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ゲルマニウム

 昨日の朝起きて、前夜洗い忘れた髪の毛を洗おうとしたら妻に尋ねられた。
「風呂で何やってるの?」
「寝ている。風呂に入るとすぐに寝ちゃう」
本当にそうだ。湯船につかって、目を閉じた瞬間に寝てしまう。もう何年もそんな感じだ。
「最近、ちょっと危ない。寝ると、前のめりになって顔が湯の中に入るみたいで、鼻の中に水が入ってきて苦しくなって目が覚める。びっくりして水を吸い込むこともあって、しばらくむせている。でも、またすぐ寝ちゃって、また水を吸い込んで、って言うのを何回か繰り返さないと目が覚めない。やばいよね」
「何でそんなに寝ちゃうの?ゲルマニウムを入れたせいかな・・・」
「何だ、それ?ああ、あの風呂の中にぶらさがってるやつか」
そう言えば、一週間くらい前から湯船の内側に変なものがぶら下がっているのは知っていたが、どうせなにかの入浴剤だろうと思って、調べもしなかった。何年か前には備長炭がいいとか言って、炭が沈めてあった。今度はゲルマニウムか、と思って写真にとってみた。

 

いったいこれにどんな効能があるというのだろう。ちょっと調べてみた。

 無機ゲルマニウムは、その電子的特性から、体内の酸素を増やして、有害な毒素や老廃物を汗や尿として排泄してくれるので(12時間~20時間後)、細胞や体内器官の働きが活発になり、免疫力や自然治癒力を高めてくれます。
また、32℃以上の温度になると生体電流を活性化させ、血行をよくすることから、筋肉の凝り・疲れ・痛みを緩和してくれます。

何だか夢の物質みたいで俄かには信じられないが、そういえば、私の市にも岩盤浴ができる施設がもうすぐオープンする。岩盤浴というのも、ゲルマニウム温浴と並べて言われることが多いから、似たようなものだと思うが、細かな違いは分からない。どちらも巷間言われるほどの効果があるのかは眉唾物だが、ゲルマニウム球のほうは、しばらく妻の酔狂に付き合うことになるだろう。

 髪を洗って一つ不思議なことに気が付いた。洗ったばかりの髪は何だが、白髪が目立たない。ちょっと黒くなったのかなと見まがうばかりだったが、ドライヤーで乾かすうちにいつもの白髪頭に戻ってしまった。いったいこれはどうしてなんだろう。錯覚には違いないが、ぬれた髪では白色よりも黒色のほうが目立つのだろうか。どう見たって劣勢の黒髪が、このときとばかりに存在感を示したわけでもないだろうに、不思議な現象だった。光の加減なのかなあ・・・
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アン

 

 これは昨日の昼食の後、デザート代わりに食べた最中である。前日に従姉妹が名古屋のJR高島屋で買ってきてくれたものだ。名古屋の「仙太郎」という和菓子屋の最中だ。粒アンがたっぷりはいって適度に甘く、私の大好きな最中だ。6個あったうち、思わず2個を続けて食べてしまった。昼食を食べたばかりなのに、まさしく「べつばら」に入ったようで、おいしかった。できればもう1個食べたかったが、自重した。

 私はアンが大好物だ。喫茶店でも、「小倉トースト」を注文することが多い。ぜんざいなら立て続けに3杯は平気だ。アンパン、アンドーナツと、朝食に食べるパンはアンが入ったものがほとんどだ。たまにメロンサンドとか、ジャムサンドとかに浮気をするが、基本線はアンパンだ。最近のアンパンはアンがたっぷり入ったものが多い。アン好きにはたまらないが、実はパンなどなくてアンだけでも食べられる。小さいときには、アンパンからアンだけを取り出して食べていた。パンは犬にでもやったと思うが、さすがにそれは母に叱られて止めたが、アンさえあればそれでいい。
 しかし、アンがあれば何と一緒に食べてもいいのかと言われればそんなことはない。昔、ご飯にぜんざいをかけて食べる人を見たことがあるが、さすがにそれは気持ちが悪かった。ぜんざいに餅を入れて食べることだってあるのだから、米にかけたっていいように思えるが、そんなことはない。今想像しただけでも、思わず・・・。絶対に無理だ。何でだろう。甘いものがご飯に合わないって言うことはないだろうし、やってみれば結構おいしいかもしれない。でも、私は絶対にいやだ。チャレンジ精神に欠けているだろうか。
 もう一つ私が大好きなアンの入ったものはこのアイスクリームだ。

 
 
これは、森永の「あいすまんじゅう」というものだ。普段は我慢しているが、日曜の夜、酔っ払って息子とふらふらコンビにまで歩いて行って買うことが多い。上気した体の中に、冷たいアイスクリームとアンを流し込むと、一瞬だけシャキンとする。アイスクリームとアンとが至高のコンビネーションを組んでいて本当においしい。これが100円で買えるなんて夢のようだ。
 これから暑くなると、毎週買ってしまいそうだ。
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センサー

 昨日話題にした花の名前は、竜虎の母さんが「ニワゼキショウ(庭石菖)」だと教えてくださった(感謝!)。どんな花にでも、ちゃんと立派な名前が付いているものだなと感心した。しかし、どうして花弁が開いたり閉じたりするのかは分からないままだ。簡単に言えば、雨や日光や気温を感じるセンサーがあんな小さな草花の中にも付いているということなんだろうが、自然の造化の精緻さというものに思い至るたび、言葉を失ってしまう。生きとし生けるもの、自らの命を守る最低限のものは天から与えられている。その点において天は平等なのであろう。
 勿論私たちにも色々なセンサーが生まれつき備わっている。五感といわれる、視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚は、どれかひとつ欠けても生活に支障をきたす。第六感とよばれるものも存在すると思うが、いつでも働くものではないだろうから、そうそう当てにはできない。むしろ、五感を研ぎ澄ました中から生まれてくる特別な感覚と呼んだ方がいいように思う。勘や予感といったものも、経験から導き出されたデータを恣意的に解釈したものである場合が多い。「胸騒ぎ」というものも、かつてある1つの状況に追い込まれた時にある決まった結果が起こる可能性が多いことを経験的に知っているから、心が警告を発するのではないだろうか。
 
 しかし、私は自分のセンサーがかなり衰えてきているのを実感する。五感のうちもともと聴覚は弱いから大して苦にはならないが、視覚の衰えはいかんともしがたい。遠近両用のメガネにしてから随分楽になったが、それでも時にはメガネを外して新聞を読んでしまう。今もパソコンのモニターをメガネを外しながら見ているが、そのほうが焦点が合いやすく楽である。それだけならまだしも、最近は触覚をはじめとした皮膚感覚が弱ってきているような気がする。
 皮膚には、温点、冷点、圧点、痛点という4種類の感覚点があり、ものの刺激や温度、痛みなどを感じる、センサーのような働をしている。私は、この中で痛点の働きが特に弱まった気がする。以前にも書いたことがあるが、よく転ぶようになった。酔っ払っているときは当然でも、素面のときでもよく転ぶ。転べば当然痛い、はずだ。しかし、転んだ当座は痛みを感じないことが多くなった。恥ずかしいからかもしれないが、その瞬間はほとんど何も感じない。でも、1日後くらいにかなりの痛みを感じて、ああそういえば転んだんだった、と思い出すことが多い。嘘のようだが、本当の話だ。さらには、どこでどうしたのかさえ思い出せないが、ひざが黒く変色して痛みも感じるのに、全く覚えがない、そんな個所が今現在1つある。何でそんなことになるのだろう。
 やっぱり年とともに感覚全般が衰えているのだろうか。それが自然の摂理なのか、惰性から来る油断なのか、私には分からないが、その2つの相乗効果なのかもしれない。でも、そうした生き物として本能的に備わっている防衛本能とも言うべきセンサーが弱まっているのは由々しき事態のはずだ。一歩間違えれば命の危険さえあるはずなのに、正常に作動してくれない。困ったものだ。

 感覚が鈍くなり、外世界の刺激に反応しにくくなる、それが老いの始まりだとするなら、それを受け入れそれと折り合いをつけていくべきなのかもしれない。しかし、それに抵抗しようとする意志を持つことも必要ではないか、そんなことを思う昨今である。
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野に咲く花

 先週の日曜日、塾で授業をしながら何気なく窓の外を見たら、塾舎の横の空き地が、まるでピンクの絨毯がひかれているようになっていた。びっくりして目を凝らしてみると、小さなピンクの花が一面に咲いているのが分かった。授業が終わって、その空き地まで行って、写真に収めた。

 

なんていう花なんだろう。6枚の小さな花弁が陽を一杯に受けるよう開いている。近くで見るとしっかりした存在感のある花だ。人が立ち入る場所ではないので、伸び伸びと育っていて胸のすく思いがする。毎年この時期に咲いていたのかもしれないが、諸事に迂闊な私は全く気付かなかった。
 ところが、昼過ぎに俄かに空がかき曇り、スコールと見まがうばかりの激しい雨が落ちてきた。ものの30分ぐらいだったろうが、強風も伴い、ちょっとした嵐のようだった。雨はやんだものの、その後天気は回復せず、「雨が多くていやになる」と思って、窓から先ほどの空き地を見たら、まるでピンクの花がなくなっている。驚いて見直しても、まったく見当たらない。どうしたんだろう、花弁が散ったはずもないから閉じたのかなと漠然と思っただけで、近くまで見に行くことはしなかった。。
 翌日になって、天気が回復したら、朝からまたピンクの花が一面に広がった。やっぱり天候によって開いたり閉じたりするんだなと、自然の神秘に触れた思いがした。その後、金曜になるまでその花のことは忘れていた。たぶん咲いていたと思う。ところが金曜になって、はっと思い出して、空き地を見たら、全く花が見当たらない。天気は晴れていたから、雨をよけたのでもないだろう。もう散ったのかなと思って、今度は近くまで行ってみた。すると、

 

右の写真のように、花弁の代わりに直径2㎜ほどのこげ茶色の球状のものが生っている。「へえ~、もう実がなったのか」とその時は短絡的に思ったのだが、「こんな変った花もあるんだな」と妙に感心してしまった。
 ところがである。昨日土曜日になって、驚くべきことが起こった。土曜は午前中から塾があるため、9時前に塾舎の掃除をしようとして、窓を開けて横の空き地を何気なく見たら、また前のように、いや前よりもびっしりとピンクの花が咲いているではないか!「ええっ!実がなったはずなのに!」急いで空き地まで走ってみた。

 

本当にきれいに花が開いている。不思議だ。しかも、前日見つけたこげ茶色の球状のものが見当たらない。どうしたんだろう。本当に不思議だ、と思いながらもうしばらく観察していると、見つけた、これだ!


私が実だと思ったものは、実は花弁が閉じたときの蕾だったのだ。花弁が丸くすぼんで実が付いたようになる、私としてはすごい大発見をしたような気持ちになった。これはブログで絶対発表しようと意気込んでいたのだが、書いてるうちにこんなことは当たり前なのかもしれなうと思うようになってきた。ただ私の観察眼がなかっただけで、至極当たり前のことなのかもしれない。
 でも、私としては初めての大発見と行ってもいいものなので、臆面もなく載せておく。
 
 それにしても、なんていう名前の花なんだろう。
 
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道歌

 3月13日から16日まで、NHK「ラジオ深夜便」の「ないとエッセー」のコーナーで、日本文化研究家・翻訳家のキリチェンコ・マリアさんが「道歌にみる日本」というテーマで、語っていたのを思い出した。彼女はモスクワで生まれ、両親が東洋学研究者で、幼い時から日本文化に慣れ親しんできた。日本に留学した際に、生きる道筋を和歌に詠み込んだ“道歌”を知った。一休和尚も数多く詠み、日本の伝統や教訓として伝えられてきた“道歌”を紹介しながら、日本文化体験を語っていた。
 私は“道歌”という言葉をその時初めて聞いたので、彼女の話を興味深く聞いた。もう2ヶ月以上も前なので、細かな内容は全く忘れてしまったが、外国の人に私の知らなかった日本文化を教えてもらうのは、なかなか刺激的なことであった。すぐにこのブログでも取り上げてみようと思っていたのだが、どういうわけか忘れてしまっていた。それなのに何の脈絡もなく思い出して、いくつか道歌を取り上げてみるのも面白いだろうなと思い立った。
 調べてみると本当に数多くの道歌があるが、興味をひかれたものを以下に書き記してみる。

まずは代表的なものとして、
 「なせばなるなさねばならぬなにごとも ならぬはひとのなさぬなりけり」
これで分かるように、道歌は説教・教訓的でおもしろくないという気はする。しかし、一面真理であり、真理はいつでもどこでも通用するものであるから、覚えておいて損はない。

また、山本五十六の言葉として有名な、
 「やってみていって聞かせてさせてみて ほめてやらねば人は動かじ」
と言うのも、子供たちに日々勉強を教えている身としては常に心に留めておかなければならない言葉である。

 「むかむかと腹のたつときかえり見よ 理か非かまたは短慮なるかと」
あれこれ腹がたって仕方ないとき、噛みしめるといい言葉だ。だけど、腹が立ってしまったらこの言葉を思い出す余裕なんてないだろうから、腹が立つ前に思い出さないといけないだろう。

 「堪忍のなる堪忍は誰もする ならぬ堪忍するが堪忍」
難しい。そんなことできるはずない、と思う。それをするのが堪忍だと教えてもらっても私にはなかなか実践できそうもない。

 「火の車つくる大工はなけれども おのがつくりておのが乗りゆく」
無駄遣いはいけない、そんなことは重々分かっているけど、ついつい・・・反省。

 「引き留めて止まらぬものは月と日と ながるる水と人の命よ」
 「今日限り今日を限りの命ぞと 思いて今日の勤めをばせよ」
人の世が無常であることを頭では分かっているつもりでも、そのつもりで生きているかと問われたらはっきり答えることはできない。与えられた命の多くを無駄に使い果たしてきた私だけに、これから残された時間を精一杯有効に使っていかなければいけない。最近特にそう思う。

ならば、次の言葉をこれからの教訓としよう。
 「身を軽くこころ素直に持つ者は あぶなそうでもあぶなげもなし」

最後に、
 「百薬の長たるゆえにかえりては また百病のもととなる酒」
了解、深酒は止めよう、休肝日を作ろう。これもなかなか難しいけれど。


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PNF

 22日に、松井が骨折し手術した左手首の抜糸をし、その後報道陣の取材を受けた様子が大きく報じられた。穏やかな表情で、経過が良好なことをうかがわせたが、昨日発売された「週刊文春」にも、そのインタビューに関する記事が載せられていた。ジャーナリスト・鷲田康氏のレポートであるが、その中で私の興味を引いた個所を引用してみる。

 『自分でコントロールできることと、できないことがある。コントロールできないことを一生懸命コントロールしようとするのは、かえってストレスの原因になるだけ。そういうことは受け入れるか、あるいは受け流すことも必要だし、無理にどうしようとは考えないことが必要だと思う。それより自分でコントロールできることにどれだけ集中できるか。僕はいつもそのことを考えている』
 松井のこんな言葉を思い出した。プレッシャーのかかる場面、ピンチに陥ったときにどういうことを考えるのか?そんな質問に対する答えだった。今の松井の心の中は、まさにこの言葉通りの心境と言うことができるだろう。
 ケガをしたことと、その回復具合―それは「自分ではコントロールできない」ことなのだ。それよりいかにこのケガを受け入れて、復帰に向けてできることをやっていくか。口では「何もしていない」というが、実際にはすでに松井は八月復帰の青写真を描いて、密かに動き出している。

 おいおい、本当かよ、大丈夫かよ、そんなこと言って。思わずそう言いたくなるような内容だが、続けて、

 激しい動きは一切できないが、その一方で日本でプレーしていた頃からずっと続けているPNFはOK。すでに日本からPNFの先生を呼んで、密かに自宅で施術を受けている。
 PNFはもともとは脳性まひなどによる障害者に対して、インストラクターがある刺激と操作を加えることで、正常な生体反応を引き起こすように仕向ける治療法のことをいう。これを運動選手に応用して筋バランスや柔軟性、俊敏性などの運動機能の飛躍的な向上に役立てられるようにしたものだ。もともとが障害を持つ人々を対象にしたものだけに、施術では特に激しく体を動かす必要もなく、それでいてインストラクターのやり方次第で、かなり激しい負荷をかけ筋肉を刺激することもできる。今の松井にとってはうってつけのリハビリ方法となるわけだ。
 骨が完全にくっつくまでには約六週間かかるといわれている。ケガをしたのが五月十一日(日本時間十二日)なので、おそらく六月二十日前後が”完治”のXデーとなるはずだ。まず最初の問題はその六週間で、患部以外の筋力をどこまで維持できるか。普段どおりのトレーニングはできないのだから、ある程度のダウンは覚悟している。それでも、その落ち幅をどこまで食い止められるか。そこが松井自身にコントロールできる最初のことで、その方法として選択したのがPNFだった。

素晴らしい!骨がくっついたらすぐに練習が始められるだけの体力を可能なだけ維持しておく方法と考えればいいのだろう。しかし、練習を再開した後、骨折した手首がどれだけ早く回復できるのかは分からない。同じように守備で左手首を骨折したケン・グリフィーJr. が2ヵ月半で復帰した例も挙げられているが、果たしてどうだろう。決して焦って欲しくはないが、ヤンキースの主力としてそうとばかり言っていられない事情もあるだろう。私としては、ただ、このレポートの最後に述べられているように、松井を信じて待つしかない。

 人生最初にして最大のピンチ。その危機に直面しても、松井は冷静に、ユーモアを忘れずにその危機と真正面から向き合うことができている。自分で自分をコントロールさえできれば、必ずこのピンチを乗り越えられるはずだ。

頑張れ、松井!!
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暗記法

 中学に入って初めて勉強した漢文の教科書に、「己・已・巳」の読みの違いを歌の文句のようにして覚える方法が書いてあった。
 「キ・コの声、オノレ・ツチノト下に付き、イ・スデニ半ばに、シ・ミはみな付く」
なるほど、こう覚えればいいのかといたく感心した。今でもすらすら言えるくらいだから、こうやって口ずさむやり方は本当に覚えやすい方法なんだなと悟って、それからは自分なりにいくつか考案して、暗記の助けとしてきた。今でもそらんじることができるのはかなり少なくなってしまったが、古語の助動詞はすべて言える。
 「る・らる・す・さす・しむ・き・けり・つ・ぬ・たり・り・む・むず・けむ・らむ・めり・らし・まし・べし・ず・じ・まじ・なり・たり・まほし・たし・ごとし」
これは教科書の助動詞一覧表に載っていたものを、右から左に少しばかし節をつけて覚えたものだが、お経のようなもので何度も繰り返すうちに、見事暗記することができた。塾生にも、「とりあえず助動詞をすべて覚えろ、意味や活用はその後でいいから、何が助動詞なのかをまず覚えろ」と言って、こうやってやるんだと、ざーっと言ってみせると、なるほどと素直に感心して、自分も覚えようとしてくれる。でも、やっぱり何の意味もなく音が羅列されたものでは、長さとしてはこれくらいが限界だろう。それ以上になると何らかの意味がなければ、覚えにくくて仕方がない。その点、「いろは歌」は素晴らしい。 
   
  いろはにほへと ちりぬるを
  わかよたれそ つねならむ
  うゐのおくやま けふこえて
  あさきゆめみし ゑひもせす(きょう・ん)

  色は匂へど 散りぬるを
  我が世誰ぞ 常ならむ
  有為の奥山 今日越えて
  浅き夢見じ 酔ひもせず(京・ん)

古来、空海の作とされてきたが、何の根拠もない説のようだ。しかし、誰が作ったにせよ、これだけの文字を重複することなく使い、無常観を見事歌い上げた才覚は驚嘆に値する。
 私も職業がら、他にも暗記しやすい方法をあれこれ考えてみるのだが、なかなかうまくは行かない。その中でも、12か月の異称の覚え方は上出来の部類に入るだろうと思う。
 「向きや、宇佐美、ふっ、鼻が湿疹」
少しばかり言葉を補うと、「こちらを向きや、宇佐美君、(宇佐美君が振り返ると)ふっ(笑い)、鼻が湿疹で荒れている」となるのだが、これは「む・き・や・う・さ・み・ふ・は・なが・し・し」すなわち「むつき(睦月)・きさらぎ(如月)・やよい(弥生)・うづき(卯月)・さつき(皐月)・みなづき(水無月)・ふづき(文月)・はづき(葉月)・ながつき(長月)・かんなづき(神無月)・しもつき(霜月)・しわす(師走)」のうえ1文字をとって並べたものであるが、無理やり意味づけすることができたので、面白くて塾生に毎年教えている。笑いながら何度か繰り返せば自然と覚えることができるので、自分としてはヒット作だと思っている。
 さらに、ヒット作と密かに自負しているものには、江戸時代の三大改革(享保・寛政・天保)の年号の覚え方がある。
   享保の改革---1716年(吉宗のような将軍、いないだろう)
   寛政の改革---1787年(松平定信は、いーなはな)
   大塩平八郎の乱---1837年(いやみなオッサン、大塩平八郎)
   天保の改革---1841年(水野忠邦は、いやよいち番)
社会の歴史で、江戸時代になるとこれを教えたくてうずうずしてくる。一度聞いたら忘れられないインパクトがある暗記法だと自負している。
 
 いつでも、こんなふうに楽しみながら勉強できたらそれに越したことはないが、そうばかり言っていられないのが辛いところである。
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フェーン現象

 5月19日の記事で、フェーン現象についてワールドさんから質問をいただいた。
  「フェーン現象って太平洋側にも発生するんですか?」
それに対して、私は明確な答えができず、宿題にさせていただいたのだが、調べようとしても、現在の中学校の教科書には「雲のでき方」の説明は取り上げられているが、「フェーン現象」は載っていない。高校の地学では教えられているようだが、如何せん地学をまともに教えるが高校が少なく、私の塾にも大して参考書が置いてない。そうすればどうしても、ネット検索ということになるが、なかなかこれは、という説明が見つからない。なので、いくつかのサイトの説明をつなぎ合わせて、何とかそれなりの回答を作り上げられるよう、今から試してみる。

 まずは、「フェーン現象とは何か?」についての簡単な説明。

フェーン現象とは、風が山脈を吹き越えるときに、山から吹き降りる「おろし風」の気温が上昇する現象のことである。
風(気塊=空気の塊)が山脈を越えるとき、気塊は山を上昇するにつれて高度が高くなり、気温が低下する。ここで、気温は乾燥断熱減率(-10℃/1000m)の割合で下がり、更に低くなると水蒸気の凝結が始まり、露点に到達した後は湿潤断熱減率(-5℃/1000m)の割で気温が低下する。このときできた水滴(雲)は雨となり気塊から分離して降下することから、山頂に到達した気塊は乾燥した風となり山の反対側に吹き降りることとなる。この際、風は乾燥していることから、乾燥断熱減率の逆(+10℃/1000m)の割合で気温が上昇し、当初の風よりも気温の高い乾燥した風となり山から吹きおりる。


上図で言えば、1,000mまでは空気の温度が -10℃/1000m の割合で下がっていくため、山麓で30℃の気塊が1,000mで20℃になるが、そこから3,000mまでは -5℃/1000m の割合で下がっていくので(乾燥した空気と湿潤な空気では下がる割合が異なる)、山頂の3,000mでは10℃となる。山頂を越えた乾燥した空気は +10℃/1000mの割合で温度が上昇するため、山の向こうのふもとに達したときの気塊の温度は40℃に達することになる。これがフェーン現象だ。

 で、ワールドさんのご質問に対する回答だが、

 フェーン現象は山地が多い日本でも頻繁に起きる現象である。日本では日本海に台風や前線を伴う温帯低気圧があって、強い南風が吹くとき日本海側でフェーン現象が起こりやすい。実際、春にこの現象によって日本海側では暖かく乾いた風が吹き、一気に雪解けが進むことが多い。
 これだけではなく例えば冬、季節風によって日本海側で雪や雨を降らせた後、山を越えて太平洋側に乾いた空気として吹くのもフェーン現象と考えてよい。しかし、空気のもとが寒気なのでいくら山を越えても太平洋側の温度はそれほど暖かくなることは通常ない。

要するに、「フェーン現象のようなことは太平洋側でも起こるが、もともと日本海側の気温が低いため、山を越えても大して温度が上昇しない。したがって、日本海側のように温度が高い風が吹き降ろしてくるということはあまりない」ということのようだ。

以上のようなことで、納得いただけるかどうか自信はないが、何せ専門家ではないのでこの辺でご容赦を。

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「迷宮レストラン」

 河合真理「迷宮レストラン」という本を買った。これは、NHK「今日の料理」のテキストに連載されていた記事を1冊にまとめたものである。前書きに、

 このレストランのコンセプトは、事前にお迎えする方の情報を収集した上で、毎回、ただ一人のお客様のために、お好みに合わせた料理をご用意することです。
 食材については、それぞれの時代、土地に存在していると思われるものの中から選び、調理道具に関しても可能なかぎり実在していたものに近づけて使用することを前提にして、すべてのレシピを作っています。
 なかには個々の時代や土地に実在するレシピをそのままに再現しているものもありますが、ほとんどの料理は、資料から得られた情報を参考に、シェフが考案想像したレシピです・・・

と書かれている。そして、クレオパトラ7世、サンタクロース、聖徳太子など、時空を超越して訪れる25人のお客一人一人を迎えるため、著者の河合シェフが工夫を凝らしてつ作りだした料理のレシピが、完成した料理の写真とともに載せられている。どれもこれもおいしそうな写真ばかりで、思わず食べたくなるものばかりであるが、ここでは、昨今何かと話題のレオナルド・ダ・ヴィンチへの料理を紹介してみようと思う。ちなみに、レオナルドは動物愛護の精神からあるときから菜食主義者になり、卵、蜂蜜も一切食べなかったそうだ。

 〔レオナルド・ダ・ヴィンチ様のメニュー〕
   飲み物―赤ワイン
   前菜―さくらんぼとオレンジのサラダ
   スープ―ベジタリアンミネストラ
     ズッキーニの花のフリット添え
   メイン―花豆と干しいちじくのソテー
   パン―セモリナ粉とオリーブのパン
   デザート―レオナルドのためのアップルパイ

 

 
 ・赤ワインはレオナルドの出身地、トスカーナ地方の赤ワイン。
 ・さくらんぼとオレンジのサラダには、葉と同じ香りのする、ルッコラの花とタイムの花が添えてある。
 ・ミネストラとは、豆やイモ類を入れた具だくさんのスープのことを一般的に言うようだ。このミネストラは、マッシュルームをメインのだしに、干しそら豆とそばの実を具として風味が増してある。これに、ズッキーニの花をふわっと揚げたフリット(イタリア風天ぷら)が添えられている。
 ・メインの作り方は、「鍋にオリーブオイル大匙3を熱し、みじん切りのにんにくとたまねぎを入れてよく炒め、リーキを加えてさらに炒め、いちじくを加えてサッと炒めたら、柔らかくなるまでゆっくり煮ておいた花豆を加えて炒め、塩・胡椒各適宜をふって刻んだハーブを加えて香りが出るまで炒める。味をみて塩、胡椒を多めにふる」とある。
 ・パンは本来パスタに使用する粉を用いて、さっぱりとしたものを焼き上げる。
 ・デザートは、「サフラン、クローブ、シナモン、ナツメグを加えた白ワインで、りんごと干し杏子、葡萄を煮て、ここに、よく炒った松の実と胡桃を加えたものを、アーモンド粉を加えて作ったパイ生地で包んである。

 果たしてどんな味がするのだろう。写真は実際に作ったものなので、味見はスタッフがしているのだろうが、その感想が書いてないのは残念だ。しかし、きっとおいしいんだろうな。食べたいな・・・妻が作ってくれないかな・・・きっと、いやだって言うよな・・・
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オープンカー

 昨日は久しぶりに一日中晴れていた。雲ひとつない快晴っていうのは本当に久しぶりだ。薫風かおるという言葉がぴったりの、新緑が目に痛いほどの上天気だった。そんな日には、車に乗っていても、エアコンなどかけずに窓を全開にして走る。今こそ、風が心地よい季節なのだろう、吹き抜ける風がうれしい。できればサンルーフを開けて、陽光も室内いっぱいにあふれさせたいところだが、残念なことに今の車にはサンルーフが付いていない。前の2台はワゴンということもあって、サンルーフが標準装備されていたが、今はセダンに代えてしまったので、付けていない。結構高額だから諦めたのだが、こんな日には後悔する。
 しかし、これだけ気持ちいいと、サンルーフなどと中途半端なことを言ってないで、オープンカーが無性に欲しくなる。私が買えたらなと夢のように思っているオープンカーが2台ある。一台は「レクサスSC」


V8、4.3ℓのエンジンといえばセルシオと同じであり、価格も680万円と冗談じゃないよと言いたい車である。ソアラの後継車というよりも全くソアラのままだが、スタイルはかっこいいと思う。めったに街中で見ないが、それだけに乗っていたら注目を浴びるだろうから、バカな名古屋人にはなかなかアピールするかもしれない。でも、レクサスは苦戦が伝えられる。BMWやベンツのオーナーが簡単に日本車に代えるはずはないからである。レクサスブランドも、セルシオの後継車種であるLSが販売されてからその真骨頂が試されるのではないかと勝手に判断している。しかし、価格設定が高い。高すぎる。それで差別化しているつもりかもしれないが、限度っていうものがあるような気がする。
 もう一台は、「BMW・Z43.0ℓ」である。


 実はこの車を運転したことがある。1年ほど前に、ディーラーのセールスマンが試乗してくださいと一日貸してくれたのだが、意味も分からず乗ってみた。あいにく雨降りだったので、屋根を開くことはできなかったが、それでも、1kmほど走らせて車のパフォーマンスの素晴らしさは私でも実感できた。小ぶりのハンドルがやたら重い。アクセルも重い。エンジン音も重い。これだけ重さを演出すればいいのだろうと思うのだが、さらにはその走りも重い。その時は、7・8年ぶりくらいに左ハンドルを運転したせいもあるのだろうが、やたら緊張した。車道いっぱいいっぱいとしか思えない車幅で、滑走することなど雨天ではとてもできなかったが、アクセルを踏み込めばそれに答えるBMWの伝統はいっそう研ぎ澄まされていて、できれば晴天の高速道路を、屋根をオープンにして走りたいものだと心から思った。車庫に収めた後で、屋根の開閉を試してみたのだが、なかなかスムーズに行ってこれなら普段の使用にも耐えられるんじゃないかと、シュールな感想も抱いてしまうほどだった。問題は言うまでもなく価格だ。589万円から628.5万円とレクサスよりは安めに設定されているが、それも比べる相手が高すぎるだけで、高級車には違いないし、いい車であることも間違いない。車にさほど関心のない妻でさえも「いいね」と言ったほどだ。

 どちらの車にせよ、性能は素晴らしい。高価なおもちゃくらいに考えることができる人には格好の車だろう。私では、宝くじを買って一攫千金を夢見るしかないだろうが、宝くじを買うお金がもったいないと思っているようでは、どうしようもないのかもしれない。



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