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■■耐え難きを耐え,忍び難きを忍ぶ■■
■涙で聞いた玉音放送」
●当時勤労動員先の軍需工場で天皇の終戦放送を聴いた作家の半藤
一利さんは「中学3年の15歳だった 。工場内の機械はいっせいにとめら
れ、ラジオの前に集まった。
「耐え難きを耐え忍び難きを忍び」と そこだけはハッキリと耳に入りました。
ああ戦争に負けたんだ!と言う事はわかりましたよ、いくらぼんくら中学生
でも。」 と自著 「あの戦争と日本人」の冒頭に記している。
●また戦後72回目の8月15日がやって来た。
今年は、北朝鮮のグアムへのミサイル打ち込み予告があり、例年になく
戦争の危機感が漂う。
当時23歳だった作家の山田風太郎は、著作「戦中派不戦日記」で その
日の事を次のように書きつずつている。
「明るい。くらくらするほど夏の太陽は白く燃えている。負けたのか!。」
信じられない。この静かな夏の日の日本が今の瞬間から、恥辱にみちた
敗戦国となったとは」 そして「眼が涸れ果てて、涙も出なかった。」
■「屈辱の敗戦
●当時、旧制中学2年の夏休みだった13歳の私は、精度の悪いラジオ
から流れる聞き取りにくい玉音放送を聞いた。かんかんでりの、熱い真夏
の午後だった。
疎開先の年寄り達の話などから日本がついに戦争に負けたことを知った。
悔しさよりも、これからどうなるのかと言う一抹の不安が脳裏をかすめた
事を覚えている。
●自転車通学だった私は、それからほぼ1年間、敗戦の屈辱を味わう事
になる。通学路の近くにある朝鮮部落の人たちが、外国人として総決起
し、敗戦国の通学生を待ち受けて襲撃してくる。
避ける為に山道を迂回したり、大変な苦労を強いられた。後で解った事
だが、彼らは近くの三菱航空機工場に強制徴用されていたが 日本の敗
戦で自立を勝ちとり、今までの怒りの矛先が 通りがかりの日本人通学生
に向けられたというわけだ。 国が負けるということは、大変なことだという
事を知った。 悔しかった。
敗戦後は,連合国軍の占領下のため 警察力が及ばず、逃げるしかい。
治安能力を欠いだ日本の警察にかわって 米軍憲兵が来るまで 混乱状
態が続いた。
●今も韓国の人たちの中には、日本憎しという人たちが、多いと聞く。
日韓両国間の賠償問題は、既に公式に決着しているが、72年経っとは
いえ個人的には、慰安婦や追加の賠償請求など 戦中の家族の苦渋の
思いなどが、親から子へ伝承されて再燃するのではないかと考えら列強
る。その解決のためには、国域を超えての人と人との理解が不可欠にな
ってくる。
●いま韓国からは、毎月約60万人の人達が観光訪日している。
大阪でも幹線の地下鉄では、どの車両にも10人ぐらいの韓国の若者や
家族ずれの姿がある。
先週も自宅近くで、スマホ片手に宿泊先を探す韓国の家族ずれに出会
い、近くのホテルまで道案内した。大変喜ばれた。 揃って深々と何回も
頭を下げられ恐縮した。思いのほかいい人たちが多い。
旅先での善意は、たれしも嬉しいものだが、帰国後の旅の思い出として
記憶に残るものだ。
日本の実情を体感し、日本の文化や人情に触れてもらうと、百聞は一見
に如かず、先代世代の悪しき恩讐を超えて、新しい世代の人たちの体感
により、よき相互の理解が深まってゆくものと楽観している。
■「悪夢の日本四分割統治案の真相」
●日本の敗戦直後、連合国(米国、英国、ソ連国、中華民国)による日本
統治は、GHQ連合国軍最高司令官マッカーサー元帥により執り行われた
事は周知の事実だ。
しかしこの統治案が決まるまでに、連合国各国の思惑が渦巻き、東西ドイ
ツ同様、日本の「四分轄直接統治案」が真剣に討議されたという。
その「四分轄直接統治案」は、日本を大きく四つに分けて、各国が直接分
担統治するという案だった。
・東北,北海道→ ソ連支配統治
・関東、近畿→ 米国支配統治
・中国、九州→ 英国支配統治
・四国 → 中華民国支配統治
別に
・東京を四ヶ国の共同管理
・大阪を米国と中国の共同管理
の案もあったと聞く。 (出典/米国公文書館)
●千島を含む北海道の単独領土などソ連の強硬な要求によって、「四分
割統治案」は消滅したという。 今にして思えば 北方領土問題は、ここに
原点がありそうだが、時の主権者マッカーサー元帥が、重光葵外務大臣
の強い主張を受け入れ象徴天皇による間接統治案を受け入れ、問題の
四分割統治案は取り下げたという。。。
●マッカーサー元帥の決断に、満幅の敬意を表するとともに、いささか神
がかった結末を見るとき、日本民族の運強さに驚くしかなかった。
考えただけでも、ぞっとするような話だが、四分割案が消滅して本当
によかったと思う。
後ほど、この問題の経緯を知りたくて外交調査会に問い合わせたが、
いまだ要領を得ていない。
(米国の戦艦ミズーリ艦上における降伏調印)
●しかしわれわれ日本人は、あの屈辱の敗戦と廃墟の中から立ち上がり
天皇陛下のお言葉どうり「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」まさに切磋
琢磨して、新幹線を生み出し、オリンピックを成功さした。
そして世界に雄飛し万国博を成し遂げ、国連2位の出資国になり 次々と
世界的な商品を創り出し、世界第2位の経済大国の金字塔を打ち立てた。
●世界史上から見ても、こんな国の成功事例は、他に例がないという。
ところが国が豊かになり、世代が移り変わると、様々な歪が生じ「個」優先
の間違った考えが跋扈し、古きよき日本の国のあり方を矮小化する傾向
が生まれる。
●そのうち 世代が変わり、敗戦の屈辱を知らない国民が、大半を占める
ようになると、何かにつけて戦後昭和のたくましい国民意識のような物は
後退してゆく。
ある識者は、戦後、日本の伝統的な家族制度が崩壊したため、家庭教育
による国民的意識の伝承が、できなくなった事が、その理由だという。
■「妄想の時代は終わった」
●おりしも72回目の数戦記念日を迎えて、折からの尖閣や竹島、北島四
島の返還問題に加えて、憲法改正や自衛についても熱く議論するような
雰囲気が高まりつつある。 しかしこれを始めためには、やはりその源流は、
敗戦であり、その本流は戦後昭和である事を確認することが大切だと思う。
平和憲法や米国の核の下にいるだけで国が守れるはずはない。もう妄想
の時代は去った。まず自主自衛の中から、戦いなき繁栄の道を探るべきだ
ろう。
そのためにも、敗戦や戦後昭和を知る体験世代が、全ての次世代に対して
敗戦や戦後昭和の真髄を語り継いでいくことが、いま求められていると思う。
■■日本のお陰でアジアの国々は独立を勝ち取った■■
■「アジア諸国の独立」
●戦後私どもは、第2次世界戦争なかんずく大東亜戦争は、日本が起こし
た侵略戦争だったと教え込まれてきた。
ところがネット情報が、世界から集まるようになり、日本の大東亜戦争は500
年も続いた欧米の白人国家の世界支配と人種差別による植民地支配を根
底から覆す聖戦だったとする声が高まってきた。
●タイの元首相、クラリックド・プラモード氏は
「日本のお蔭で、アジアの多くの国々はすべて独立できた。日本と言う
お母さんは,難産で母体をいためたが、恵まれた子供達は、いますくす
くと育っている」と、この日、日本は一身を賭して重大決意をした。我々
にとって忘れることのできない日になった」と 終戦に日について語って
いる。
●日本の終戦を契機にして、冷戦下のアジアでは フイリピン、ビルマ、
インドネシア、インドなど欧米の植民地だったアジアの国々の独立が相
次いだ。
後に日本は、これを機に盟友関係を深め、ASEANにおける外交でも貿
易でも極めて密接な友好関係を加速している。
■「戦前の欧米列強によるアジア植民地支配の実情」
■「戦後、植民地の国々が独立し様相を一変したアジアの現況]
■「日本の自立自存を考えるとき」
●終戦から7年後の1952年4月、日本は、サンフランス講和条約の発行
で独立を回復した。その占領状態は7年間に及んだ。 連合軍の占領政
策は、日本を本質的に弱体化し、本人を徹底的に変質させる為のもの
だった。
その主なものを列記すると
・憲法制定
・皇室の改革
・財閥解体
・農地改革
・教育制度改革
・家族制度の解体
・伝統的な文化の否定など
●その結果、自由と言う名のもとに個人主義が台頭し、日本本来の伝統
的な風土や家族制度や、先祖への敬慕までが軽んじられる様になってし
まった。振り返れば、これらの政策は占領政策の結果であって、改めて憲
法はじめ、自前の政策を決める時期に来ているという声が高まりつつある。
●英国の著名な歴史家アーノルド・トインビーは、
「日本は食うかくわれるかの帝国主義国家時代に 日本の選択肢は一つ
しかなかった。 それで、明治維新を断行し、近代国家に生まれ変わる事
ができた。
大東亜戦争の批判評価はさまざまだが、植民地支配を解体しア ジアの自
立をもたらた事は、十分に評価したい」と述べている。
■「21世紀はアジアの時代」
●21世紀は、アジアの時代といわれる。
激動の世界のさなか、焼土と化した廃墟の中から戦後昭和を立ち上げ、
経済と平和で世界をリードしてきた日本が、戦後72年を迎えて、改めて
国民の新たな自覚と日本の政治のかたちと質が問われる所以だと思う。
これを契機に、日本に生まれてきて良かったと誰もが思える日本に変容
して欲しいと願って止まない.
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