毎日いろんなことで頭を悩ましながらも、明日のために頑張ろうと自分を励ましています。
疲れるけど、頑張ろう!
特技
先日父が名古屋の御園座へ、藤山直美の芝居を見に行ってきた。「妻をめとらば」という与謝野晶子と鉄幹夫婦を描いた芝居のようだが、期待して行った割にはあまり面白くなかったと言っていた。これは妻の妹が農協の関係で切符が手に入ったものを自分の母親と私の父に回してくれたものだった。食事がついてお土産までもらってという至れりつくせりの観劇だが、土産は私がもらった。松河屋老舗というところの饅頭の箱詰めだったため、甘いものには目のない私は喜んでもらった。箱をあけてみると中にみつ豆が入っていた。
これは冷やして食べたらおいしいだろうなと、早速冷蔵庫に冷やしておいたが、しばらく忘れていた。それを昨日になって思い出して食べてみた。
左は封を切ったそのままであるが、右は好みによって加えるために添付されている黒蜜を入れたものである。実はみつ豆は2つ入っていて、1つ目は黒蜜を加えず、もう1つには加えてみたのだが、私の好みを言えば、加えないほうが甘さがくどくない分さっぱりしておいしかったように思う。みかん、桃、キウイ、寒天、豆などがいずれもおいしくて、思わぬ拾い物をした気持ちになった。順番に食べていっても、どういうわけか最後に残ったのは、2回ともさくらんぼであった。
もちろん食べた、おいしかった。さくらんぼなんて本当に久しぶりに食べた。あまりに久しぶりなので、種を吐き出してそのまま捨ててしまうのもなんだかもったいない気がして、ちょっと種を口の中で遊ばせていた。すると、思い出した。私にはさくらんぼを使った特技があったんだ。種を吐き出して、軸を口の中に入れた。舌と前歯を微妙に駆使して軸を結んでみようとした。もう何年も、10年も、下手すりゃ20年近くもやっていなかったから自信はなかったが、もごもごしばらくやっていると、何とかできた!決してきれいではないが、一応の形は整ったと思う。
どうだ!と大見得を切れるほどの技ではない。世の中にはこれができる人などごまんといるだろう。またこんなことができたところで何の役にも立たないし、自慢できる代物でもない。しかし、私は久しぶりにやってみて成功した自分がうれしくて仕方なかった。だからこうしてブログの記事にしてしまったのだが、少しばかり晴れがましい気持ちでいる。
馬鹿だなあ・・・
これは冷やして食べたらおいしいだろうなと、早速冷蔵庫に冷やしておいたが、しばらく忘れていた。それを昨日になって思い出して食べてみた。
左は封を切ったそのままであるが、右は好みによって加えるために添付されている黒蜜を入れたものである。実はみつ豆は2つ入っていて、1つ目は黒蜜を加えず、もう1つには加えてみたのだが、私の好みを言えば、加えないほうが甘さがくどくない分さっぱりしておいしかったように思う。みかん、桃、キウイ、寒天、豆などがいずれもおいしくて、思わぬ拾い物をした気持ちになった。順番に食べていっても、どういうわけか最後に残ったのは、2回ともさくらんぼであった。
もちろん食べた、おいしかった。さくらんぼなんて本当に久しぶりに食べた。あまりに久しぶりなので、種を吐き出してそのまま捨ててしまうのもなんだかもったいない気がして、ちょっと種を口の中で遊ばせていた。すると、思い出した。私にはさくらんぼを使った特技があったんだ。種を吐き出して、軸を口の中に入れた。舌と前歯を微妙に駆使して軸を結んでみようとした。もう何年も、10年も、下手すりゃ20年近くもやっていなかったから自信はなかったが、もごもごしばらくやっていると、何とかできた!決してきれいではないが、一応の形は整ったと思う。
どうだ!と大見得を切れるほどの技ではない。世の中にはこれができる人などごまんといるだろう。またこんなことができたところで何の役にも立たないし、自慢できる代物でもない。しかし、私は久しぶりにやってみて成功した自分がうれしくて仕方なかった。だからこうしてブログの記事にしてしまったのだが、少しばかり晴れがましい気持ちでいる。
馬鹿だなあ・・・
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人のなきあと
従兄弟が7月7日に亡くなった。2ヶ月ほど前に結婚式の記事を載せた、花嫁の父だ。その死について何も書くことは今はできない。葬儀を終えた今、己の心象を書き留めようと思ったのだが、気持ちがまとまらない。ただ、吉田兼好の「徒然草」の一節が頭について離れないので、書き留めておく。
人 の亡き跡ばかり、悲しきはなし。
中陰のほど、山里などに移ろひて、便あしく、狭き所にあまたあひ居て、後のわざども営み合へる、心あわたゝし。日数の速く過ぐるほどぞ、ものにも似ぬ。果ての日は、いと情なう、たがひに言ふ事もなく、我賢げに物ひきしたゝめ、ちりぢりに行きあかれぬ。もとの住みかに帰りてぞ、さらに悲しき事は多かるべき。「しかしかのことは、あなかしこ、跡のため忌むなることぞ」など言へるこそ、かばかりの中に何かはと、人の心はなほうたて覚ゆれ。
年月経ても、つゆ忘るゝにはあらねど、去る者は日々に疎しと言へることなれば、さはいへど、その際ばかりは覚えぬにや、よしなし事いひて、うちも笑ひぬ。骸は気うとき山の中にをさめて、さるべき日ばかり詣でつゝ見れば、ほどなく、卒都婆も苔むし、木の葉降り埋みて、夕べの嵐、夜の月のみぞ、こととふよすがなりける。
思ひ出でて偲ぶ人あらんほどこそあらめ、そもまたほどなく失せて、聞き伝ふるばかりの末々は、あはれとやは思ふ。さるは、跡とふわざも絶えぬれば、いづれの人と名をだに知らず、年々の春の草のみぞ、心あらん人はあはれと見るべきを、果ては、嵐に咽びし松も千年を待たで薪に摧かれ、古き墳は犂かれて田となりぬ。その形だになくなりぬるぞ悲しき。
(現代語訳)
人 が死んだら、すごく悲しい。
四十九日間、山小屋にこもって、不便で狭い所にたくさんの人がすし詰めにさせられて法事をすませていると、せかされている感じもしてしまう。その時間の過ぎていく早さといったら、言葉では表現できない。最後の四十九日目には、お互い気まずくなって口もきかなくなり、涼しい顔をして荷造りをすませ、蜘蛛の子を散らすように帰っていく。もとの家に帰ってからが、本当に悲しい気持ちになるってことが多いと思う。それでも、「今回はとんでもないことになった。ああ、不吉だ、いやだ。もう忘れてしまおう」なんて言っているのを聞いてしまうと、こんなばかばかしい世の中で、どうして「不吉」なんて言うのかなと思ってしまう。亡くなった人にたいして言葉をつつしんで、忘れようとするのは悲しいじゃないか。心の底から、下品だと思ってしまう。
だんだん時間が過ぎていって、全く忘却をきめこむわけではないにしても「去っていった者は、だんだん煩わしくなるものだ」という古詩みたい忘れていく。口では「悲しい」とか「淋しい」とか何とでも言える。でも、死んだときほどは悲しくないはずだ。それでいて、どうでもいいことを呟きながらながら、にやにやしている。骨壷は、辺鄙なところに埋まっており、遺族は命日になると事務的にお参りをする。たいてい墓石は苔と枯れ葉に抱かれてる。夕方の嵐や、夜のお月さまだけは、時間を作ってたまにお参りをするというのに。
死んだ人を懐かしく思う人がいる、しかし、その人もそのうち死ぬ。その後の子孫とかは、昔死んだ人の話なんか聞いても面白くもなんともない。そのうち、だれの法事かよくわからない法事が流れ作業で処理されていく。年月の輪廻を知らないで毎年生えてくる春草を見て、感受性が豊かな人が何となくときめく程度であろう。嵐と恋して泣いていた松も、千年の寿命を全うせずに、薪としてばらばらに解体され、古墳は耕されて田んぼになる。死んだ人が、死んだことすら葬られていくなんて。
合掌。
人 の亡き跡ばかり、悲しきはなし。
中陰のほど、山里などに移ろひて、便あしく、狭き所にあまたあひ居て、後のわざども営み合へる、心あわたゝし。日数の速く過ぐるほどぞ、ものにも似ぬ。果ての日は、いと情なう、たがひに言ふ事もなく、我賢げに物ひきしたゝめ、ちりぢりに行きあかれぬ。もとの住みかに帰りてぞ、さらに悲しき事は多かるべき。「しかしかのことは、あなかしこ、跡のため忌むなることぞ」など言へるこそ、かばかりの中に何かはと、人の心はなほうたて覚ゆれ。
年月経ても、つゆ忘るゝにはあらねど、去る者は日々に疎しと言へることなれば、さはいへど、その際ばかりは覚えぬにや、よしなし事いひて、うちも笑ひぬ。骸は気うとき山の中にをさめて、さるべき日ばかり詣でつゝ見れば、ほどなく、卒都婆も苔むし、木の葉降り埋みて、夕べの嵐、夜の月のみぞ、こととふよすがなりける。
思ひ出でて偲ぶ人あらんほどこそあらめ、そもまたほどなく失せて、聞き伝ふるばかりの末々は、あはれとやは思ふ。さるは、跡とふわざも絶えぬれば、いづれの人と名をだに知らず、年々の春の草のみぞ、心あらん人はあはれと見るべきを、果ては、嵐に咽びし松も千年を待たで薪に摧かれ、古き墳は犂かれて田となりぬ。その形だになくなりぬるぞ悲しき。
(現代語訳)
人 が死んだら、すごく悲しい。
四十九日間、山小屋にこもって、不便で狭い所にたくさんの人がすし詰めにさせられて法事をすませていると、せかされている感じもしてしまう。その時間の過ぎていく早さといったら、言葉では表現できない。最後の四十九日目には、お互い気まずくなって口もきかなくなり、涼しい顔をして荷造りをすませ、蜘蛛の子を散らすように帰っていく。もとの家に帰ってからが、本当に悲しい気持ちになるってことが多いと思う。それでも、「今回はとんでもないことになった。ああ、不吉だ、いやだ。もう忘れてしまおう」なんて言っているのを聞いてしまうと、こんなばかばかしい世の中で、どうして「不吉」なんて言うのかなと思ってしまう。亡くなった人にたいして言葉をつつしんで、忘れようとするのは悲しいじゃないか。心の底から、下品だと思ってしまう。
だんだん時間が過ぎていって、全く忘却をきめこむわけではないにしても「去っていった者は、だんだん煩わしくなるものだ」という古詩みたい忘れていく。口では「悲しい」とか「淋しい」とか何とでも言える。でも、死んだときほどは悲しくないはずだ。それでいて、どうでもいいことを呟きながらながら、にやにやしている。骨壷は、辺鄙なところに埋まっており、遺族は命日になると事務的にお参りをする。たいてい墓石は苔と枯れ葉に抱かれてる。夕方の嵐や、夜のお月さまだけは、時間を作ってたまにお参りをするというのに。
死んだ人を懐かしく思う人がいる、しかし、その人もそのうち死ぬ。その後の子孫とかは、昔死んだ人の話なんか聞いても面白くもなんともない。そのうち、だれの法事かよくわからない法事が流れ作業で処理されていく。年月の輪廻を知らないで毎年生えてくる春草を見て、感受性が豊かな人が何となくときめく程度であろう。嵐と恋して泣いていた松も、千年の寿命を全うせずに、薪としてばらばらに解体され、古墳は耕されて田んぼになる。死んだ人が、死んだことすら葬られていくなんて。
合掌。
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妻のPC
妻のPCの調子がよくないらしい。電源を入れても、立ち上がる場合と、立ち上がらない場合が半々ぐらいで、困っていた。自分の知っている限りの応急処置は色々してみたのだが、なかなかうまくいかないらしい。私に説明しようとするが、聞いてもよく分からないので聞き流していると怒り出す。「まったく、私のことだといつでもそうやっていい加減なんだから!」などと言われても分からないものにはコメントの仕様がない。ただ、電気屋へ連れて行くことくらいしかできなかった。
私たちが出向いた電気店は、大型量販店ではなく、市内ではいくつかの店舗を抱える中規模の家電屋であるが、機器についての知識が豊かな店員が多く、修理などの対応もしっかりしているので、最近はこの店ばかりを利用している。妻がPCの状態を説明している間、私は店内の大型TVに映し出されるメジャーリーグの映像を見ていた。ちょうど、ヤンキースとメッツのサブウエイシリーズが行われている日だった。メジャーの試合を見るのも久しぶりだったので、なんだか懐かしい気持ちで眺めていた。松井が復帰すれば、またTVに釘付けになるだろうなと思っていたら、妻の方は話がまとまったようだ。
妻によると、彼女のPCはどうもはハードディスクが悪くなっているようで、ハードディスクを代えなければならないらしい。そのためには、データを取り出しておかなければならないが、果たしてそれができるだろうかと妻は心配している。妻のPCには塾の会計ソフトが入っていて、税務関係がすべて収められているため、もし取り出せないと困ったことになると顔をしかめた。そうした万一のために備えて、仕事用にPCを使う場合には、もう1台あるといろんな面で困らない、と店員に言われたらしくカタログを手にしている。KOUZIROUという会社のFRONTIERという業務用のPCで、ハードディスクやメモリーの大きさを選ぶことができ、ソフトも必要最小限だけ選べるようになっている。妻が食指を動かしたのは、ノートパソコンで、CPUはインテルCeleron M プロセッサ 360J、OSはWINDOWS XP HOME EDITION、 メモリは512MB、HDDは60GB、ディスプレイは15型TFT液晶というものだ。これに、ワードとエクセルを入れ、5年の保証をつけて12万円程度で買えるらしい。
「そんなに安くて大丈夫なの?」と私が店員に聞くと、「ヤマダ電機と一緒になってやっている商品だから大丈夫ですよ。デルよりOKです」などとよく分からない理由を言ってくるのでちょっと心配になったが、この店なら変なものは売らないはずだという安心感があるので、注文することになった。一週間程度かかるそうだが、新しいPCがきたら、調子の悪くなったPCの修理をしてもらう手はずになっている。その電気店で直せるかもしれない範囲だったら、それほど費用もかからずに済みそうなので、そうあってほしいと願っている。
でも、機械は調子が悪くなっても、その悪くなったパーツだけを交換すれば元通りに動くようになる。最悪、新品に換えてしまえば不自由はしない。妻も今までのPCはおりこうさんだから、と愛着のあるようなことを言うが、新しくて性能のよいPCを使い出したら、きっとそんなことは言わなくなるだろう。
しかし、人間はそういうわけには行かない。例えば癌に侵されてしまった臓器はおいそれと交換できないし、交換しようにも手遅れの場合だって往々にしてある。そうすると、座して死を待つしかなくなるのだが、その過程は本人も家族も苦しみや悲しみにあふれている。自分が機械でないことはありがたいことではあるが、「機械であれれよかし」、と思わずにはいられない日が遠からずやってくるかもしれないと思うと、なんともいえない気持ちになる。
私たちが出向いた電気店は、大型量販店ではなく、市内ではいくつかの店舗を抱える中規模の家電屋であるが、機器についての知識が豊かな店員が多く、修理などの対応もしっかりしているので、最近はこの店ばかりを利用している。妻がPCの状態を説明している間、私は店内の大型TVに映し出されるメジャーリーグの映像を見ていた。ちょうど、ヤンキースとメッツのサブウエイシリーズが行われている日だった。メジャーの試合を見るのも久しぶりだったので、なんだか懐かしい気持ちで眺めていた。松井が復帰すれば、またTVに釘付けになるだろうなと思っていたら、妻の方は話がまとまったようだ。
妻によると、彼女のPCはどうもはハードディスクが悪くなっているようで、ハードディスクを代えなければならないらしい。そのためには、データを取り出しておかなければならないが、果たしてそれができるだろうかと妻は心配している。妻のPCには塾の会計ソフトが入っていて、税務関係がすべて収められているため、もし取り出せないと困ったことになると顔をしかめた。そうした万一のために備えて、仕事用にPCを使う場合には、もう1台あるといろんな面で困らない、と店員に言われたらしくカタログを手にしている。KOUZIROUという会社のFRONTIERという業務用のPCで、ハードディスクやメモリーの大きさを選ぶことができ、ソフトも必要最小限だけ選べるようになっている。妻が食指を動かしたのは、ノートパソコンで、CPUはインテルCeleron M プロセッサ 360J、OSはWINDOWS XP HOME EDITION、 メモリは512MB、HDDは60GB、ディスプレイは15型TFT液晶というものだ。これに、ワードとエクセルを入れ、5年の保証をつけて12万円程度で買えるらしい。
「そんなに安くて大丈夫なの?」と私が店員に聞くと、「ヤマダ電機と一緒になってやっている商品だから大丈夫ですよ。デルよりOKです」などとよく分からない理由を言ってくるのでちょっと心配になったが、この店なら変なものは売らないはずだという安心感があるので、注文することになった。一週間程度かかるそうだが、新しいPCがきたら、調子の悪くなったPCの修理をしてもらう手はずになっている。その電気店で直せるかもしれない範囲だったら、それほど費用もかからずに済みそうなので、そうあってほしいと願っている。
でも、機械は調子が悪くなっても、その悪くなったパーツだけを交換すれば元通りに動くようになる。最悪、新品に換えてしまえば不自由はしない。妻も今までのPCはおりこうさんだから、と愛着のあるようなことを言うが、新しくて性能のよいPCを使い出したら、きっとそんなことは言わなくなるだろう。
しかし、人間はそういうわけには行かない。例えば癌に侵されてしまった臓器はおいそれと交換できないし、交換しようにも手遅れの場合だって往々にしてある。そうすると、座して死を待つしかなくなるのだが、その過程は本人も家族も苦しみや悲しみにあふれている。自分が機械でないことはありがたいことではあるが、「機械であれれよかし」、と思わずにはいられない日が遠からずやってくるかもしれないと思うと、なんともいえない気持ちになる。
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「詩の道しるべ」
「詩の道しるべ」という本を買った。詩について勉強しようと思ったのではない。作者が柴田翔だから買ったのだ。柴田翔といえば「されどわれらが日々―」の作者である。高校生のときに読んだこの本の内容は今ではもうほとんど忘れてしまっている。学生運動に挫折した若者の話だったというおぼろげな記憶しかない。だが、当時の私には深い感銘を与えた小説である。「二十歳の原点」と並んで通過儀礼のような本だったのだろうが、それに素直に感動した私は、やはり純粋だったのかもしれない。今なら、そんな誰もが薦めるような本など読めるか、とそっぽを向くに決まっている。
その柴田翔が書いた本だから、読まずにいられない。彼の作品としては「贈る言葉」も読んだはすだが、それ以来ほとんど彼の名を目にすることはなかった。作家活動を休止していたわけではないようだが、東京都立大学や東京大学でゲーテを中心にドイツ文学を教えていたそうだ。1995年から共立女子大で「詩を読む」という授業を担当した経験を基にして本書が書かれたと「あとがき」にある。そうした経験を通して、「詩の楽しみ方」を次のように書いている。
詩を読む楽しみは、詩のことばにつられて自分の心の振幅が大きくなり、空間が拡がり、自分に見えなかった風景が見えるようになり、自分が自由に、伸びやかになって行くことを実感するところにあります。大事なのは自分から抜け出ること。いま現在の自分の心の在りように執着して、それをそのまま肯定する材料を探すために詩を読むのでは、詩を読む甲斐はありません
こだわらない心で詩を読むとき、詩は楽しいものになります。
そうした心をもって、彼が好きな詩を数編取り上げて、それらの楽しみ方を教えてくれている。私はその中でも、1976年生まれの詩人、小野省子の「がんばらなくちゃ」という詩に心を動かされた。
「がんばらなくちゃ」 小野省子
かんたんなことを
むずかしく言うのは
かんたんだけど
むずかしいことを
かんたんに言うのは
むずかしい
何でもないことを
悲しく言うのは
何でもないけど
悲しいことを
何でもないように
言うのは苦しい
素直って言うのは
ありのままということだけど
私はがんばらなくちゃ
素直にはなれない
この詩を柴田が言うように「ゆっくり、ふつうに、声に出して、一つ一つのことばの意味を心に描きながら、その意味が」少し離れたところに「いる人にまで、ちゃんと届くように」、読んでみよう。
そうやって、自分の心にどんなイメージが浮かび上がってくるかを見るのは、その日の己の心のありようを知る有効な術であるように思う。
その柴田翔が書いた本だから、読まずにいられない。彼の作品としては「贈る言葉」も読んだはすだが、それ以来ほとんど彼の名を目にすることはなかった。作家活動を休止していたわけではないようだが、東京都立大学や東京大学でゲーテを中心にドイツ文学を教えていたそうだ。1995年から共立女子大で「詩を読む」という授業を担当した経験を基にして本書が書かれたと「あとがき」にある。そうした経験を通して、「詩の楽しみ方」を次のように書いている。
詩を読む楽しみは、詩のことばにつられて自分の心の振幅が大きくなり、空間が拡がり、自分に見えなかった風景が見えるようになり、自分が自由に、伸びやかになって行くことを実感するところにあります。大事なのは自分から抜け出ること。いま現在の自分の心の在りように執着して、それをそのまま肯定する材料を探すために詩を読むのでは、詩を読む甲斐はありません
こだわらない心で詩を読むとき、詩は楽しいものになります。
そうした心をもって、彼が好きな詩を数編取り上げて、それらの楽しみ方を教えてくれている。私はその中でも、1976年生まれの詩人、小野省子の「がんばらなくちゃ」という詩に心を動かされた。
「がんばらなくちゃ」 小野省子
かんたんなことを
むずかしく言うのは
かんたんだけど
むずかしいことを
かんたんに言うのは
むずかしい
何でもないことを
悲しく言うのは
何でもないけど
悲しいことを
何でもないように
言うのは苦しい
素直って言うのは
ありのままということだけど
私はがんばらなくちゃ
素直にはなれない
この詩を柴田が言うように「ゆっくり、ふつうに、声に出して、一つ一つのことばの意味を心に描きながら、その意味が」少し離れたところに「いる人にまで、ちゃんと届くように」、読んでみよう。
そうやって、自分の心にどんなイメージが浮かび上がってくるかを見るのは、その日の己の心のありようを知る有効な術であるように思う。
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武勇伝3
このところ、父と息子の武勇伝(?)を続けて書き記したが、とうとう私にも披露することのできる武勇伝ができた。うれしい。さっそく書く。
塾の手伝いをしてくれている大学生が、最近送迎用のバスの中に大きなハチがよく入り込んでいるので、車庫のあたりを調べてほしいと言ってきた。窓を開け放しておくと必ずといっていいほどハチがいるそうだ。毎回追い出してから車を出しているが、生徒が刺されても困るからすぐに調べてくれと言った。それは大変と、翌日になってバスの置いてある車庫を調べてみたら、あった!車庫の天井に直径5~6cmのハチの巣が1つ見つかった。巣は小さなものだが、大きなハチが一匹と小さなハチが一匹、巣のそばで羽をぶんぶんいわせている。
はっきり言ってびびった。こんな大きなハチはなかなか見たことがない。スズメバチなんだろうが、大きな体全体が赤黒く光っていて、羽音で威嚇している。どうしようかとためらったが、ぐずぐずしている時間はなかったので、度胸を決めて自分で退治することにした。そのために殺虫剤を取りに行った。殺虫剤を巣めがけて散布して、巣から離れない大きなハチをやっつけようと考えたのだ。
殺虫剤をおよそ1本使い果たした。小さいハチはすぐに飛び去ったが、大きなハチはなかなか離れようとしない。女王蜂なのだろうか?よくは分からないが、こちらももう後には引けない。まだか、まだかとぶつぶつ言いながらも、いつ襲ってくるかもしれないので、逃げる用意だけはしていた。緊張して胃が痛くなり始めたが、そのとき我慢できなくなったハチがぽとりと落ちた。
しばらくはぶんぶん羽を鳴らしながら苦しんでいたが、ようやく事切れたようだ。殺虫剤の恐ろしさを実感したが、これで安心だと思って、棒でハチの巣を叩き落した。
ハチの巣はいつ見ても美しい形をしている。これほどの芸術品とさえ呼べるものをハチが作り上げるのも自然の神秘だ。敬意を表しながら、ばらしてみた。言うまでもなくハチの子を見つけるためである。すると、大きなやつが2つ見つかった。
大きかった。以前酔っ払っていたときに、食べてみろと差し出されたハチの子を面白半分で生のまま食べたことがある。噛み潰すと、ぷちっと、中のものが口中にひろがっでなんとも言えなかったが、食べられないものではなかった。今回も蛮勇を奮って食べてやろうかなと一瞬思ったが、自分であれほど殺虫剤をかけたものから出てきたのをさすがに食べることはできないと思い直した。
ああ、それにしても無事退治できてよかった。ほっとした。
塾の手伝いをしてくれている大学生が、最近送迎用のバスの中に大きなハチがよく入り込んでいるので、車庫のあたりを調べてほしいと言ってきた。窓を開け放しておくと必ずといっていいほどハチがいるそうだ。毎回追い出してから車を出しているが、生徒が刺されても困るからすぐに調べてくれと言った。それは大変と、翌日になってバスの置いてある車庫を調べてみたら、あった!車庫の天井に直径5~6cmのハチの巣が1つ見つかった。巣は小さなものだが、大きなハチが一匹と小さなハチが一匹、巣のそばで羽をぶんぶんいわせている。
はっきり言ってびびった。こんな大きなハチはなかなか見たことがない。スズメバチなんだろうが、大きな体全体が赤黒く光っていて、羽音で威嚇している。どうしようかとためらったが、ぐずぐずしている時間はなかったので、度胸を決めて自分で退治することにした。そのために殺虫剤を取りに行った。殺虫剤を巣めがけて散布して、巣から離れない大きなハチをやっつけようと考えたのだ。
殺虫剤をおよそ1本使い果たした。小さいハチはすぐに飛び去ったが、大きなハチはなかなか離れようとしない。女王蜂なのだろうか?よくは分からないが、こちらももう後には引けない。まだか、まだかとぶつぶつ言いながらも、いつ襲ってくるかもしれないので、逃げる用意だけはしていた。緊張して胃が痛くなり始めたが、そのとき我慢できなくなったハチがぽとりと落ちた。
しばらくはぶんぶん羽を鳴らしながら苦しんでいたが、ようやく事切れたようだ。殺虫剤の恐ろしさを実感したが、これで安心だと思って、棒でハチの巣を叩き落した。
ハチの巣はいつ見ても美しい形をしている。これほどの芸術品とさえ呼べるものをハチが作り上げるのも自然の神秘だ。敬意を表しながら、ばらしてみた。言うまでもなくハチの子を見つけるためである。すると、大きなやつが2つ見つかった。
大きかった。以前酔っ払っていたときに、食べてみろと差し出されたハチの子を面白半分で生のまま食べたことがある。噛み潰すと、ぷちっと、中のものが口中にひろがっでなんとも言えなかったが、食べられないものではなかった。今回も蛮勇を奮って食べてやろうかなと一瞬思ったが、自分であれほど殺虫剤をかけたものから出てきたのをさすがに食べることはできないと思い直した。
ああ、それにしても無事退治できてよかった。ほっとした。
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ラジオ
TVを見なくなった。本当に見ない。時間がないというのが一番の理由だが、見たいと思うような番組がないというのも大きな原因だろう。たまに見ているときでも、すぐにつまらなくなってチャンネルを変えてしまう。ネットサーフィンどころか、チャンネルサーフィンのような状態になってしまって、最後にはいやになって切ってしまう。TVなど見なくても、新聞やネットで色々情報は手に入るため困ったりすることはあまりない。さらに私には、ラジオという強い味方がいる。と言っても普段からラジオを聴いているわけではない。塾バスで時々生徒が乗っていないときにラジオをつけて聴くだけだ。しかし、なかなか面白い番組が多くて、このブログの記事のヒントも、ラジオからもらったものが結構ある。そう思うと、ラジオは私にとって貴重な情報源である。
バスではFM放送が聴けないため、AM放送を聴いているのだが、もっぱら地元の民放局CBCとNHKの二局を聴いている。CBCラジオは、日本で最初に開局した民放ラジオ局だそうで、今年開局55周年になるといい、積極的にキャンペーンを展開している。ビートルズを日本に招いたのもこのCBCだそうで、ことあるごとにアナウンサーが自慢する。バスに乗っているときにしか聴かないため、決まった番組しか聴かないが、午後4時前の「小沢正一的こころ」、夜の11時からの「バトルトーク」はよく聴く。いずれもキー局制作の番組なんだろうが、なかなか面白い。毎日昼の12時半から放送される「カトレアミュージック」は、CBC制作の番組だが、特に土曜はリクエストデーとなっていて、洋楽・邦楽、年代などを問わない選曲のため、バリエーションに富んだ曲が流れ、毎週楽しみに聴いている。私が「ラジオで聞いた曲だが・・」などと紹介するのはたいていこの番組で流された曲である。単に曲が流されるだけでなく、それにまつわる話も紹介されることが多く、「へえ、そうなんだ」と思うこともしばしばだ。
NHKは「ラジオ深夜便」を聴くことが多い。10分も聴いていない場合がほとんどだが、印象に残る話も多く、そこでの話を参考にしてブログの記事を書くこともある。映像が見えないだけ、話をしっかり聴こうとしているのか、ラジオのほうがTVよりも内容がよく伝わってくる。TVだと、最近は出演者の話をテロップで流すことが多く、どうしても耳で聞くのではなく文字を目で追ってしまう。本来話し手の言葉の微妙な抑揚などでその人の考えを忖度するものなのに、そうした努力をせずに直接言葉だけを読もうとしてしまう。それは、演劇の舞台を見ずに脚本だけを読んでその演劇を評価するようなものだ。あのテロップはやめてほしいといつも思う。
しかし、北朝鮮によるテポドン2号を含むミサイル7発の発射のような重大事件が起こると、どうしてもTVに釘付けになってしまう。最新の情報を簡単に得られることもあるだろうが、耳だけでなく目による情報の確認も必要になるのかもしれない。たとえ何年か前のミサイル発射の映像を繰り返されるだけでも、事態の切迫感が増してきてなかなかTVを離れることができない。そういう意味で、TVの持つ影響力の大きさは計り知れないものがあるだろう。自分で見ていても、あんなのがわが町に飛んで来たらどうなるだろうと、心配せずにいられなかった。報道には常に批判的な精神を持たねばならぬと肝に銘じている私であるが、こうした重大事件の前では報道を鵜呑みにしてしまいそうになる自分に気がついた。常に冷静に物事が判断できるようにしなければいけない。
ワールドカップはいよいよ大団円を迎える。果たして優勝は?・・・いつまでもスポーツを楽しめる世界が続いていってほしいと改めて思う。
バスではFM放送が聴けないため、AM放送を聴いているのだが、もっぱら地元の民放局CBCとNHKの二局を聴いている。CBCラジオは、日本で最初に開局した民放ラジオ局だそうで、今年開局55周年になるといい、積極的にキャンペーンを展開している。ビートルズを日本に招いたのもこのCBCだそうで、ことあるごとにアナウンサーが自慢する。バスに乗っているときにしか聴かないため、決まった番組しか聴かないが、午後4時前の「小沢正一的こころ」、夜の11時からの「バトルトーク」はよく聴く。いずれもキー局制作の番組なんだろうが、なかなか面白い。毎日昼の12時半から放送される「カトレアミュージック」は、CBC制作の番組だが、特に土曜はリクエストデーとなっていて、洋楽・邦楽、年代などを問わない選曲のため、バリエーションに富んだ曲が流れ、毎週楽しみに聴いている。私が「ラジオで聞いた曲だが・・」などと紹介するのはたいていこの番組で流された曲である。単に曲が流されるだけでなく、それにまつわる話も紹介されることが多く、「へえ、そうなんだ」と思うこともしばしばだ。
NHKは「ラジオ深夜便」を聴くことが多い。10分も聴いていない場合がほとんどだが、印象に残る話も多く、そこでの話を参考にしてブログの記事を書くこともある。映像が見えないだけ、話をしっかり聴こうとしているのか、ラジオのほうがTVよりも内容がよく伝わってくる。TVだと、最近は出演者の話をテロップで流すことが多く、どうしても耳で聞くのではなく文字を目で追ってしまう。本来話し手の言葉の微妙な抑揚などでその人の考えを忖度するものなのに、そうした努力をせずに直接言葉だけを読もうとしてしまう。それは、演劇の舞台を見ずに脚本だけを読んでその演劇を評価するようなものだ。あのテロップはやめてほしいといつも思う。
しかし、北朝鮮によるテポドン2号を含むミサイル7発の発射のような重大事件が起こると、どうしてもTVに釘付けになってしまう。最新の情報を簡単に得られることもあるだろうが、耳だけでなく目による情報の確認も必要になるのかもしれない。たとえ何年か前のミサイル発射の映像を繰り返されるだけでも、事態の切迫感が増してきてなかなかTVを離れることができない。そういう意味で、TVの持つ影響力の大きさは計り知れないものがあるだろう。自分で見ていても、あんなのがわが町に飛んで来たらどうなるだろうと、心配せずにいられなかった。報道には常に批判的な精神を持たねばならぬと肝に銘じている私であるが、こうした重大事件の前では報道を鵜呑みにしてしまいそうになる自分に気がついた。常に冷静に物事が判断できるようにしなければいけない。
ワールドカップはいよいよ大団円を迎える。果たして優勝は?・・・いつまでもスポーツを楽しめる世界が続いていってほしいと改めて思う。
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お出かけ
火曜日、久しぶりに名古屋へ買い物に出かけた。7月1日が双子の甥と姪の2歳の誕生日だったので、遅れてしまったがお誕生日プレゼントを買うのが主な目的で出かけた。こんなことでもない限り、なかなか出かけることもできないので、いいきっかけだったと思う。
いつもとは違う道を通っていったので、しばらくぶりに見る町並みが微妙に変っているのに気づいた。こてこてした色使いをした品のない建物が増えたような気がして嫌な気がしたが、まあ、せっかくのお出かけ、あまり気にしないでおこうと、妻と下らぬことを話しながら運転していった。
途中立ち寄ったコンビニではっと思った。先日、竜虎の母さんがご自分のブログで探しておられた伊藤園の「ジャスミン茶」がひょっとしたらないだろうかと思い出した。探してみたが、さすがに見つけることはできなかった。その代わりに、同じ伊東園の「さんぴん茶」なるものを見つけた。
「沖縄ジャスミン茶」と言うものらしいが、ためしに買って飲んでみた。「緑茶の味わいと花の香りがさっぱりとした飲みごこち」とラベルに書いてあるとおり、口に含んだ瞬間はジャスミン茶の味がほのかにするが、後味はさっぱりしている。まあまあおいしいが、果たして母さんのお口に合うだろうか。よければ一度お試しあれ。
デパートで子供たちの服はさほど迷わずに買えた。ラルフローレンの服は高いけれど、やはり可愛い。きっと似合うだろうなと勝手な想像をしながら奮発してみた。
子供の服さえ買えば目的は果たしたから、さあ、昼食だ。暑い日だったが、味噌煮込みうどんが食べたくなった。「山本屋」に入って、「天ぷら味噌煮込み・卵入り」の「一半(大盛)」を注文した。
この店のうどんはかたい。かたくて噛み切るのに少し力が要るが、中まで味噌味がしみこんでいて、見事に一体化している。店によっては、味噌汁の中にうどんをぶち込んだだけのようなばらばらの味をした味噌煮込みを出すところもあるが、さすがにこの「山本屋」の味噌煮込みは天下一品だ。座った席がエアコンの風がよくあたるところだったため、最初は寒いくらいだったが、食べ終わるころには少し額に汗が出るほどだった。久しぶりに食べたが本当においしかった。
食後は妻の買い物に少し付き合わされたが、大事なことを思い出した。2日ほど前にこのブログで紹介した「プリザーブドフラワー」の店が、このデパートに入っている。どんな花なのか実際に見に行ってみたくなって、行ってみた。改装したばかりできれいな建物の中にある店の一角に、きれいに展示してあった。
なんとこの小さな1鉢が 5,250円!さすがに携帯のカメラで何枚も撮るのは気が引けたので1枚だけにしておいたが、これが一番安かった。あとは 8,400円か 10,000円を超えるものばかりだった。妻がこっそりと花びらを触って、「生花の感触だ」と驚いていたが、においは何もしなかったと言う。「高いなあ」と私が言うと、「記念品なんかにもらったら、枯れないからいいかもね」と答えた。「なら、結婚記念日に買った黄色いバラとこの花とでは、どちらがいい?」と聞き返すと、「そりゃあ、あのバラだわ」と答えた。
そうでなけりゃいけない、満足。
いつもとは違う道を通っていったので、しばらくぶりに見る町並みが微妙に変っているのに気づいた。こてこてした色使いをした品のない建物が増えたような気がして嫌な気がしたが、まあ、せっかくのお出かけ、あまり気にしないでおこうと、妻と下らぬことを話しながら運転していった。
途中立ち寄ったコンビニではっと思った。先日、竜虎の母さんがご自分のブログで探しておられた伊藤園の「ジャスミン茶」がひょっとしたらないだろうかと思い出した。探してみたが、さすがに見つけることはできなかった。その代わりに、同じ伊東園の「さんぴん茶」なるものを見つけた。
「沖縄ジャスミン茶」と言うものらしいが、ためしに買って飲んでみた。「緑茶の味わいと花の香りがさっぱりとした飲みごこち」とラベルに書いてあるとおり、口に含んだ瞬間はジャスミン茶の味がほのかにするが、後味はさっぱりしている。まあまあおいしいが、果たして母さんのお口に合うだろうか。よければ一度お試しあれ。
デパートで子供たちの服はさほど迷わずに買えた。ラルフローレンの服は高いけれど、やはり可愛い。きっと似合うだろうなと勝手な想像をしながら奮発してみた。
子供の服さえ買えば目的は果たしたから、さあ、昼食だ。暑い日だったが、味噌煮込みうどんが食べたくなった。「山本屋」に入って、「天ぷら味噌煮込み・卵入り」の「一半(大盛)」を注文した。
この店のうどんはかたい。かたくて噛み切るのに少し力が要るが、中まで味噌味がしみこんでいて、見事に一体化している。店によっては、味噌汁の中にうどんをぶち込んだだけのようなばらばらの味をした味噌煮込みを出すところもあるが、さすがにこの「山本屋」の味噌煮込みは天下一品だ。座った席がエアコンの風がよくあたるところだったため、最初は寒いくらいだったが、食べ終わるころには少し額に汗が出るほどだった。久しぶりに食べたが本当においしかった。
食後は妻の買い物に少し付き合わされたが、大事なことを思い出した。2日ほど前にこのブログで紹介した「プリザーブドフラワー」の店が、このデパートに入っている。どんな花なのか実際に見に行ってみたくなって、行ってみた。改装したばかりできれいな建物の中にある店の一角に、きれいに展示してあった。
なんとこの小さな1鉢が 5,250円!さすがに携帯のカメラで何枚も撮るのは気が引けたので1枚だけにしておいたが、これが一番安かった。あとは 8,400円か 10,000円を超えるものばかりだった。妻がこっそりと花びらを触って、「生花の感触だ」と驚いていたが、においは何もしなかったと言う。「高いなあ」と私が言うと、「記念品なんかにもらったら、枯れないからいいかもね」と答えた。「なら、結婚記念日に買った黄色いバラとこの花とでは、どちらがいい?」と聞き返すと、「そりゃあ、あのバラだわ」と答えた。
そうでなけりゃいけない、満足。
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初恋の来た道
中国映画「初恋の来た道」というDVDを見た。何ヶ月も前に買ってあったものだが、一昨日の日曜に見ることができた。「山の郵便配達」を見て以来、見たい気持ちが募っていただけに、やっと念願が果たせてうれしい。しかも、見てよかったと思えるからなおさらうれしい。
ストーリーは、「山の郵便配達」でもそうだが、単純なものだ。
中国華北の美しい村が舞台。都会で働く青年は、父の訃報を聞いてこの村に戻ってきた。母は、伝統の葬儀(出先でなくなった父の死体を車ではなく、担いで村まで運ぶ)をすると言って周囲を困らせる。石のように頑なな母の様子を見ながら息子は村の伝説となった父母の恋物語を思い出していく。
都会からやってきた若い教師に恋して、その想いを伝えようとする18歳の少女ディ(チャン・ツィイー)。手作りの料理の数々に込めた少女の恋心は、やがて彼のもとへと届くのだが、時代の波「文革」が押し寄せ二人は離れ離れになる。教師が戻ってくると約束した日に、少女は町へと続く一本道で愛する人を待ち続ける。しかし、教師は現れず、少女は高熱で倒れる。目覚めた少女は町まで教師を探し求めにいくが、また倒れてしまう。その報を聞きつけた教師が戻って来るが、無断であったため二人が結ばれたのは、その2年後・・・
現代のシーンがモノクロームで始まる。最愛の夫を亡くし、悲嘆にくれる母親。白黒の画面が愛惜を誘う。それが回想のシーンになると、一転してカラーの画面になり、若き日の母親の姿が現実感を帯びたものに見える。その手法に私は感じ入ったが、それからはもうただひたすら、チャン・ツィイーの可愛さだけに心を奪われてしまい、彼女の一途な恋心が実るようにと、それしか祈っていなかった。
教師のために腕によりをかけてご飯を作る彼女。教師の声を毎日聞くために学校の近くにある、家からは遠い井戸まで水汲みに通う彼女。教師が生徒を送っていくのを毎日待ってはすれ違うことで満足する彼女。三つ編みにした髪を振り乱しながら、教師を乗せて走る馬車を追う彼女。数え上げればきりがないほどの切ない場面ばかりで、胸がいっぱいになってしまった。冷静に考えれば、彼女の行動はストーカー行為といえなくもないが、映画を見ている間はそんなこと微塵も感じなかった。
チャン・ツィイーを見ていただけかと言われれば、確かにそうかもしれない。でも、それは、彼女が表象した純朴さというか、汚れのない心の美しさというものに私の心が射抜かれたからだということもできるだろう。いい年こいたオヤジが「いいなあ、可愛いなあ」、とぶつぶついいながら一人で見ていたのも変だが、それは清らかなものに対する一種のノスタルジーではなかっただろうか。
そういう私の感慨をより高めたのが、映し出される中国の悠久の大地であったこともまた確かであろう。日本の狭苦しい土地の描写では、決して味わえなかっただろう。人と自然、この2つがぴったりはまった映画はやはり素晴らしい。
ストーリーは、「山の郵便配達」でもそうだが、単純なものだ。
中国華北の美しい村が舞台。都会で働く青年は、父の訃報を聞いてこの村に戻ってきた。母は、伝統の葬儀(出先でなくなった父の死体を車ではなく、担いで村まで運ぶ)をすると言って周囲を困らせる。石のように頑なな母の様子を見ながら息子は村の伝説となった父母の恋物語を思い出していく。
都会からやってきた若い教師に恋して、その想いを伝えようとする18歳の少女ディ(チャン・ツィイー)。手作りの料理の数々に込めた少女の恋心は、やがて彼のもとへと届くのだが、時代の波「文革」が押し寄せ二人は離れ離れになる。教師が戻ってくると約束した日に、少女は町へと続く一本道で愛する人を待ち続ける。しかし、教師は現れず、少女は高熱で倒れる。目覚めた少女は町まで教師を探し求めにいくが、また倒れてしまう。その報を聞きつけた教師が戻って来るが、無断であったため二人が結ばれたのは、その2年後・・・
現代のシーンがモノクロームで始まる。最愛の夫を亡くし、悲嘆にくれる母親。白黒の画面が愛惜を誘う。それが回想のシーンになると、一転してカラーの画面になり、若き日の母親の姿が現実感を帯びたものに見える。その手法に私は感じ入ったが、それからはもうただひたすら、チャン・ツィイーの可愛さだけに心を奪われてしまい、彼女の一途な恋心が実るようにと、それしか祈っていなかった。
教師のために腕によりをかけてご飯を作る彼女。教師の声を毎日聞くために学校の近くにある、家からは遠い井戸まで水汲みに通う彼女。教師が生徒を送っていくのを毎日待ってはすれ違うことで満足する彼女。三つ編みにした髪を振り乱しながら、教師を乗せて走る馬車を追う彼女。数え上げればきりがないほどの切ない場面ばかりで、胸がいっぱいになってしまった。冷静に考えれば、彼女の行動はストーカー行為といえなくもないが、映画を見ている間はそんなこと微塵も感じなかった。
チャン・ツィイーを見ていただけかと言われれば、確かにそうかもしれない。でも、それは、彼女が表象した純朴さというか、汚れのない心の美しさというものに私の心が射抜かれたからだということもできるだろう。いい年こいたオヤジが「いいなあ、可愛いなあ」、とぶつぶついいながら一人で見ていたのも変だが、それは清らかなものに対する一種のノスタルジーではなかっただろうか。
そういう私の感慨をより高めたのが、映し出される中国の悠久の大地であったこともまた確かであろう。日本の狭苦しい土地の描写では、決して味わえなかっただろう。人と自然、この2つがぴったりはまった映画はやはり素晴らしい。
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プリザーブドフラワー
ラジオで、名古屋のデパートに入っている日比谷花壇の店長が、「プリザーブドフラワー」について説明していた。「プリザーブドフラーワー」というのは初めて聞く言葉だったので、いったいどんな花のことなのか注意して聞いていたのだが、はかばかしい説明をしてくれない。生花ではないことは分かった。ならば造花のことなのか、自然の花にはない色が出るとか、色が変わらないので贈り物には最適だとか話していたから、そうなのかもしれないと思った。しかし、それならなぜ「造花」といわずに「プリザーブドフラワー」などと面倒な言葉を使うのだろうか。単語として preserved flower のことなんだろうとは推測できた。preserve とは「保存する」という意味だから、「保存された花」というような意味なんだろう。それなら、やっぱり「造花」とは違うのではないかと、自分なりに結論付けてネットで検索してみた。
日比谷花壇のHPに、説明が載っていた。
「ドライフラワーや造花とはまったく異なる新しい加工花。生花のうちにオーガニック系の染料を吸わせ、ソフトな風合いを長期間に渡って保ちます。赤やピンクなどの生花さながらの色から、自然にはない青、水色、ミントグリーンなどカラーバリエーションも豊富です。水遣りの必要はございません。高温多湿を避けてお楽しみ下さい」。
分かるようで分からない。HPでこれくらいのことしか分からないから、店長が出てきても要領が得ないのは仕方ない。そこで、「プリザーブドフラワー」をわが国に紹介したと言っている、アンフィニ・フルールのHPを調べてみた。
この技術は、植物の樹液を取り出し有機体の物質に入れ替え、自然の不安定な色素を安定したものに置き換えた、まったく新しいタイプのプリザーブ(保存)・ド・フラワーです。 加工上使用される有機物質も、色素も、全く人体に無害なものを使用するこのプリザーベーションの加工により、時間の経過によって変化する、生花の形や色を独自の加工技術によってそのまま持続させることに成功しました。 加工された花は生花のまま鮮やかな色彩とみずみずしい質感を何年でも楽しめます。
これが本当なら素晴らしい。一度も実際に見たことがないからなんともいえないが、きれいな花の写真は何枚でも載っていたので以下に載せてみる。
じかに眼にしないと質感というべきものが分からない気もするが、装飾品としてはなかなかのもののようだ。色も形もはっきりしていて、確かに造花とは違う。花粉からのアレルギーの心配もないと、いいことづくめの評価がなされているが、それは我田引水の面が無きにしも非ずだろう。
しかし、どうしても文句を言いたくなるのが、「プリザーブドフラワー」という名称だ。もっと言いやすくて、覚えやすい呼び方を考え出さなければ、人口に膾炙することは難しいような気がする。「モーニング娘。」が「モームス」、「ミスターチルドレン」が「ミスチル」というのに習えば、「プリフラ」?う~~ん、ダメだ。ならば、何か日本語らしい名前はないだろうか。たとえば・・・・何も思い浮かばない・・私には命名の才能がないようだ。
日比谷花壇のHPに、説明が載っていた。
「ドライフラワーや造花とはまったく異なる新しい加工花。生花のうちにオーガニック系の染料を吸わせ、ソフトな風合いを長期間に渡って保ちます。赤やピンクなどの生花さながらの色から、自然にはない青、水色、ミントグリーンなどカラーバリエーションも豊富です。水遣りの必要はございません。高温多湿を避けてお楽しみ下さい」。
分かるようで分からない。HPでこれくらいのことしか分からないから、店長が出てきても要領が得ないのは仕方ない。そこで、「プリザーブドフラワー」をわが国に紹介したと言っている、アンフィニ・フルールのHPを調べてみた。
この技術は、植物の樹液を取り出し有機体の物質に入れ替え、自然の不安定な色素を安定したものに置き換えた、まったく新しいタイプのプリザーブ(保存)・ド・フラワーです。 加工上使用される有機物質も、色素も、全く人体に無害なものを使用するこのプリザーベーションの加工により、時間の経過によって変化する、生花の形や色を独自の加工技術によってそのまま持続させることに成功しました。 加工された花は生花のまま鮮やかな色彩とみずみずしい質感を何年でも楽しめます。
これが本当なら素晴らしい。一度も実際に見たことがないからなんともいえないが、きれいな花の写真は何枚でも載っていたので以下に載せてみる。
じかに眼にしないと質感というべきものが分からない気もするが、装飾品としてはなかなかのもののようだ。色も形もはっきりしていて、確かに造花とは違う。花粉からのアレルギーの心配もないと、いいことづくめの評価がなされているが、それは我田引水の面が無きにしも非ずだろう。
しかし、どうしても文句を言いたくなるのが、「プリザーブドフラワー」という名称だ。もっと言いやすくて、覚えやすい呼び方を考え出さなければ、人口に膾炙することは難しいような気がする。「モーニング娘。」が「モームス」、「ミスターチルドレン」が「ミスチル」というのに習えば、「プリフラ」?う~~ん、ダメだ。ならば、何か日本語らしい名前はないだろうか。たとえば・・・・何も思い浮かばない・・私には命名の才能がないようだ。
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SMAPのCM
金曜日の昼、「笑っていいとも」を一人で見ていたら、初めて見るCMが流れた。それは、コンサート会場の場面で電光掲示板に「SAMPLE」と出ている。これは、ひょっとしてと思ったら、やはりSMAPのメンバーが登場した。しかし、声が変えてある。変な関西弁でメンバーの口の動きにあわせて、何か話している。順番は忘れてしまったが、一人一人映し出される全員に同じ関西弁のアフレコがついていて、妙になじめない。いやなCMだな、と思いながら最後まで見ていると、リクルートの「ホット・ペッパー」のCMだと分かった。ふ~んと思ったが、これは絶対教えるべき情報だと思った私は、稲垣吾郎の舞台を見るため、東京行きの新幹線に乗っているであろう妻に電話してみた。
「何?」
「SMAPが出てるリクルートのCM見たことある?」
「ないけど、SMAPが出てるのは知ってる」
「いま、TVで流れたよ。変な関西弁がかぶさっていてさあ・・」
「分かった、録画してあるから後で見る、新幹線だから切るね、じゃあ」
そうか、金曜日の「笑っていいとも」には草剛が出ているから録画してあるに決まっている。余分なことをわざわざ電話しなくてもよかったのに、と少し後悔した。
その日は妻の帰宅が遅かったため、ほとんど話をしなかったが、土曜になって少し聞いてみた。
「見た?、CM」
「録画した『笑っていいとも』を見ていたら、眠くなっちゃったから、CMのことはよく覚えていないけど」
「SAMPLEっていうのはいつのコンサート?」
「去年。場所よく見ていないから分からないけど、たいてい国立(競技場)だと思う。コンサートは毎回、ビデオに撮って反省会はしてると中居君が言ってるけど、販売するビデオをとるのは一箇所だけで、去年は国立だったはずだよ」
「ビデオを撮るときは何か違うの?」
「変なことは言わないし、最初のメークがばっちり決まってる」
「ふーん、そんなもんか。でも、あのCMは変だよね」
「そうだね、声を変えるくらいなら、わざわざSMAPを使わなくてもいいのにとは思う」
SMAP出演のホットペッパーのCM
このリクルート社の「ホットペッパー」というのは、「集客したいという飲食店と、お店の情報を探したいという読者双方のニーズをマッチングし、地域の消費活性化を促進することを目的としたクーポンマガジン」なのだそうだ。今までにも、洋画を内容とはかけ離れた吹き替えをしたCMを作ってきたのだが、私はあまり好きなCMではなかった。その手法を今回はSMAPに応用したのだろうが、やっぱり面白くない。またかという気がして、奇を衒ったつもりがかえって面白みを欠いた結果になってしまっているようだ。タレントぞろいのSMAPだから、彼らにそのまま関西弁でしゃべらせたほうがよっぽどインパクトがあったのにと、私は思う。
ホットペッパーCM劇場
SMAPの出演したCMは、それこそ星の数ほどあるが、私はNTT東日本のCMが一番好きだ。2年ほど前だったと思うが、メンバーがビルの上で、「エイトマン」の歌を歌うだけのシンプルなものだったが、シンプルなだけに深く印象に残っている。メンバーが「ガッチャマン」に変装したものもあったようだが私は見たことがない。我が家はNTT西日本の区域なので、地上波でCMは放送されないがハイビジョンでは放送される。妻はちゃっかり録画しているようだが、見せてくれるようなやつではないので、頼んだことはない。でも、一度見てみたいとは思う。
「何?」
「SMAPが出てるリクルートのCM見たことある?」
「ないけど、SMAPが出てるのは知ってる」
「いま、TVで流れたよ。変な関西弁がかぶさっていてさあ・・」
「分かった、録画してあるから後で見る、新幹線だから切るね、じゃあ」
そうか、金曜日の「笑っていいとも」には草剛が出ているから録画してあるに決まっている。余分なことをわざわざ電話しなくてもよかったのに、と少し後悔した。
その日は妻の帰宅が遅かったため、ほとんど話をしなかったが、土曜になって少し聞いてみた。
「見た?、CM」
「録画した『笑っていいとも』を見ていたら、眠くなっちゃったから、CMのことはよく覚えていないけど」
「SAMPLEっていうのはいつのコンサート?」
「去年。場所よく見ていないから分からないけど、たいてい国立(競技場)だと思う。コンサートは毎回、ビデオに撮って反省会はしてると中居君が言ってるけど、販売するビデオをとるのは一箇所だけで、去年は国立だったはずだよ」
「ビデオを撮るときは何か違うの?」
「変なことは言わないし、最初のメークがばっちり決まってる」
「ふーん、そんなもんか。でも、あのCMは変だよね」
「そうだね、声を変えるくらいなら、わざわざSMAPを使わなくてもいいのにとは思う」
SMAP出演のホットペッパーのCM
このリクルート社の「ホットペッパー」というのは、「集客したいという飲食店と、お店の情報を探したいという読者双方のニーズをマッチングし、地域の消費活性化を促進することを目的としたクーポンマガジン」なのだそうだ。今までにも、洋画を内容とはかけ離れた吹き替えをしたCMを作ってきたのだが、私はあまり好きなCMではなかった。その手法を今回はSMAPに応用したのだろうが、やっぱり面白くない。またかという気がして、奇を衒ったつもりがかえって面白みを欠いた結果になってしまっているようだ。タレントぞろいのSMAPだから、彼らにそのまま関西弁でしゃべらせたほうがよっぽどインパクトがあったのにと、私は思う。
ホットペッパーCM劇場
SMAPの出演したCMは、それこそ星の数ほどあるが、私はNTT東日本のCMが一番好きだ。2年ほど前だったと思うが、メンバーがビルの上で、「エイトマン」の歌を歌うだけのシンプルなものだったが、シンプルなだけに深く印象に残っている。メンバーが「ガッチャマン」に変装したものもあったようだが私は見たことがない。我が家はNTT西日本の区域なので、地上波でCMは放送されないがハイビジョンでは放送される。妻はちゃっかり録画しているようだが、見せてくれるようなやつではないので、頼んだことはない。でも、一度見てみたいとは思う。
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