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■■■■■■駅弁(鉄道弁当)と伊豆の国北條氏■■■■■■
北條俊彦
経営コンサルタント・前 住友電工タイ社長
■■「忘れられぬ思い出」
⚫️駅弁は,ご当地自慢の味がふんだんに詰め込まれた 日本の食
文化である。私が駅弁に興味を持つようになったきっかけは,
「駅弁発祥の地」と言われる,(当時)国鉄姫路駅のまねき食堂の
駅そばとの 出会いである。子供の頃,列車内で父とよく一緒に食
べたものだ。
⚫️大阪から国鉄を利用して父の郷里へ帰省する途中, 姫路駅で
播州赤穂行の列車に乗り換えるのだが、列車が出発するまでに
は かなりの時間待ちがあった。
駅のホームでは, 出雲で仕入れたという蓋付きの鉢に入った駅そ
ばが,立ち売りで販売されていて列車内で食べることができた。
窓から駅そばを受取り,蓋を開けてみると, 中は不思議な組み合わ
せ。和風の出汁に 麺は黄色い中華麺。そしてその上に出汁に馴
染んだ円くて薄い天ぷらが乗っているのだ。
父子してフーフーと駅そばを啜り上げるのだが, これが実に楽し
く,嬉しく,そして美味しかった。心も身体も温まる,懐かしい忘れ
られない味である。
(出所:まねき食品、姫路駅駅弁立ち売り)
⚫️販売元のまねき食品は,戦後直ぐに“うどん”で始めたが, 麺の
のびと腐敗予防、そして風味を維持するために試行錯誤を重ね,
最後, かんすいを入れた中華麺にたどり着いたそうだ。
今は車内持ち込み禁止, そして容器も樹脂に変わってしまったが、
B級グルメとして,或いは通勤通学の人達の小腹を満たす食として
70年以上を経た今も, 根強い人気の姫路駅名物“駅そば“である。
(姫路駅の駅そば。天ぷらそば)
⚫️また,まねき食品は, 明治22年から姫路駅で我が国最初の幕
の内弁当を製作し,駅弁として販売を始めている。
13種類のおかずを上折に下折は白飯の二重の折詰で,価格は12銭
と,当時としてはかなり高価で贅沢な弁当であった。
●復刻版姫路駅幕の内弁当
⚫️立春の頃、久方ぶりに伊豆の国へ鉄道旅をした。
JR三島駅で下車、ホームで暫く不二の白嶺を眺めて,伊豆箱根鉄
道に乗り換えるのだが,三島駅限定の駅弁“だるま”の『伊豆山海
おぼろ寿司弁当』はお薦めだ。
また,三島駅にも気になる駅そば屋があった。肉厚の椎茸を盛っ
た濃口出汁の関東風の椎茸そばであったが,残念ながらコロナの
影響で閉店したらしい。
🔵50年近く愛された三島駅の椎茸そば、🔵だるまの伊豆山海おぼろ寿司弁当
⚫️さて,三島駅を起点に修善寺駅まで40分程度の鉄道旅。
車窓から眺める風景は, 風光明媚な山並みと,緑豊かな田園が広
がり,どこか長閑で暖かく懐かしくもある。太古の昔に,地下マグ
マの活発な活動によって地盤の傾斜や山体の膨張など,大規模な
地殻変動によって形成された伊豆の大地が、穏やかな表情で私
を迎えてくれる。
🔵修善寺の名物弁当小鯵寿司
途中,韮山駅で下車,かなりの距離を歩くことになったが, 北條氏
ゆかりの願成就院,成福寺,北條寺,円成寺跡(北條氏邸跡)を訪れた。
🔵鎌倉北條氏の家紋「三つ鱗」
■■「伊豆の国と北條氏」
⚫️北條氏と聞けば、鎌倉を連想する人が多いが、彼らはもとも
と伊豆の国の有力豪族であった。源頼朝を担ぎ、武家政権の樹
立に伴い鎌倉へ本拠を移したものの、伊豆の守山にあった北條
氏邸は維持されている。その守山の東側に北條時政が氏寺とし
て建立したのが願成就院である。
高野山真言宗の寺院であり、北條氏の菩提寺として大伽藍を有
する名刹であったが,北條氏の栄華も今は儚い夢, 閑寂の中に寺
院はひっそり佇む。現在,寺内に運慶の作“阿弥陀如来坐像”など
3軀の国宝が所蔵されている。
そして,円成寺跡北條高時他一族尽く自刃し、鎌倉幕府の滅亡後、
その妻や娘達は故郷である伊豆の地に落ちていった。
第九代執権北條貞時の側室で北條高時の母でもあった円成尼が
中心となり、一族の冥福を祈るため北條氏邸跡に寺院を建てた
のが円成寺で、尼寺として江戸時代まで存続していたそうだ。
⚫️北條氏の宗旨は、北條時頼が武家政権に禅を取り入れたよう
に臨済宗を基本としている。中国から臨済宗の高僧を招くなど、
臨済宗は鎌倉において隆盛を極め、鎌倉にある臨済宗の寺院は
建長寺、円覚寺、寿福寺、浄智寺、浄明寺の順に寺格も決めら
れて鎌倉五山と総称されている。
時頼は蘭渓道隆(諱は大覚禅師)を招き建長寺の開山とした。
また,時宗は蘭渓道隆の亡き後,無学祖元を建長寺に招き,後, 円覚
寺の開山としている。
中国からの渡来僧が、北條氏及び武家政権に与えた精神的影響
は非常に大きい。特に、無学祖元は日本の臨済宗の基礎を確立
すると共に、頼朝以来所領で繋がってきた“御恩と奉公”の関係
を精神的に高め、忠誠心や武士の矜持にまで進化させた。
江戸時代まで続く武家政権の精神的基盤である、武士道はこの
無学によって拓かれたといっても過言ではないだろう。
⚫️1275年 フビライ率いる蒙古軍は南宋の杭州に攻め込み、
無学らの避難する温州能仁寺を包囲した。
🔵日本に攻め込む蒙古軍(出典:旅人マガジン)
多くの僧が逃げ惑う中、ひとり座禅を続ける無学を蒙古軍は剣
を以って脅したが、無学は微動だせず,泰然として『臨剣の頌』
(臨刃偈)を吟じる。
『乾坤無地卓孤笻
且喜人空法亦空
珍重大元三尺剣
電光影里斬春風』
蒙古軍に中国語が解る者がいたのか、彼の毅然たる姿に心打た
れたのか,剣を鞘に納め深く叩頭し,静かに去っていったという。
来日後は、参禅する時宗に対し (時宗を警策で打つことを憚り、
代わりに通訳を打ち)提議を重ね,若き時宗の心を鍛え、そして
支え続けた。
🔵無学祖元像
⚫️我が国が二度の元寇で危機に瀕した時、その危機に臨んで、
建長寺に無学を訪ね座禅を重ねる時宗に対し,二つの言葉を提議
し,叱咤激励している。即ち『莫煩悩』,迷うことなく信ずると
ころを行え。
そして古事成語「驀直進前」の元となる『驀直去』(まくじき
にされ)驀直に前へ向かって,絶対に振り返ってはならぬと。
🔵北條時宗公像(出典:歴人マガジン)
⚫️文永・弘安の役の勝利について「時宗は禅の大悟で 己が精神
を支え続け,勝利したのである。神風などでは決してない」とも
無学は語っている。
元寇を敗北せしめた時宗は,国家の鎮護,禅の流布発願と文永・弘安
の役による戦没者を敵味方の区別なく弔うため,瑞鹿山円覚寺
の建立を発願し,無学に開山させた。
開山の後、無学は望郷の念捨て難く「辞檀那求帰唐」と題する詩
を時宗に届け、帰国の許可を願ったが許されていない。
『法の為に人を求めて日本に来る
珠回り玉転じて荒台に委す
大唐沈却す孤笻の影
添え得たり扶桑一掬の灰』
これは無学自悼の詩であるが,末句で「私はこの日本に一握りの
遺灰を残すのみ」と,帰国を諦めた心境を自嘲的に吐露している。
そして,愛弟子時宗の死(享年34歳)。そのあまりに早い死に
「40歳未満の生涯ながら,その功績は70歳を超えて生きた人
にも勝る・・・(中略)・・立派な人物であった。」と称えて
いるが、その2年後,無学もまた建長寺にて示寂、享年61歳で
あった。
『来たるも亦前ならず、
去るも亦後ならず。
百億毛頭に獅子現じ、
百億毛頭に獅子吼ゆ。』
仏光国師(諱)辞世の句である。
無学の法灯は,後嵯峨天皇第二皇子高嶺顕日禅師(諡号仏国禅師)
そして宇多天皇9世孫と称し, 漢詩人,歌人であり, 禅庭枯山水の
完成者として世界史上最高の作庭家の一人と言われる, 夢窓疎石
禅師(尊称七朝帝師)へと受け継がれ, 後の五山文学や室町文化
に大きな影響を与えている。
⚫️円成寺跡の次に北條寺を訪れる。
この寺は北條義時創建の臨済宗建長寺派の寺で、境内には北條
義時夫妻の墓がある。義時最後の言葉は「南無阿弥陀仏、南無
阿弥陀仏・・・・」であった。
鎌倉時代には新しい宗派も多く生まれ, 北條一門にも臨済宗以外
の宗派を信仰する者も数多く見られるが、北條時宗の三男正宗
(幼名満市丸)は伊豆に遷り,文永弘安の役の戦没者を弔うため
1289年浄土真宗の寺である、成福寺を建立している。
私が最後に訪れた成福寺境内には北條時宗, 正宗, 覚山尼(時宗
の妻)の供養塔もある。
🔵成福寺(韮山駅下車)(出典:伊豆の国市観光協会)
🔵北條時宗公、覚山尼、北條正宗公の供養塔(出典:伊豆の国市観光協会)
1333年(元弘3年)5月9日六波羅探題北條仲時他432名が近江
蓮華寺にて,5月22日に北條高時他870名が鎌倉東勝寺にて
自刃し,終に北條氏は滅亡した。
🔵北條仲時像(出典:Wikipedia)
■■「後世に汚名を残す」
⚫️歴史は勝者によって語られるのだが, 今日に至るまで「政権
を奪い, 主家(源氏)から鎌倉幕府を横領し,且つ, 幕府を滅亡せ
しめた奸族」と北條氏は汚名を着せられている。
但し,北條泰時のような例外はある。御成敗式目を制定するなど、
理想の武家政権を築き上げた名執権として 泰時の治世は大いに
評価されている。
後世,北畠親房, 徳川光圀, そして頼山陽なども泰時を大いに讃え
ている。しかし, 泰時だけでなく北條氏は日本を国家として大局
的に捉え, 公平無私な政治を行おうとした武門であったと私は固
く信じている。
⚫️明治になり、昭憲皇太后は、「あだなみは ふたたびよせず
なりにけり 鎌倉山の 松のあらしに」と北條時宗を称え, 政府
も元寇を退けた救国の英雄として,急遽、時宗に従一位の官位を
追増している。強大なロシアの脅威に怯える明治政府の周章狼狽
ぶりが目に浮かぶ。
昨年のNHK大河ドラマ「鎌倉の13人」では北條義時を筆頭に、
陰謀と策略の限りを尽くす一族として描かれたが, その汚名返上
にはまだまだ時間がかかりそうだ。
最後に, 第七代執権北條時頼の遺偈を紹介し, 伊豆の鉄旅を締め
くくりたい。『業鏡高懸 三十七年 一槌打碎 大道担然』
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