■■■■■■■■■■■いざ,鎌倉■■■■■■■■■■■
北条俊彦
経営コンサルタント・前 住友電工タイ社長
■■「佐用の郷」
●兵庫県は国内有数の城址密集県として1,000を越す城址が現
存する。神戸市北区に鎌倉時代に築城された淡河(おうご)城址が
今も残っている。
中世播磨の豪族淡河氏の築いた城で、淡河氏は鎌倉幕府執権職
北条氏の後裔と伝えられており、北条時房の子左介時盛の子時治
が、承久の変後の承久四年(1222年)に, 播磨国美嚢郡淡河庄の
地頭職に補任されこの地に入部したことに始まる。
●佐用の代官屋敷跡と当時を偲ばせる町並み(出典:佐用町観光協会)
“旅ごろも木の根かやの根いずくにか 身の捨つられぬ 処あるべき”
これは一遍上人の和歌である。
国宝「一遍聖絵」第十二、第二段「・播磨の淡河殿と申す女房
の、参りて受け奉りしぞ 」に記され一遍聖人から最後の念仏札を
授かった女房は淡河時治の妻と云われており、また一遍の後継者
(二世)他阿真教上人から最初の念仏札を授かった[粟河(おうご)
といふ所の領主なる人]とは淡河時治であったようだ。
淡河城主夫妻は揃って時宗の熱心な信者であったようだ。時宗と
は浄土宗の一派で、一遍上人を開祖とし阿弥陀仏をご本尊として
おり、盆踊りの起源ともいわれる念仏踊りが有名である。
尚「一遍聖絵」は開祖一遍上人(遊行上人)を描た絵巻で国宝と
なっている。
●淡河城は代々淡河氏が支配したが、戦国時代に下って城主の
淡河定範は三木の別所長治に味方し羽柴秀吉と戦っている。
淡河城での戦いでは秀長勢を粉砕したものの、善戦虚しく城に火
を放ち一族郎党引き連れて三木城に入城し秀吉軍と戦った。三木
城の攻防戦は後世「三木の干殺し」と呼ばれるように凄惨な戦い
になる。
天正七年毛利氏の三木城への兵糧支援を機に平田・大村で合戦が
行われたが、城から打って出た淡河弾正忠定範は奮戦虚しく多勢
に無勢、秀吉軍に追い詰められ遂に自刃した。
●佐用郡佐用町に我が家があるが、佐用町にも佐用城址(福原城
址ともいう)、利神(りかん)城址や上月(こうづき)城址が残
る。利神城は江戸時代初期には天守があり、竹田城址に劣らぬ霧
に浮かぶその威容から雲突城とも呼ばれていた。
また、上月城はご承知のように織田と毛利の前哨戦であった上月
合戦で尼子勝久、山中鹿之介主従が籠城した城である。
その佐用町には北条時頼の廻国伝説が伝えられている。北条時頼
が執権の地位を長時に譲った後、最明寺入道と呼ばれ旅僧の姿で
諸国を行脚したことが「増鏡」や「太平記」に記されている。
「太平記」では最明寺入道が摂津国難波浦を訪れた時の出来事が
詳しく記されているが、廻国伝説は史実に近いものと信じたい。
蛇足であるが、兼好法師が「徒然草」で時頼について 次の 二編
(第215段、215段)語っているのだが、好対照な内容で実
に興味深いので紹介しておきたい。
●北條時頼の像
■■「いざ、鎌倉!」
●北条時頼は佐用に足を伸ばし、諸国行脚の疲れから病を得て三
ヶ月間佐用に滞在したと伝えられているの
だ。村人から手厚い看護を受けた時頼は、病が癒えた
後、自ら手彫りの木像(時頼坐像)と和歌を残し佐用
の地を去ったのである。
時頼は二首詠んでおり、
“何国とも 知らで道にぞ 病みぬべき 晴れ間も見えぬ
佐用の朝霧“
“深雪にも あさる雉子(きぎす)の 声聞けば おのが心は
いつも春哉(はるかな)“
この和歌から佐用のこの地を春哉と呼ぶようになったと云う。
また、木像は桂材による寄せ木造りで鎌倉時代の秀作と
して今は国の指定重要文化財になっている。
●北条時頼廻国伝説といえば、能「鉢木(はちのき)」である。
誰もがご存知であると思うが、この物語のあら筋とは、“大雪の
降る中、鎌倉を目指す一人の旅僧が上野国佐野荘を訪れる。
道中にあった荒屋を尋ね一夜の宿を請うた。家婦は主人の留守中
のこと故戸惑ったが、やがて帰宅した荒屋の主人佐野源左衛門
尉常世は貧苦を理由に宿を貸すことができないと断った。
しかし、その後妻の助言もあり常世は旅僧を追い荒家に呼び戻し
一夜の宿を提供したのである。厳しい寒さの中、粟の飯を炊き寒
さを凌ぐため愛蔵の鉢植え梅・松・桜を薪として囲炉裏にくべて
旅僧をもてなしたのである。
主人は佐野荘の領主だった佐野源左衛門尉常世と名乗り「一族に
土地を奪われ今はこのように落ちぶれているが、鎌倉で事変など
あれば、誰よりも先に馳せ参ずるつもりである。」と旅僧に語り
ます。
翌朝お互いに名残を惜しみながらも旅僧は荒屋を後にする。それ
から幾日と経ったある日、鎌倉にある時頼は関東八州の御家人に
召集をかけた。
常世も破れた甲冑と錆びた薙刀を持ち痩せ馬にまたがり鎌倉へと
馳せ参じたのであった。あまりに見窄らしい姿に周囲の武士から
の嘲笑を買う中、時頼の命を受けた配下の二階堂から呼び出しを
受けた。常世が恐る恐る前に進み出て顔を上げると、そこには大
雪の夜の旅僧の顔があった。この旅僧こそが前の執権北条時頼で
あった。
時頼は常世に雪の夜の礼を述べ、鎌倉への参陣を誉め讃えつつ佐
野荘の安堵を約束した。更に、薪としてくべられた鉢木に因んで
上野国松井田荘、越中国桜井荘、加賀国梅田荘を与えた。
常世は喜び勇んで上野国に帰って行くのである。“
●「御恩と奉公」「一所懸命」落魄武士の矜持と果報が描か
れた素晴らしい作品である。徳川家康が最も好む能の演目の一つ
であったが、鉢木が武士の時代盛んに演じられたであろうことは
十分に理解できる。
シテ(主役常世)は一人の平凡な武士であるが、“雪は鵞毛に似
て飛んで散乱し、人は鶴氅を着て立って徘徊す・・“と雪を見るに
「和漢朗詠集」の白楽天の詩を語り、旅僧との出会いを「古今和
歌集」藤原定家の和歌“駒とめて 袖打ち払ふ かげもなし 佐野
の渡りの 雪の夕暮“に喩える。さらには粟飯を炊く場面では唐の
小説「枕中記」の故事(盧生の見た僅かの間の夢、一睡の夢、即
ち人生の栄華の儚さ)を引き比らべたりと、常世を古典の素養を
持ち風雅を知る武士として描いている。
常世登場時の「ああ降ったる雪かな。如何に世にある人の面白う
候ふらん。・・・けふの寒さを如何にせん。あら面白からずの雪
の日やな。」と語る場面は、雪景色の中に、武士としての品格と
矜持を持つ常世の生き様を象徴的に表現しているのである。
● [鉢木」は演劇として実に深い演目であるが、謡曲そのもの
についても声楽部分として十分に楽しんで頂けるのだ。
謡曲とは能の詞章であり、演劇における脚本に相当するものであ
り、また能の声楽部分として謡(うたい)とも呼ばれ、 せりふ
(役謡:やくうたい)と地の文(地謡:じうたい)とから構成さ
れる。
謡曲は古歌・古詩など古典が潤沢に描かれ、様々な修辞を駆使し
た流麗優美な和文体である。ところで、“いざ鎌倉“という言葉は
今の日本人にとって死語となってしまっているのだろうか。
■■「治乱への衿持」
・ロシアによる北方領土の不法占拠、
・韓国の竹島不法占拠、
・中国による度重なる尖閣諸島領海侵犯と台湾帰属問題
など地政学的にも日本は最も危険な状態ある
●ロシアのウクライナ侵攻は日本人にとって他人事ではない。
エカテリーナ二世を敬愛するプーチンのツアーリズムは 指導者に
対する個人崇拝、軍事力や工作による暴力的な対外政策、
秘密警察による恐怖政治や大規模粛清、ロシア中心の大国主義等
々、ソ連時代のスターリニズムと全く同質である。
●1945年ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄し、広島に原爆が
投下された2日後の8月8日日本に宣戦を布告し、満蒙や朝鮮、
南樺太に侵攻し殺戮暴行略奪の限りを尽くした。
●地図の出典:時事通信)
●更に、ソ連は南樺太から南下し北海道占領を目論んでいたが、
日本がポッダム宣言の受諾を宣言した後の8月18日に突如千島
列島へ侵攻した。
樋口季一郎中将指揮下、大日本帝国陸海軍は占守島(しゅむしゅ
とう)の戦いでソ連の侵攻を押し留め、北海道占領を免れたこと
を忘れてはならない。
また、日ソ戦停戦後に大日本帝国軍人、軍属から57万人以上が
シベリア他に抑留され強制労働を課され5万5千人もの方々が亡
くなられるというソ連の犯した戦争犯罪を決して許してはいけな
い。
「歴史は必ず繰り返す。」 “先人への尊敬と感謝の気持ちを
忘れず,日本人としての矜持を持ち”“治にいて乱を忘れぬ“よう肝
に銘ずべしと、日々強く思い致すのである。
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