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のんき節

 松井はDL入りするし、ガソリンは7月にまた値上げするそうだし、ホント面白くないことばかりでいやになる。何もかもリセットして新たな気持ちでスタート、などという幸運はとても望めそうもないから、現状をどうにかしてやっていくしかない。「まったく!!」と舌打ちする回数が増えるのは仕方ない、ただもう自棄にならないよう己を律するだけだ。そう簡単にはいきそうもないのだが・・。
 金曜日バスを運転しながらラジオを聴いていたら、小沢昭一が「のんき節」を歌い始めた。これは石田一松という、後にタレント議員一号にもなった演歌師が1923年ごろから歌って広めたものだそうだが、歌詞を聴いて驚いた。もう80年以上も前に作られた歌詞だというのにまるで古びていない。

 學校の先生は えらいもんぢやさうな
 えらいから なんでも教へるさうな
 教へりや 生徒は無邪氣なもので
 それもさうかと 思ふげな
 ア ノンキだね

 独特な節回しで当時の世相を風刺してみせるのだが、とても「のんき」だなどと悠長なことを言っていられないような時代だったことは史実に明らかである。だが、こうでも言って笑っていなければとても生きていけなかったのかもしれない。「昔の人は無知で呑気だったんだなあ・・」という感想も浮かんでくるが、次の詞を聞いてはそうともばかり言っていられなくなる。まるで現在の世相を風刺しているようだ。

 貧乏でこそあれ 日本人はえらい
 それに第一 辛抱強い
 天井知らずに 物価はあがつても
 湯なり粥なり すゝつて生きてゐる
 ア ノンキだね

 小沢昭一も番組の中で、「日本人というのは我慢強い。ガソリン代が上がっても、後期高齢者の問題があっても、文句は言うけれど決して暴動など起こさないんですから・・」などと言っていたが、まったくそのとおりだと思う。これだけ生活が脅かされていて、国や政府が有効な手立てを施してくれていないというのに、イカ釣り漁船の操業停止が話題になるくらいで、大きな怨嗟の声がさほど国中に広がってこないというのも、特異なことではないだろうか・・。それに胡坐をかいて利巧ぶったことを他人事のようにあっけらかんと述べる政府首脳の姿勢にはあきれ返るばかりだが・・。(お前だよ、町村!!小泉と一緒になってこの国を無茶苦茶にした竹中平蔵と薄ら笑いを浮かべながらTVに出ている場合じゃないだろう!!)
 まったく毎日がはかばかしくないので、「のんき節」の替え歌を作ってみたら少しは憂さが晴れるかなとい試してみた。
 
 投機マネーは 巨大ぢやさうな
 株ぢやダメだから オイルにむかうさうな
 儲かりゃ 他人の暮らしなんざ
 どこ吹く風 ってもんだ   
 ア ノンキだね
 
 国会の先生は 一生懸命ぢやさうな
 党利党略で 国を動かしておいて
 選挙が怖くて 解散できずに
 今日もTVで 自分の宣伝
 ア ノンキだね
 
 物価高でも 贅沢品は安いさうな
 所得の格差が 消費の格差へ
 そんな理屈など どうでもいいのに
 綺麗な格好して お説吹聴
 ア ノンキだね
 
 
 悲しいことに愚痴しか浮かんでこない。たいした出来でもないが、これくらいのものならいくらでもできそうだ・・・。 
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「ぼくのマンガ道」

 手塚治虫「ぼくのマンガ道」(新日本出版社)を読んだ。手塚治虫が書きとめた文章を集めたものであり、自らの作品の主人公を語ったり、父母の思い出を述べたり、奥さんや子供たちについて語ったりと、手塚治虫をあまりよく知らない読者でも、一読すれば彼の人となりが十分理解できる内容になっている。
 私は常々、1989年に亡くなる直前まで手塚がマンガを描き続けた情熱がどこから来たのだろうと、不思議に思っていた。1作大ヒットを飛ばしたマンガ家が、しばらくするとまったく売れなくなってしまったり、マンガを描かなくなったりするのを見てきた私は、ほぼ生涯にわたってマンガを描き続けた手塚治虫のエネルギーの源を知りたいと思っていた。
 少し前にTVで「ど根性ガエル」で一世を風靡したマンガ家・吉沢やすみの近況を追った番組を見た。少年ジャンプで大人気漫画となり、TVアニメ化もされたが、吉沢やすみにはそれが過大なプレッシャーになってしまい、以後面白いマンガが描けなくなり、放浪生活までしたことがあったそうだ。現在はぴょん吉の再ブームもあって、かなり悠々自適な生活を送っているようだが、そこまで追い詰められるほど一線で活躍するのは難しいのだなあと、実感した。
 だが、手塚治虫は常にマンガを描き続けた。しかも多くの作品が読者の心に深く訴えかける名作だ。「リボンの騎士」「鉄腕アトム」「ジャングル大帝」「ワンダー3」「どろろ」「ブラックジャック」「火の鳥」「アドルフに告ぐ」・・・、いくらでも挙げることができる。こうした旺盛な執筆意欲を支えたものはいったい何だったのだろう。手塚の作品に触れるたびに感じていた疑問は、この「私のマンガ道」を読むことで解消されたような気がする。

 「人間っていうのはばかだなあということを、ぼくはテーマにしたんです。なんでこう愚かしい戦争ばっかりしてね、全々意味のない殺し合いばかりしているんだろうと。(中略)
 とにかく、地球、あるいは生物、あるいは全人類みたいなものを、なぜもっとかえりみないのかというような、そういうテーマでずっと描き続けているんです」(P.171)

 こうした普遍的なテーマを持ち、それについて自らの考えをマンガを通して表現する、これが手塚の長いマンガ家生活を支え続けたエネルギー源だったと私は思う。そうした衝動に突き動かされて、この世界に住む一人の人間として後世に残すべきメッセージを倦むことなく描き続けたのではないだろうか。時には孤独に苛まれ、時には人間の愚かさに絶望したりしたこともあるだろう。それでも子供たち、孫たちの世代へ自らの思いを伝え続けた彼の姿には、伝道者の神々しささえ感じる。

 とはいえ、それは私のまったく勝手な思い込みであって、当の手塚は肩肘張ってマンガを描いてなどいなかったであろう。「鉄腕アトム」に関しての記述はまさしくそんな手塚の面目躍如と言ったところだ。


 アトムの髪の毛について、「これ髪の毛なんです。角じゃありません。ぼくの頭なんです。ぼくは子どもの頃、天然パーマでして、もちろんその頃はベレーかぶってなかった。髪の毛がこんなに盛り上がっていたんです」
 アトムの目玉について、「(家に)キューピーの絵があって、すごく目玉がかわいくて、ぼくのアイドルだったわけなんだ。それの目玉なんですよ、これ。キューピーの目玉なの」
 アトムの指が必ず4本なのは「(子供のときに見た)そのディズニーのアニメの、ミッキーマウスの指が四本だったんです。・・・だから、これも幼児体験ていうか、小さい時の印象がそのまま記憶されて、ふと描いちゃったんです。ぼくの昔のマンガっていうのは、みんな四本」

 実に鷹揚で人間に広がりと深みがある。じゃなきゃ、あんなにすごい作品をいくつも残せないよな・・。

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あじさい

 いつの間にか6月が過ぎようとしている。今年の6月は、とうとう50歳を超えたという点では特筆すべき年ではあったが、かと言って何か他に特別なことがあったわけでもなく、いつものように淡々と過ぎていってしまう。
 6月といえば、梅雨。梅雨といえば、あじさい・・、などとありきたりの連想しかできないほど、「6月・梅雨・あじさい」は連環している。(Link の訳語に「連環」はいい)

 

 

 あじさいの花の色が変わるのは知っていたが、真っ白なままのあじさいがあるとは知らなかった。塾生を送っていった時に、庭先に咲いているのを見つけた。珍しい気がしたので写真を撮らせてもらった。


 あじさいは植えてある土のPHによって色が決まる、という説を読んだ覚えがあるが本当だろうか。
 
 万葉集に、あじさいを詠った橘諸兄の歌がある。
「あぢさゐの八重咲くごとく八つ代にをいませ我が背子見つつ偲はむ」
(あじさいの花が八重に咲くように、何代にもわたって健勝でいらっしゃってください、花を眺めては貴方を思い出します)
 この歌を見つけて悦に入っていたら、「あじさいの花びらに見えるのは、実はがくなんだよ」、と妻が薀蓄を披露してくれた。「中心にあって小さくめだたないのが本来の花なんだって。ふつうの丸く咲くあじさいもそうだけど、平べったいあじさいは「がくあじさい」って呼ばれてる」と豆知識を披露してくれた。上の写真で言えば、下段のあじさいが「がくあじさい」だ。私としては、こんもり丸くなったほうがあじさいらしくて好きだ・・。

 今年の梅雨で一番私が驚いたのは次のニュースだ。

「実は毒!うっかり食卓に…アジサイの葉で食中毒」6月22日19時39分配信 産経新聞
 アジサイの葉は有毒なので、ご用心。
茨城県は22日、つくば市内の飲食店で料理に添えられていたアジサイの葉を食べた客8人が食中毒症状を訴えたと発表した。2人が病院で検査を受けたが、全員快方に向かっている。
 県によると、アジサイの葉などには「青酸配糖体」と呼ばれる有毒成分が含まれ、胃の中の消化酵素と反応することで、青酸(シアン)が生成され、中毒症状を引き起こすという。
 店はアジサイが有毒植物と知らず料理に使ったとみられ、県は「アジサイの葉による食中毒は極めて珍しい」(食の安全対策室)としている。

 万葉の時代にあじさいの葉を食べようなどという酔狂な人物はいなかったかもしれない。もしそういう人たちが多くいたなら、「あじさいの葉には毒がある」ということがもっと広く人口に膾炙していただろうから。
 しかし、あんなに気持ちの悪い形をしたなまこだって、昔に食べた人がいたからこそ、今現在私たちが口に運ぶことができる。あじさいの葉を誰も食べたことがないとはとても思えないが、あじさいの持つ毒性くらいでは、頑丈な昔の人たちには何も起こらなかったのかもしれない。中毒症状が起きてもさほど気にも留めなかったのかもしれない。どれだけの毒性をもっているのか、試すのはさすがに怖いから、あじさいの話題はもうこれくらいにしておこう・・。

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半月過ぎて

 Denny's のモバイルサイト、「デニモバ」に登録している私には、定期的にメールと一緒にクーポンが送られてくる。店に行ってそれを提示すると、100円割引になるため、毎週1回は Denny's に行っている私は必ず利用している。それ以外にも誕生日の月にはバースデークーポンも送られてきて、「キャラメルハニーパンケーキ」がプレゼントとして食べられる。私の場合6月はじめに送られてきたのはチェックしてあったが、クーポンの存在を忘れて Denny's に向かう前に朝ごはんを食べてしまうことが多く、とてもこんなにボリュームのあるものを食べる気にはなれずに、誕生日過ぎてもクーポンを開封しないままできてしまった。確か有効期限は今月末までだったので、そろそろ食べなきゃ期限切れになってしまう。それは勿体ないから、意志を硬くして昨日やっと朝食を食べずに出かけることができた。
 
 いくら顔馴染みの店員さんでも、Happy Birthday と書いてある携帯のクーポンを見せるのは恥ずかしかった。それでも、携帯メールに添えられていた「キャラメルハニーパンケーキ」の写真がとてもおいしそうに見えたので、体裁などを構っていられない。「お願いします」と注文したら、運ばれてきたのは・・・


 トッピングに選んだのは、もちろん小倉。バニラアイスと抹茶アイス、それに生クリームがのせられていて、見るからにおいしそうだ。運んできてくれた店員さんが「うちの抹茶アイスはおいしいですよ」と教えてくれたとおり、濃い目の抹茶の味がバニラアイスと生クリームの甘さを引き立てて、とてもおいしかった。半月たっても誕生日のお祝いがしてもらえたのだから、幸せな気持ちになった。
 そういえば、誕生日に家族からもらったプレゼントの写真をこのブログに載せていなかった。妻がくれたのは、「スクラッチ」。

 

 直径4mmほどの中が空洞になった、長さが約10cmの細長い金属製の棒だが、これで風呂上りの柔らかくなったかかとをこすると、面白いほど角質がボロボロ取れる。先端が刃物になっているようだが、指で触っても切れたりしない。構造がよく分からないが、これだけかかとをきれいにしてくれる道具は初めてだ。以前ダイヤモンドの粒子をちりばめたかかとこすりを妻が買ってくれたが、それとは比べ物にならないくらいの優れものだ。ちょっと驚いた。


 娘が送ってくれたのが、「スウィニー・トッド」のDVD。2月に劇場で見たときからDVD化されたら欲しいなと思っていたが、嬉しいことに娘が気を利かしてくれた。限定版らしく、発売日よりも2日も前に届いたが、何だか勿体無くてまだ見ていない。このまま飾っておいても意味はないから、近々見ようとは思っている。
 息子は誕生日の日に電話をくれて、「何か欲しいものはある?」と聞いてきた。特に欲しいものなどなかったが、ふと頭に浮かんだのが、「風来のシレン3」というゲームソフト。TVゲームなどもう何年もやったことがないが、「風来のシレン」シリーズは、ゲーム史上最高のゲームだと思っている私だけに、新作が出たのを知ったときから、買わないわけにはいかないような気がしていた。「それならば!」と息子の申し出に乗っかることにしたのだが、問題はこのゲームが Wii 用のソフトであることだ。私の家には Wii がない。ハードがなければソフトを動かせないのは当たり前のことだ。子供たちが家にいないため、今まで Wii を欲しいと思ったことは一度もなかったが、こうなると買わざるを得なくなる、仕方がないなあ・・。
 
 と、思っていたが、半月近く経ってもまだ「シレン」は送られてきていない。Wii は買わなくてもいいのかなあ・・・。


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代打

 DH制のないナ・リーグ主催の試合では、膝の状態が思わしくない今の松井が、ベンチスタートになるのもやむをえない。しかし、代打での出場はあるかもしれないので昨日の試合経過はまめにチェックしていた。結局は松井が登場することはなく、5-12でヤンキースは大敗、なんともつまらない試合だった。そんな下らぬ試合に出て、松井のヒザに余計な負担がかからなかったのを喜ぶべきかもしれないが、それでも松井の活躍する姿を見たかったという気持ちは抑え切れない。昨日の試合で松井を代打に送る場面はなかったのだろうか、松井のヒザが試合に出られる状態であると仮定して、私なりに考えてみた。
 DH制がないということは投手が打席に立つわけであるから、投手交代をするのも打順と照らし合わせて考えなければならない。それは、投手に打順が回った時は代打を送るチャンスでもあることを意味している。特に、投手が不調の場合、投手に打順が回ったとき、そのまま打たせるかどうか、続投させるかどうかを決断するのが監督の大きな仕事となる。
 昨日の試合では、ヤンキースの先発投手ラズナーが不調だったようで、初回に早くも2点取られてしまった。2回はなんとか0点に抑え、彼に最初の打順が回ってきたのは3回表、この時点なら彼を続投させるのは妥当であるから、打席に立った。しかし、3回裏にさらに1点を取られ、不安定な投球から立ち直ることはできなかった。それでも、4回のヤンキースは3点差を追って反撃を始める。カノーのタイムリーで1点を返し、1-3と2点差。さらに8番の新人クリスチャンがヒットで続き、2アウト1・2塁(または1・3塁)となり、ラズナーに2度目の打席が回ってきた。このところのラズナーは登板の度に打ち込まれることが多く、昨日もこのまま投げさせたら大量失点につながる恐れは、素人の私でさえ感じられた。ここでラズナーに見切りをつけて、代打を送って得点のチャンスを広げる作戦は十分考えられたと思う。エース級の投手なら簡単には代えられないかもしれないが、ラズナークラスの投手なら早い回で交代させるのもできるはずだ。彼を先発させた時点で、継投で繋ぐ覚悟はしていたはずだろうから、ここで代打を送ってもよかったのではないだろうか・・。
 この日、控え選手としては、松井・デイモン・モリーナ・ベテミットなどがいた。この回で松井かデイモンを使うのはさすがに早いとは思うが、モリーナを代打に送って攻めの意志を内外に見せて欲しかった。実際には、ラズナーがそのまま打席に入り、四球で歩き満塁となるも、次打者カブレラが凡退して1-3のまま攻撃を終えた。結果で言えば、ラズナーが繋いだのだから、そのまま打たせてよかったとも言えるが、次の4回裏と5回裏に続投したラズナーが2点ずつ取られて1-7と6点差に開いてしまったのだから、何をか言わんやである。それにしてもどうしてここまでラズナーに固執するのだろう。先発ピッチャーの駒が不足しているヤンキースだから仕方がないのかもしれないが、みすみす負けることを認めるような試合運びには不満が募る。ジラルディーはいったい何を考えているのだろう、私にはまったく分からない・・。
 それでもヤンキース打線は粘りを見せ、6回にはクリスチャンが2点タイムリーを放ち、3-7と詰め寄る。この時、1アウト2塁で次打者がまだ投げさせていたラズナーなので、当然代打が送られた。ここで登場したのがモリーナ・・。何故?反撃の芽が膨らみ始めたこの時に、一気に流れを自軍に引き寄せようと思うのなら、松井かデイモンを使うべきだったと私は思う。勿論この2人がいつでも打てるわけではないが、とにかく勝負どころをとらえて、「勝つぞ!」という姿勢を鮮明にすることが必要だ。ジラルディーの用兵を見ていると、打つ手が1手ずつ遅れているように思えてならない。動いて失敗する場合もあるだろうが、納得できる動きならば、何もしないで失敗するよりもずっといいように思う。「監督が率先してチームを勝ちに行かせるためにできる限りの手を尽くす」、そうした監督像が当たり前だと思ってきた私には、ジラルディーはただただ手をこまねいているだけの凡庸な監督にしか見えない。
 この時は代打モリーナ、続くカブレラが凡退してしまい、3-7で6回の攻撃は終わった。その後は7回2点、8回3点と救援投手が次々と打ち込まれ、ヤンキースの反撃も9回のアブレイユの2ランだけにとどまり、結局松井とデイモンに出番はないまま屈辱的な大敗を喫した。まさしく宝の持ち腐れだ・・・。
 勿論チーム事情など何も知らない私の戯言だから、的外れなことばかりかもしれないが、それでもこの試合のように、手駒を上手に生かしきれないままシーズンが進んで行ったなら、ヤンキースがポストシーズンに進むなどということははなかい夢幻に終わってしまいそうだ。松井が治療に専念できる時間が早くやってきて、来季に捲土重来を期すにはそれでもいいのかもしれないが、そんな寂しくて悲しい10月などお断りだ!!
 何とかジラルディーに勝負勘を磨いてもらうしかない。 
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お中元

 5月はじめに3本虫歯を抜いて以来、毎週歯医者に通っている。先週の金曜日で7回通ったことになるが、長年ほかりっぱなしにしてきたツケは大きく、まだまだ道半ばにも達していないような気がする。次回から3本抜いた箇所にブリッジを架けて歯を入れる準備を始める予定だが、毎回行くたびに少しずつ自分の口の中が整備されていくのは嬉しい。次はどこを直してもらえるのかな、と少しばかり楽しくなってきたのは事実だが、相変わらず待合室で待つのがいやで、妻に待合室に座っていてもらって、私は外で待っていて、自分の順番になると治療室に入って行く、というのを繰り返している。治療用の椅子に座っても、心がざわついて落ち着かない気持ちになるが、歯科医の従兄弟が気を遣って手際よく私の治療を済ませてくれるので、なんとか大きな迷惑をかけずに治療を終えることができている。本当にありがたいことだ、と心から従兄弟には感謝している。私より2歳年上で、中学・高校の先輩でもあるので、常にリスペクトの気持ちは忘れないで過ごしてきたつもりだが、自分がこうまで世話になると何か感謝の気持ちを伝えたくなる。治療が終わるたびに「ありがとうございました」とお礼は述べているが、とてもそれだけでは足りない・・。
 日本ではこういう場合にふさわしい慣習が古来から続いている。今の時期なら「お中元」を贈ることにっよって、普段から世話になっている人に自らの感謝の気持ちを表すことができる。もちろん儀礼的なものになってしまって、邪魔くさい慣習だと思う場合も多々あるだろうが、今回の私のような場合、そうした慣習にのっとって己の気持ちを伝えるのが一番自然なように思える。そこで名古屋の松坂屋に出かけてみた。

 お中元はいつ贈るものなのかよく分からないが、特設会場もできていて多くの人で混雑していたから、今がふさわしい時期なのだろう。ただ、その会場では商品を選ぶと自動的に郵送の手続きをするようになっているらしく、商品を持ち帰ることはできない決まりになっていた。その方が便利だと思う人が多いからなのだろうが、私は直接手渡すつもりで住所など控えてこなかったから、特設会場の品物を選ぶことができず、地階の食品売り場で何か良い物を探すことにした。
 妻と二人であれこれ迷いながらしばらく売り場を歩いていたが、これならいいかな?と思うものをやっと見つけた。それは「参宮あわび」で有名な「伊勢せきや」の「ご飯の素」というもので、「あわびごはん」「帆立貝柱ごはん」「鮎ごはん」などを作るための具が入っているものだ。それらを何種類か詰め合わせてもらったら、ちょっと気の利いたお中元になったように思えて嬉しかった。従兄弟の亡くなった母親、つまり私の伯母は五目御飯を作る名人だったので、従兄弟もきっとこの「ご飯の素」を喜んでくれるではないだろうか・・。

 お中元が決まったら、正午をかなり過ぎていた。もう余りゆっくりしていられないので、昼食を食べて帰ることにした。昼食に選んだのは「山本屋」の味噌煮込みうどん。昨年松坂屋本館のレストラン街が改装された際に、飲食店がかなり変わったが、さすがに味噌煮込みうどんの老舗の「山本屋」はそのまま営業を続けている。ただし、店の雰囲気がかなり変わって、メニューも新しくなった。

 以前なら、海老のてんぷらが中に入った味噌煮込みを注文できたのに、今ではてんぷらが別の皿に乗せられて出てくる。海老が大きくなったわけでもないのに(むしろ小さくなった気さえする・・)値段が高くなったのには少々不満を感じる。だが、やはりおいしい。麺は少なめだが、赤味噌の汁は最後の一滴まで飲みたくなる。途中で汗が滴り落ちてくるが、残したくはない。蓮華で最後まで掬って飲んでしまった。これこそ味噌煮込みの正統的な食べ方だ!
 
 ところで、白味噌の煮込みうどんてあるんだろうか。私には想像もできないが・・。
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ふところ鏡

 またまた集めてしまった、サントリーの「伊右衛門」ペットボトルに付いていたおまけ・・。今回は「ふところ鏡」。長さ6cmほどの小さな手鏡だが、裏に描かれた絵がなんとも趣深くて気に入った。
 何度かサントリーのペットボトルのおまけを集めた経験から、こうした景品はある系列のコンビニやスーパーとタイアップして販売促進に役立てている、というのが分かってきた。今回のこの「ふところ鏡」が付いているのは、サークルKで売られているペットボトルにだけのようだ。他のコンビニやスーパーではまったく見かけなかったので、12か月分すべて集めるのは結構難しかった。(最後に残った4・6・8月分は「ザ・マジックアワー」を見に行った妻が帰り道にあるサークルKで買ってきてくれた)。ちょっとばかり自慢の品を以下に並べてみる。


  
 
    1月「あけぼの」          2月「雪兎」             3月「つくし」
 
  

    4月「山桜」            5月「杜若」             6月「蛍」

  

    7月「七夕」            8月「花火」             9月「月見」

  

    10月「渡り鳥」          11月「散紅葉」           12月「千鳥」 

 毎月一つ一つ「銘」が入っている。「銘」というのは、「茶人が道具や菓子などにつける名前のことで、その月や季節にふさわしいものなどが選ばれます」と説明が書かれている。その「銘」をモチーフにした絵が風流で心憎い。漆が塗ってあるわけではないが、単なるおまけには思えない奥ゆかしさを感じる。何十年か経って
、この「ふところ鏡」を12本すべて持って「なんでも鑑定団」に出演したら、思わぬ高値が付くかも・・。
 
 これだけ手鏡を集めてどうするんだ?と、かつて手鏡を使って悪さをした大学教授の姿を思い浮かべたりもするが、私にはそんな破廉恥な趣味はないから、いらぬ邪推を受ける前に、欲しいという塾生がいたら分けてしまおう。
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哀・・

 日曜日、塾が終わって家に帰ってTVをつけたら、WOWOWで「西遊記」をやっていた。香取慎吾主演の映画だが、ちょうどこんな場面だった。



去年の夏に公開された映画で、今年の初めにはDVDも発売されているが、私は初めて見た。TVドラマが人気を博して、その勢いで映画化されたものだ。だが、かつて堺正章のTVドラマ「西遊記」を楽しんで見ていた私には、どうしても配役を比べてしまう。まるでサルだった堺の孫悟空と比べれば、香取慎吾の孫悟空はゴリラのような力強さもっていた。「ドラゴンボール」の悟空を知った私たちには、これくらい迫力のある孫悟空の方が魅力的に映るだろう。ただ、深津絵里の三蔵法師はどことなく貧相で、夏目雅子の凛々しい三蔵法師と比べるとかなり物足りなかった。夏目雅子は以前「悪魔の手毬歌」という記事でも触れたことがあるように、なかなかの魅力を持った女優であった。若くして亡くなったは残念の極みだ。
 さらには、猪八戒はやはり西田敏行のほうが豚らしいし、沙悟浄も岸辺シローの胡散臭さの方が勝っていた、などと思ってしまうのはあながちノスタルジーのせいばかりではないと思うが・・。なにせ途中から見始めた私であるから、評価が偏ってしまうのかもしれない。さらには「ザ・マジックアワー」を見に行っていた妻が佳境に入りかけたところで戻ってきて、「おお、慎吾ちゃん!!」と両目をにしてあれこれ解説を始めたし、大団円の場面で弟家族がやってきて子供たちが暴れ始めたので、話がどういう結末を迎えたのか、正直言ってよく分からなくなってしまった。でも、「ザ・マジックアワー」よりもこの「西遊記」の方がよかった、という妻の評言を聞いたとき、三谷幸喜があれほどTVで宣伝をしまくっていたのは何だったんだ?と思ってしまった・・・。

 その後は、弟の子供たちとワイワイ過ごしたのだが、私は少しばかり気持ちが沈んでいた。と言うのは・・・。
 1週間ほど前、カブトムシの幼虫を育てている飼育箱の「住環境」を改善しようと、フンで汚れた土をきれいなおがくずに変えてやったのを記事にしたが、どうもそれが大失敗だったらしく、6匹いた幼虫がすべて死んでしまったのだ。
 授業が終わって、水遣りをしようと思って飼育箱をのぞいたら、おがくずの中に黒いかたまりが見えた。大きなフンかな、と思っておがくずをさばいて見たら、なんと幼虫が黒くなって固まっているではないか!!いくら触っても動かない。えっ?と思って、おがくずを全部掘り返してみたら、6匹すべて動かなくなっていた・・。全滅だ・・。
 「なんてことだ!」と小声で叫んだら、まだ帰らずにいた塾生が近づいてきて、「おがくずだけじゃダメですよ」と言った。「そうなの?おがくず食べて生きてるんじゃないの?」「違いますよ。腐葉土とか幼虫が生まれていた場所の土が必要です」「・・・。フンまみれになったから、きれいにしようと思ったんだけど・・」「食べるものがなくて餓死したんですね」「・・・・・・」
 何てことをしてしまったんだ。せっかく大きくなったと喜んでいたのに・・。可哀想なことをしてしまった・・・。ごめんよ・・。

 私には生き物を飼うのは無理なのかな、やっぱり・・・。
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グミ

「先生、グミ食べる?」
と聞かれたのがきっかけだった。
「グミってゼリーみたいなやつのこと?」
「ゼリーとは違うけど、プニプ二してておいしいよ」
「食べたことないなあ・・」
「それじゃあ、食べてみて」
と女の子が渡してくれたグミは確かにプニプにしていた。これがおいしいのか?とかなり疑心暗鬼になったが、せっかくくれたものを無碍にはできない。少しばかり勇気を振り絞って口に入れてみた。・・・・・・・。う~~ん、何とも言えない。おいしいのかまずいのか、どちらとも言えない。う~~ん・・・。
 私が子供のときにグミなどという食べ物はなかった。それもそのはず、『日本では、1980年に明治製菓がコーラアップという製品を発売したのが日本初であり、1988年になって同じく明治製菓が果汁グミという製品を発売したのをきっかけに広く知られるようになった』とWiki に書かれてあった。子供のときに食べたことのないお菓子を大人になって食べるのには少々勇気がいる。新しいものにチャレンジする意欲がなくなってきているのは実感するが、そんなことばかり言っていたら退嬰的になるだけだ。どんどん新しいことに体当たりしていくようにしなければ・・・。
 そこでスーパーで何種類かのグミを買い込んできて、私にとってグミはおいしいものなのかどうか、白黒つけることにした。グミを初めて日本に紹介したという功績に敬意を表して、明治製菓の「果汁グミ」6種類で試してみた。そもそもグミとは、「果汁などをゼラチンで固めたキャンディー菓子の一種」なので、果汁の種類と食感によって、好き嫌いが大きく分かれるものではないだろうか、そんな予感を持ちながら次の6種類をエントリーした。

  

  

 パッケージには「グミ独特の食感をつくっている”ゼラチン”はコラーゲンの一種です。だからグミはおいしく噛んで、たっぷりコラーゲンを摂ることができるんです」と書いてある。「果汁100」とある4種類のグミには、一袋あたりのコラーゲンが2600~2800mg含まれているという。「ぷぷるん」という商品名のものは、コラーゲンが1500mgとかなり少なくなっているが、こちらは、「ぷるプルやわらか食感グミを果汁グミで包んだダブル食感」が売り物のようだ。袋から取り出して形や色を比べてみた。

  

  

 見た目は「果汁グミ」の方が、果物の形を象っていて、可愛らしい。香りはどれもそれぞれ独特の芳香を放っていて、私を誘ってくる。一つ一つ口に入れてみた。
 まず、「果汁グミ」の方はどれも少しばかり固めだと気づいた。しかも味が濃い。その上甘い。しばらくその味が口に残ってしまった。う~~ん、余り好みじゃない・・・。次に「ぷぷるん」を食べてみた。えっ?何、この食感は?確かに二重構造になっている。固すぎず柔らかすぎず、絶妙のバランスを保ったゼラチンが適度の果汁とともに口の中に広がる。おいしい!!特に「シャルドネ&マスカット」は、本物のブドウを食べている錯覚に陥るほどだった。まさしく絶品だ。
 塾生の何人かにも試食してもらったが、やはり私と同意見の生徒が多かった。恐るべし、「ぷぷるん」!!
 
 クセになりそう・・・。

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「悩む力」

 姜尚中著「悩む力」(集英社文庫)を読んだ。姜尚中はTV討論会などで時々姿を見かける政治学者であり、言葉を選びながら落ち着いて発言する姿勢には、真摯な思想家と思わせるに足る趣があり、好感の持てる人物だと思ってきた。だが、彼の著作は一冊も読んだことがなかった。政治学などという分野にはまるで興味のない私だからそれも当然のことだろうが、書店で本書を見つけた時は、著者の名前よりも、「あなたは100年前の漱石と同じ壁にぶつかっている」という帯の文言に反応してしまった。政治学者と漱石、なんだか珍しい取り合わせだ。いったいどのように漱石を読んでいるのかが知りたくなって、読んでみることにした。
 序章に『本書では誰にでも具わっている「悩む力」こそ、生きる意味への意志が宿っていることを、文豪夏目漱石と社会学者・マックス・ウェーバーを手がかりに考えてみたいと思います』とあるように、19世紀末から20世紀に生きた2人の偉大な知識人の著作や生涯をヒントに、20世紀末から21世紀に生きる私たちが『どのようにして悩みを乗り越えていくか、あるいは悩みながらどのように生きていくか』を考えようというのが本書のメイン・テーマである。私は自分を、勝手に漱石に私淑している末端の弟子であると自惚れているが、20世紀最大の社会学者と呼ばれるウェーバーについては、その名を知っている程度で彼の膨大な思想の尻尾の先の毛さえも知らぬ浅学の身である。そこで、少しくらいは彼のことを知っておこうと調べてみたが、「主知化」などという用語の意味さえも理解できなかったため、ホウホウの体で逃げ帰ってきた。もちろん本書はウェーバーの思想の解説書ではないので、彼の思想のほんの上っ面をなでているだけだが、それでも彼の思想が漱石と通底する部分が多いことは、十分理解することができた。
 そういう意味では、本書は実に読み易い本である。著者の真面目な人柄がにじみ出ているような文章で、彼の考えがすんなりと心に収まる。以下に私が読み取った著者の「悩む力」についての考えをまとめてみる。
 
 信仰の覆いがはずされ「個人」にすべての判断が託されてしまった近代以降には、私たちは自我と向き合い、自分がやっていること、やろうとしていることの意味を自分で考えねばならなくなった。そこから自分の無知や愚かさ、醜さ、ずるさ、弱さといったものを見せつけられ、それが悩みを生ぜしめる。だが、ひるむことなく、とことん悩むことが何よりも大切である。自分でこれだと確信できるものが得られるまでまじめに悩み、まじめに他者と向き合かいあうことで、何らかの突破口を見つけることができ、他者と出会える場所にたどり着くこともできる。そして、そこで自分が相手を承認して、自分が相手に承認されるならば、そこからもらった力で自分は自分として生きていけるようになり、自分自身であることの意味が確信できる。なぜなら、人が自我を確立していくためには、他者とのつながりが必要であり、相互承認の中でしか人は生きられないのだから。

 そう言えば「友だち地獄」の著者も、現代の若者たちに「困難から目を背けるずに立ち向かってほしい」という趣旨のことを述べていた。だが、これは何も新しいメッセージなどではない。「艱難辛苦汝ヲ玉ニス」という格言もあるし、「ソ・ソ・ソクラテスかプラトンか。二・二・ニーチェかサルトルか。みんな悩んで大きくなった」とかつて野坂昭如が歌ってもいた。悩むことによって人間が成長するというのは自明の理と言っても過言ではないだろう。
 しかし、それも精神修養が何よりも大事であると思われていた時代のことだ。現代に生きる我々にとって、目に見えない、手で触ることのできないものは、かつてほど価値を持っていないように思える。心が太くなければ行き辛い世の中なのに、心の力を弱めるような作用しか働いていないように思えてならない。斯くも脆弱になってしまった心の持ち主たちに、作者のように「悩む力を持て」と訴えても、とても耐えられそうにない。果たして著者の叫びを受け止めるだけの強い心を持った人々がどれだけいるのだろうか・・・、読みながら心配になってしまった。
 
 生きている間は決して悩みは尽きないだろう。その悩みを少しずつでも乗り越えていくのが人生だろう。だが、そうは簡単にはいかないのが私たちであり、思わずくじけそうになるのも私たちである。なかなか強くはなれないが、それでもやっぱり命ある限り生きていかなくてはならない。
 「難しいけど面白い」、それくらいの心持ちで生きていくのが一番いいようにも思うのだが・・。
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