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Happy Birthday(4)

 今日1月31日は娘の20回目の誕生日だ。成人式を済ませたものだから、思わず誕生日を忘れそうになったが、これで晴れて本当の「成人」となった。私が20歳の誕生日を迎えたときは、何だかいやでしようがなかったが、娘は今どんな気持ちでいるのだろう。10代から20代にかわるのは、社会的な扱いは勿論のこと、自分の気持ちの上でも随分違うものだから、どんな気がするのか聞いてみたい気がする。
 娘が生まれたのは確か金曜日だったと思う。前日から分娩室に入った妻を午前中に見舞い、一旦帰宅してあれこれ準備していると、病院から電話が入った。生きていた私の母が電話に出て、子供が無事生まれたことを告げられて、受話器を耳に当てながら「ありがとうございます」と深々と頭を下げていたのを思い出す。急いで病院に駆けつけると、付き添っていた妻の母が生まれたばかりの娘のところへ案内してくれた。初めて見る娘は真っ赤で、しわくちゃで、豆のような形をした顔をしていた。それを見て、可愛いとかそんな気持ちよりも、ただただ「よく生まれてきたな」、それしか思わなかった。
 娘が生まれるまで妻は長く入院していた。切迫早産の恐れがあり、安静にするよう入院を余儀なくされていたのだ。退屈そうな妻を毎日見舞ううちに、産婦人科の医師の中に私の中・高の同級生の名を見つけた。卒業以来一度も会ったことのなかった同級生ではあったが、なんだか気恥ずかしくて、病室で出会ったときも軽く言葉を交わしただけだった。彼が出産に立ち会うのかもしれないと思うと、ちょっと複雑な気持ちになった。結果としては立ち会わなかったようだが、今でも思い出すたびホッとした気持ちになるのは、おかしなものだ。
 生まれる前から、エコー写真で女の子であることは分かっていた。男の子が欲しかった私はそれを聞いて思わず残念がってしまったが、生まれてきた娘を見ればそんな気持ちは吹っ飛んでしまった。今でも娘の1歳半の頃の写真が机の横に飾ってある。顔をくしゃくしゃにして嬉しそうな顔をしている。ノースリーブのワンピース姿から出ている腕はプクプクしていて愛らしい。「いつもこんな嬉しそうな顔をしていてくれよ、そのためならどんなことでもしてやるぞ」とこの写真を見るたびに気持ちを奮い起こしてきた私だが、どうだったのだろう。あれこれ何も言わずにやりたいようにやらせてきたつもりだが、悲しいことも辛いこともあったことだろう。
 小学校では、友だちと遊ぶよりも図書室で本ばかり読んでいて、同級生からは「ホンコ」と呼ばれていたそうだ。中学・高校へは片道1時間半近くかけて通った。入学と同時に、途中で何かあったときに連絡が取れるようにと、半ば強制的に携帯電話を持たせた。ドラえもん好きの娘のためにドラえもんの形をした「ドラえホン」というPHSだったが、恥ずかしがらずに3年近く使っていた。とにかく読書が好きで、色んな豆知識が豊富で大概のことならちょっとしたコメントができる。高校に入ったぐらいからは映画にも興味を持つようになり、休日には一人で映画館に出掛けることもよくあった。一人でどこに行っても平気なのは、妻譲りの性格なのだが、京都で一人暮らしをしている今はそうした怖いもの知らずがあだになりはしないかと、私は心配で仕方がない。
 中・高と化学部に所属し、色んな実験を重ねるうちに、そうした方面への興味が広がり、理科系に進むと言い出した。私は「お前はどう見ても文系の頭だろう」と反対したが、聞き入れようとはせず、自分の意志を通して農学部に進学した。私に言わせれば、大して勉強もしなかったのにと思うのだが、本人にしてみるといやという程勉強したのだそうだ。だから、大学に入ってその反動が出て、授業に出席する気が起きない、などと自己弁護をするが、私は苦笑するしかない。
 先週末娘から風邪を引いたと連絡があり、妻が京都まで行こうとした。しかし、当日の朝、「体は大丈夫だから来なくてもいい」と断りの電話が入った。妻は心配しながらもあえて出向かなかった。「来て欲しくなさそうだから」と妻は言ったが、寂しさは隠せない。私も後で娘からかかってきた電話に出たが、鼻声がひどく、本当に大丈夫なのかと心配になった。でも、いいというのに無理強いもできないだろう。何だかどんどん親から離れていくようで、少々悲しくなるが、子供の自立を邪魔するような親にはなりたくない。
 でもなあ、もう少し甘えてくれてもいいのにな・・・
 
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「肉体の悪魔」

 ラディゲという名を何人の人が知っているだろう。「カミュなんて知らない」という映画ができるくらいだから、ラディゲなんて知っている人は本当に少ないのかもしれない。しかし、私が一番影響を受けた小説は何かと問われたなら、ラディゲの「肉体の悪魔」を躊躇なく挙げるだろう。書棚にあった新潮文庫「肉体の悪魔」(新庄嘉章訳)は、昭和49年12月30日発行の本だから、私が初めて読んだのは高校2年だったと思う。私にとっては高校2年生というのは、無茶苦茶な年であり、その時にこの本を読んでいたのは今思えばかなりヤバイ符合であったものだなと自分にしか分からない納得をしてしまう。自分の息子がちょうど高校2年である今、何故だか書棚からこの本を取り出し、30年ぶりくらいに読み返してみたのは、人生のアイロニーと言えなくもない。
 ラディゲは、1903年パリ近郊に生まれ育つ。14歳の時に散歩の途中に知り合った女性と恋愛事件を起こし、学業を放棄するが、雑誌に発表した詩がアポリネールらを驚嘆させ一躍文壇の寵児となる。ジャン・コクトーにその才覚を見抜かれ、自らの体験に取材した処女小説「肉体の悪魔」が、反道徳的とも取れる内容が逆に評判を呼び、ベストセラーになる。その後、「ドルジェル伯の舞踏会」を書き上げるが、腸チフスのため20歳の短い生涯を閉じる・・・これだけで語られてしまうほどの短い人生であったが、彼の死はコクトーに深い衝撃を与え、その後10年間にわたって彼はアヘンにおぼれ続けたという。こうした魂の交感というべき詩人の付き合いは私には到底量り知れないものであるが、わずか20年の生涯で私を始め多くの人々に影響を与えたラディゲの存在は、フランス文学史上の奇跡と言ってもいいのではないかと私は思う。
 「肉体の悪魔」の内容については、文庫本のカバーに書かれた文言がさすがに上手く言い表している。
『青年期の複雑な心理を、ロマンチシズムへの耽溺を冷徹に拒否しつつ仮借なく解剖した、ラディゲ16-18歳のときの驚くべき作品。第一次大戦のさなか、戦争のために放縦と無力におちいった少年と人妻との恋愛悲劇を、ダイアモンドのように硬質で陰翳深い文体によって描く』
 今回読み返してみて一番に感じたのは、「何言ってんだこのガキは、生意気言ってんじゃないよ」ということだ。若さの傍若無人さが本当に鼻に付く。何も知らない子供が偉そうなことばかり言って、と苦笑さえしたくなるほどだったが、読んでいくうちに次第にそんな親父くさい感覚はなくなっていった。いつの間にか初めて読んだ17歳のころに戻って行ったのかもしれない。「そうだよな、大人っていうのは何も分かってくれないよな」などと感情移入している自分に驚きもしたが、ふっと自分の子供がこんなんだったらきっと腹がたって毎日喧嘩しているだろうなとも思った。
 戦争に出かけている兵士を夫に持つ19歳の妻であるマルトを愛し始め、いつしか関係を結び己の子供までもマルトの体内に宿してしまうこの16歳の少年は、大人となりマルトと同じ年頃の娘を持つ今の私から見れば、とても許すことのできない「クソガキ」だ。しかし、読み進むにつれ30年前の記憶が次第に甦ってくると、とても近しい存在のように思えてきて何だかとても複雑で、訳が分からぬ感情でいっぱいになった。そんな不埒なことを自分の娘にしでかす子供を叱る父としての私と、そんな不埒なことを平気でしでかしかねなかった30年前の私との間で、今の私はいったいどちらに肩入れをすればよいのか読みながら決めかねていたし、読み終えた今でも決めかねている。年月を経て、以前読んだ書物を改めて読み直してみるのも今の自分を振り返る有効な手段だと思うが、時の流れとともに物の見方が変わってしまった己の姿を見つけるのはいささか悲しい気にもなる。
 それにしても、マルトが生まれてきた子供に恋人である少年の名前を付け、その名を叫びながら絶命したという最後の場面は何度読んでも鬼気迫るものがある。夫はその子を自らの子と信じ、子供の名を叫びながら死んでいった妻を悲しむものの、その実、愛する恋人の名を叫びながら死んでいくマルトの姿は、私の心を激しくうつ。それは30年前も今も変わることがない。名作と呼ばれる書物は、時代とか境遇とか一切のことを越えて、読む者の心を打つもののことを言うのではないだろうか。
 
 でも、三島由紀夫の「ラディゲの死」を読んだことのある人はもっと少ないだろうな。

 
 
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算数の問題

 我が家のトイレには何冊か本が置いてあって、腰を据えながらちょっとした読書ができるようになっている。マンガの本もあれば、お経の本、短い小説など様々なジャンルの本が置いてある。私もその都度読むものを選んでいるが、最近は「文系の算数力アップ300問」という本を手に取ることが多い。頭の体操のようにささっと何問か解いてみると、頭がリフレッシュできることもあるので重宝している。そこで、たまには数字と格闘してみるのも一興ではないかと、その中から小難しい計算式や公式を必要としない問題を以下に20問選んでみようと思う。何だこんなの簡単じゃないかと思うと落とし穴にはまることもあるので、面白いことになるかもしれない。
 
①「1日目・2日目・3日目は1歩ずつ進み、4日目に2歩下がる」歩き方を繰り返して30日間つづけると、結局何歩進んだことになるでしょう。
 ア.5歩  イ.7歩  ウ.9歩
②規則に従って、□に入る数は何でしょうか。
  1,1, 2,3,5,8,□,21
 ア.10  イ.13  ウ.16
③2分間で10m歩くウシの速さはいくらでしょう。 
 ア.300m/時  イ.5分/m  ウ.自速5km
④昨日までの通算打率が3割のバッターが今日の試合で3打数1安打でした。通算打率はどうなるでしょうか。
 ア.上がる  イ.下がる  ウ.変わらない
⑤整数AとBがあり、A×Bは偶数になりました。このときA+Bはどうでしょうか。
 ア.奇数  イ.偶数  ウ.どちらとも限らない
⑥野球で1回の攻撃で打者一巡しました。その時点の最少得点は何点でしょうか。
 ア.4点  イ.5点  ウ.6点
⑦次の大きさの部屋のうち、正方形でない部屋はどれでしょうか。
 ア.四畳半  イ.六畳  ウ.八畳
⑧エジプトのピラミッドを立体として呼ぶと、どうなるでしょう。
 ア.三角柱  イ.三角錐  ウ.四角錐
⑨割り算 24÷(4÷2) と同じ意味の式は、次のどれでしょうか。
 ア.(24÷4)÷2  イ.(24÷4)×2  ウ.(24×4)÷2
⑩今年、還暦を迎えるAさん、ある日ふと考えました。「生まれてから何日たったのかな?」。さて、60歳の誕生日は、生まれてからおよそ何日目になるでしょうか。
 ア.2万2千日目  イ.22万日目  ウ.222万日目
⑪Aさんは最初7,000円持っていましたが、1,000円だけBさんにあげたので、Aさんの所持金はBさんの所持金の3分の1になってしまいました。Bさんは最初いくら持っていたのでしょうか。
 ア.21,000円  イ.18,000円  ウ.17,000円
⑫11本の木を1m間隔でまっすぐな道に沿って植えていくとき、最初の木と最後の木は何mだけ離れていますか。
 ア.10m  イ.11m  ウ.12m
⑬紀元前2世紀の古代バビロニア人が、円周率として採用していた分数はどれでしょう。
 ア.25/8  イ.32/7  ウ.3/1
⑭10の位で四捨五入すると200になる整数は、何個あるでしょうか。
 ア.99  イ.100  ウ.101
⑮濃度12%の食塩水120gには何gの食塩が溶けているでしょうか。
 ア.10g  イ.12g  ウ.14.4g
⑯次のうち、最も大きいものはどれでしょうか。
 ア.割合「1/3」  イ.百分率「33%」  ウ.歩合「3割3分3厘」
⑰1億円を1円玉にすると何kgでしょうか。
 ア.100万kg  イ.10万kg  ウ.1万kg
⑱ツルとかめがいます。頭の数の合計が5、足の数の合計が16でした。さて、ツルは何羽いるでしょうか。
 ア.2羽  イ.3羽  ウ.4羽
⑲甲子園の全国高校野球選手権大会は、47都道府県の代表49校のトーナメント戦で行われます。さて、全部で何試合が行われるでしょうか。
 ア.98試合  イ.49試合  ウ.48試合
⑳為替レートが「1ドル=120円」から、「1ドル=100円」になったとき、正しい表現はどれでしょうか。
 ア.円安になった  イ.円高になった  ウ.額面割れした

 著者によれば7割以上正解だった人は、ちょっとしたインテリだそうだ。小学生のときに習った算数で解ける問題ばかりだが、意外と難しかったりする。

 正解は明日は発表するが、トライしてくださった方は、以下にメールしてくだされば採点してお返しします。目指せ、7割!

    jukucho19580615@yahoo.co.jp




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名古屋ネタ

 「大名古屋検定」という本を買った。「名古屋の歴史や特徴、名古屋人の風習や考え方などが理解でき、今日の名古屋が元気な理由や背景を納得していただけると思う」と「はじめに」書いてある。検定形式をとったこの本をざっと読んでみたが質問が難しい。これでは、このブログ上で遊ぶことはできないと思ったため、以前「やさいさん」という方のブログで見つけた「名古屋ネタ」の質問ならまだ少しはポピュラーかなと思い、ここに載せてみることにした。
 
 まず質問はこうだ。
①喫茶店でコーヒーを頼めば、お菓子が出てくるのは当たり前だと思っている。
②NHK『中学生日記』が全国ネットだと知って驚いた。
③つボイノリオは世界を代表する歌手だと思っている。
④マクドナルドに行く感覚で『寿がきや』に行く。
⑤スターバックスより『コメダ』だ。
⑥背番号3番で連想するのは『長嶋茂雄』ではなく『立浪和義』である。
⑦『ガンダム』を、名古屋テレビが生み出したことを誇りに思っている。
⑧『川島なお美』を見ると『だん吉・なお美のおまけコーナー』を思い出す。
⑨『世界の山ちゃん』の看板の絵は、『中村雅俊』に似ていると思う。
⑩『青柳ういろう』のCMソングを歌える。
⑪名駅前の『大名古屋ビルデヂング』『ぢ』の文字が気持ち悪いと思ったことがある。
⑫東山動物園の池でボートに乗ったカップルは別れると信じている。
⑬名古屋清水口の『美宝堂』のCMに出てくる少年の成長を、これからも見守り続けたいと思う。
⑭金城学院の『純金』『18金』『金メッキ』の意味を知っている。
⑮結婚式と言えば『菓子撒き』だ。
⑯学校の休み時間は『放課』、4時間目のあとは『昼放課』という。
⑰冷やし中華には、必ず『マヨネーズ』を入れる。
⑱自動車学校のことは『車校(しゃこう)』という。
⑲CBCの『天才クイズ』に出た過去がある。
⑳中部国際空港の名称を間違えずにいえる。

 それに対して私が答えてみる。
①おつまみとしてピーナッツなどがつくのは当然。モーニングサービスとしてトーストと卵は定番、サラダ・果物などがつく店もある。
②それは前から知っている。昔の塾生で生徒役で出演していた者もいる。
③『金太の大冒険』は彼の伝説の名曲。でも今は名古屋を代表するラジオのDJだろう。
④『寿がきや』のラーメンはあまり好きではない。私なら迷わずマックを選ぶ。
⑤『コメダ』は名古屋でチェーン展開する喫茶店で、私の住む市にも3・4軒ある。私も週に1・2回は必ず行く。『スタバ』には入ったことがない。
⑥そんなわけはない。背番号3はミスターに決まっている。私はアンチ中日の巨人の大ファンであった。(松井がいなくなった今はどうでもいいが)
⑦『ガンダム』はリアルタイムで見ていた。土曜の夕方の中途半端な時間に放映していたが、アムロの声が星飛雄馬だったので妙な親近感が持てた。
⑧『お笑いマンガ道場』は新春にも特番をやっていたが、私は『川島なお美』が好きではない。
⑨手羽先の店のことだが、私は鶏肉が大嫌いなので看板をじっと見たことはない。
⑩♪悔しかったら言ってみな、「白・黒・抹茶・あがり(小豆)・コーヒー・ゆず・さくら、青柳ういろう」♪
⑪確かに building の di は「ヂ」だけど、違和感はずっとあるなあ。
⑫高校生のときによく聞いた。だから妻とは一度も乗ったことがない(へへへ)
⑬宝石屋の『美宝堂』の孫息子は今現在、私の卒業した高校の生徒らしいが、かなりヤバイ噂は耳にする。
⑭『純金』は中・高・大を、『18金』は高・大を、『金メッキ』は大学を金城学院の卒業生となったお嬢さんのことを指す。
⑮最近はとんと見かけなくなったが、私の妹が結婚した15年程前には、袋に詰めたお菓子を近所に配った。
⑯そうやって言うのが当たり前だと思っていたが、何か他に言い方があるのだろうか、『休憩』とか?
⑰冷やし中華に『マヨネーズ』は当たり前だと思う。「でらうま=どえりゃーうみゃー=とてもおいしい」
⑱言う。他に、自転車=ケッタ(マシーン)、サークルK=マルケイなど。
⑲出たことのある人は何人か知っている。でも、『天才クイズ』もう終っちゃったよ。
⑳勿論、セントレア空港。あと忘れてならないのが、愛知万博のマスコット、『モリゾーとキッコロ』世間的には大分忘れられているらしい・・・

 私には簡単な問題ばかりだが、名古屋近辺に住んでいない人にはどうなんだろう。まだまだ「偉大なる田舎」のままなんだろうか・・・
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素足に草履(2)

 7月に私は、普段から素足に草履を引っかけて生活していると書いた。子供が保育園で草履を買い、それを履いて通うようになって以来、私も真似をして草履で生活するようになった。そうし始めてから風邪を引きにくくなり、健康のためにもずっと続けているとも書いたと思う。それは何も夏の間だけではなく、真冬の今でも同じように素足に草履のままである。昨年暮れの大雪のときでもいつもと変わらず草履だったし、娘の成人式の日も晴れ着姿の横に草履履きの私が並んで写真に収まっている。そんなことをしていて寒くないの?とよく聞かれるが、はっきり言ってなんともない。冷たいとも寒いとも感じない。感覚が鈍いのかもしれないが、やせ我慢をしているわけでもない。足よりも手先の方がかじかんできて、冬場はいつもポケットに手を突っ込んで背を丸めながら歩いているので、姿勢が悪いと妻からよく注意される。
 しかし、感覚は半分麻痺していても、皮膚は正直である。四六時中寒気に晒されているため、かかとがかさかさになってしまい、いつも今頃になるとひび割れて血が滲んで歩くにも一苦労するようになってしまう。なら、靴下を履きなさいよ、と妻からは冷たい目で見られるが、ここまでずっと素足を続けてくると、靴下などとても履く気になれない。素足で床の上を歩いたり、底のうすい草履を履いて地面を踏みしめる感覚が身についてしまっているので、靴下を履いたり、底の厚い靴をはいたりするのには抵抗がある。野人のような生活と言えなくもないが、かかとのひび割れの痛さを我慢するだけの価値はあるような気がしている。
 そうは言っても今年のこの寒さはやはり例年とは違う。それを近頃は文字通り「痛感」している。と言うのは、今年はかかとだけでなく足の指先にもひび割れができてしまって悲惨な目にあっている。昨日の朝など、ベッドから起きて階段を下りるときに左足で踏みしめることができなかった。「痛い!」と階段に座り込んで左足を見たら、親指の先と小指の付け根に5mmから1cmほどのひび割れができていて、ぱかっと口が開いている。今まで気付かなかったのも迂闊だが、ベッドから降りた瞬間に割れてしまったのか、かかとと合わせて三所攻めでは歩くのもままならない。ゆっくり階段を下りて行って、泥縄ではあるがスキンクリームを傷口に塗った。「毎晩風呂上りに塗るように」と妻が気をきかして買っておいてくれたものだが、ついつい忘れることが多く、いつも後手に回ってしまう。あらかじめ処置しておいたらこんなことにはならなかったのに、と思うことがいくつもある。いくら失敗してもなかなか直らない。困ったものだ。
 こういった感じでいつも足のどちらかがひび割れて痛いため、歩き方がどうにもおかしい。つま先だって歩くかと思えば、引きずるように歩いていることもある。足にいらぬ負担がかかっているせいなのだろうか、週末になって疲れがたまってくると足腰がだるい。一昨日など、塾の休憩時間に急いで自宅へ帰ろうと坂道を走って上ったところ、膝ががくがくして倒れこみそうになった。こんなことは初めてだ。常日頃、足腰が弱っているなと感じることが多いため、毎夜の鍛錬に足腰を鍛えるメニューを加えなければならないと思ってはいるのだが、何をしたらいいのか思いつかない。ウオーキングをすればいいのかもしれないが、この寒さではとてもそんな気になれない。なら、ヒンズースクワットをやってみるか、とは思うが、あれはちょっとハードだよな、などと踏ん切りがつかないでいる。
 犬と散歩に行けばいいのだが、何せ秋田犬は力が強い。よし、行くぞ!と気合を込めなければ行けない。この受験シーズンの真っ只中、塾以外のことに気合を入れる気にはなかなかなれない。どうしたものだろう。
 真剣に考えてみた。すると、忘れずに風呂上りにスキンクリームを塗ることから始めるに如くはないと、今気がついた。真一文字に割れて血が滲んでいるひび割れをなくさなければ足を使う運動などできるわけがない。何でこんな簡単なことに頭が回らなかったんだろう。かなり疲れているのかな、これも問題だ・・・
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今の曲

 今までこのブログで上で、私の好きな曲についていくつか書いてきたが、どれも若かった頃に好きだった歌か、今でも好きな歌手についてばかりだった。年をとるにつれ、若い世代が好んで聞く曲などとても聞けたもんじゃないと思うようになって来た。特に無理をして高音部ばかりで歌うような曲は聴いていてつらいし、詞の中身もうすっぺらでまるでイマジネーションがわいてこない。ただの騒音だとしか思えないようなものも多くて、最近では滅多にヒットチャートをチェックしなくなった。
 とは言っても、ほんのたまにではあるが、ラジオから流れて来た曲でこれはいいと思うものもある。最初はぼーっと聴いているだけだから、これは誰の曲だ?と思っても分からなくなることもある。運良く曲が終った後で歌手の名前を繰り返す場合もあるが、そういう場合はメモるようにしている。歌手名を言ってくれない場合は、塾の生徒にこんな歌を知らないかとメロディーを歌ってみることもあるが、如何せん音痴な私では十分伝えることができない。色々やってみて何とかお目当ての曲を見つけ出すのだが、ここ1年ほどの間で言えば、3曲そうやって集めた曲がある。それをこれから発表して行こうと思うが、なかなか渋い選曲であると自分では思う。
 まず1曲目は「野狐禅(やこぜん)」の「ぐるぐる」。
北海道出身の竹原ピストルと濱埜宏哉の二人組みであるが、このグループ名は「悟ってもいないのに、あたかも悟りきったかのようなものの言い方をすること」という意味で、広辞苑にも載っているらしい。竹原ピストルの野太くて荒々しい歌いっぷりは聞く者をぐいぐいと引っ張っていく力強さを持っている。

  涙があふれて 涙がこぼれ落ちそうになって ガムテープで顔面をぐるぐるにする
  涙は感情の 涙は感情の墓場だぜ ガムテープで顔面をグルグルにする
    (試聴は、http://www.jvcmusic.co.jp/yakozen/)

 2曲目は「HOME MADE 家族」の「サンキュー!!」。
アメリカケンタッキー育ちのMICRO、シカゴ生まれのKURO、クラブDJのU-ICHIの3人組ユニットである彼らは、名古屋を拠点に活動していたが、04年にメジャーデビューをはたした。身体的特徴から、大・中・小と言われる3人が歌うヒップホップは、私にも理解できる音楽性を持っている。 

  いつも支えてくれる人達に
  日頃の思いを込めたラプディー
  アプリシエーションの気持ちよ 届け
  いつも ありがとう 本当 ありがとう 
    (http://mora.jp/package/80307744/KSCL00762/)

 最後は、レミオロメンの「粉雪」
この曲は甥っ子に昨年末クリスマスプレゼントにリクエストされたCDの一枚だった。その時はこのグループのことをまったく知らなかったので、変な名前の奴らだなくらいの印象しかなかったが、最近になってラジオで初めてこの曲を聞いた。なかなかいいなと思ってダウンロードして、何度も聞いている。しかし、小・中の女子生徒には何故か評判がよくない。「変な歌」という声を何度か聞いたが、やっぱり私とは感覚が違うのかな・・・

  僕は君の全てなど知ってはいないだろう
  それでも一億人から君を見つけたよ
  根拠はないけど本気で思ってるんだ
    (http://mora.jp/package/80311316/VICL-35908/)

こうやってみると、私にとっては歌というのは詞が一番大切なような気がする。いくらメロディーがよくっても、何を歌っているのか分からないような曲は聴く気がしない。上に挙げた3曲はそれなりに私の心に響くフレーズが入っている曲ばかりだ。
 よく探せばそういう曲はまだ他にもたくさんあるかも知れない。食わず嫌いはやめて色々聞いてみるようにしたいと思う。
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人間性バトン

 先日ボネさんから、「人間性バトン」というものを回していただいた。次の質問に答え、知り合いにどんどん回せという遊びらしい。
 
 <質問>
  ①回してくれた方の印象は?
  ②周りから見られてる自分の印象を5つ。
  ③好きな人間性を5つ。
  ④では、反対に嫌いなタイプは?
  ⑤自分がこうなりたいという願望はある?
  ⑥自分のことを慕ってくれる人に叫んでください。
  ⑦そんな大好きな人、15人にバトンタッチ。
 
 私は、この問いに対して自分の心に浮かんだことを直感的に答えてみたが、今思い出してみると、特に④に対して中途半端な答えをしたように思うので、今ここで考え直してみようと思う。④は③に対応した質問であり、③で好きな人間性を5つ問われているのであるから、④でも嫌いな人間性を5つ上げるのが質問の主旨だと思うので、5つ考えてみた。
 (1)傲慢な人・・これは単に態度が高飛車な人を指しているのではない。自分に妙な自信を持ち、自分のなすこと話すことに決して間違いがあるとは認めず、たとえ矛盾に気付いたとしても、最後まで言い張るような人のことを指す。そうした人は自分の主張を押し通そうとするため、周りに軋轢を引き起こす。その渦に巻き込まれた者は肉体的精神的にかなり疲弊してしまう。しかし、当の本人は全く平気な顔をしているだけに手に負えない。
 (2)吝嗇な人・・金銭的にケチな人を指すのではない。倹約と吝嗇の違いは金銭に対する執着度が異なると思うが、ここで言う吝嗇とは精神的な事象を指すものであり、自らが得たものを既得権として守ることに汲々とし、精神的な広がり、余裕を持たない人のことを言う。そうした人は自分を守るためにえてして攻撃的になり、一方的に他人を攻撃した後で自らの殻に閉じこもり、相手が何を言おうが徹底的に無視し、取り付く島もない。
 (3)想像力のない人・・相手の立場に立って考えることができない人。自分がこんなことをされたら嫌だなと思ったなら、相手にそんなことをすることはできないはずだ。それなのにそれができてしまう人には想像力が欠けている。または、相手が自分のことを考えて行動してくれることに胡坐をかいて、それに甘えて感謝の気持ちを持たない人。こういうことをしたら当然こういう結果になるぞと、考えることができない人。要するに、他人に思いやりがない人のことである。
 (4)無責任な人・・自分の言動に責任を持たない人。言いっぱなし、やりっぱなしは簡単でいい。言いたいことを言って、やりたいことをやっていれば楽に決まっている。しかし、自分のとった行動の結果には、それがよいものであれ、悪いものであれ、必ず責任を持たなければならない。それなのに頬かむりをきめこんで、平気でいるのはあまりに無感覚すぎるし、無責任すぎる。最近のTVニュースに登場する人々にはこんな人が多い。
 (5)自己完結しちゃっている人・・「自己完結・・それだけで1つのまとまった世界を作っていて内部に何ら矛盾も欠けたところもないこと」と辞書に説明があるが、要するに自分には何も間違いがない、完璧だと、まるで反省しようとしない人。誰が何を言おうが、聞く耳持たず、己の正当性を信じ込んで周りを睥睨し、恥ずることがない人。さらに言えば、(1)から(4)まで持っていても、お構いなしに堂々としている人。
 
 ここまで書いてきて、自分自身の心の奥を凝視したようで、何だか気が沈んできた。正直言って、私には全て思い当たることばかりだ。『傲慢で、心に広がりを欠き、時には自己中心の考えしかできず、全くいい加減なことばかりする、しかも何ら反省しない』うわあっ!いつも妻から言われてることばかりじゃないか!自分の嫌な性質を5つ挙げろと言われたわけでもないのに・・・
 そうか、この反対に生きていくようにすればいいのか、『謙虚で、心にゆとりとおおらかさを持ち、相手の立場に立ってものを考え、責任ある言動をし、人の意見を聞き入れ、反省すべきことはちゃんとする』
 
 私はこんな人間になりたい・・・


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カミュなんて知らない

 「カミュなんて知らない」という映画がある。 監督は柳町光男、出演は柏原収史、吉川ひなの、前田愛などらしい。その内容を写してみる。

 大学の授業の一環で、高校生の<不条理殺人>をテーマに映画を製作することになった学生たち。犯人の心を探るうちに、その思いは各々の実人生にシンクロし、恋と友情にスリリングに交錯していく。名作映画のパロディを盛り込み、戯曲化された群像劇が展開する前半から、現実と虚構が一体化する驚愕のラストまで一気に疾走する。
 
 はっきり言ってこの映画を私は見ないだろう。もともと吉川ひなのは好きではなかったが、今回の堀江の騒動で二人の中がとりあげられ余計にイヤになった。なら、どうしてこの映画をここで取り上げたかといえば、その題名が私にはショッキングなものだからである。カミュといえば「異邦人」「ペスト」などが代表作の、ノーベル文学賞を受賞したフランスの作家だが、私の卒業論文のテーマはカミュだった。私が心血注いで鈍才に鞭打ってやっと書き上げた生涯唯一の論文のテーマたる作家が、現代では知る者が少ないという事実を突きつけられて、少なからず動揺してしまったのだ。
 それも無理はないのかもしれない。アルジェリア生まれの彼が27歳のときに発表した小説「異邦人」(1942)は、“太陽が眩しかったから”殺人を犯した主人公ムルソーの<不条理殺人>が社会現象となるほどの衝撃を生み出した。しかし、今時殺人事件など珍しくないし、全く訳の分からぬ動機で殺人を犯す者も多い。発表当時はセンセーショナルな出来事であった事件も現代では、毎日、新聞紙上をにぎわす事件のひとつになってしまっている。時代がカミュを追い越してしまった以上、忘れられていくのも仕方ないのかもしれない。それを時の流れというには悲しいが、そうやって時代は移っていくものだろう。
 しかし、人間の本質とはわずか60年ほどで変わるものではない。カミュが「異邦人」で表現しようとしたことが現代の若者に全く無意味であるはずはない。「不条理」というキーワードでカミュを読み進めるのは簡単だが、そんな1つの抽象的な言葉で片付けられるほど薄っぺらな存在ではない。カミュの小説から生きることに対して真摯さを感じるのは私だけではないはずだ。一見自暴自棄に見えなくもない「異邦人」のムルソーさえも生きることに真正面から向かい合っている。現代では生きることから目を逸らす者がどれだけ多いことか。なにも「生きるとは?」などと堅苦しく考える必要もないが、あまりに何も考えていない者たちを日常見るにつけて思わず愚痴の1つも言いたくなる。
 そう思って、自分が25年も前に書いた論文を探してみた。どこにしまったのか忘れてかなり手間取ったが、何とか見つけた。題名は「鏡の遊戯ーカミュ『転落』論」とある。何を書いたか全く覚えていないので、ちょっと読んでみようとしたが、序論を半分ほど読んだところで諦めた。何が何やらさっぱり分からない。言葉に酔っているというか、論旨が整っていないというか、全く意味不明の言葉が羅列してあるだけだ。こんなものを読ませられた教授もたまったもんじゃなかったろう。口頭試問では2人の教授からこっぴどく不備を指摘されたが、それも当然であろう。自分としては上出来だと思っていたから、教授の無理解さを謗ったりしたものだが、今思えば勘違いも甚だしい。「私の人生、こんな勘違いを重ねてここまできたようなものだな」、などとちょっとした反省ができただけでもかび臭い論文を見つけた意味はあった。
 しかし、驚くような事件は本当に毎日起こっている。昨日の朝刊には名古屋で、夫を殺害した後で9歳と6歳の子供を道連れに自殺した主婦の事件が報道されていた。自宅には「夫と不仲」と書いたメモが残されていたようだが、主婦の知人たちは「なぜ?」と驚きを隠せないそうだ。こうした事件が起こるたびに、他人からは窺い知ることのできない「心の闇」を指摘する「識者」が必ず現れるが、果たして私たち誰もが持っている「心の闇」は、カミュが「異邦人」を書いた時代の人々のそれよりも大きくなっているのだろうか。
 どうなんだろう・・・

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大相撲

 昨日は3時に塾が終わった。さあ何をしようかと思ったが、何かしたいわけでもない。ここでビールを飲んでしまったら、一日が終わったようなものだ。グッと我慢しようと思ったが、やっぱり飲んでしまった。ひとたび飲んでしまえば後はどうしようもない。眠気とヤケクソと入り混じった頭で考えてみたって碌なもんじゃない。寝るのも勿体ないから、TVでも見ようと思ったが、何も面白くない。辛うじて相撲くらいなら見てもいいかなと、ビール片手に見始めた。
 私は元々相撲が嫌いではない。典型的な「巨人・大鵬・目玉焼き」の男であるから、昨今の大相撲の不人気を憂うる一人でもあった。若貴の時代には当然であった「満員御礼」の垂れ幕も見かけることが少なくなった。日本人の横綱がいないせいだとか様々な分析がなされてきたが、要は朝青龍だけが強くて後の力士が不甲斐ないせいだと私は思ってきた。確かに朝青龍は強い。あんな小さな体でよく勝てるものだと思うが、スピードと技術は他の誰よりも優れたものであることは私にも異論はない。ただ、朝青龍独りに勝ち続けさせて、7連覇をなし遂げさせた責任を他の力士達がどれだけ感じているのか常々疑問に思っていた。今場所優勝すれば8連覇、いくらなんでもそれはないだろうと思いながらも、結局は朝青龍の優勝で終るんだろうなと、半ば諦め気分で適当に大相撲の結果をチェックしていたのだが、思いもかけぬ展開となった。千秋楽の昨日を待たずして、朝青龍の優勝はなくなってしまった。場所前の稽古不足は指摘されていたが、それでも何とか優勝してしまうだろうと思っていたが、それ程甘くはなかった。14日目に安馬に敗れて3敗となった時点で優勝の目はなくなった。あとは2敗の白鵬と1敗の栃東のマッチレースとなった。最近にはない展開にTVを見る私にも力が入る
 白鵬は、朝青龍と同じくモンゴル出身の20歳。父親がモンゴル相撲の横綱でメキシコオリンピック・レスリングの銀メダリストという家系出身で、昨年一気に大関まで上り詰めるかと思われたが、足首の怪我が災いしてここ数場所低迷していた。しかし、今場所は勢いを取リ戻し千秋楽まで初優勝の望みをつないだ。一方の栃東は大関まで昇進したものの相次ぐ怪我のため、2度大関を陥落しその都度奮起して大関にカムバックしてきた苦労人である。魁皇、千代大海と大関の休場が相次ぐ中、なんとか大関の貫禄を保ってきた。こうした状況をおさらいしながらも、早く最後の2番になれと酔いも手伝って性急な思いも募る私だったが、久しぶりに見る大相撲はなかなか面白い。7勝7敗同士の対戦もいくつかあって必死の形相の力士を見るのもいい。特に「北桜」という力士が、三賞の候補になりながらも千秋楽に敗れたため選に漏れたが、悪びれずインタビューで熱い胸の内を吐露していたのには好感が持てた。これから注目の力士である。
 これより三役となり、いよいよ注目の2番が始まった。まず、白鵬vs琴欧州。立会いは五分であったが勢いの差というものは隠しようがない。一気に白鵬が寄りたてると琴欧州は抵抗するものの白鵬が寄り倒しで2敗を守り、優勝の行方は結びの一番、朝青龍vs栃東の結果によることになった。栃東が勝てば3度目の優勝、白鵬が勝てば優勝決定戦と国技館が盛り上がる中、朝青龍が「待った」をする。これで横綱が何をしてくるか分からないと冷静に分析していた栃東が仕切り直しから一気に攻め立てる。右上手をひいた栃東が上手出し投げを打つと、もろくも朝青龍は崩れ落ち、栃東の3度目の優勝が決まった。
 興行的には栃東が敗れ、決定戦まで持ち込まれるのが盛り上がってよかったのかもしれないが、かど番から優勝というちょっとしたドラマもなかなか感動的だった。最後まで優勝を争った2力士には来場所の成績如何によっては、大関・横綱に昇進できる可能性が浮上したが、そうした目先の栄誉に拘らず研鑽を積んで来場所に臨んで欲しい。そうした地道な努力こそが栄冠をもたらす源であるのはどの分野においても同じであると思う。
 来場所は、朝青龍が屈辱を胸に烈しい稽古を積んでくるであろうし、新大関の重圧が取れる琴欧州もその豊かな素質を開花させるはずだ。栃東、白鵬ともに厳しい闘いとなることだろうが、なんとか試練を乗り越え大願成就となることを私も祈っている。
 升席でぼーっと相撲観戦ができるような身分になりたいなあ・・・
 
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D.ジーター

 いささか旧聞になるが、先週発売の「週刊文春」に N.Y.ヤンキース・11代目キャプテン、デレク・ジーター選手についての記事が載っていた。それは、李啓充というメジャーリーグコラムニストが書いた「大リーグファン養成コラム」というものだが、以下にその記事を要約してみる。
 まず彼は、「ルースを起源とする(ヤンキースの)スーパースターの系譜は、ルー・ゲーリッグ、ジョー・ディマジオ、ミッキーマントルと続いたところで途絶え」たが、その系譜を「再生させた」のがジーターであるとする。そして、ジーターの持ち味を「大試合になるほど活躍する勝負強さと、数字には表しようのない『スーパープレイ』でチームの勝利に貢献するところにある」と評価する。その中でも「ファンの間で『ザ・ダイブ』と語り継がれているプレーは」、04年7月2日の「対レッドソックス戦延長12回2死2・3塁のピンチで、ポテンヒットになろうかというフライを好捕した後勢い余ってスタンドに飛び込んだプレー」だと紹介する。
 私はこの試合をライブで見ていたが、あのプレイには鳥肌が立った。3塁後方のフライを全速力で追い、キャッチした瞬間にスタンドに頭から突っ込んでいった。観客席に顔面をしたたか打ちつけた彼の顔はTVで見ていても見る見る腫れ上がり、右目の下とあごからは鮮血が滲み出ていた。観客もしばし沈黙するほど衝撃的なプレーだったが、自力で歩いてベンチに下がった彼の姿にすべての観客が感動したことだろう。その試合のビデオをカメラで写して載せてみたが、そのすごさが伝わるだろうか。この結果、顔面を7針縫う裂傷を負ったのだが、さらに私たちを驚かせたのは翌日のデーゲームに負傷をものともせず先発出場したことだ。テープを張っただけで、平気な顔をしてプレイしていたのには、彼の闘志の強さがひしひしと伝わってきて、彼こそ真のキャプテンだと思わず唸ったのを覚えている。
 ジーターが尊敬されるのは、野球選手としてだけではなく、その素晴らしい人柄のせいだと李氏は続ける。彼をそうした人間に育て上げたのは両親の功績だとし、『ジーター家の契約書』について言及する。「父親のチャールズ(心理学博士)は黒人、母親のドローシーは白人とあって、小さいときのジーターは白人からも黒人からもいじめられたという」。子供たちが異人種カップルの子だからと後ろ指をさされることがないよう、両親は『しつけ』にとりわけ力を入れ、毎年守るべきことのリストを『契約書』として作り、ジーターに署名させた。その『契約書』には、「門限を守ることはもとより、薬・アルコールに手を出さない、女性をないがしろにしない、などの項目も含まれていたという」。マライヤ・キャリーなどと浮き名を流し、『ニューヨークの貴公子』と呼ばれるほどプレイボーイとして有名な彼だが、この契約書を今でも遵守し、女性に対して礼儀正しい男だからこそ多くの女性から愛されるのだろう。
 そうしたジーターの律儀さを物語る例として興味深いエピソードが紹介されている。「新人王に輝いた96年から10年つきあっているジョー・トーリを、いまだに『ミスター・トーリ』と呼び続けているのは好例だ。尊敬している監督をファーストネームで呼ぶような失礼なまねはできないというのがジーターの言い分だが、トーリによると、最近は、『ミスター・T』と縮めて言うこともあり、少しは『進歩』したのだそうである」。いい話ではないか。私はますますジーターが好きになってしまった。
 そこで、昨年一年間スカパーで流されたMLBのCMに出演したジーターの言葉を載せてみる。かっこいいんだなこれが。
  
  「メジャーリーガーになる運命だったのさ
   野球が俺の人生だからね
   ヤンキースの『顔』として全力でプレーしているよ
   大観衆が注目するホームゲームは熱くなるね
   でも敵地での試合も燃えるよ
   ブーイングが大きいほどね
   野球をするからには勝つ・・・それだけのことさ
   I Live for This. 」

 キャプテン、今年こそワールドチャンピオンになろうね。松井も頑張るからさ。
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