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■良いゲームとは

2021-09-15 | ●松本語録

■■■■■■■■■■■■ゲー良いムとは ■■■■■■■■■■■■

松本 光弘
筑波大学名誉教授・元 日本サッカー協会理事・元 筑波大学蹴球部監督

■「胎動の時代
日本における世界でも類を見ないスポーツ界の成功例は、プロ野球に
続いて1993年設立されたプロフェッショナルサッカー、いわゆるJリーグ
である。このJリーグの成功の背景をたどると1964年にアジアで初めて開
催されたオリンピック東京大会までさかのぼる。

1956年は南半球で初めてオーストラリア、メルボルンでオリンピックが開
催された。この時サッカー日本代表は宿敵韓国に一勝一敗の引き分けで抽
選(くじ引き)の結果本大会に出場している。
このころのサッカー競技は勝敗が決しない場合は抽選で次回に進むチーム
を決定していた。このメルボルンオリンピックアジア地区予選はホームア
ンドアウェー方式で行われるのがサッカー界では常識であったが、韓国側
の日本代表チームの入国拒否から2試合とも日本の東京後楽園競輪場で行
われた。
このころ日本にはサッカーの国際試合を開催できる芝生の競技場は東京後
楽園競輪場が唯一のものであった。1956年6月3日と6月10日に行われた。
一回戦は日本が2-0で勝利、2戦目は韓国が0-2で勝利、延長戦でも決着が付
かず抽選の結果日本がメルボルンオリンピック本大会に出場した。サッカ
ー競技では現在は抽選方式で次回進出チームを決定する方法はとり止めPK
方式を採用している。

ラグビーでは現在もなお抽選方式で行なわれている。1960年メルボルンオ
リンピック本大会出場の日本代表チームは開催国オーストラリアとの初戦
を戦い0-2で敗れている。この時の試合はトーナメント方式の勝ち上が
りで、日本代表は一試合で敗退しすべてが終わった。

           
1960年のオリンピック開催に立候補した東京はローマに敗れ、1964年の
東京大会開催となった。この1964年の開催地東京が決定したのは1959年
5月26日西ドイツ、ミュンヘンでのIOC総会であった。この年の12月13日
と12月20日にローマオリンピック出場権
をかけてサッカーの日本代表チー
ムはライバル韓国と東京後楽園競輪場で戦っている。

この時私はすでに高校3年のサッカー少年であった
1959年12月20日2戦目を埼玉県安行村慈林(現在川口市安行慈林)から東
京後楽園競輪場に一人で観戦に行った。雨が激しく降る最悪のコンディシ
ョンの試合であった。
12月13日の第一戦は韓国が2-0で勝利していた。2戦目の試合は両チー
ム一進一退であった。ぬかるみの中日本チームは1点先行しながらも次の1
点が入らない。韓国の長身のセンターフォワード崔貞敏がしなやかなボー
ルさばきをしていたことが記憶に残る。第一戦と第二戦の合計得点1-2
で次期オリンピック東京大会を前に日本はローマオリンピックへの出場は
断たれた。



■「運命的な出会い
この敗戦を踏まえオリンピック東京大会(1964)を目前にし
、ローマ
オリンピック
出場の日本サッカー界はそれまでどの競技でも考えなか
った外国人コー
チ招聘を決断する。
当時の日本蹴球協会(現日本サッカー協会)会長は野津謙博士であった。
野津氏は東京大学医学部卒業の小児科医であった。この時東京教育大学大
学院を終え。西ドイツケルン体育大学へ体育史を中心に勉強のため留学す
る成田十次郎氏を仲介にして日本蹴球協会は西ドイツサッカー協会とコー
チ派遣について交渉した。成田氏は東京教育大学3年生の時関東大学サッ
カーリーグ戦優勝メンバーでもあった。

この頃の西ドイツサッカー協会は第二次世界大戦敗戦後初めて開催された
1954年のFIFAワールドカップスイス大会で強豪ハンガリーを破って見事
優勝した。この奇跡ともいえる西ドイツサッカーチームの優勝が第二次世
界大戦で敗戦国となった西ドイツの
戦後復興の起爆剤となった。

その西ドイツ代表監督ゼップ・ヘルベルガーには3人の愛弟子がいた。その
・一人はその後1974年のFIFAワールドカップ西ドイツ大会で当時最強と言
われたヨハン・クライフ率いるオランダ代表チームを見事決勝戦で破り優勝
した西ドイツ代表監督ヘルムート・シェーン、
・二人目は西ドイツサッカー協会指導者養成担当でボルシア・メンヘンバ
ッハ監督を長く務めたヘネス・バイスバイラー、
三人目はユース担当の西ドイツサッカー協会西部地区主任コーチ、デュ
イスブルグシュポルツシューレにいたデッドマール・クラマーであった


   (●D,クラマーコーチ、出典,全て独サッカー協会)
西ドイツサッカー協会はその3人のうちの一人D・クラマー氏を日本に
派遣してくれたのである。
東京オリンピック開催の1964年3月は私の東京教育大学卒業の年でもあっ
た。その後日本サッカー協会にも関わるようになった私は 野津謙会長や
成田十次郎先輩からD・クラマー氏の招聘の経緯を幾度となくお聞きする
機会があった。中でも野津謙会長がことあるごとに語ってくれたのはD・
クラマーとの最初の出会いの時のことであった。

会長として最終面接のため西ドイツ、デュイスブルグスポルツシューレにD
・クラマー氏を訪問した時の話である。会長が面接のために案内された部屋
の壁に額が飾ってあった。
Es ist der Geist, der sieht. 
Es ist der Geist, der hort.  
Das Auge an sich ist blind. 
Das Ohr an sich ist taub.
その内容は「眼それ自体は盲目であり,耳それ自体は聞こえない。物を見、
物を聞くのは精神である」であった。野津会長は医師でありドイツ語はよ
く理解できたとのことである。このような言葉をいつも掲げて指導に当た
る指導者であれば会わずとも日本のサッカーの行く末を託そうとその時即
決したとのことであった。


以上のような経緯で西ドイツサッカー協会から派遣された身長165cmのD・
クラマー氏は精力的に指導に当たり多くの改革を日本サッカー界はもとよ
り日本のスポーツ界にもたらせた。

以下は他所からの引用である。
●[クラマーコーチと大和魂]     (メキシコ五輪日本代表)
私はこのように全員が持てる力を全て出し尽くしたのを見たことがない
1968年10月24日、国際サッカー連盟(FIFA)から派遣されメキシコ五輪
を視察したデットマール・クラマー氏は、地元メキシコを破って銅メダル
を獲得した日本の教え子たちに、胸を熱くした。ピッチでは歓喜に躍動し
た選手たちだったが、宿舎に戻ると全員がベッドに倒れこんで動けない。
水さえ飲めないまま寝入った。戦い抜いた姿にクラマー氏は涙した。


さかのぼること8年。東京五輪を4年後に控えた1960年10月29日 クラマ
ー氏はドイツから来日し、日本代表コーチに就任する。当時の日本はイン
ド、香港、フィリピンにも勝てずアジアでも下から数えた方が早いサッカ
ー弱小国だった。リフティングも満足にできない選手たちに、クラマーコ
ーチは基本を叩き込む。だが、それだけではなかった。

ドイツにはゲルマン魂がある。君たち日本人にも素晴らしい大和魂があ
るじゃないか。私に君たちの大和魂をみせてくれ

少しずつ成長した選手たちは、晴れの東京五輪で8強まで勝ち上がる。特
に初戦で南米の強豪アルゼンチンを3-2の逆転で破った試合は、選手た
ちに自信を与えた。東京五輪後、クラマーコーチはドイツに帰ったが、選
手たちは「クラマーのために戦う」と4年後のメキシコに目を向け、強化
を続けた。メキシコ五輪代表18人のうち14人が東京五輪代表、つまりほと
んどが「クラマーコーチの教え子」だった。

日本は強くなっていた
しかしメキシコには五輪直前の強化試合で0-4と敗れている。アステカ
スタジアムで始まった3位決定戦は、序盤からメキシコペース。それでも、
じっくり守ってカウンターという作戦を立てた日本は慌てず、前半17分と
39分に杉山隆一→釜本邦茂の黄金のホットラインから2点を奪う。
残る時間、日本は全員で守り抜いた。
GK横山謙三は、後半開始早々のPKさえ止めている。

大会後、報告書を作成した代表コーチの岡野俊一郎氏(現・日本サッカー
協会名誉会長)は参加16カ国の実力を評価し「個人技」で日本を最低の75
点とした。「まだまだ差をつけられている」。だが「精神力」は優勝した
ハンガリーと並ぶ100点。「宿舎に戻った選手たちは、口をきくことさえで
きなかった」と岡野コーチも振り返っている。

クラマー氏は日本人の見せた大和魂に胸を熱くした約束を守りぬいた選
手たちの心に泣いたのである。7年後の1975年、ドイツの強豪バイエルン
・ミュンヘン監督として欧州チャンピオンズカップ(現・欧州チャンピオ
ンズ・リーグ)を制覇したクラマー監督は、「今が人生最高の瞬間ではな
いですか」と記者に聞かれ、「いいえ」と答えた。
「最高の瞬間は日本がメキシコ五輪で銅メダルを獲得したときです。私は、
あれほど死力を尽くして戦った選手たちを見たことがない」

 FIFAはメキシコ五輪からフェアプレー・トロフィーを設置し、最もフェア
な敢闘精神を発揮したチームを称えるようになった。第1回受賞は日本代表。
そして、クラマーコーチは「日本サッカーの父」と呼ばれるようになった。
             =敬称略(風)
以上は他所からの引用である。



この1964年の東京オリンピックを終え西ドイツに帰国するにあたってD・
クラマーは、日本サッカー界に以下のような提言を残している。
1. 全国レベルの強いチーム同士が戦うリーグ戦を創設すること。
2. 高いレベルの国際試合を行うこと。毎年一回は欧州遠征を行うこと
3. 年代別の代表を選出しそこに専属の指導者を配属すること
4. 指導者養成制度を確立すること
5. 芝生のグラウンドを造り維持すること
上記の「提言の全国レベルのリーグ戦」に対して日本のサッカー界は1965
年日本のスポーツ界で最初の全国規模のリーグ形式の「日本サッカーリー
グ(JSL)」を8チームで立ち上げた。この「日本サッカーリーグ(JSL)
を支えたのは古河電工株式会社、日立製作所、三菱重工業株式会社、東洋
工業株式会社、八幡製鉄所など多くが当時の日本のトップ企業であったこ
とも興味深い。
この日本サッカーリーグはその後低迷することもあったが1993年の日本プ
ロサッカーリーグ(Jリーグ)設立へと移り発展解消され、現在では 日本
におけるアマチュアサッカーの最高峰のリーグである日本フットボールリ
ーグ(JFL)の形で残っている。

   

提言の指導者養成制度を確立」は1967年D・クラマーは国際サッカー
連盟公認インストラクター第一号に選出されている。この資格でメキシコ
オリンピックに参加していたため日本代表チームを直接指導することはで
きなかった。側面からのアドバイスで彼は日本代表チームの力となったの
である。

1969年国際サッカー連盟FIFA)はアジアのサッカーレベル向上を目的に
FIFA主催のコーチングスクールを日本で開催した。
アジアサッカー連盟(AFC)、日本蹴球協会(JFA)の共催でもあった。
1969年7月15日の岸記念体育館で開講式が行われた。参加者は42名のアジ
ア12か国から選ばれたコーチたちであった。
この第一回コーチングスクールは3か月の長期間であった。キャンプ地は
千葉県検見川にあった東京大学検見川総合運動場の宿舎と施設が使われた。
この3か月、びっしり詰まったスケジュールは参加者にとって充実していた
とともに厳しいものであった。

このFIFAコーチングスクールアジアはその後第2回を1971年マレーシア、
クワラルンプール、第3回をイラン、テヘランで開催されている。いずれ
もD・クラマーが主任講師を務め、カリキュラムはほぼ同一であった。
幸いにも私は1973年10月1日から12月31日の期間で行われた第3回のイラ
ン、テヘランのコースに故相川亮一氏(元読売サッカークラブ監督)と2
人で参加した。

今回の主題の“The Good Game”“良い試合”はそのコーチングスクールの
中でD・クラマーが私たちに講義した内容のテーマである。
検見川で行われた第一回コーチングスクールの公式報告書がある。その内
容を岡野俊一郎氏は自著の本の中で図解している。

この内容を詳細に検討していくとなかなか奥が深い。
右側にあるPlaying art。
スポーツの技術や戦術はアートなのである
絵画に代表されるアート、それは身体活動で表現される素晴らしいテクニ
ックやコンビネーションで対応するタクチック、それらはアートなのであ
る。
プロスポーツをこよなく愛する人々は,このアートに接する時心地良さや感
動を味わうのではないだろうか。
またこのアートの中にフェアープレーを持ってきていることも素晴らしい
視覚的すばらしさの追求が,技術や戦術の工程であるならば,見えない精神的
部分のすばらしさが,フェアープレーの精神ではないだろうか。
フェアープレー無くしてスポーツは成立しない
最も素晴らしいのは,勝利することよりその上位にフェアープレーの精神を
置くスポーツマンであり、スポーツを教えるコーチでありたい。この心を
教えてくれるのが“The Good Game”である。


■「美しく勝つ
The Combination of Success and Beauty”ここで初めてSuccess、
勝利という言葉が出て来る。それは美しさと結合することで果たせるもの
である。サッカー界の偉大なプレイヤーであり,指導者であり、バルセロナ 
FCの今日を築いた張本人ヨハン・クライフが言った言葉「美しく勝つ」が
思い出される。もう一つ、左側の闘志(Fighting power)、これなくして
ゲームに勝利することはできない。

精神力Will-power体力Physical fitnessこれが闘志の源泉である
特に体力で劣っていて相手に勝利することはなかなか困難である。これは
成長期の子供たちのスポーツ競技を観察すると明白である。年齢の違った
子供が競う時年齢差は勝敗に大きく影響する。
また同年齢の中でも発育発達の個人差が大きく、体格の大きな子供が勝敗
には有利であることは確かである。この勝敗に大きく影響する要素の”闘志
Fighting Power)“の中に”Top form”という言葉が入っている。
                  
これ言葉に岡野氏は““という日本語を当てている。確かにサッカーの
ゲームでは,決定的なシュートがクロスバーに当たって得点とはならなかっ
た場合など,”運やツキ”という言葉に表現される場面がしばしば出現する。
これを私は,運を含んだ調子という言葉で表現している。
今日は調子が良い“、”今日は少し身体が重い”など自分では気が付ない、
あるいは気が付いてもどうしようもしようがない事柄。これを”Top form”
の言葉で言い表している。運も調子も共通することは, 自分あるいは自分
たちではどうしょうもできないこと、言い換えれば神のみが知ること。
このような事柄,あるいは部分が勝敗の決定に存在するのであるならば,私
たちはこの部分にどのように付き合うべきか。

その存在を認めるのであれば, 私たちはどのような態度でゲームに臨むべ
きか。どのような態度で勝敗を受け入れるべきか

そのようなことに考えを巡らせると、ゲームにおける相手, あるいは相手
チームに対
して自ずと
・リスペクトする心、
・勝敗に対する謙虚さ、
・相手を敬う精
神、
・審判や運営関係者に対する感謝の気持ち、
・応援してくれる人は
もちろん,観戦するために足を運んでくれた人々への
 心配り。

何かスポーツの奥の奥を覗いて行くような気持ちになるのは 私だけであろ
うか。
   

2021年8月24日、2020年開催の東京パラリンピックが1年遅れで開会式
を迎えた。数日前の新聞に載っていた  国際パラリンピック委員会アンド
リュー・パーソンズ会長の “「コロナ禍だからこそ」「この大会は歴史上、
最も重要なパラリンピックになる

この「歴史上、最も重要な・」この特別の特別を どの程度特別に感じてい
るのだろうか・ 施政者も施政者、一般人も一般人。コロナ禍対策はスポ
ーツマインド、スポーツの心が大切。自主的に自発的に、自ら率先して、
周りと協力して、事(コロナ禍)に当たる。

歴史上最も重要な状況に置かれている世界であり日本である。障害を乗り越
えるのがスポーツ、コロナ禍を乗り越えるのもスポーツの心で
あってほしい。
願いを込めて、頭を垂れてコロナ禍の収束を祈り、自
分の日常に心配りをし
ていきたい。     
 

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