毎日いろんなことで頭を悩ましながらも、明日のために頑張ろうと自分を励ましています。
疲れるけど、頑張ろう!
よくぞ最後まで・・
宮台真司の「日本の難点」(幻冬社新書)をやっと読み終えた、と言うか、最後まで目を通すことができた・・。振り返ると7月10日の記事にこの本に文句をつける記事を書いたが、その後夏期講習の忙しい時期をはさみ、9月も末になって何とか最後のページまでたどり着いたのは、自分でも感心するほど忍耐強い結果だ。とても体質的に受け付けない人間の書いたものを形だけでも読み通すことができるようになったなんて、私も老成したものだ。内容に引っ張られた、などということは全くないのに、どうして読み通せたのだろう?・・不思議でたまらない。(夏休み前に3分の2近く読んであったので、後の3分の1を読めば形だけでも感想文が書けるから頑張ってみよう、ただそんなセコイ思いで無理しただけのことかもしれない・・)
本書は『最先端の人文知の成果を総動員して、生きていくのに必要な「評価の物差し」を示すべく、「現状→背景→処方箋」の3段ステップで完全解説した「宮台版・日本の論点」である』と裏表紙にぶち上げてあるが、それがうまくいっているのかどうか、私には全く分からなかった。確かに「人文知」は総動員してあるのかもしれないが、それは学者と呼ばれる人たちの間で自明の事柄を晦渋な専門用語とともに解説を施しているだけなので、ただの塾長にすぎない私ではまるで評価の仕様がない。「Aという学者が言っているように、これはこうだからこうなったのであって、その辺りの間違いを正さなければ・・」などと大上段から言われたところで、ただただ狐につままれたような印象しか残らず、「宮台って奴は恐ろしく真面目にお勉強をしてきた男なんだなあ・・。この年になってもそんなことが自慢したいのかなあ・・」、そんな軽薄な感想しかもてなかった。それはあくまでも、門外漢の悲しさかもしれないが、書店で平積みにされている本書を時々見かけると、これを買った人のいったい何%が最後まで我慢して読み終えることだろう、と心配になってしまう(そんな物好きは10人に1人いるかなあ・・)。
本書の中で、私にはどうしてもあげておきたい難点が2つあった(他にもいっぱいあるにはあるんだけど、特にってことで・・)。一つは、第二章の「教育をどうするのか」で述べられている内容に関してである。それをまとめれば、『子供というものは、利他的である「スゴイ奴」に接すれば、その「本気」に「感染」していくものだから、そうしたミメーシス(感染的模倣)の機会を持てるようにすることが大切だ』というような論旨となるのだろうが、いったい彼の言う「スゴイ奴」とはどんな人物なのだろう?本書の最後にチェ・ゲバラをその例として挙げているが、ゲバラのように「スゴイ奴」がそうそういるはずもない。ゲバラが稀有な存在であるからこそ、「スゴイ奴」という評価がなされているのに、そんな人物を具体例に挙げられても、現実に子供たちと接するべき「スゴイ奴」のハードルが高くなるだけで、どういう人物のどこがスゴイのか、あまりに抽象的過ぎて想像することさえ難しい。本当は自分自身を「スゴイ奴」だと言いたいのかもしれないな、と勘繰ってしまいたくなるほど、彼の自信満々な物言いには、最初から最後まで辟易した・・。
しかし、著者はこうした素直な批判をする者さえも、クレーマーとして扱うようだ。彼が1995年から関わっているラジオ番組への出演以来に来たプロデューサーに「クレーマーが何を言ってきても僕は一切聞かないので、僕の耳に入れずにそちら側でさばいてください」という条件を出したという。わざと過激で刺激的な発言をするのだから、それに反応するクレーマーの発言など犬の遠吠えと同じだからなのだそうだが、そんなアンタッチャブルな楽な環境で言いたいことを言っていられる彼はなんて幸せなのだろうと思った。そんな庇護を誰からも受けずに毎日生徒やその親たちと対峙している現場の教師たちのことを、彼がとやかく言う資格などないだろう、と腹が立ったのも、本書から感じた二つ目の難点である。
とは言え、ブツブツ文句を言いながらも最後まで読んでしまったのは、今思えばなんだか悔しい。「こんな本、オレには無理だ!」とどうして投げ捨てなかったんだろう?そんなことしたら、「書いてある内容が理解できないからだろう?」と著者に揶揄されそうな気がしたからかもしれないが、一応形としては読み終えたから、これでやっと栞を挟んだまま長い間部屋の隅に転がっていた本書を書棚の奥に眠らせることができると、少しばかりスッキリしている。
本書は『最先端の人文知の成果を総動員して、生きていくのに必要な「評価の物差し」を示すべく、「現状→背景→処方箋」の3段ステップで完全解説した「宮台版・日本の論点」である』と裏表紙にぶち上げてあるが、それがうまくいっているのかどうか、私には全く分からなかった。確かに「人文知」は総動員してあるのかもしれないが、それは学者と呼ばれる人たちの間で自明の事柄を晦渋な専門用語とともに解説を施しているだけなので、ただの塾長にすぎない私ではまるで評価の仕様がない。「Aという学者が言っているように、これはこうだからこうなったのであって、その辺りの間違いを正さなければ・・」などと大上段から言われたところで、ただただ狐につままれたような印象しか残らず、「宮台って奴は恐ろしく真面目にお勉強をしてきた男なんだなあ・・。この年になってもそんなことが自慢したいのかなあ・・」、そんな軽薄な感想しかもてなかった。それはあくまでも、門外漢の悲しさかもしれないが、書店で平積みにされている本書を時々見かけると、これを買った人のいったい何%が最後まで我慢して読み終えることだろう、と心配になってしまう(そんな物好きは10人に1人いるかなあ・・)。
本書の中で、私にはどうしてもあげておきたい難点が2つあった(他にもいっぱいあるにはあるんだけど、特にってことで・・)。一つは、第二章の「教育をどうするのか」で述べられている内容に関してである。それをまとめれば、『子供というものは、利他的である「スゴイ奴」に接すれば、その「本気」に「感染」していくものだから、そうしたミメーシス(感染的模倣)の機会を持てるようにすることが大切だ』というような論旨となるのだろうが、いったい彼の言う「スゴイ奴」とはどんな人物なのだろう?本書の最後にチェ・ゲバラをその例として挙げているが、ゲバラのように「スゴイ奴」がそうそういるはずもない。ゲバラが稀有な存在であるからこそ、「スゴイ奴」という評価がなされているのに、そんな人物を具体例に挙げられても、現実に子供たちと接するべき「スゴイ奴」のハードルが高くなるだけで、どういう人物のどこがスゴイのか、あまりに抽象的過ぎて想像することさえ難しい。本当は自分自身を「スゴイ奴」だと言いたいのかもしれないな、と勘繰ってしまいたくなるほど、彼の自信満々な物言いには、最初から最後まで辟易した・・。
しかし、著者はこうした素直な批判をする者さえも、クレーマーとして扱うようだ。彼が1995年から関わっているラジオ番組への出演以来に来たプロデューサーに「クレーマーが何を言ってきても僕は一切聞かないので、僕の耳に入れずにそちら側でさばいてください」という条件を出したという。わざと過激で刺激的な発言をするのだから、それに反応するクレーマーの発言など犬の遠吠えと同じだからなのだそうだが、そんなアンタッチャブルな楽な環境で言いたいことを言っていられる彼はなんて幸せなのだろうと思った。そんな庇護を誰からも受けずに毎日生徒やその親たちと対峙している現場の教師たちのことを、彼がとやかく言う資格などないだろう、と腹が立ったのも、本書から感じた二つ目の難点である。
とは言え、ブツブツ文句を言いながらも最後まで読んでしまったのは、今思えばなんだか悔しい。「こんな本、オレには無理だ!」とどうして投げ捨てなかったんだろう?そんなことしたら、「書いてある内容が理解できないからだろう?」と著者に揶揄されそうな気がしたからかもしれないが、一応形としては読み終えたから、これでやっと栞を挟んだまま長い間部屋の隅に転がっていた本書を書棚の奥に眠らせることができると、少しばかりスッキリしている。
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栗きんとん
日曜の夕方、父が「これ食べてみろ」と、畑で茹でてきたという山栗をいくつかくれた。「甘くておいしいぞ」と嬉しそうに言うから、一つ殻のまま噛んでみたところ硬くて殻が簡単に割れなかった。歯に力を込めてやっとのことで割れたが、中からは実に甘くておいしい栗の実が出てきた。「おいしいけど硬い・・」と文句を言いたくなったが、小粒の山栗だけあって父の言うとおり本当においしい。もっと食べたいけど、こんなに硬い殻を剥くのは面倒だから、包丁を出して二つに割って中身を穿って食べることにした。しかし、殻が硬いため、包丁で切るにもかなりの力が要る。おいしくなかったらこんな厄介なことは決してしないはずだ。だが、なんと言ってもその労力に見合うだけのおいしさがあるから、まずは父がくれただけ包丁で二つに切ってみた。
だが待てよ、このまま穿って食べるだけじゃあまりにも芸がない。実を集めて何か別のものに加工してみたら面白いんじゃないか、そんな思いがムクムク湧いてきて、カニの身を穿り出す道具を使って、せっせと栗の実を穿り始めた。
単調な作業にはすぐに飽きてしまう私だが、ビールを飲みながら作業を続けたためか、興が乗ってきてあっという間に父からもらった分の栗は穿り終えてしまった
。これじゃあ足りないな、と父の部屋に行って、洗面バケツに一杯入っていた山栗を半分もらってきた。同じように半分に切って、身を穿り出す・・。時々大相撲の優勝の行方を気にしながらも、手だけはせっせと動かしていた。
そうこうしている内に朝青龍の優勝が決まり、お椀一杯の栗がたまった。
「やっぱり栗きんとんかなあ?」とやっと目標を思いついた私は妻に尋ねてみた。
「栗きんとんでもいいけど、栗がそれだけじゃいくつもできないよ。もっと栗が要るよ」と何年か前に栗きんとんを自作したことのある妻がアドバイスしてくれた。ならば・・、と父から栗の残りをすべて貰い受けてきた。
それなら入れ物もすり鉢に変えたら、と妻が小さめのすり鉢を出してくれた。改めて「すり鉢一杯になるまでがんばろう!!」と気合を込めて残りの栗全部の実を穿ることにした。
さすがに手が痛くなっってきたが、同時にビールの酔いもかなり進んだので、勢いは加速するばかりだった。自分の感覚としてはあっという間に栗の実をすべて穿り返すことができた。
これに砂糖を溶かした湯を少し加えて、すりこ木で大きな粒を潰していけばそれらしくなるはず、と妻の言葉に従って、すりこ木に力を込めた。とろろを作るより簡単だな、と思いながら・・。
栗の香りが鼻を刺激してくる。早く食べたいな、という思いが勝って、練るのは適当に切り上げた。それでも結構しんなりとして栗きんとんらしくなった。
サランラップの上に適量の栗を乗せ、ラップで包むように栗を巻き上げていく。何とか市販の形に似せようとするが、そんな器用なことは私には無理だ、どうしたっていい加減な形になってしまう・・。
妻の予言どおりすり鉢一杯の栗で、16個の栗きんとんしか作れなかった(写真は13個だが、作っている途中に私と妻と父が1つずつ試食した)。市販の栗きんとんが高価な理由がはじめて分かった。
試食の感想は言うまでもない、めちゃくちゃおいしかった。初めてにしては栗と砂糖と湯の量のバランスが絶妙だったようだ。あまりにおいしかったので、伯母と叔母の家にそれぞれおすそ分けした。
やっぱり野生の栗はおいしさが違う!!
だが待てよ、このまま穿って食べるだけじゃあまりにも芸がない。実を集めて何か別のものに加工してみたら面白いんじゃないか、そんな思いがムクムク湧いてきて、カニの身を穿り出す道具を使って、せっせと栗の実を穿り始めた。
単調な作業にはすぐに飽きてしまう私だが、ビールを飲みながら作業を続けたためか、興が乗ってきてあっという間に父からもらった分の栗は穿り終えてしまった
。これじゃあ足りないな、と父の部屋に行って、洗面バケツに一杯入っていた山栗を半分もらってきた。同じように半分に切って、身を穿り出す・・。時々大相撲の優勝の行方を気にしながらも、手だけはせっせと動かしていた。
そうこうしている内に朝青龍の優勝が決まり、お椀一杯の栗がたまった。
「やっぱり栗きんとんかなあ?」とやっと目標を思いついた私は妻に尋ねてみた。
「栗きんとんでもいいけど、栗がそれだけじゃいくつもできないよ。もっと栗が要るよ」と何年か前に栗きんとんを自作したことのある妻がアドバイスしてくれた。ならば・・、と父から栗の残りをすべて貰い受けてきた。
それなら入れ物もすり鉢に変えたら、と妻が小さめのすり鉢を出してくれた。改めて「すり鉢一杯になるまでがんばろう!!」と気合を込めて残りの栗全部の実を穿ることにした。
さすがに手が痛くなっってきたが、同時にビールの酔いもかなり進んだので、勢いは加速するばかりだった。自分の感覚としてはあっという間に栗の実をすべて穿り返すことができた。
これに砂糖を溶かした湯を少し加えて、すりこ木で大きな粒を潰していけばそれらしくなるはず、と妻の言葉に従って、すりこ木に力を込めた。とろろを作るより簡単だな、と思いながら・・。
栗の香りが鼻を刺激してくる。早く食べたいな、という思いが勝って、練るのは適当に切り上げた。それでも結構しんなりとして栗きんとんらしくなった。
サランラップの上に適量の栗を乗せ、ラップで包むように栗を巻き上げていく。何とか市販の形に似せようとするが、そんな器用なことは私には無理だ、どうしたっていい加減な形になってしまう・・。
妻の予言どおりすり鉢一杯の栗で、16個の栗きんとんしか作れなかった(写真は13個だが、作っている途中に私と妻と父が1つずつ試食した)。市販の栗きんとんが高価な理由がはじめて分かった。
試食の感想は言うまでもない、めちゃくちゃおいしかった。初めてにしては栗と砂糖と湯の量のバランスが絶妙だったようだ。あまりにおいしかったので、伯母と叔母の家にそれぞれおすそ分けした。
やっぱり野生の栗はおいしさが違う!!
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招き猫まつり(2)
9月29日を「来る福」と読んで、招き猫にあやかったイベントを企画したのが「来る福招き猫まつり」の始まりだと、妻から教わった。毎年この時期になると不思議とSMAPのライブや藤原竜也らの舞台と重なって、妻と一緒に祭り見学をしたことなどなかったが、今年は何もない手持無沙汰の妻をひきつれて、祭り会場に出向いてみた。
まずは招き猫のお御籤があると聞き付けた妻の望みにしたがって、地元の産神神社に向かった。
招き猫を一体選んで社務所に持っていくとおみくじがもらえる。妻は「中吉」、それくらいがちょうどいい。
参拝の後は、招き猫まつり発祥の地とも言える招き猫専門店をのぞいた。狭い店内は大勢の人であふれていた。併設している「招き猫ミュージアム」とともに、お祭りの中心となっているからこの混みようも当然だろう。
とは言え、ゆっくり見ることもできず、招き猫の手ぬぐいを1枚買っただけだった。
その後は各所で催されている小さなイベントを見て楽しんだ。
さすがにわが市一番のお祭りと比べれば人出の数は圧倒的に少ないが、それでもすれ違う人たちは皆楽しそうな顔をしていたから、それなりに意味のあるお祭りなんだろう。でも、無料でしてもらえる「猫ペイント」をするだけの勇気は、私にも妻にもなかった・・。小さい子供や若い娘のネコ顔は可愛いかったけど、いい年こいたおっさんやおばさんのペンとした顔はちょっと不気味だったから・・。
まずは招き猫のお御籤があると聞き付けた妻の望みにしたがって、地元の産神神社に向かった。
招き猫を一体選んで社務所に持っていくとおみくじがもらえる。妻は「中吉」、それくらいがちょうどいい。
参拝の後は、招き猫まつり発祥の地とも言える招き猫専門店をのぞいた。狭い店内は大勢の人であふれていた。併設している「招き猫ミュージアム」とともに、お祭りの中心となっているからこの混みようも当然だろう。
とは言え、ゆっくり見ることもできず、招き猫の手ぬぐいを1枚買っただけだった。
その後は各所で催されている小さなイベントを見て楽しんだ。
さすがにわが市一番のお祭りと比べれば人出の数は圧倒的に少ないが、それでもすれ違う人たちは皆楽しそうな顔をしていたから、それなりに意味のあるお祭りなんだろう。でも、無料でしてもらえる「猫ペイント」をするだけの勇気は、私にも妻にもなかった・・。小さい子供や若い娘のネコ顔は可愛いかったけど、いい年こいたおっさんやおばさんのペンとした顔はちょっと不気味だったから・・。
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藤子・F・不二雄大全集
娘から買ってくれと要求が出ているのが、「藤子・F・不二雄大全集」。ドラえもん好きの娘にとってはまさに垂涎の全集だが、卒業を控え、あれこれ物入りの娘にはこの全集に回すだけのお金がないらしい。そこで妻を介して買ってくれないかな、と打診がきたのだが、かわいい娘にねだられたら買ってやらないわけにはいかない。7月から毎月2~3冊のペースで刊行が始まっていて、今月末には早くも8巻刊行されたことになるらしい。1冊1500円前後するから毎月少しばかり嵩んでくるが、本代には糸目をつけるな、と小さな頃から教えてきた私がここで躊躇するわけにはいかない。「就職祝いだな」と名目をつけて買ってやることにした。
で、その全集に収録される予定の作品は、
第1期
「ドラえもん」1-8巻(全20巻、9巻以降は2期以降での刊行)
「オバケのQ太郎」1-5巻(全12巻、6巻以降は2期以降での刊行)
「パーマン」全8巻
「キテレツ大百科」全2巻
「エスパー魔美」全5巻
「バケルくん 」
「海の王子」全3巻
「ジャングル黒べえ」
これだけでも十分楽しめそうだが、第2期以降には「ドラえもん」や「オバケのQ太郎」の続編以外にも「21エモン」や「ウメ星デンカ」がラインナップされているから、続けて買わなくちゃいけなくなる。まあ、それも私が買うことになるんだろうな、やっぱり・・。
「ドラえもん」はかつて単行本が全巻家にあったから読破しているはずだが、私にはやはり「オバケのQ太郎」と「パーマン」の方が懐かしい。懐かしいというよりも、「オバQ」と「パーマン」を見て育ったといっても過言ではないから、まさしく私の血肉になっているはずだ。それはかつてこのブログにも載せたことがある「オバQ」の絵を見れば一目瞭然だ。オバQの絵だけは誰にも負けない自信があり、それを見事に証明してみせた珠玉の逸品。再掲になるが・・、
久しぶりに見たが、我ながら素晴らしい出来だ・・。
だが、私の得意な絵はもう一つある。それは何を隠そう「パーマン」だ。子供の頃は、暇があればオバQかパーマンの絵を描いていたような気がする。で、さっそく描いてみた。
う~~~ん、久しぶりに「おえかきツール」を使ったものだから、思うように描けなかった・・。自分の絵心の10分の1も発揮されていないようで残念至極だが、「全集」が届いたら、しっかり勉強して、マウスの使い方ももっと上手にして、再チャレンジしてみようと思う。
で、その全集に収録される予定の作品は、
第1期
「ドラえもん」1-8巻(全20巻、9巻以降は2期以降での刊行)
「オバケのQ太郎」1-5巻(全12巻、6巻以降は2期以降での刊行)
「パーマン」全8巻
「キテレツ大百科」全2巻
「エスパー魔美」全5巻
「バケルくん 」
「海の王子」全3巻
「ジャングル黒べえ」
これだけでも十分楽しめそうだが、第2期以降には「ドラえもん」や「オバケのQ太郎」の続編以外にも「21エモン」や「ウメ星デンカ」がラインナップされているから、続けて買わなくちゃいけなくなる。まあ、それも私が買うことになるんだろうな、やっぱり・・。
「ドラえもん」はかつて単行本が全巻家にあったから読破しているはずだが、私にはやはり「オバケのQ太郎」と「パーマン」の方が懐かしい。懐かしいというよりも、「オバQ」と「パーマン」を見て育ったといっても過言ではないから、まさしく私の血肉になっているはずだ。それはかつてこのブログにも載せたことがある「オバQ」の絵を見れば一目瞭然だ。オバQの絵だけは誰にも負けない自信があり、それを見事に証明してみせた珠玉の逸品。再掲になるが・・、
久しぶりに見たが、我ながら素晴らしい出来だ・・。
だが、私の得意な絵はもう一つある。それは何を隠そう「パーマン」だ。子供の頃は、暇があればオバQかパーマンの絵を描いていたような気がする。で、さっそく描いてみた。
う~~~ん、久しぶりに「おえかきツール」を使ったものだから、思うように描けなかった・・。自分の絵心の10分の1も発揮されていないようで残念至極だが、「全集」が届いたら、しっかり勉強して、マウスの使い方ももっと上手にして、再チャレンジしてみようと思う。
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秋の七草
昨日トイレに入って、棚に置いてある「広辞苑一日一語」を久しぶりに開いてみた。9月25日のページを繰ってみたところ、「藤袴」とあって、次のような解説が載っていた。
①キク科の多年草。やや湿気のあるところに自生。高さ約1メートル。全体に佳香がある。秋、淡紫色の小さな頭状花を多数散房状に開く。秋の七草の一つ。蘭草。<(季)秋>。
とあって、さらに万葉集八巻の歌が引用されていた。
「萩の花尾花葛花なでしこの花をみなへし又藤袴あさがほの花」
調べたら、詠み人は山上憶良だった。さすがに憶良さんだけあってコンパクトに秋の花の名を詠み上げているが、これらの花が「秋の七草」に選ばれたのは、この歌によるものだそうだ。萩は、ススキである尾花とともにお月見に供えるからよく見知っている。しかし、葛・なでしこ・おみなえしは名前はよく知っているが、実際に山野で見かけてもこれがそうだ、と言うことは残念ながらできない。藤袴などは広辞苑の解説を読んでも、「ああ、あれね」などと思い当たる節はまったくないほど未知の花だ。また、あさがおは、今の朝顔ではなく「桔梗」であるとする説が有力らしいが、この桔梗という花がどんな姿をしたものであるかまったく分からない。昔から、草花の名前にさほどの興味を持っていなかったのがいけないんだろうが、せっかくの機会だから、きちんと見分けがつくぐらいにはしておくべきだろう、そんな気持ちになって写真を集めてきた。
萩 尾花
葛 撫子
女郎花 藤袴
桔梗
写真を集めながら、都会に住んでいるわけでもない私がなにもネット上で写真を探す必要はないではないか、カメラを持って裏山に上っていけば、全部とは言わないまでもかなりの草花の写真が撮れるのではないか、そんな気もしてきた。ちょっとばかりブロガーとしては怠慢ではないか、と反省も浮かんできたが、それは又次の機会に譲るとして、今回はこれで我慢しておこう。なにせ簡単に青草にかぶれてしまう男なので・・。
でも今一番目立つ草花は、彼岸花。どうしてこれが秋の七草に入ってないのか不思議に思うほど、そこかしこで咲き誇っている。
これだけは自分で撮った・・。
①キク科の多年草。やや湿気のあるところに自生。高さ約1メートル。全体に佳香がある。秋、淡紫色の小さな頭状花を多数散房状に開く。秋の七草の一つ。蘭草。<(季)秋>。
とあって、さらに万葉集八巻の歌が引用されていた。
「萩の花尾花葛花なでしこの花をみなへし又藤袴あさがほの花」
調べたら、詠み人は山上憶良だった。さすがに憶良さんだけあってコンパクトに秋の花の名を詠み上げているが、これらの花が「秋の七草」に選ばれたのは、この歌によるものだそうだ。萩は、ススキである尾花とともにお月見に供えるからよく見知っている。しかし、葛・なでしこ・おみなえしは名前はよく知っているが、実際に山野で見かけてもこれがそうだ、と言うことは残念ながらできない。藤袴などは広辞苑の解説を読んでも、「ああ、あれね」などと思い当たる節はまったくないほど未知の花だ。また、あさがおは、今の朝顔ではなく「桔梗」であるとする説が有力らしいが、この桔梗という花がどんな姿をしたものであるかまったく分からない。昔から、草花の名前にさほどの興味を持っていなかったのがいけないんだろうが、せっかくの機会だから、きちんと見分けがつくぐらいにはしておくべきだろう、そんな気持ちになって写真を集めてきた。
写真を集めながら、都会に住んでいるわけでもない私がなにもネット上で写真を探す必要はないではないか、カメラを持って裏山に上っていけば、全部とは言わないまでもかなりの草花の写真が撮れるのではないか、そんな気もしてきた。ちょっとばかりブロガーとしては怠慢ではないか、と反省も浮かんできたが、それは又次の機会に譲るとして、今回はこれで我慢しておこう。なにせ簡単に青草にかぶれてしまう男なので・・。
でも今一番目立つ草花は、彼岸花。どうしてこれが秋の七草に入ってないのか不思議に思うほど、そこかしこで咲き誇っている。
これだけは自分で撮った・・。
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「下宿屋」
ずっと買い続けているDeAGOSTINIの「青春のうた ベスト・コレクション」が、とうとう95号に到達した。しかも「いよいよ完結間近 100号をもちまして完結となります」という告知を見つけたので、残り5号。よくもここまで買い続けたものだ・・。と言っても、このところは本屋が配達してくれても封も切らずに部屋の隅にほかって置くだけなので、何号もうず高く積み上げられてしまっていた。だが、完結間近と知ったら、少しは整理しておかなくちゃいけない。とりあえず、ビニールの封を破って、CDだけは取り出しておこうと、75号辺りから作業を始めた。
CDに収められた曲もさすがにネタ切れが近いのか、聞いたことがないような曲も時々あって、ちょっと首を傾げたくなったが、86巻を手にしたときには少しばかり体に電流が走ったような気がした。
「加川良の『下宿屋』だ・・」
この曲は私が中学生の時に発表されたものだが、一番よく聞いたのは大学生の頃だった。カセットテープに録音して、何度も何度も聴いた記憶がある。
「京都の秋の夕ぐれは
コートなしでは寒いくらいで
丘の上の下宿屋は
いつもふるえていました
僕は だれかの笑い顔が見られることより
うつむきかげんの
彼を見つけたかったんです」
という語りで始まるこの曲は、京都で一人暮らしをしていた私の心に妙に響くものがあった。毎日遊んでばかりいた頃だったが、遊び疲れて自分の部屋にもどってこの曲を聴くとなぜか切なくなったものだった。だが、浮かれすぎた心にはそんな切なさもちょっとしたスパイスでしかなかったように今では思うが・・。
とつとつと語られるこの歌は、ある世代の者にしか共感を与えないだろうが、それだからこそこの曲を懐かしく聴く人と私は、きっと心のどこかでつながっているはずだ。しかし、大勢で大きな声をあげて歌うような曲ではない。ぽつんと独りのときにしみじみ聴くのが一番似合っているように思う。この曲に歌われている情景とはけっして縁のない暮らしをしていたはずの私でさえ、なんとなく懐かしく思えてしまうのは、やはりその時代を反映しているからなのだろうか。
「かわききったギターの音が
彼の生活で そして
湿気の中に ただ一つ
ラーメンのこうばしさが唄ってたみたいです
ブショウヒゲの中から
ため息が少しきこえたんですが
僕にはそれが唄のように 聞こえたんです」
ぜんぜん違う。こんな暮らしなどしたことがない。まったくちがう・・。だが、こんな生活に憧れていたような気もするし、それを気取りたい思いもあったような気もする。しかし、結局はそんな暮らしの対極にある生活を目指してずっと生きてたように思う。
だからこそ、余計にこの曲が懐かしく思えるのかなあ・・・。
CDに収められた曲もさすがにネタ切れが近いのか、聞いたことがないような曲も時々あって、ちょっと首を傾げたくなったが、86巻を手にしたときには少しばかり体に電流が走ったような気がした。
「加川良の『下宿屋』だ・・」
この曲は私が中学生の時に発表されたものだが、一番よく聞いたのは大学生の頃だった。カセットテープに録音して、何度も何度も聴いた記憶がある。
「京都の秋の夕ぐれは
コートなしでは寒いくらいで
丘の上の下宿屋は
いつもふるえていました
僕は だれかの笑い顔が見られることより
うつむきかげんの
彼を見つけたかったんです」
という語りで始まるこの曲は、京都で一人暮らしをしていた私の心に妙に響くものがあった。毎日遊んでばかりいた頃だったが、遊び疲れて自分の部屋にもどってこの曲を聴くとなぜか切なくなったものだった。だが、浮かれすぎた心にはそんな切なさもちょっとしたスパイスでしかなかったように今では思うが・・。
とつとつと語られるこの歌は、ある世代の者にしか共感を与えないだろうが、それだからこそこの曲を懐かしく聴く人と私は、きっと心のどこかでつながっているはずだ。しかし、大勢で大きな声をあげて歌うような曲ではない。ぽつんと独りのときにしみじみ聴くのが一番似合っているように思う。この曲に歌われている情景とはけっして縁のない暮らしをしていたはずの私でさえ、なんとなく懐かしく思えてしまうのは、やはりその時代を反映しているからなのだろうか。
「かわききったギターの音が
彼の生活で そして
湿気の中に ただ一つ
ラーメンのこうばしさが唄ってたみたいです
ブショウヒゲの中から
ため息が少しきこえたんですが
僕にはそれが唄のように 聞こえたんです」
ぜんぜん違う。こんな暮らしなどしたことがない。まったくちがう・・。だが、こんな生活に憧れていたような気もするし、それを気取りたい思いもあったような気もする。しかし、結局はそんな暮らしの対極にある生活を目指してずっと生きてたように思う。
だからこそ、余計にこの曲が懐かしく思えるのかなあ・・・。
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エコナ
毎日新聞の17日朝刊の記事:
「花王は16日、特定保健用食品「エコナ」シリーズの関連全商品について、17日から出荷・販売を停止すると発表した。商品に含まれる「グリシドール脂肪酸エステル」という物質が発がん性物質に変化する可能性があるため。出荷・販売が停止されるのは食用油「エコナクッキングオイル」や同シリーズのマヨネーズ、ドレッシングオイルなど59商品。
「グリシドール脂肪酸エステル」は発がん性のある「グリシドール」に分解される危険性が欧州で指摘され、日本でも食品安全委員会が調査中。花王は「安全性に問題はないとみているが、消費者の意識も考慮し販売を自粛する」と説明している。
花王によると、6月にエコナクッキングオイルを自主検査したところ「グリシドール脂肪酸エステル」などが通常の食用油の最大182倍含まれていることが分かった。製造時の脱臭工程で副次的に生成されたのが原因という。「グリシドール脂肪酸エステル」の含有率を減らし、10年2月の販売再開を目指す。
花王は消費者からの返品にも応じる。問い合わせは同社消費者相談室0120・501・243。」
これを読んだ妻は、大騒ぎ。と言うのも家ではずっと「エコナクッキングオイル」を使ってきたからだ。
「体にいいと、特定保健用食品にもなっている製品なのに・・」
と、信じられないというか、裏切られたというか、とにかく釈然としない表情をしていた。買い置きしてあるたくさんの「エコナ」を前にして、とりあえず、消費者相談室」に電話して、どうしたらいいかたずねようとしたのだが・・、
電話がまったくつながらない。「何度かけてもダメ・・」と嘆いていたが、それも当たり前だろう。日本中で何万本と売られてきた商品に発がん性が指摘されれば、誰だってびっくりする。問い合わせが殺到するに決まっている。
それでも忍耐強く電話をし続けた妻が報われたのは、19日の土曜日だった。食事の用意をしながら、半ば惰性でかけたところ、受話器の向こうで男性の声が聞こえた気がして、慌てて話し始めたという。買い置きを引き取ってもらえるかと聞いたところ、着払いで送ってください、と言われたそうだ。
「スーパーの安売りで買ったものもあるんだけど、それも定価で引き取ってくれるらしいの。なんだか悪い気がしちゃうけど、置いといても仕方ないから明日送ろうと思う・・」
「大変だな、花王も。ものすごい費用だよな」
「でも、信じちゃうよね、『特定保健用食品』ってシールが貼ってあるし・・。厚労省がいい加減なんだよね、結局・・」
「政権が変わって痛いところを指摘される前に会社が自主的に白状したってことかな・・」
などと意地悪な観測をしてみたが、実際のところはどうなんだろう。所轄の官庁がいい杜撰な検査で『特定健康食品』の名を与えたとしたら、国民の健康にかかわることだけに由々しき問題であろう。その辺りは十分調査されなければならないが、大臣が変わった厚生労働省がはたして組織としてどれだけの透明性を発揮できるか現段階では未知数だ。桝添前大臣はパフォーマンスには長けていたが、公言したことのどれだけを実行できたか怪しいものであった。代わって今度の大臣は「ミスター年金」・・。年金問題にはエキスパートかもしれないが、厚労相の仕事は年金だけではない。医療、雇用など多岐にわたる分野で難問は山積している。そうした問題一つ一つに即効性のある施策が望まれているだけに新大臣の責任は重い。
果たして「ミスター年金」が「ミスター厚労相」になれるかどうか、注目していきたい・・。
「花王は16日、特定保健用食品「エコナ」シリーズの関連全商品について、17日から出荷・販売を停止すると発表した。商品に含まれる「グリシドール脂肪酸エステル」という物質が発がん性物質に変化する可能性があるため。出荷・販売が停止されるのは食用油「エコナクッキングオイル」や同シリーズのマヨネーズ、ドレッシングオイルなど59商品。
「グリシドール脂肪酸エステル」は発がん性のある「グリシドール」に分解される危険性が欧州で指摘され、日本でも食品安全委員会が調査中。花王は「安全性に問題はないとみているが、消費者の意識も考慮し販売を自粛する」と説明している。
花王によると、6月にエコナクッキングオイルを自主検査したところ「グリシドール脂肪酸エステル」などが通常の食用油の最大182倍含まれていることが分かった。製造時の脱臭工程で副次的に生成されたのが原因という。「グリシドール脂肪酸エステル」の含有率を減らし、10年2月の販売再開を目指す。
花王は消費者からの返品にも応じる。問い合わせは同社消費者相談室0120・501・243。」
これを読んだ妻は、大騒ぎ。と言うのも家ではずっと「エコナクッキングオイル」を使ってきたからだ。
「体にいいと、特定保健用食品にもなっている製品なのに・・」
と、信じられないというか、裏切られたというか、とにかく釈然としない表情をしていた。買い置きしてあるたくさんの「エコナ」を前にして、とりあえず、消費者相談室」に電話して、どうしたらいいかたずねようとしたのだが・・、
電話がまったくつながらない。「何度かけてもダメ・・」と嘆いていたが、それも当たり前だろう。日本中で何万本と売られてきた商品に発がん性が指摘されれば、誰だってびっくりする。問い合わせが殺到するに決まっている。
それでも忍耐強く電話をし続けた妻が報われたのは、19日の土曜日だった。食事の用意をしながら、半ば惰性でかけたところ、受話器の向こうで男性の声が聞こえた気がして、慌てて話し始めたという。買い置きを引き取ってもらえるかと聞いたところ、着払いで送ってください、と言われたそうだ。
「スーパーの安売りで買ったものもあるんだけど、それも定価で引き取ってくれるらしいの。なんだか悪い気がしちゃうけど、置いといても仕方ないから明日送ろうと思う・・」
「大変だな、花王も。ものすごい費用だよな」
「でも、信じちゃうよね、『特定保健用食品』ってシールが貼ってあるし・・。厚労省がいい加減なんだよね、結局・・」
「政権が変わって痛いところを指摘される前に会社が自主的に白状したってことかな・・」
などと意地悪な観測をしてみたが、実際のところはどうなんだろう。所轄の官庁がいい杜撰な検査で『特定健康食品』の名を与えたとしたら、国民の健康にかかわることだけに由々しき問題であろう。その辺りは十分調査されなければならないが、大臣が変わった厚生労働省がはたして組織としてどれだけの透明性を発揮できるか現段階では未知数だ。桝添前大臣はパフォーマンスには長けていたが、公言したことのどれだけを実行できたか怪しいものであった。代わって今度の大臣は「ミスター年金」・・。年金問題にはエキスパートかもしれないが、厚労相の仕事は年金だけではない。医療、雇用など多岐にわたる分野で難問は山積している。そうした問題一つ一つに即効性のある施策が望まれているだけに新大臣の責任は重い。
果たして「ミスター年金」が「ミスター厚労相」になれるかどうか、注目していきたい・・。
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老眼鏡
日曜日、妻の買い物が終わった後、エレベーターを探していたらメガネ売り場の前を通った。
「メガネ、5250円から」
と大きな貼り紙が何枚も貼ってある。
「5250円て安いよなあ」
いとも簡単に食いついてしまった私は、傍らの妻に同意を求めた。
「そうだね。見てみたら」
陳列棚にずらっと並んだメガネにはみな5250円の値札がついている。
「こんなに安くて大丈夫かなあ」
とあまりの勢いに一瞬腰が引けた私は妻に尋ねた。
「Nikonのレンズって書いてあるからいいんじゃないの」
「Nikonってカメラじゃないの?」
「レンズも売ってるんじゃないの?木村さんがCMやってるし、大丈夫だと思うなあ」
などと説得力のない言葉しか返ってこなかったが、まあ物は試し、と店員さんに聞いてみた。
「老眼鏡もできますか?」
「はい、できますよ。視力検査しましょうか?」
「うん・・・。やってもらおうかな・・」
遠近両用のメガネが真っ二つになって以来、普段は昔かけていた近視用のメガネをかけているが、塾の授業中はそのメガネでは近くの文字がまったく読めないためメガネを外して裸眼でいる。それでも特に不自由はないだろうと、高をくくっていたが、生徒から質問を受け、説明しようとするときに、少し離れた文字が見えにくく、思った以上に難渋することが多くなってきたので、この機会に老眼鏡を買っておいたほうがいいかな、という気になったのだ。
若い女性店員がなかなか立派な機械で検査してくれるので、これなら安心かな、そんな気になってきた。10分くらいかかってあれこれ視力を測ってくれて、
「これでどうでしょう」とレンズを入れたメガネを渡してくれた。
「うん、よく見える」
「それじゃあ、これでメガネをお作りしてもいいでしょうか?」
「はい、お願いします」
「それじゃあ、フレームを選んでくださいね」
いやに簡単に決まってしまったが、5250円ならたとえ失敗でもさほど痛くはない。それにいくらHUGO BOSSのフレームだと気取っていたって、まっ二つになってしまえば何の意味もない。これくらいのメガネで十分だ・・。フレームを適当に見繕って
「これでお願いします」
と店員さんに渡したら、
「40分ほどで出来上がりますので、お待ちください」
そんなに早くできるの?なんだかまた少し不安になったが、早いに越したことはない。適当に時間をつぶして戻ってきたら、本当に40分で出来上がっていた!!
何の変哲もないごく普通のフレームだが、塾の授業でしか使うつもりはないメガネだから、見てくれなんてどうでもいい。ただただ使っていて突然まっ二つになるなんてことがなければ十分だ。
「30cm離れた小さな文字が読めるようにしました。階段を降りるときや車の運転をするときには危険ですので、外したほうが安全です」
などと丁寧に使用上の注意まで教えてくれた。しかも写真右のメガネケースまで付けてくれたんだから、このメガネを1個売っていったいいくらくらい儲かるのだろう・・などと余分なことまで詮索したくなる。後で調べたら、このメガネを買った店は「Coolens」という名のメガネ屋だと分かったが・・。
確かに手元の小さな字はよく見えるようになった。これならメガネをかけたまま、生徒たちの問題集の答え合わせも十分できる。だが、問題はこのメガネをかけたまま遠くを見ると、まるで何も見えなくなることだ。やっぱり遠近両用のメガネの方が使い勝手がいいようだが、今回は老眼鏡と近視用メガネとを上手に使い分けようと決めたのだから、しばらく多少の不便は我慢していこう!!
「メガネ、5250円から」
と大きな貼り紙が何枚も貼ってある。
「5250円て安いよなあ」
いとも簡単に食いついてしまった私は、傍らの妻に同意を求めた。
「そうだね。見てみたら」
陳列棚にずらっと並んだメガネにはみな5250円の値札がついている。
「こんなに安くて大丈夫かなあ」
とあまりの勢いに一瞬腰が引けた私は妻に尋ねた。
「Nikonのレンズって書いてあるからいいんじゃないの」
「Nikonってカメラじゃないの?」
「レンズも売ってるんじゃないの?木村さんがCMやってるし、大丈夫だと思うなあ」
などと説得力のない言葉しか返ってこなかったが、まあ物は試し、と店員さんに聞いてみた。
「老眼鏡もできますか?」
「はい、できますよ。視力検査しましょうか?」
「うん・・・。やってもらおうかな・・」
遠近両用のメガネが真っ二つになって以来、普段は昔かけていた近視用のメガネをかけているが、塾の授業中はそのメガネでは近くの文字がまったく読めないためメガネを外して裸眼でいる。それでも特に不自由はないだろうと、高をくくっていたが、生徒から質問を受け、説明しようとするときに、少し離れた文字が見えにくく、思った以上に難渋することが多くなってきたので、この機会に老眼鏡を買っておいたほうがいいかな、という気になったのだ。
若い女性店員がなかなか立派な機械で検査してくれるので、これなら安心かな、そんな気になってきた。10分くらいかかってあれこれ視力を測ってくれて、
「これでどうでしょう」とレンズを入れたメガネを渡してくれた。
「うん、よく見える」
「それじゃあ、これでメガネをお作りしてもいいでしょうか?」
「はい、お願いします」
「それじゃあ、フレームを選んでくださいね」
いやに簡単に決まってしまったが、5250円ならたとえ失敗でもさほど痛くはない。それにいくらHUGO BOSSのフレームだと気取っていたって、まっ二つになってしまえば何の意味もない。これくらいのメガネで十分だ・・。フレームを適当に見繕って
「これでお願いします」
と店員さんに渡したら、
「40分ほどで出来上がりますので、お待ちください」
そんなに早くできるの?なんだかまた少し不安になったが、早いに越したことはない。適当に時間をつぶして戻ってきたら、本当に40分で出来上がっていた!!
何の変哲もないごく普通のフレームだが、塾の授業でしか使うつもりはないメガネだから、見てくれなんてどうでもいい。ただただ使っていて突然まっ二つになるなんてことがなければ十分だ。
「30cm離れた小さな文字が読めるようにしました。階段を降りるときや車の運転をするときには危険ですので、外したほうが安全です」
などと丁寧に使用上の注意まで教えてくれた。しかも写真右のメガネケースまで付けてくれたんだから、このメガネを1個売っていったいいくらくらい儲かるのだろう・・などと余分なことまで詮索したくなる。後で調べたら、このメガネを買った店は「Coolens」という名のメガネ屋だと分かったが・・。
確かに手元の小さな字はよく見えるようになった。これならメガネをかけたまま、生徒たちの問題集の答え合わせも十分できる。だが、問題はこのメガネをかけたまま遠くを見ると、まるで何も見えなくなることだ。やっぱり遠近両用のメガネの方が使い勝手がいいようだが、今回は老眼鏡と近視用メガネとを上手に使い分けようと決めたのだから、しばらく多少の不便は我慢していこう!!
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「イキガミ」
日曜日、WOWOWで「イキガミ」を見た。昨年公開された時はどういう訳か劇場に足を運ぶことができなかっただけに、心待ちにしていた放送だった。マンガが原作というのは知っていたが、これほど重いテーマを描いた作品だとは思っていなかったので、正直驚いてしまった。
小学校入学時に全員強制的に注射を打たれる。その薬液の中には1000人に1人の割合で特殊なナノ・カプセルが混入されていて、18歳から24歳までのあらかじめ設定された日時に破裂し、保持者は死んでしまう。無作為に選ばれたカプセルの保持者は、予定死亡時刻24時間前に自分の死亡予告証を受け取る。それが「逝紙(イキガミ)」であり、松田翔太が演じるのはその「イキガミ」の配達人・藤本賢吾である。いくら生命の価値を再認識させることで国を豊かにすることを目的とした「国家繁栄維持法」によるものだと言われても、将来ある有為な若者を抹殺することなどこの少子化の時代ではあるわけがない、などと設定の荒唐無稽さに苦笑してしまったけれど、それもプロローグのほんの一瞬のことであり、本編になってイキガミを受け取った若者たちの最後の24時間の葛藤をつぶさに見ていくうち、彼らの生に対する真摯な思いに心を奪われてしまった。
イキガミを受け取った3人の若者が描かれている。
母と二人暮しのギタリスト田辺翼は、初のTV出演を翌日に控えた日にイキガミを受け取る。悲嘆にくれる母親から離れ、街をさまよった末、かつての相棒にTVを見てくれ、と言い残してTV局に向かう。番組本番、段取りをまったく無視して、彼は昔相棒と路上で歌っていた曲を切々と歌い上げる。が、歌い終わった瞬間に、息を引き取る・・。
国会議員を母親に持つ滝沢直樹は、母の過大な期待に応えきれず引きこもり生活を送るようになってしまった。自殺しようと首に縄をかけた瞬間に藤本が現れ、イキガミを渡す。そんな彼をも自分の選挙戦に有利にするため利用しようとする母親に絶望した直樹は警察官から拳銃を奪い、母を撃ち殺そうとするが、警護の警察官に死亡予定時刻1時間前に射殺されてしまう・・。
子供の頃事故で両親をなくし、妹も失明してしまった飯塚さとしは、暴力団の下っ端として小銭を稼いでいるが、そんな彼のもとに藤本が現れる。施設で暮らす妹とやっといっしょに暮らせる目処が立ったのに、と嘆くさとしであったが、自分が亡くなった後の角膜を妹に移殖すれば妹の目は見えるようになると気づき、それを実行に移そうとする。だが、その気配を敏感に察した妹は手術を拒否する・・。
まったく理不尽で一方的な死の宣告を受けてからの三人三様の行動は、激しく見る者の胸を打つ。「イキガミ」が戦争中の「赤紙」を連想させるからだろうが、国家の思惑によって、己の意志とはまったく関係なく死へと追い込まれていく若者たちの無念さは、兵士となって散った幾多の若者たちの無念さと通じるものがあるように思う。しかし、この映画はそうした国家の横暴さを正面から非難するのは、あえて抑えているようだ。イキガミ配達人藤本もやりきれなさを感じながらも、上からの指令に従っている。もしこの映画に続編が準備されているのなら、無慈悲な権力を押し付けてくる国家とのせめぎあいが、その映画の中心テーマとなるのではないか、そんな期待を抱かせる・・。
人間は生まれた瞬間から死の宣告を受けた存在であるが、幸いなことに誰も自らの終わりがいつやってくるのか知らない。だからこそ生きられるのだろうが、まただからこそ無駄に時間を浪費しても平気でいられる。私とて、もう51年も生きてきて残り時間がかなり減ってきたことはおぼろげながら常に意識するようにはなったが、それでもまだ心のどこかで永遠の命を授かっているような錯覚をもっているように思う。そうでなくっちゃ、とてもこんなにダラダラ毎日を過ごせやしないはずだ・・。
もし今私に「イキガミ」が送られてきたら、いったい最後の24時間をどうすごすだろうか・・。思わずそんなことまで考えさせてしまう、なかなか芯の通ったいい映画だった。
小学校入学時に全員強制的に注射を打たれる。その薬液の中には1000人に1人の割合で特殊なナノ・カプセルが混入されていて、18歳から24歳までのあらかじめ設定された日時に破裂し、保持者は死んでしまう。無作為に選ばれたカプセルの保持者は、予定死亡時刻24時間前に自分の死亡予告証を受け取る。それが「逝紙(イキガミ)」であり、松田翔太が演じるのはその「イキガミ」の配達人・藤本賢吾である。いくら生命の価値を再認識させることで国を豊かにすることを目的とした「国家繁栄維持法」によるものだと言われても、将来ある有為な若者を抹殺することなどこの少子化の時代ではあるわけがない、などと設定の荒唐無稽さに苦笑してしまったけれど、それもプロローグのほんの一瞬のことであり、本編になってイキガミを受け取った若者たちの最後の24時間の葛藤をつぶさに見ていくうち、彼らの生に対する真摯な思いに心を奪われてしまった。
イキガミを受け取った3人の若者が描かれている。
母と二人暮しのギタリスト田辺翼は、初のTV出演を翌日に控えた日にイキガミを受け取る。悲嘆にくれる母親から離れ、街をさまよった末、かつての相棒にTVを見てくれ、と言い残してTV局に向かう。番組本番、段取りをまったく無視して、彼は昔相棒と路上で歌っていた曲を切々と歌い上げる。が、歌い終わった瞬間に、息を引き取る・・。
国会議員を母親に持つ滝沢直樹は、母の過大な期待に応えきれず引きこもり生活を送るようになってしまった。自殺しようと首に縄をかけた瞬間に藤本が現れ、イキガミを渡す。そんな彼をも自分の選挙戦に有利にするため利用しようとする母親に絶望した直樹は警察官から拳銃を奪い、母を撃ち殺そうとするが、警護の警察官に死亡予定時刻1時間前に射殺されてしまう・・。
子供の頃事故で両親をなくし、妹も失明してしまった飯塚さとしは、暴力団の下っ端として小銭を稼いでいるが、そんな彼のもとに藤本が現れる。施設で暮らす妹とやっといっしょに暮らせる目処が立ったのに、と嘆くさとしであったが、自分が亡くなった後の角膜を妹に移殖すれば妹の目は見えるようになると気づき、それを実行に移そうとする。だが、その気配を敏感に察した妹は手術を拒否する・・。
まったく理不尽で一方的な死の宣告を受けてからの三人三様の行動は、激しく見る者の胸を打つ。「イキガミ」が戦争中の「赤紙」を連想させるからだろうが、国家の思惑によって、己の意志とはまったく関係なく死へと追い込まれていく若者たちの無念さは、兵士となって散った幾多の若者たちの無念さと通じるものがあるように思う。しかし、この映画はそうした国家の横暴さを正面から非難するのは、あえて抑えているようだ。イキガミ配達人藤本もやりきれなさを感じながらも、上からの指令に従っている。もしこの映画に続編が準備されているのなら、無慈悲な権力を押し付けてくる国家とのせめぎあいが、その映画の中心テーマとなるのではないか、そんな期待を抱かせる・・。
人間は生まれた瞬間から死の宣告を受けた存在であるが、幸いなことに誰も自らの終わりがいつやってくるのか知らない。だからこそ生きられるのだろうが、まただからこそ無駄に時間を浪費しても平気でいられる。私とて、もう51年も生きてきて残り時間がかなり減ってきたことはおぼろげながら常に意識するようにはなったが、それでもまだ心のどこかで永遠の命を授かっているような錯覚をもっているように思う。そうでなくっちゃ、とてもこんなにダラダラ毎日を過ごせやしないはずだ・・。
もし今私に「イキガミ」が送られてきたら、いったい最後の24時間をどうすごすだろうか・・。思わずそんなことまで考えさせてしまう、なかなか芯の通ったいい映画だった。
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連休の狭間
シルバーウィークなどとは無縁の私でも、日曜だけは休みの昨日、妻の望みを聞き入れて名古屋駅のJR高島屋まで、「全国うまいもの博」なる催しに出かけた。これは毎週月曜から金曜まで朝5:20から放送されている「ズームイン!!SUPER」の中で紹介された日本全国のおいしいものを一堂に集めたもので、今月16日から22日まで開催されている。土曜に「明日何をしよう?」と妻に尋ねたところ、この催しに行って「焼きモンブラン」を買いたい、と言ったので、他に何も妙案が浮かばなかった私は一も二もなく賛同した。
しかし、高島屋の10階は人であふれていた。シルバーウィークなどと立派な名前がついた連休なんだから、多くの人が行楽地に出かけて都心は空いているのでないか、などと勝手に思い込んでいたのが全くの間違いだった。道は混んでいたし、駅前を歩く人もいつもより多い気がした。この不景気、そうそう遊んでいられるほど余裕のある人は多くないのかもしれない・・。だからといって、この混みようは尋常ではない。
なんとお目当ての商品を買うには20~30分並ばねばならないらしい。「並ぶの?」と私の問いに「うん」と答える妻に迷いはない。「じゃあ、おれはその辺をふらふらしてみる・・」と言ったものの、立錐の余地もないほど集まった人々の間を縫って歩くのは簡単ではない。人いきれに辟易しながら右往左往していたら、妻が並んでいる列に戻ってきた。「もうすぐだよ」と言う妻を傍から眺めていたら、あれこれ買いこんでいる。お目当ての「焼きモンブラン」以外にもおいしそうな物があるらしい。何だかよく分からないが、さすがの買いっぷりである・・。
目的を果たした妻は満足したようだったが、さすがにこれだけの人だかりの中で長い間いたら喉が渇いて当然だろう。立ち並ぶ店の中に「chocola n'est pa?」などと、フランス語らしき商品名が書かれた飲み物が売っていた。売り子さんに少しばかり説明してもらったが、さっぱり要を得ない。まあ、飲んでみれば分かるだろうと、私はライム味のものを頼んでみた。
大阪の「ショコラティエパレドオール」という店の商品らしいが、簡単にいえば、「スプライト」という炭酸飲料に少しばかりチョコの味を混ぜた飲み物、そんな印象を受けた。おいしいかと言われれば、わざわざ500円出してまで飲む価値はないというのが正直な感想だった。
ならば、東京「エコール クリオロ」の「焼きモンブラン」はどうだろう?家に帰って早速食べ始めた妻に一切れもらった。
う~ん・・、特別おいしくもないなあ。もともと私がモンブラン好きじゃないからかもしれないが・・。
しかし、高島屋の10階は人であふれていた。シルバーウィークなどと立派な名前がついた連休なんだから、多くの人が行楽地に出かけて都心は空いているのでないか、などと勝手に思い込んでいたのが全くの間違いだった。道は混んでいたし、駅前を歩く人もいつもより多い気がした。この不景気、そうそう遊んでいられるほど余裕のある人は多くないのかもしれない・・。だからといって、この混みようは尋常ではない。
なんとお目当ての商品を買うには20~30分並ばねばならないらしい。「並ぶの?」と私の問いに「うん」と答える妻に迷いはない。「じゃあ、おれはその辺をふらふらしてみる・・」と言ったものの、立錐の余地もないほど集まった人々の間を縫って歩くのは簡単ではない。人いきれに辟易しながら右往左往していたら、妻が並んでいる列に戻ってきた。「もうすぐだよ」と言う妻を傍から眺めていたら、あれこれ買いこんでいる。お目当ての「焼きモンブラン」以外にもおいしそうな物があるらしい。何だかよく分からないが、さすがの買いっぷりである・・。
目的を果たした妻は満足したようだったが、さすがにこれだけの人だかりの中で長い間いたら喉が渇いて当然だろう。立ち並ぶ店の中に「chocola n'est pa?」などと、フランス語らしき商品名が書かれた飲み物が売っていた。売り子さんに少しばかり説明してもらったが、さっぱり要を得ない。まあ、飲んでみれば分かるだろうと、私はライム味のものを頼んでみた。
大阪の「ショコラティエパレドオール」という店の商品らしいが、簡単にいえば、「スプライト」という炭酸飲料に少しばかりチョコの味を混ぜた飲み物、そんな印象を受けた。おいしいかと言われれば、わざわざ500円出してまで飲む価値はないというのが正直な感想だった。
ならば、東京「エコール クリオロ」の「焼きモンブラン」はどうだろう?家に帰って早速食べ始めた妻に一切れもらった。
う~ん・・、特別おいしくもないなあ。もともと私がモンブラン好きじゃないからかもしれないが・・。
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