暮らしの差し色

慢性腎臓病の夫と二人、静かな生活です

どっちの人生選ぶ?

2020-12-08 18:00:07 | 日記

夫に、聞いてみた。

私「もし、私の人生と、△△ちゃん(夫)の人生と、どちらかしか選べないとしたら、どっちの人生選ぶ?」

夫は、即座に

夫「◎◎ちゃん(私)の人生!」

と答えた。

私「どうして?」

夫「食べられるから」


というのだ。


私は夫の人生を選びたい。


夫は、横浜の中学を卒業すると、電機メーカーの会社員になり、夜学の工業高校を卒業し、充実した会社員生活を送った。



その後 2002年の不況で大企業がリストラの大断行をしたとき、割増の退職金がもらえるし、技術の進歩についていくのが大変になり、この際退職したい、と 手を挙げて退職した。

転職支援のアフターサービスを受け、雇用保険を受けた後、もとより考えていた警備員の職に就き、60歳を過ぎても一昼夜の勤務形態で、仕事を続けた。

体調がすぐれなくなり、退職することにし、退職後は厚生年金の「長期加入者の特例」で、44年間、厚生年金に加入した者への特例により、退職した翌日から、年金を満額受給できた。

2012年から、腎臓の数値が良くないことを受け、循環器の先生が、腎臓内科を受診してというので、受診して、検査入院したところ、慢性腎臓病になっていることがわかった。

それからの健康状態は、芳しくなく、透析にならないために、このブログに幾度となく書いてきたように腎臓病食に苦心してきた。

食生活のストイックな取り組みで、日々をすごしている。

コロナの基礎疾患にも「慢性腎臓病」が挙げられており、夫がもし、コロナに感染したら、治療のために投薬を受け、そのまま透析に移行してしまうだろう。

夫は生まれてすぐに実母が胸の病で離されて、別に暮らし、亡くなった。

そのため夫は実母の顔を知らず、小学校に上がる前までは祖父に育てられ、それからは継母と暮らしてきた。

継母も、夫が20代の時に亡くなった。


私は、20代から神経科の疾患があり、仕事をしては、病気が悪化して退職を余儀なくされ、体調が落ち着くようになっては、職探しをして働く、そしてまた悪化して退職という仕事人生を歩んできた。



同じ職場の正社員とそこへ来た派遣社員という立場で知り合い、結婚することになった。年齢は7歳離れている。

お金がないので、地図帳の緑に塗られた公園をみつけては、ここへ行こう、とお弁当を持ってピクニックに行くのが、デートだった。




年金生活で穏やかな暮らしはしているが、夫は、慢性腎臓病の悪化に戦戦兢兢としている。

好き放題に食べることはできないし、旅行も行きづらい。

引退したら旅行に行こう、とそれだけを楽しみにしてきたのだった。

それもかなわず、毎日、1日の食事記録表とにらめっこをしながら、料理をして、3食を作り、コロナの感染に怯える日々だ。


私は、腎臓は幸い悪くはないが、夫とは別の食事を毎日作って、キッチンは さながらシェアハウスだ。



さざ波程度の波風で今は暮らしているが、もっと二人にとって楽しいことのある老後を送りたかった、と、二人とも思っている。

私は夫の人生は前向きでうらやましい過去の歴史を持っていると思う。

YouTubeでは、私とは年代の違う音楽を楽しんでいる。


きょうもまた、1日の食事記録表を掲載する。



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文房具店で店員だった時

2020-12-06 18:58:49 | 日記

30代の前半、まだ結婚して数か月のころ、夫が病気で休職していたので、狭いアパートに二人きりで一日中いるのも良くないかなと、パートに出ていた時期があった。

印刷屋さんの店舗に求人の貼り紙を見つけて、雇ってもらえるかお聞きしてみた。

常務と面接が後日あって、印刷屋さんの勤務の前に、その駅からは3駅ほどの住宅街に、文房具店を開店したので、まずそこでパート店員をしてほしいと言われた。

パートが始まってしばらくしたころ、お客さんでご年配の女性が、画仙紙はないか、と尋ねられた。

店の奥に倉庫があり、そこから、毎朝発注伝票にしたがって、品出しをしていたので、「画仙紙」の名前は憶えていた。

画仙紙



それを取りに行ってお客さんに見せると、

「そう、それだけど、大きさはハガキのサイズのがあるんですよ」

と言われた。



こういうものらしい。見たことはなかった。

絵手紙か、書を書くためにか、使うものなのだろう。

「ハガキサイズのをお店に置いてください」

とその老婦人はおっしゃった。

「ご注文でしょうか」

「注文じゃなくて、お店に置いてほしいの」

とおっしゃるのだ。


でも、考えてみていただきたい。

そのように、一般的によく売れるものでもなく、マニアックなものを店に並べるということは、在庫がだぶついて、普通置かないとは思えないだろうか。

紙の専門店へ行けばたやすく手に入りそうだし、住宅街の文房具店に常時置くようなものとも思えない。

「伝えておきます」

と言ったと思うが、店長に伝えたかどうか、30年も前のことで憶えてない。

それにしても、そういうことを店に頼むというのは、常識的ではないのでは?


私自身は、2007年のこと、資生堂のアイブロウ(眉墨)の替え芯をデパートの化粧品コーナーで、買いたい旨 話したことがある。

古いブランド(当時より20年以上前に販売していた商品)だったけれど、取り寄せができるということで、2ケース以上からの発注となりますが、いいですか、というので、お願いした。

珍しいものは、そのようにして、お店に頼むものじゃないだろうか。

読者のみなさんは、その老婦人のことをどう思われるだろうか。


本日も、慢性腎臓病の夫のある日の食事記録表を1枚、掲載します。



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人間関係での生きづらさ

2020-12-04 18:55:49 | 日記

子どものころから、友人関係の築き方に難儀した。

幼稚園に行く前から、私の家庭では大人が喧嘩ばかりしていた。

父、母、祖母、叔父、叔母

ギスギスして、子供心に穏やかにしてほしい、と願っていた。

「ケンカやめて、やめて!」

と叫んだことを覚えている。

母は、「あっちに行ってなさい」と言った。

人に謝る、などということを見たこともなかった。

幼児のころから、謝り方を知らない。



友人との付き合いは難しかった。

今までも何度も書いてきたかもしれないが、学校を卒業するときは、「あーー、せいせいした!」といつも思った。


我が家にはこどもがいない。

だから、ママ友の関係もなかった。



そのような関係を築くことなどできなかったろうと思うので、子どもがいなかったことは心から良かったと思っている。

ずっと集まっている友人は、高校時代の同級生だ。



結婚してからの年賀状は、夫婦で80枚くらい印刷していて、使いきっていた。

去年あたりから、年賀状に疑問を持ち始めた。

職場や、学生時代の、何十年も会ってない旧友に、年賀状を儀礼的に交換していることに、なんの意味があるのだろうと。

おそらく、いや、ぜったい、この相手に年賀状以外の連絡を取ることはないだろうと思う人が何人もいる。

顔も覚えていない。

相手からの年賀状も印刷だけで、ひとことの書き込みもない人もいる。

去年は50枚だけ、今年は30枚だけ印刷した。

高齢のため、年賀状をやめるという終活をする人のこともテレビなどで、目にするが、そのようなお断りの文言もなく、フェイドアウトしたい。


コロナ禍で、人と会っておしゃべりするなどがないので、食品や日用品の買い出しと、役所に用事があるとか、特別この店に行かないといけない、ということでもないと、大きな街に出ることもなく、今年は終わろうとしている。

集まらないことに、自分に理由付けができて、今年は楽だった。


登録者が数十万人いるYouTuberで、ブロガーの やまぐちせいこさんの動画をよく観て、「友達とは」、「孤独とは」、というのを興味深く拝聴している。



話はかわって、夫の慢性腎臓病に関して、食事療法でこのブログを見に来てくださるかたもいらっしゃるので、時折、夫の過日の一日の食事記録表を掲載しておくことにします。

ご参照ください。


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減退していく学習意欲

2020-11-25 17:49:50 | 日記

来年から、老齢基礎年金を受給できる年齢になった。

最近では、読書ができなくなった。

新聞も読売新聞の「人生案内」しか目を通さない。

テレビの録画は、ドラマと、ドキュメントを中心に録り、バラエティやワイドショー、クイズ、音楽番組はほとんど観なくなった。


母が生きていたころ、夫と私が引退して何をするかという話になったとき、「テレビとパソコン」と言ったら、母は、「そうしていると、呆けるよ」と言っていた。


父がそのような過ごし方だったので、母の遺品を片付けていたら、そんな父の姿にあきれている母の書き付けが出てきた。

母は60歳を過ぎて教師を引退してからは、地域のための役職をたくさん背負って、ずいぶん尽くしてきた。

役員の旅行にも行かなければならなくて、よくあちらこちらへ出かけていた。

晩年には、胃潰瘍になったことがあり、内視鏡手術をして、クリップで留めた。

「胃潰瘍になるほど、何をそんなに悩んでいたの?」

と聞くと、

「役職を辞めさせてもらえないの」

と言っていた。

俳句の会にも参加して、遺品の中に俳句のものがたくさん出てきた。

つまり、母は老いても、学習意欲や地域の活動が停滞する様子は見られなかったのだ。


私はというと、振り返って書いてみる。

独身のときは、TOEICを受験した。教材を少し買って勉強してから受けた。

たいして良い点は取れなかったが、派遣に登録するとき、少しいい面はあった。


結婚後のことをたどってみると、実家近所のアパートを出て、37歳で見知らぬ土地に引っ越してきたことで、就職することにした。

税理士事務所に採用になったため、1年近く経ったころ、簿記の資格を取ろうと思っていると、新聞に講座が安く出ていた。

土曜日に3回通う日商簿記3級の講座に行き、模擬試験が2回ついていて、合計で15,000円だったような気がするが、その勉強で、3級に合格した。



続けて、2級も取得しようと、夜間や日曜に電車に乗って通う日商簿記2級の講座(早稲田経理学院)を受講し、数か月、模擬試験も経て、2級に合格した。

仕事に役立つ資格だったので、勉強にも身が入り、有意義だった。




そのうち、雇用保険で、中高年齢労働者等受講奨励金制度ができ、受講開始日に40歳になっていると、条件を満たして修了すれば、該当する講座の受講料の半額を給付してくれるというものだった。

それを受けて勉強したいと思い、当時、仕事に関連ある資格で何かないだろうかと考えていた。

事務所の所長は、税理士なので登録して行政書士としての資格を持て、私たちが報告書を県に提出するとき、行政書士として押印する仕事があった。

行政書士を取ろう、と横浜の資格の学校 「大栄」に通って、受講条件を満たして、修了した。

後日 95,000円ほど受給することができた。



その年、神奈川県で受験し、落ちた。

行政書士の受験では、一般教養試験に漢字もあったので、勉強のついでに漢字検定準一級を受けて合格した。


大栄は、合格保証制度があったので、もう1年、無料で学べた。

2年目はもう一つの資格の学校「LEC」の単発の講座も、授業料を払って受講した。

LECは全国規模で模擬試験があって、試験後の結果資料に1名だけ小論文が見本として掲載される。

私は一度小論文が掲載された。もしかしたら、今年は受かるかもしれない、と少し思った。

2年目は、東京都で受験した。



また、落ちた。

一般教養が正答率90%の得点、法令が80%得点、だが論述試験が合格ラインの60%に3点届かなかった。

結果が出たとき、2年間で、やめようとはっきり決めた。

家庭の方はすっかり手抜きになってしまって、これを続けることは自分にとっても、夫にも、あまりプラスにならないと思った。

受験勉強は、仕事が終わって夕食を済ませると、21時まで勉強、茶碗を洗って休憩すると、また午前零時まで勉強し、お風呂に入って寝る、という生活だった。

テレビもほとんど観なかった。

新聞も夫が朝持って行ってしまうので、読まなかった。

もっと、テレビや新聞を見るようにしていたら、論述ももう少し点が取れただろうと思う。

行政書士は降参したが、その後 楽しく勉強しよう、とNHK学園の通信教育をいくつか受講した。

ペン字や筆ペン、家庭財務、コンパクトカメラなど習った。


そのうち、税理士事務所を退職した。

景気が冷えて、仕事が減ってきたので、パートに移行したのだが、私の仕事は減って、出勤できる日がほとんどなくなってしまったからだ。

雇用保険を受けつつ、職業訓練校に通って、Windowsを習った。

お弁当を持って、通学して勉強する。楽しかった。

税理士事務所では、古いパソコン1台で、3人が使い、Windowsとは縁のない環境にいたので、時代に遅れ、私自身のスキルが上がらず、求職しても、それではよい事務仕事は得られない。

Officeを身に着けた。

この年、平成12年には、並行して、放送大学を受講して、「乳幼児心理学」の単位を2単位取得した。

そして、職業訓練を終えると、就職活動をして、大手の企業の経理部に派遣が決まった。

休まず1年半働いたが、私の体に変調をきたし、同時に派遣切りの時期で、仕事が終わった。

そのころ、我が家ではマンションを購入し、続けて仕事をすることが必要だった。

派遣の終了が決まったころから、次の仕事を探し、青果の協同組合で経理事務員に採用された。

先輩職員が病気になったことで、新人の私の肩に仕事が重くのしかかった。

体調は悪化し、もう働けなくなった。

クリニックに再びかかるようになって、仕事は退職した。

傷病手当金を受けた。

2年間ほど働けなかった。

仕事探しを始められるようになり、経理の派遣会社に登録して、近所の税理士事務所で、確定申告の繁忙期の短期の応援に派遣された。

楽しかった。

派遣が終わり、別の会社の経理のパートに行ったが、確定申告の時期働いた税理士事務所で終了するとき、うちで直で働かないかとお誘いを受けていた。

もうパートが決まっていたので、そちらに行ってから考えてくれていいということで、思案していた。

経理のパートは、税理士事務所よりまだ面白さがなかった。

税理士事務所にお世話になることにした。

そのころお習字の通信教育を始めた。

2年ほど続けたお習字は、初段候補になり、お金を払えば、看板を頂けるまでに進級した。

初段候補でしばらくお稽古していたが、看板はいらないので、終了にした。


税理士事務所で50歳を迎えた。

父が亡くなった。

税理士事務所では、事務関係全般を一手に任されていたうえ、会計ソフトの入力も簿記の仕訳で入力するため、朝からフルタイムで大変だった。

すぐに職員、パートを解雇してしまう所長で、従業員が私一人しかいない時期があったり、所長が脊柱管狭窄症の手術を受けることになり、関与先の給料計算も、突然任されることになり、手一杯だった。

人の入れ替わりも多く、人間関係にも疲れていた。


1年8か月ほどで、私から事務所を去った。

税理士事務所では、公的資格がないのは、仕事をするうえで、どうも不足だった。

この事務所を退職してから、雇用保険を受けながら、日曜日にファイナンシャルプランナー(FP)の3級の講座に通った。




その年の夏、3級に合格した。

ようやく国家資格を得た。

ネットで答え合わせをして合格が確かなものになったとき、就職活動をして、不動産会社のパートに決まった。

このとき、FPの先生から、2級を受けることをしきりに勧められた。

私は不動産会社に入ったのが間違いだったかもしれない。

FPと簿記の資格には手当てをくれたが、社員の人は宅建を受験することが社命だった。

私はパートだったから、宅建を受ける義務はなかったが、それでも損害保険募集人と甲種防火管理者の資格は取らなければいけなかったので、勉強をした。

FPの資格を使うことはなく、仕事もどんどん逸れていった。

翌年、私は県のレクリエーションの教室でアキレス腱を切った。52歳の時だ。

足を引きずって歩けるようになるまで、会社は休ませてくれた。

しかし、復職した後、また長くは続かずに、仕事を辞めた。


その後、もう一つ工場の仕事をパートで働いた時期はあり、東日本大震災のあと、引退した。

母が亡くなったあと、2013年から、テレビで短歌を勉強し始めた。

翌年から、NHK学園の短歌の講座を2年間続けた。

NHKの全国短歌大会や、市、県の歌人会の集まりにも短歌を出して、勉強した。

このブログにも、拙歌を掲載した。

そのうちに、スランプになり、なかなか入選しなくなった。

作歌をしなくなって久しい。

だんだん、何も読まなくなった。

机に向かうこともなくなり、新聞も次第に読まなくなってきた。

最近はYouTubeを観て、吸収する機会が増え、FPの新しい知識もYouTubeで得られる。

友人から、年金や税金の質問を受けると、説明することがときどきある。

税理士事務所での知識は役立っているし、FPの勉強では、法律が年々変わるので、毎年、年金のテキストは購入して、遅れないような努力は要る。

学習意欲が完全に薄れた。

本を見ても、目から知識に移行しない。

ブログに書いたように、ドラマも筋を覚えていない。

加齢だな、と思う。

また復活する日もあるかもしれない。

いまは、停滞期だ。

まさか、このまま朽ちていくことはないだろうが、コロナ禍で、刺激が少ない。

友人にも会えないし、呆けていくのがわかる。

放送大学の定期試験のとき、同じ教室におばあさんがお孫さんらしき方に連れられて入られ、席に着くと、大きな天眼鏡を出して書類を読んでおられた。

私もあのようにありたいものだと、その時思った。

それが、この体たらくで、どんなものだろう、この先は。

やはり、母が言っていたように、テレビとパソコンでは、呆けるのかなぁ。


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友人のご主人から喪中はがき

2020-11-14 09:38:28 | 日記

2020年11月5日、派遣仲間の友人のご主人から、喪中はがきが届いた。

私より、7歳も下の、友人が今年3月31日に、56歳で永眠したと書かれていた。

「えっ?」

突然のことに驚いた。


2013年に私の母が亡くなった時、Amebaのピグで、話したら、花と線香のセットを送ってくれた。

たまにピグで、話していた。

年賀状も交換していた。


最初に彼女と知り合ったのは、電機メーカーの事務所の派遣社員としてだった。30年以上前だった。

派遣会社は別だった。

年齢が7歳も下なのに、仲良くしてくれて明るい素直な人柄で、笑顔が可愛いロングヘアーの女の子だった。

高校の同級生と婚約していた。

会社のアフター5に、数人と夕食して、カラオケに行き、何度も楽しく過ごさせてもらった。


私が結婚を控えて、その職場を辞めたあと、私は結婚し、彼女はその仕事を続け、高校からの恋人との結婚後もその職場で働いた。

その後、彼女には男の子が生まれ、小学校に行っている時間帯に、二人で会って食事したこともあった。

その男の子がだいぶ大きくなってから、次に女の子が生まれ、お宅を訪ねたことがあった。

たらこスパゲティを作ってくれて、とても美味しかった。


女の子がベビーカーのころ、お子さん二人と私たちで会ったのだが、女の子がぐずって大変だったので、
「もう少し大きくなってから次は会いましょう」
と言っていた。

過去の年賀状から計算すると、いまは、その女の子は大学1年くらいの歳だ。

年賀状とメールでのお付き合いが続いていたけれど、ベビーカーのとき以来、会う機会はなかった。


喪中はがきが来てから、だんだん、彼女が亡くなってしまったことが胸に重く迫ってきた。

亡くなったことを知らせる共通のお仲間もいない。

私の夫は同じ職場だったので、彼女のことは知っている。

コロナで亡くなったのだろうか、うちで夫と想像することしかできない。

今年の年賀状ももらっていたし、ピグの部屋に行ってみると、3月6日に、ピグの着替えもしていた。

3月6日にピグで遊べる状態だった方が、31日に亡くなってしまったということになる。

56歳は、早いなあ・・・・

さびしい・・・・

ご冥福をお祈りいたします




コメント (2)
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