の絶滅を目指す非人道国家であるという認識
が全くなく、後々大き
な禍根を残すこと
になる.
そのために当時の日本は、米英枢軸国から ナチスとおなじ非人的な
過激国家という烙印を押され 大きな
誤解を生んた節がある。


こうして様々な要因が重なり、米国はついに 日本に対し石油禁輸

経済制裁を発動してくる事になる。
開戦に至るまでの近衛内閣と軍部と
の葛藤、外交努力の足跡や、開戦
に至るまでの過程は、既に多くの書物
や外交資料が収録する通りである。

■「太東亜戦争の勃発
石油を絶たれたことから始まった昭和16年12月8日の日米の開戦、
は、この真珠湾を皮切りに欧米枢軸の世界列強を相手にした、勝ち目の
ない世界大戦に向けて、日ごと拡大していくことになる。



イカロスたちの夏
作家、猪瀬直樹著「昭和16年夏の敗戦」は、この戦争を描いた
極めて異色の力作といっていい。

この第2章「イカロスたちの夏」では総力戦力研究所の模擬内閣が 
開戦後、様々な課題と取り組むシュミレーションの様子を描く。

勿論、石油備蓄と生産性と戦況の問題、日独伊の関係など、
実際
にあったことを探って書かれたいわばドキュメンタリーに近い

品だが、
中でも開戦前の昭和15年8月5日から始った総力戦研究所
第3期演習では

・米国の対日本融和申入に対し遅延策をとる事
・日ソ中立条約をソ連が守る事
・タイにたいし、政治、軍事提携の強化を図る事 
など 戦略的な価値ある施策が、見て取れて頼もしい。
 

タイ進駐の賭け
日本は開戦すると同時に英国統治のマレー半島やビルマ(現マ
ーシア)に進攻するため、隣接するタイに「事前平和進駐」す
る必要
あった。

そこで開戦をまじかに控えて「平和進駐」の協力を いつピプン首
に要請するか、バンコクでは連日のように日本側の外交画策が
密裏に始まっていた。


しかし「中立を維持するタイ国としては,日本の要請を受け入れる
可能
性は少ない」との観測が多く現地日本側は暗澹たる空気に包
まれて
いた。
それを察してか開戦前夜、日本軍の平和進駐を躊躇したピプン
相の失踪などで、開戦当日には 待ちきれない日本軍のタイへの
上陸
行動が始まり、一部ではタイ国軍との間で交戦もあったと聞


開戦当日12月8日の午後 やっと日タイ平和進駐交渉が妥結さ
れた。
そして名将 山下奉文大将率いる日本南方軍は、マレー半
島への奇襲
上陸作戦を強行し、世界戦史に残る大成功を収める事
になる。

しかしそれから約3年半余り、この戦いは 残念ながら敗戦に終
わった。

石油に始まり、石油に終わった極めて悲惨な完敗の戦争だった。
この間、日タイ間の駆け引きや、国思うピプン首相の苦渋の決断な
ど、
驚くほど多くの隠された外交秘話が 残されているという。

当時のタイ王国は、周囲を植民地諸国に囲まれ、極めて厳しい立
にあつたにもかかわらず、優れた外交力を駆使して中立を維持し
ていた。
一方日本は王室間の友好関係もあり、タイをアジアの協力
拠点として、
特別の外交関係を保ち続けていた。

そしてバンコクのタイ王国日本大使館には、坪上大使や浅田総領事、
田村
武官など有能な外交官や武官を配し、タイ政府やピプン首相と
の親交を深
めていた。




                      (フイリピンに再上陸した連合国軍)
涙で聞いた玉音放送 
当時勤労動員先の軍需工場で天皇の終戦放送を聴いた作家 半藤一利
さんは
「中学3年の15歳だった。工場内の機械はいっせいにとめられ、
ラジオの前に集まった。
[耐え難きを耐え、忍び難きを忍び]と、そこだけはハッキリと耳に入り
ました。[
ああ、戦争に負けたんだ!と言う事はわかりましたよ、いくら
ぼんくら中学生でもと
自著[あの戦争と日本人]の冒頭に記している。

やがて戦後70回目の8月15日がやって来る
当時23歳だった作家山田風太郎は、著作「戦中派不戦日記」で当日
の様子
を次のように書きつずつている。「明るい、くらくらするほど夏の
太陽は白
く燃えている。
負けたのか! 信じられない。

この静かな夏の日の日本が今の瞬間から、恥辱にみちた敗戦国となったと
は 
「眼が涸れ果てて涙も出なかった。と。


  (
国敗れて山河あり
日本は、この大東亜戦争、別称太平洋戦争で310万の同胞の血涙を流した、
予期できなかった日本の破滅、その結果は極めて厳しいものだった。

そして日本は、やがてさまざまな恩讐を超えて 世界の平和をリードする確か
な自
信と自立を取り戻す事になる。



 


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