毎日いろんなことで頭を悩ましながらも、明日のために頑張ろうと自分を励ましています。
疲れるけど、頑張ろう!
F104
「戦争と文学・第3巻・冷戦の時代」の中に、三島由紀夫の「F104」という短編があった。三島は私にとって苦手な作家であり、その作品は「ラディゲの死」くらいしかまともに読んだことがなかった。なんと言っても、小学生の私が見聞きした割腹自殺の報道は衝撃的であったし、男色家であったことも、私を彼の文学作品から遠ざけた大きな要因であった。
そんな私が何故この短編をあえて読んだのかと言えば、題名の「F104」が何のことか知りたくなったことと、15ページほどの短編なら三島に幻惑されることもあるまい、などという矛盾した思いに駆られたからである。だが、そんな些末な思惟は一瞬にして霧散してしまった。
なんて男だ、こんなに豊穣な文体を書けるなんて・・。
この短編は結局のところ、ロッキード社が開発した超音速ジェット戦闘機であるF104に試乗したときの体験を綴ったものであるが、次の一文から始まる。
「私には地球を取り巻く巨(おお)きな巨きな蛇の環(わ)が見えはじめた」
これだけ読んでは何のことやらさっぱり分からないが、それでも読者を引きつけるには十分だ。さらに、
「相反するものはその極致において似通い、お互いにもっとも遠く隔たったものはますます遠ざかることによって相近づく」
「私は肉体の縁(へり)と精神の縁、肉体の辺境と精神の辺境だけに、いつも興味を寄せてきた人間だ」
「縁の縁、そこには何があるのか。虚無へ向かって垂れた縁飾りがあるだけなのか」
と畳みかけられては、もうダメだ、グイグイと引っ張られて行ってしまう。この後は、F104に乗り込んだ三島の体験を我がことのように一気に読み通すだけだ。
4万5千フィートの高みまで達した時、機内の三島は次のように記す。
「内的世界と外的世界とは相互に浸透し合い、完全に交換可能になった」
「そのとき私は蛇を見たのだ。
地球を取り巻いている白い雲の、つながりつながって自らの尾を燕んでいる、巨大というもおろかな蛇の姿を」
「肉体は精神の予見に充たされて光り、精神は肉体の予見に溢れて輝く筈だ」
絢爛とか秀麗とかいった美辞ではとても表すことのできない、深みのある文章だ。つまり強い思念がバックボーンとしてある文才溢れる者が表現した文章なのであろう。かなり羨ましい・・。
そう言えば、
先月、交通事故で亡くなった若松孝二監督の「11.25自決の日 三島由紀夫と若者たち」がDVD化されていると今知った。見なくちゃ・・。
そんな私が何故この短編をあえて読んだのかと言えば、題名の「F104」が何のことか知りたくなったことと、15ページほどの短編なら三島に幻惑されることもあるまい、などという矛盾した思いに駆られたからである。だが、そんな些末な思惟は一瞬にして霧散してしまった。
なんて男だ、こんなに豊穣な文体を書けるなんて・・。
この短編は結局のところ、ロッキード社が開発した超音速ジェット戦闘機であるF104に試乗したときの体験を綴ったものであるが、次の一文から始まる。
「私には地球を取り巻く巨(おお)きな巨きな蛇の環(わ)が見えはじめた」
これだけ読んでは何のことやらさっぱり分からないが、それでも読者を引きつけるには十分だ。さらに、
「相反するものはその極致において似通い、お互いにもっとも遠く隔たったものはますます遠ざかることによって相近づく」
「私は肉体の縁(へり)と精神の縁、肉体の辺境と精神の辺境だけに、いつも興味を寄せてきた人間だ」
「縁の縁、そこには何があるのか。虚無へ向かって垂れた縁飾りがあるだけなのか」
と畳みかけられては、もうダメだ、グイグイと引っ張られて行ってしまう。この後は、F104に乗り込んだ三島の体験を我がことのように一気に読み通すだけだ。
4万5千フィートの高みまで達した時、機内の三島は次のように記す。
「内的世界と外的世界とは相互に浸透し合い、完全に交換可能になった」
「そのとき私は蛇を見たのだ。
地球を取り巻いている白い雲の、つながりつながって自らの尾を燕んでいる、巨大というもおろかな蛇の姿を」
「肉体は精神の予見に充たされて光り、精神は肉体の予見に溢れて輝く筈だ」
絢爛とか秀麗とかいった美辞ではとても表すことのできない、深みのある文章だ。つまり強い思念がバックボーンとしてある文才溢れる者が表現した文章なのであろう。かなり羨ましい・・。
そう言えば、
先月、交通事故で亡くなった若松孝二監督の「11.25自決の日 三島由紀夫と若者たち」がDVD化されていると今知った。見なくちゃ・・。
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