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「夢十夜」

 「リンボウ先生が読む 漱石『夢十夜』」を読んだ、というよりも聞いた。この本は、リンボウ先生こと作家・書誌学者である林望が、夏目漱石の短編集「夢十夜」を朗読するCDがメインと考えていいのだろうが、「夢十夜」の原文、林望の解説、さらには音楽談義も載せられていて、幾重にも楽しめる内容になっている。私は、漱石の信奉者であり、漱石のどの作品も繰り返し読んでいるが、中でもこの「夢十夜」は初めて読んで以来、不思議な夢の物語としてかなり読み込んである。しかし、それを口に出して読んだことはなく、人が朗読するのを聞いたこともなかったので、書店でこの本を見つけたときにはすごく興味を引かれた。すぐに買って家で聞いたのだが、実によかった、感動した。
 何がいいかと言って、林望の朗読が素晴らしい。今までNHKのラジオで、彼が料理について語っているのを何度か聞いたことがあり、声や話し振りが落ち着いて聞きやすく、話の内容も洗練されていて、さすがリンボウ先生と思ったものだ。今回、この本を読んでみてそれも当たり前だというのが分かった。彼は、小学校の時分から朗読が好きで、ずっと美しい文章を朗読するのを楽しみにしてきた。それが長じて朗読の精華ともいうべき観世流の能楽を学び、能楽公演の地謡方を勤めるまでになり、さらには、東京芸大の教官時代に声楽を学んで、朗読というものを「文章に内在する音楽の朗唱」と感じるようになった。そこから、「音楽的な美しさを持っていない文章は朗読には堪えず、朗読に堪えないものはまた文章としては美しくない」と考えるに至った、ということだ。私は、この文章を読まずにCDを聞いたものだから、彼の朗読のあまりの見事さに舌を巻いたのだが、後でこれを読んで「なるほど!」と納得できた。
 さらにこの本は、ただ朗読するだけではなく、選りすぐりの音楽がBGMとして流れていることで、聞く者の興趣を盛り上げてくれる。例えば、第一夜の朗読にはホルストの「ムーア風組曲より『夜想曲』」とディーリアスの「2つの水彩画より『Lento, ma non troppo』という私など一度も耳にしたことがない曲がBGMとして流れている。それがまた朗読される物語の内容に実にマッチしているのが心憎い。世の碩学というものは、恐ろしいほどの知識を多方面に持っているものだと改めて驚かされる。
 「夢十夜」は、多くが「こんな夢を見た」という書き出しで始まる話を十話集めたものだが、いずれも不思議な内容である。林望はそのことに関して、「常日頃、私たちは物事の認識ができているような気がしていますが、人間の心中にはどこかしら闇が存在するわけです。自分でも気付かない何か、思いがけない怪しい無意識や半覚醒のような部分・・・漱石はそれらをきっとこの『夢十夜』の中で描写しているのだと思います」と述べている。さらに、「読み手がいかにイマジネーションに遊べるか、すなわち、話としての筋やら主題なんてものを超越した前衛映画を観るような不思議な感覚で楽しんでおけば、それでよろしいのであろうと考えます」と言っている。その通りだと思う。私は十話の中で、「第一夜」が特に好きだが、この話も荒唐無稽などと考えず、フロイト的に解析したりもせず、変な邪推などしないで、あるがままの形で受け入れればいいと思う。そういう意味では耳で聞いた方が素直に頭の中に入って来るのかもしれない。
 その「第一夜」をあえて要約してみると、

自分は瀕死の女の枕元に座っている。女は、『死んだら、埋めてください。大きな真珠貝で穴を掘って。さうして天から落ちて来る星の破片(かけ)を墓標(はかじるし)に置いて下さい。さうして墓の傍に待つてゐて下さい。又逢ひに来ますから』と言う。いつ逢いに来るかとたずねると『百年、私の墓の傍に座つて待つてゐて下さい。屹度(きつと)逢ひに来ますから』と言って死んでしまうから、言われたとおりにする。しかし、いくら待っても百年経たない。女に欺されたのではと思い出したら、石の下から青い茎が伸びてきて、白い百合の花弁が開いた。自分がその百合に接吻して、『百合から顔を離す拍子に思はず、遠い空を見たら、暁の星がたった一つ瞬いてゐた。「百年はもう来てゐたんだな」と此の時始めて気が付いた』
 
 私の死んだ母も、残していったシンビジュームの花とともに毎年5月すぎになると、私たちに逢いに来る。


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3R

 2001年に施行された「循環型社会形成推進基本法」では、循環型社会を作るために一人ひとりの身近な取り組みの方向性が「3つのR(3R)」として、優先順位を付けて示されている。

  ①Reduce (リデュース):ゴミとなるものの量を減らす。
  ②Reuse (リユーズ):使用済みのものをくり返し使う。
  ③Recycle (リサイクル):別のものにつくりかえて再利用する。

最近、時事問題が取り上げられることが多くなってきた私立中入試に備え、小学生にこの「3R」をしっかり覚えるように指導してきた。ところが、先日学年末試験の勉強をしている中学生のノートを見たら、「5R」と書いてあった。「えっ、3Rじゃないの?」と私がたずねると、「学校で5Rを覚えるように言われた」と返事が返って来た。「それじゃあ、3R以外のあとの2つはどんなことだい?」と聞き返したら、
  
   Refuse(リフューズ):過剰包装や容器は断る。
   Repair(リペアー):使えるものは修理して使う。

の2つだと教えてくれた。それは大事なことだと、早速メモったが、なるほどこの2つも循環型社会を作るには不可欠なことだと納得した。
 ある調査によれば、年間約25万トン、一人当たり約300枚のレジ袋が使われているという。確かにコンビニやスーパーに行けば、どんな小さなものを買っても必ずレジ袋に入れてくれる。家に持ち帰ったレジ袋は、ゴミを集めたりするのには便利なものだが、どんどんたまっていき、再利用されず捨てられることが多いのではないだろうか。私の妻は買い物に行くときは専用の買い物袋を持参し、レジ袋を断っている。私もコンビニへ買い物に行った時には、なるべくレジ袋を断るようにしている。そうした行動を「マイバッグ運動」と呼ぶこともあるようだが、私の母親は、八百屋へ行く時に買い物かごを提げて行った。それが当たり前の光景として育ってきた私は、この「マイバッグ運動」がもっと普及して欲しいと思う。
 しかし、もう1つの Repair に関しては、現実の問題とし少々不平を言いたくなってしまう。修理できるものは修理して使い続けるのが一番いいことに異論はない。だが、今は修理代がやたら高い。塾のコピー機は保守契約がしてあるため、消耗品以外は修理に費用がかからない。しかし、印刷機には保守契約というものがないため、1年の保証期間を過ぎてしまうと、修理にかなりの費用がかかってしまう。機械が故障して、電話で技師を呼ぶと、それだけで出張費が1万円かかる。それに部品代などが加算されると、ちょっとした修理でも2、3万円はかかることになる。技術料と言うものが高いのは理解できなくもないが、それにしても頭の痛い制度だ。車の修理にしても、ライトが点かなくなったら電球だけを代えればいいように思うが、今は一体化してしまっているので、全体を丸ごと交換しなければならない。従って、費用がかさむ。簡単に修理と言っても、おいそれと直せない場合もあるので、だましだまし使うことも多くなり、面倒で仕方ない。しかし、循環型社会を築き上げることが急務である現在、そうした多少の不満は我慢しなければならないだろう。

   

ノーベル平和賞受賞者、ワンガリ・マータイさん(ケニア副環境相)が、2005年来日した折に知った「もったいない」という言葉に感動し、3Rの理念がたった一言の中に集約されていると考え、「この言葉を世界に広めたい」と国際語にする運動を進めている。今年2月に再来日したマータイさんが、絵本『もったいないばあさん』(講談社)の作者、真珠まりこさんと対談した記事が毎日新聞に掲載されていた。対談を終えた真珠さんは、マータイさんのことを「本当に笑顔がすてきな方ですね。パワーをもらいました」と語っているが、彼女が世界にまいた「モッタイナイ」の種が、次々と芽を出していくように願うばかりである。
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孫悟空

 香取慎吾主演の「西遊記」、いつの間にか終ったらしい。月曜には特番が放映されたとかで、妻が一生懸命見ていた。すると、昨日のスポーツ新聞に、「西遊記」を、ドラマと同じメンバーで映画化することになったと報道されていた。私が妻に知らせると、そんなこと知ってるに決まってるでしょうという顔をされた。いつもながら情報がはやい。藤原竜也の次の舞台はギリシア神話を元にしたもののようで、先日もネット注文したギリシア神話関連の本をセブンイレブンまで取りに行った。何の本なのか尋ねたら、阿刀田高の『ギリシア神話を知っていますか』だと言う。その本なら私が持っているので、「何でたずねないんだ」と文句を言ってやったら、「あなたの岩波文庫の『ギリシア神話』読もうとしたら、それは娘が京都にもって行ってて、今度送ってくれると言うからやめた。じゃあ、阿刀田高の本を読めば大体のことがよく分かると教えてくれた人がいたものだから注文した・・」と説明してくれた。妻もSMAPと藤原竜也に何か新しい動きがあるたびに、勉強しなくてはいけないから大変だ。先日話題にした、菊池寛の『父帰る』はしっかり読んだそうだ。ならば、草剛の出る映画『日本沈没』の原作も読めばいいのにと思うが、長編だからか、なんとも言わない。

 
 今年は「西遊記=孫悟空」がブームなのだろうか。ドラマ以外にも、毎日新聞の朝刊に平岩弓枝が「西遊記」を連載している。私は読んだことはないが、なんで「西遊記」なのだろうと不思議に思っていたら、最近コンビニでサントリーウーロン茶を買うとキャップのところに、「孫悟空」のおまけのフィギアがついているのを見つけた。何だか珍妙な顔をしていてなかなか愉快なので、気に入って全8種類あるうちの4種類を集めた。この間の日曜に見つけて、一度に8本買うのはいくらなんでもバカだろうと思って、4本だけ買って4種類の孫悟空を集めたのだ。後で、また違うコンビニで買えばいいやと思っていたが、他のコンビニには売っていない。買ったのがファミリーマートだったから、ファミマにしかないのかと思って、別のファミマに行ってみたが、見つからない。こうなると無性に全部集めたくなって、あれこれ奔走するのが私の悪い癖だ。別にフィギア自体にそれ程愛着があるわけではないが、中途半端に4種類しか持っていないのが我慢できない。サントリーの策略にまんまとはまったようで悔しいが、全種類集めないと気がすまない。自分でもアホだと思うが、どうしようもない。

 
 ちょっと前に「大人買い」という言葉が流行った。例えば、昔大流行した「びっくりマンチョコ」が今でも売られているのだが、そのシールを求めて、大人が箱ごと一気に買っていくことである。お金に制限のある子供たちは、いくら欲しくても1つ2つしか買えないが、自分で働いてある程度のお金を持った「大人」なら一箱全部買うことぐらいはできる。子供だったときにはそうした買い方をしたいと誰もが夢見たことがあるだろうが、その夢を実践するような買い方をする人がいるのだ。そのため、「びっくりマンチョコ」を買おうといくつかのコンビニを訪ねても、売り切れの店ばかりだったと以前ラジオで紹介されていた。
 確かに、誰がどう買おうと自由だし、他人のことを考えろと言うのもおかしなことであるから、何も非難されることではないだろう。しかし、何だかなあ・・と思わないではない。私だって、たかが「孫悟空」のフィギアのために、ちょっと熱くなったくらいだから、「大人買い」をする人たちの心理が分からないではない。あの時も、8種類すべて集めるために8本買ってやろうかと思ったぐらいだから。妻や息子が一緒にいなかったらたぶん買っただろう。あそこで、そんなことをしたら、「馬鹿じゃない」と二人が非難するに決まっているから4本にしておいただけだ。う~ん、偉そうなことは言えないな・・・
 コレクションというのは、興味のない人にはクズ同然のものでも、集めている当人には宝物だ。それは、私にはSMAPの出る番組などあまり見る気がしないのに、妻はそれだけのために毎日暮らしているのと同じことなのだろうか。
 どんなことでも道を究めるのは難しいことである。
 
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一週間

 月曜はいつも元気が出ない。体はだるいし、頭もボーっとしたままだ。簡単に言えば二日酔い状態なんだろうが、昼過ぎまではこんな状態が続く。日曜日にビールを飲むのを減らせばいいのに、といつも妻から注意を受けるが、そんなことぐらいは百も承知だ。しかし、飲みたいだけ飲めるのは日曜しかないのだから、我慢する気にはなれない。
 思えば、私には一週間を単位として暮らすリズムが完全に身についている。月曜日から始まって、何とか平日を乗り切り、週末に突入していく・・私を含めた多くの人々はそうしたサイクルで暮らし、それを重ねていくことで一ヶ月を過ごし、さらに、月を12回加えることで一年となる。その繰り返しが人生なのだろうが、いつの間にかこんなに年をとってしまった。
 したがって、これほどの年齢に達すると、ある曜日に対して決まったイメージが出来上がっているのも当然だろう。例えば、月曜という曜日には、「だるい」または「やる気が出ない」とかいったように。さらには火曜日には・・・と、ここまで考えてきて、それならそうした曜日に対して私が持っているイメージを色にたとえてみるのも面白いではないか、とはたと思った。アルファベットを色で表現したランボウの真似をするわけではないが、それも何か新しい発見があるかもしれないと思い、今から試してみる。

 ・月曜日 --- 「灰色」
理由は上に述べたようなことであるが、灰色の曇り空のイメージがどうしても拭えない。週のはじめにこれではいけないと思うが、どうしようもない。
 ・火曜日 --- 「赤色」
月曜も、塾が始まれば元気が出てくる。その調子をそのまま引き継いで、やる気満々、燃えるような心で授業に励むのが火曜日である。時には熱くなりすぎて逆効果なときもあるが、気力・体力ともエンジン全開となる日である。
 ・水曜日 --- 「青色」
広々と広がる大空のように澄み切った心で暮らせる充実した曜日である。一点の雲もなく、視界良好で真っ直ぐに突き進んでいける、そんな気になれる。一週間のうち、全てにピークを迎える、そんな曜日だ。
 ・木曜日 --- 「茶色」
前日までに蓄積した疲れが次第に顔をのぞかせる。昔はそんなことはなかったが、いつ頃からか、木曜日でガソリンが切れ始めるようになってしまった。しかし、気力は衰えず、体力を気持ちでカバーしていくことはできる。
 ・金曜日 --- 「緑色」
新緑の如く、息吹きがふき返す、そんな曜日である。もう金曜日と考える時もあれば、やっと金曜日と思う時もある。しかし、一週間の終わりが近づき、ホッとすると同時にまだまだと心と体に鞭打つ日でもある。
 ・土曜日 --- 「白色」
一週間のうちで、一番忙しい曜日である。朝9時からバスで生徒を迎えに行き、夜の11時半に送り届けるまで、まさしく頭の中が真っ白になるくらい、一日中ずっと授業をしている。あれこれ考える暇などない日だ。
 ・日曜日 --- 「金色」
やっとたどり着いた日が完全な休日だったら、「金色」だ。それは弾む心を象徴する色であり、楽しい一日の色でもある。一昨日のように、朝からずっと何もしなくていい日は年に何日もないから、まさしく「金」だ!しかし、定期テストの前には補修、2学期になれば受験対策の講習と、日曜日が休みとならない日が多い。そんなときは、たくさんの色が入り混じった複雑な色になってしまうが、授業が終ればその瞬間に金色となる。日曜だけは、夜に授業はしないから、いくら短くても、休みは休みだ。

 やはり年をとったのかもしれない。疲れるのが早いし、なかなか疲れがとれない。と言っても、休みなく働いても何とか続けていられるのだから、私もまだまだ捨てたものじゃない。しかし、油断はできない。
 さあ、今日は火曜日、真っ赤な心で頑張るそ!!


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町探検

 さすがに休みも2回目となると妙に手持ち無沙汰で、何をしようか迷った。塾の新学期の準備もしなくてはならないので、遠出することもできない。だけど、じっとしているのも何だかつまらない。そこで、弁慶を伴って町探検に出発することにした。と言っても、特に目新しいこともない昔ながらの古臭い町だから、さほど刺激的なことがあるわけでもない。しかし、探せば何かあるだろうと思ってふらふら出かけてみた。


秋田犬というのはどうしてこんなに力強いのか、油断すると引っ張られてしまう。いつものことながら、散歩も一苦労だ。しかし、時間はたっぷりあるからどこまでも付き合ってやるつもりで走り出す。と、いい考えが浮かんだ。市内中心部にいくつか設置されている観光案内塔の中に展示されている、陶磁器の置物の写真を撮り集めてみるのもなかなか面白い趣向ではないかと、はたと思い至った。季節によって展示されるものも違うから、今は何が展示されているのか知らなかったが、とにかく行ってみようと、弁慶と一緒に走り出した。
 いちばん近くの展示塔にたどり着くと、今は狛犬(こまいぬ)が展示されていた。狛犬とは、神社や寺院の入口の両脇、あるいは本殿正面の左右などに1対で置かれている、犬に似た想像上の獣の像のことである。各地の神社境内で見かける狛犬には石製や銅製のものが多いが、当地は土地柄のため陶製の狛犬が多く作られている。最近は置物として製作されることが多いようで、私が写真に撮った以下のものは皆、手のひらサイズのものばかりである。弁慶と走り回って、5か所の狛犬の写真を撮ることができた。


           

まだ、1、2箇所残っていると思うが、私の体力では昨日のところはこの5箇所でダウン。完成はまたの機会に譲る。
 これだけで、普段からは考えられないくらい走り回ったものだから、帰り道はふらふらになってしまったが、弁慶に引きずられるようにして小高い丘の上にある公園に行ってみた。ここは幼い頃から数え切れないくらい来たことがあり、子供たちともよく遊びに来た公園であるが、本当に久しぶりにやって来た。中央にサルの檻があり、7、8匹のサルが私たちを出迎えた。サルは弁慶の姿を見つけると興奮しだし、一匹が私たちを威嚇する。



弁慶はそんなことお構いなしに、近くにあった手洗いの水をしばらく飲み続ける。
私もそろそろビールが飲みたくなったが、すぐ上の鹿舎に行って鹿を見ようと弁慶を引っ張っていった。
 畜舎の中でじっとしていたためはっきりとは写せなかったが、昔からこの公園には鹿が飼われている。何故かは知らないが、サルと鹿がこの公園のメインである。
 
 慣れぬ散歩にかなり疲れて帰宅した。喉が渇いて仕方なかったので、ビールを一気に飲み干した。美味しい。しばらく塾で仕事をした後で、夕食を外に食べに行った。昨夜は、妻の運転で洋食屋に行った。
 その店は、味噌カツが美味しい店で、ぜひ写真を撮ろうと思ったのだが、妻も息子も私に意地悪をして注文してくれない。私は肉を食べないのでどうしようもなくあきらめたのだが、本当に残念だ。代わりに、私は海老フライ(かの有名なエビフリャ~)を注文し、妻はA定食、息子は牛ひれステーキを頼んだ。(そんなものなら味噌カツにしろよ、と思ったが何とか押し殺した)



この店は何を食べても美味しい。わが町に訪ねてくる人がおられるなら、一もニもなくお薦めする店だ。
  
 帰りにふと気がついて、妻に車を止めてもらい「招き猫」の写真を撮ってみた。招き猫ミュージアムと言うものがあり、9月には「招き猫祭り」と言うものが開かれるほど、わが町では招き猫がちょっとしたブームになっている。我が家にも玄関にささやかなコレクションがある。

           

  我が家のコレクション

なんと言っても市全体が美術館のような町である。探せば面白いものがいくらでもある。しかし怠惰な私には、それを紹介するだけの根気がなかなか湧いてこない。
 残念である。

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「だんご3兄弟」

 先日ラジオで、久しぶりに「だんご3兄弟」の歌を聴いた。今から7年前の1999年に日本中で大ヒットした曲だ。その歌詞を載せようと思って、あれこれ検索してみたのだが、どうしても見つからない。著作権の関係で簡単には載せられないのかもしれない。仕方なく、あれこれ子供たちにたずねてみたところ、偶然私の妹の家に歌詞だけならあることが分かった。「何で今頃だんご3兄弟なの?」と訝る妹を適当にごまかして、電話で歌詞を教えてもらった。

   「だんご3兄弟」  作詞:佐藤雅彦
  串にささってだんご、だんご
  3つならんでだんご、だんご
  しょうゆぬられてだんご、だんご
  だんご3兄弟
  
  いちばん上は長男、長男
  いちばん下は三男、三男
  間にはさまれ次男、次男
  だんご3兄弟

ここまでが2番。タンゴ調の曲が懐かしい。NHKの「おかあさんといっしょ」で流された曲がアニメの面白さと相まって大ヒットした。確か、この曲を歌っていた速水けんたろうと茂森あゆみは紅白歌合戦に出場した。大晦日に聞く「だんご3兄弟」はなかなか乙なものだったと記憶している。その頃はただ何となく、「だんご、だんご」と口ずさんでいただけで、歌詞など気にも留めなかったが、改めて聴いてみると3番の歌詞に少し違和感を感じた。

  弟思いの長男
  兄さん思いの三男
  自分がいちばん次男
  だんご3兄弟

これがある特定の3兄弟についていっている歌詞だと思えば、そういう兄弟もいるだろうなと思うが、3兄弟を一般的にとらえているのなら、私の兄弟には当てはまらないと思う。私は自分が長男で、妹と弟がいる。妹は2歳下で、弟とは10歳離れている。私としては常に妹と弟のことを気にかけているつもりだから、長男がおしなべて「弟思い」というのは納得できる。しかし、「自分がいちばん次男」というのは我が兄弟には当てはまらないように思う。家族のしがらみから離れたところで、自分が一番というような生き方をしているのは一番下の弟である、と私には思える。2番目の妹は私と弟の間の緩衝材のような役目を果たし、どこかのんびりしている。勿論、私たちは三人全員が男でないから、ちょっと違うのかもしれない。そこで、私の母方のいとこの例を考えてみる。いとこには、3人兄弟が多く、女女女、男男男、女男男、女男女と、我が兄弟も含めると色々なパターンがあって比較対照するには便利だ。この4組のいとこの性格を思い出してみると、大体において、我が兄弟の性格パターンと似通っている。一番上がしっかりして兄弟や家のことを万事取り仕切っている(私は少し頼りないが)。2人目は長男長女と比べれば、控えめでおっとりしている。言動も優しく、上と下への配慮を欠かさない。3人目は奔放という言葉が当てはまるくらいに自由闊達で、生き生きした生活を送っている。多少の差こそあれ、どのいとこをとってもこの色分けが当てはまるのは、皆それぞれ血がつながっているからなのだろうか。それとも一般的な傾向であろうか。これが私の親戚に特有のものならば、それもまた私の性格を考える上で興味深いものである。
 私の塾にも、時々3人兄弟の生徒がいるが、大体この傾向があるように思うので、あながち的外れな考えではないように思うがどうであろうか。(勿論例外はあるだろう)
 それにしても、現在では3人兄弟というのは少なくなってしまった。晩婚化、核家族化の進行、教育費の高騰など、理由を挙げればいくつでもあるだろう。私の塾でも生徒の4分の3以上が2人兄弟だ。と言っている私も、子供は2人だけであるから、その点では主流派なのかもしれない。でも、できたらあと1人欲しかったと時々思う。だからなのか、弟の双子の子供たちが可愛くて仕方ない。
 そう言えば、最近顔を見ていない。遊びに来ればいいのに・・・
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「ふふふ」

 井上ひさしの「ふふふ」という本を読んだ。小説現代2001年1月号から2005年1月号までに連載されたエッセー45編を集めた本である。さすが井上ひさし、様々なジャンルに渡る随想を名人技と呼べる切り口でまとめあげ、読む者を飽きさせない。面白かった。
 井上ひさしを読んだのは久しぶりだが、「吉里吉里人」という傑作を読んで以来ずっと読み続けて来た作家である。脚本にも秀作が多く、昨年藤原竜也が出演した『天保十二年のシェークスピア』も井上ひさしが原作である。妻が苦労して手に入れたが私には読ませてくれないので、いつかこっそり読んでやろうと思っている。また、中学3年生の教科書(光村出版)にも『握手』という短編が載せられていて、彼の作品が少しでも多くの生徒に読まれているのは喜ばしいことである。私は毎年読むことになるが、読むたびに味わいが深まる珠玉の名作である。
 
 このエッセー集からは多くの刺激を受けたのだが、その中からいくつかの興味深い話題を以下に引用してみたい。
 冒頭の「世界一長い名前」では、彼が知る限り世界で最も長い名前の持ち主は、英国女王だと書かれている。エリザベス女王の正式名は、
 Elizabeth, II, by the Grace of God, of the United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland and of Her Other Realms and Territories Queen, Head of the Commonwealth, Defender of the Faith.
なのだそうだ。最近はTVで薀蓄番組が幅をきかしているので、知っている人も多いかも知れないが、私は初めて知って「へ~っ」と驚いた。

 入試のために子供たちと毎日格闘している私にはなかなか興味深かったのが「問題の出し方」で紹介されている、アメリカのさる大学が出したという次の問題だ。
 「ここにあなたの一生を書き綴った一冊の伝記があって、その総ページ数は300頁である。さて、その270頁目にはどんなことが書いてあるだろうか。その270頁を書きなさい」
まあ、人間の一生などいつ終るか分からないが、300ページのうちの270ページと言えば、おそらく一生の終結部に当たるかだろう。受験生にそれまでの人生の「総括と未来への展望を探らせるわけで、たいへん興味深い出題ではないか」と井上ひさしは書いている。こんな出題を大学がするようになったら、私の塾ではとても太刀打ちできず、廃業せざるを得なくなるだろう。「知識を暗記しているだけではだめなのであって、幼いころから自分と人間について考えていないと書けない」わけだが、実際問題として、現在の日本の18歳の子供たちに上のような問いを発してちゃんと答えられるものがどれだけいるだろう。そうした人材を育成できないことが、現在の日本の教育がもつ大きな欠点だと言われればなるほどとも思う。しかし、不確定な要素が以前にも増して大きくなってきている現在の日本で、自らのはるか遠い将来を想像するのは至難の技であるのも事実であろう。

 もう1つ、「自分の好きなもの」では、『サウンド・オブ・ミュージック』で歌われた「自分の好きなものを思い出せば、嵐なんか怖くない」という大意の唄を挙げ、井上ひさし自身も自分の好きなものを選定して、恐怖を乗り切るときのおまじないにしていると語っている。私もその例にならって、自分の好きなものを選定しておいてピンチの時に唱えようかと思う。
『私の好きなもの』
1.志望校に合格したときの生徒たちの笑顔
2.娘のとりとめのないおしゃべり
3.飲み始めたときの1口目のビール
4.息子が塾の教室で私を『お父さん』と呼ぶ声
5.アクセルを踏み込んだ瞬間に加速する車
6.酔っ払った父が話し出す昔話
7.あつあつのご飯にかけたとろろ汁のしみこむ音
8.難しい数学の問題の解法がひらめいた瞬間
9.妻がSMAPのTVを観ているときの呆けた横顔
10.湯船に沈んでふっと眠りに落ちる瞬間
確かにこれを繰り返し唱えていれば、どんな恐怖でもやわらぎそうだ。

ここまで取り上げたのは本書のごく一部だが、これだけでも面白みが分かるだろう。何度も読み返したくなる本だ。


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 先日、私の日曜の食事を話題にしたが、あの日は父がとろろを作ると言わなかったら、晩御飯に「味噌煮込みうどん」を食べに行って、三食名古屋名物を味わうつもりだった。「味噌カツ」「手羽先」「天むす」と名古屋名物は他にもあるが、気温が上がってしまうと「味噌煮込みうどん」を食べるのも少々きつくなってしまうので、なるべく近いうちに食べに行かなければと思っていたところ、21日(火曜日)にたまたま外出する用事ができて、そのついでに食べることになった。
 店は私が住む市の西の端にある、15人ほどが座るといっぱいになってしまう小さな所だが、知る人ぞ知る、なかなか美味しいうどんを出す店である。12時半頃に入ったのだが、運良く席が空いていた。私たちが座ったすぐ後に何人か待つ人の列ができたから、ラッキーだった。妻と息子が「天ころうどん」を注文したため、私が「天玉味噌煮込みうどん」を注文した。
 WBC決勝のTVを見ながらしばらく待つと、私の注文した品が運んでこられたので、早速写真に収めた。


店の一番奥で照明がしっかりしていなかったため、何だか色合いがおかしくなってしまったが、赤味噌で煮込まれたうどんの上に、生卵の黄身と大きな海老天がのせられている。ぐつぐつと煮え立っているので取り皿にとって、ふーふー冷ましながらゆっくり食べる。急いで食べると必ず口内をやけどする。何度も失敗しているから注意して食べるのだが、それでも時々やけどしてしまうのは、私が短気だからだろうか。熱いけど、美味しい。赤味噌は私としては当たり前の味噌だが、初めて京都で暮らし始めたときはどこへ行っても白味噌ばかりで閉口した覚えがある。赤だしでなければ味噌汁を飲んだ気がしないのは、長い間の習慣が身に沁みているからなのだろう。
 その間に、「天ころうどん」が運ばれてきた。「ころうどん」というのは冷たいうどんのことで、この店では洒落て「香露うどん」とお品書きに書かれているが、この呼び名が全国的なものかどうかは知らない。


たいていの店では、冷たいうどんにかつお仕立ての冷えた醤油汁をかけて、ネギを散らしたものが出てくるのだが、この店は生卵の黄身がのせられ、わさびが一かたまり添えられている。これらをかきまぜながらうどんと絡めていくと、醤油汁と絶妙のハーモニーを作り出し、なんともいえぬ味を生み出す。生卵とわさび、これがこの店の「ころうどん」を特徴付けるものだが、他の店でついぞ見かけたことがないのは何故だろう。美味しいものはどんどん取り入れればいいのに、と思ったりするが、独自の味にこだわる店が多いのだろうか。
 このように私は無類の麺好きである。ラーメンも好きだし、スパゲッティーも、そばも大好きだ。こんな私だが、最近、新たな麺の美味しさを知った。それは、息子が修学旅行に行ったお土産に買ってきてくれた、「沖縄そば」だ。「沖縄そば」とは『「そば」の名称ながら蕎麦粉は全く使用されておらず、小麦粉100%の麺であり、うどんの一種とも考えられる。風味や食感はラーメンとうどんの中間のようであり、麺の太さもうどんよりは細いがラーメンよりは太く、その中間のような感じである。麺の断面の形は、沖縄本島ではきしめんのようにひもかわ状(平打ち)である場合が多い。』と説明されているが、息子はその生めんタイプを買ってきた。妻が調理してくれたものを食べたのだが、スープが昔懐かしいなんともいえぬ味わいで、いっぺんで好きになってしまった。2箱買ってきたから、昨日「もう一箱食べようよ」と妻に言ったら、もう娘に送ってしまったという話だった。残念だが、娘への土産なら仕方ないとあきらめたが、なんとしてももう一度食べてみたい。最近は通販でも売られているだろうから、一度調べてみようと思っている。
 必ず食べるぞ!!
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終了!

 昨日、公立高校の合格発表があった。朝10時の発表からしばらくすると、私の携帯に続々と結果を知らせるメールが入った。前日までに結果を教えてくれるよう何人かの生徒に私のアドレスを教えてあったのだ。結果は、ほぼ完璧なものだったが、あまりにいい結果過ぎて逆に「本当かな?」と疑ってしまったほどだ。やる気があるのかないのかつかみ所のない生徒が多いと、何度かこのブログにも愚痴を書いてしまったが、いい結果で終われたことは何よりもうれしい。合格した生徒たちに、心から「おめでとう」と言いたい。と同時に高校に入学しても心を緩めることなく、勉学に励んでもらいたい。(と言っても、合格してしまうと糸が切れた凧のようにクルクル遊びまわる生徒が多いだろうが・・)
 1月の中旬から始まった長い長い受験が完全に終了した。2ヶ月の間、私の体調もおおむね良好に保つことができ、受験生に迷惑をかけることがなかったのが何よりも幸いだ。塾としての役割は十分果たせた満足感で、今は心が満たされているが、またすぐに新学期が始まる。新たな目標に向かって頑張り始める生徒達をゴールに導く長い道程が始まる。いつまでも喜びに浸っていることはできないが、せめてもの喜びの印に、長い間縁起を担いで伸ばし放題にしていた髪の毛を切ることにした。ちょっと小寒い一日ではあったが、思い立ったが吉日とばかりに思い切ってみた。
 以前も(10月23日)このブログに記したが、私は髪の毛を鏡を見ながら自分でザクザクと切り落とすことにしている。一番の理由は、理容店の椅子にじっと座っているのがイヤだからだが、もう20年くらいずっとそうやっているので、自分で言うのも変だが、なかなかの腕前をしている。見えない後ろ髪などは、妻に適当に調節してもらうこともあるが、大体は自力でやり通している。振り返れば、5ヶ月も伸びるがままにしておいたせいで、本当に長くなってしまった。横の髪など、耳の下、アゴのあたりまで伸びているし、後ろの髪も15cmくらいある。年を取って髪の量が減り、白髪が多くなってしまったので、何がなにやら分からぬ髪型をしている。妻からは早く切れと何度も催促されたが、入試の結果が出るまで待ってくれといい続けてきた。その約束がやっと果たせる。
 風呂場の大きな鏡の前に、新聞紙を敷いた上で、5、6cmくらいずつ思い切りよく切っていく。私の髪は少しくせ毛で、先のほうがクルクル巻いている。細かいことは気にせず、カールし始めるところを目印に切っていくと、なかなか上手くいく。昨日もその要領で切っていったら、5分足らずで一応の形ができた。さっぱりして気持ちも軽くなって、居間にいた妻に「これでいいかい?」とたずねてみた。すると、「う~ん、耳の後ろがまだ長い。私が切ってあげようか」と言ってニヤニヤするから、「いやだ、自分で切る。どうせ無茶苦茶切るつもりだろう」と風呂場に逃げ戻った。鏡で見ると言われたとおり耳の後ろがまだ長い。ササッと切ってもう一度妻に見せたら「まだ・・」と言いかけたので、「今日は寒いからこれでおしまい」と言い切ったら、不承不承ながらOKサインが出た。
 新聞紙を丸めてゴミ箱に捨てようとしたが、何かもったいない気がして、記念に写真に収めてみようと思い直した。きれいな紙の上に置きなおして一枚撮ってみた。


10月のときも切った髪の写真を載せたら、犬の毛だとか散々なコメントを頂いたが、それにもめげずまた載せる私もなかなかの厚顔だ。
 
 これで私の春を迎える準備は万端整ったが、如何せんまだまだ暖かくなってくれない。庭の白梅もきれいに咲いたというのに・・。夕方になってから写真に撮ってみたが、なかなか風流だ。



     君ならで誰にか見せむ梅の花 色をも香をも知る人ぞ知る
                             紀友則
     春の夜の闇はあやなし梅の花 色こそ見えね香やは隠る
                             凡河内躬恒
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祝・世界一!

 
 やった!!日本がキューバに勝った!!10-6、結構ドキドキする試合だったが、終始リードを保ち、最後は大塚が相手打者を三振にうちとって勝利、世界一だ!イチローが、松中が、上原が大喜びしている。王監督が胴上げされて2度、3度宙を舞う。余りきれいではなかったけど、アメリカで胴上げが見られるなんて最高だ。直後のイチローのインタビューもよかった。うれしくてたまらない「人間イチロー」のインタビューだった。MVPは松坂、すごい投球をしたのだから当然だ。セリグコミッショナーの金メダル授与は何だかおざなりな印象を受けたが、さすがにイチローのことは知っているのだろう、抱擁を交わしていた。王監督がメダルを首にかけたところで中継が中断した。ああ、よかった、うれしかった。

 以上が、TVで生中継を見終わったときの素直な感想だ。それからは、全くTVを見ていないので王監督や各選手のインタビューも聞いていないが、直後の彼らの様子を見ていれば、どれだけ嬉しかったかは想像がつく。今は、大分時間が経って私も冷静な気持ちになれたので、日本としては最高の形で終ったWBCについて、心に残ったことをまとめてみたい。

 まずは、疑問に残ったこと。2次リーグで同じグループから勝ち上がった日本と韓国がどうして準決勝で対戦しなければならなかったのか。普通なら、Aグループの1位はBグループの2位と戦うだろう。本当に不自然に思ったのだが、新聞にアメリカが中南米の強豪と当たらずに決勝まで進めるように仕組まれたものだという解説を読んで、なるほどと納得した。そこまでして優勝しなければメンツが立たないとMLBが考えたせいなのだろうが、そんな小細工を弄しても2次リーグを突破できなかったのだから、噴飯ものだ。アメリカの独善ぶりばかりが目立つ運営方法だった。
 さらには、例のボブ・デイビッドソン審判だ。日本対アメリカ戦でタッチアップが早かったと、セーフの判定をアウトに覆し、さらにはアメリカ対メキシコ戦ではメキシコの明らかなホームランを2ベースと判定するなどアメリカびいきの判定を繰り返した。そのお陰で、メキシコチームの闘志に火がつきアメリカを打ち倒して、日本が準決勝に進めたのだから、なんとも皮肉な役割を果たした審判である。そうした数々の誤審を繰り返した審判を何故最後まで使い続けたのか全く理解できない。途中で彼を罷免したら、誤審を認めることになると考えたのか分からないが、決勝戦で1塁塁審を勤めていたのには愕然とした。いったいWBCの組織は公正さについてどう考えているのだろう。
 
 次に、この大会を通して発見したこと。まず、イチローがこれほどまで素直に感情を表したのを私は今まで見たことがなかった。いつも何か心を抑えつけているような言動ばかりで、もっとストレートに表現しろよと思っていた。それがこの大会では、今まで彼の感情をせき止めていたものが切れたかのように、思いのたけを心のままに表現してくれて、小気味よかった。野球小僧イチロー、私はこんなイチローを見られただけでもWBCの試合を観戦してよかったと思っている。
 そして何よりもすごいと思ったのは、王監督である。私は今では松井秀喜のファンであるが、それまでは王貞治が野球選手の中で一番好きだった。背番号1の一本足打法は私の憧れだった。巨人の監督としては不遇に終わったが、ダイエーの監督として数々の栄光を手にしてきたが、残念なことに私はダイエーの王監督をほとんど知らなかった。それがこのWBCで、ほとんど初めてと言っていいほど、監督としての現在の王貞治をじっくり見ることができた。すると、どんなプレーをしても必ず選手を励まし、決して非難がましい素振りを見せることはなかった。1つ1つのプレーに対する反応の大きかったことも私には意外だった。決してオーバーアクションではなく、選手と一体化していた。しかし、冷静さを失うことはなく、戦況を見つめる目は確かで鋭かった。決勝戦で9回2アウトとなった瞬間に、マウンドに駆け寄って、選手に一声かけたのには驚いた。大胆かつ繊細 --- これこそが王野球の真髄なのだと実感したシーンだった。
 
 はっきり言って全く関心がなかったWBCだったが、一旦見始めたら選手1人1人の真剣なプレーに思わず引き込まれ、いつしか大声で声援を送るようになっていた。
 やっぱり、私にとっては野球が最高のスポーツだ。
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