「21世紀はアジアとの時代」 (Jtiro🔴Jpn) SDGs.Webサイト(Editor: K.Yamada)

●Copyright © 2025.All rights reserved.●Since2008.
  

■「いざ鎌倉」

2022-06-09 | ●北條語録

■■■■■■■■■■■いざ,鎌倉■■■■■■■■■■■
北条俊彦
経営コンサルタント・前 住友電工タイ社長
■■「
佐用の郷
兵庫県は国内有数の城址密集県として1,000を越す城址が現
存する。
神戸市北区に鎌倉時代に築城された淡河(おうご)城址
今も残っている。

  中世播磨の豪族淡河氏の築いた城で、淡河氏は鎌倉幕府執権職
北条氏の後裔と伝えられており、北条時房
の子左介時盛の子時治
が、承久の変後の承久四年(1222
年)に, 播磨国美嚢郡淡河庄の
地頭職に補任され
この地に入部したことに始まる。


       ●佐用の代官屋敷跡と当時を偲ばせる町並み(出典:佐用町観光協会)
旅ごろも木の根かやの根いずくにか 身の捨つられぬ 処あるべき
これは一遍上人の和歌である。

国宝「一遍聖絵」第十二、第二段「・播磨の淡河殿と申す女房
の、参りて受け奉りしぞ 」に記され一遍聖人から
最後の念仏札を
授かった女房は淡河時治の妻と云われて
おり、また一遍の後継者
(二世)他阿真教上人から最初
の念仏札を授かった[粟河(おうご)
といふ所の領主なる人]
とは淡河時治であったようだ。

淡河城主夫妻は揃って時宗
の熱心な信者であったようだ。時宗と
は浄土宗の一派で、一遍上人を開祖とし阿弥陀仏
をご本尊として
おり、盆踊りの起源ともいわれる念仏踊りが
有名である。
尚「一遍聖絵」は開祖一遍上人(遊行上人)
を描た絵巻で国宝と
なっている。

淡河城は代々淡河氏が支配したが、戦国時代に下って城主の
淡河定範は三木の別所長治に味方し羽柴秀吉
と戦っている。
淡河城での戦いでは秀長勢を粉砕したもの
の、善戦虚しく城に火
を放ち一族郎党引き連れて三木城
に入城し秀吉軍と戦った。三木
城の攻防戦は後世「三木の干殺し」と呼ばれるように
凄惨な戦い
になる。

天正七年毛利氏の三木城への兵糧支援を機に平田・大村で合戦が
行われたが、城から打って出た淡河弾正忠
定範は奮戦虚しく多勢
に無勢、秀吉軍に追い詰められ遂
に自刃した。



佐用郡佐用町に我が家があるが、佐用町にも佐用城址(福原城
址ともいう)、利神(りかん)城址や上月(こうづき)
城址が残
る。
利神城は江戸時代初期には天守があり、竹田城址に劣ら
ぬ霧
に浮かぶその威容から雲突城とも呼ばれていた
また、
上月城はご承知のように織田と毛利の前哨戦であった上月
合戦で尼子勝久、山中鹿之介主従が籠城した城である。

その佐用町には北条時頼の廻国伝説が伝えられている。北条時頼
が執権の地位を長時に譲った後、最明寺入
道と呼ばれ旅僧の姿で
諸国を行脚したことが「増鏡」や
「太平記」に記されている。

「太平記」では最明寺入道
が摂津国難波浦を訪れた時の出来事が
詳しく記され
ているが、廻国伝説は史実に近いものと信じたい。
蛇足であるが、兼好法師が「徒然草」で時頼について 次の 二編
(第215段、215段)語っているのだが、好対照
な内容で実
に興味深いので紹介しておきたい。
北條時頼の像

■■いざ、鎌倉!
北条時頼は佐用に足を伸ばし、諸国行脚の疲れから病を得て三
ヶ月間佐用に滞在したと伝えられているの

だ。村人から手厚い看護を受けた時頼は、病が癒えた
後、自ら手彫りの木像(時頼坐像)と和歌を残し佐用
の地を去ったのである。
時頼は二首詠んでおり、
何国とも 知らで道にぞ 病みぬべき 晴れ間も見えぬ 
佐用の朝霧“
深雪にも あさる雉子(きぎす)の 声聞けば おのが心は
いつも春哉(はるかな)“
この和歌から佐用のこの地を春哉と呼ぶようになったと云う。
また、木像は桂材による寄せ木造りで鎌倉時代の秀作と
して今は国の指定重要文化財になっている。


北条時頼廻国伝説といえば、能鉢木(はちのき)」である。
誰もがご存知であると思うが、この物語のあら筋とは、“大雪の
降る中、鎌倉を目指す一人の旅僧が上野国佐野荘
を訪れる。
道中にあった荒屋を尋ね一夜の宿を請うた。家婦は
主人の留守中
のこと故戸惑ったが、やがて帰宅した荒屋の主人
佐野源左衛門
尉常世は貧苦を理由に宿を貸すことができない
と断った。
しかし、その後妻の助言もあり常世は旅僧を追い荒家に呼び戻
一夜の宿を提供したのである。厳しい寒さの中、粟の飯を炊き

さを凌ぐため愛蔵の鉢植え梅・松・桜を薪として囲炉裏にくべて

旅僧をもてなしたのである。

主人は佐野荘の領主だった佐野源左衛門尉常世と名乗り「一族に
土地を奪われ今はこのように落ちぶれているが、鎌倉で
事変など
あれば、誰よりも先に馳せ参ずるつもりである。」と旅僧
に語り
ます。

翌朝お互いに名残を惜しみながらも旅僧は荒屋を後にする。それ
から幾日と経ったある日、鎌倉にある時頼は関東八州の
御家人に
召集をかけた。

常世も破れた甲冑と錆びた薙刀を持ち痩せ馬にまたがり鎌倉へ
馳せ参じたのであった。あまりに見窄らしい姿に周囲の武士から

の嘲笑を買う中、時頼の命を受けた配下の二階堂から呼び出し
受けた。常世が恐る恐る前に進み出て顔を上げると、そこには

雪の夜の旅僧の顔があった。
この旅僧こそが前の執権北条時頼で
あった。
時頼は常世に雪の夜の礼を述べ、鎌倉への参陣を誉め讃えつつ
野荘の安堵を約束した。更に、薪としてくべられた鉢木に因んで

上野国松井田荘、越中国桜井荘、加賀国梅田荘を与えた。
常世は喜び勇んで上野国に帰って行くのである。“

御恩と奉公」「一所懸命」落魄武士の矜持と果報が描か
れた
素晴らしい作品である。徳川家康が最も好む能の演目の一つ
あったが、鉢木が武士の時代盛んに演じられたであろうことは
十分
に理解できる。

シテ(主役常世)は一人の平凡な武士であるが、“雪は鵞毛に
て飛んで散乱し、人は鶴氅を着て立って徘徊す・・“と雪を
見るに
「和漢朗詠集」の白楽天の詩を語り、旅僧との出会いを
「古今和
歌集」藤原定家の和歌
“駒とめて 袖打ち払ふ かげもなし  佐野
の渡りの 雪の夕暮“
に喩える。さらには粟飯を炊く場面では唐の
小説「枕中記」の
故事(盧生の見た僅かの間の夢、一睡の夢、即
ち人生の栄華
の儚さ)を引き比らべたりと、常世を古典の素養を
持ち風雅を
知る武士として描いている。

常世登場時の「ああ降ったる雪かな。如何に世にある人の面白
候ふらん。・・・けふの寒さを如何にせん。あら面白からずの雪

の日やな。」と語る場面は、雪景色の中に、武士としての品格と
矜持を持つ常世の生き様を象徴的に表現しているのである。


[
鉢木」は演劇として実に深い演目であるが、謡曲そのもの
ついても声楽部分として十分に楽しんで頂けるのだ。
謡曲とは能の詞章であり、演劇における脚本に相当するもので
り、また能の声楽部分として謡(うたい)とも呼ばれ、 せりふ
(役
謡:やくうたい)と地の文(地謡:じうたい)とから構成さ
れる。

謡曲は古歌・古詩など古典が潤沢に描かれ、様々な修辞を駆使し
た流麗優美な和文体である。
ところで、“いざ鎌倉“という言葉は
今の日本人にとって死語と
なってしまっているのだろうか。


■■「治乱への衿持
ロシアによる北方領土の不法占拠、
・韓国の竹島不法占拠、
・中国による度重なる尖閣諸島領海侵犯と台湾帰属問題
など地政学的にも日本は最も危険な状態ある

ロシアのウクライナ侵攻は日本人にとって他人事ではない
エカテリーナ二世を敬愛するプーチンのツアーリズムは  指導者に
対する個人崇拝、軍事力や工作による暴力的な対外政策、
秘密警察による恐怖政治や大規模粛清、ロシア中心の大国主義等
々、ソ連時代のスターリニズムと全く同質である。

1945年ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄し、広島に原爆が
投下された2日後の8月8日日本に宣戦を布告し、
満蒙や朝鮮、
南樺太に侵攻し殺戮暴行略奪の限りを尽く
した。



                    ●地図の出典:時事通信)
更に、ソ連は南樺太から南下し北海道占領を目論んでいたが、
日本がポッダム宣言の受諾を宣言した後の8月18
日に突如千島
列島へ侵攻した。
樋口季一郎中将指揮下、
大日本帝国陸海軍は占守島(しゅむしゅ
とう)の戦いでソ連
の侵攻を押し留め、北海道占領を免れたこと
を忘れてはなら
ない。
また、日ソ戦停戦後に大日本帝国軍人、軍属から57万人以上が
シベリア他に抑留され強制労働を課され5万5千人
もの方々が亡
くなられるというソ連の犯した戦争犯罪を決し
て許してはいけな
い。
歴史は必ず繰り返す。」 “先人への尊敬と感謝の気持ちを
忘れず,日本人としての
矜持を持ち”“治にいて乱を忘れぬ“よう肝
に銘ずべしと、日々
強く思い致すのである。 

       

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ■亡国の危機 | トップ | ■もう駄目だ 史観 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿