ミニマリズムの動画を観たり、断捨離の番組を観たり、持ち物を少なくしようという気持ちだけはあるのだが、実はうちでは、こんなものがたくさんある。
時計と、カレンダーだ。
電波時計 リビング
時計は、リビング、パソコンルーム、夫の居室、私の居室、洗面所、浴室とキッチン(給湯器のもの)、トイレにある。
居室は、電波時計の目覚ましの置時計と、掛け時計の両方がある。
カレンダーは、リビング、パソコンルーム(2つ:パソコン横とデスク横)、私の居室、トイレ。
スケジュールを書き込んであるのは、リビングの味気のない書き込み用の大きなカレンダーだ。
ミニマリスト タケルさんは、壁に物を貼らないこと、時計やカレンダーはスマホを見れば済む、と推奨している。
しかし、時間とスケジュールは、どうしても、逃れられない。
年金暮らしになって、大事になるのは、通院、ゴミ、割引の日で これが私たちを束縛する。
平日に時間がたくさん持てるようになったから、企業に電話する時間はいくらでもあるので、それに苦慮することはないが、クリニックや指定のごみの日は厳守だ。
買い物の割引は、ネットと、新聞のチラシで、しっかり確認して、手分けして買い出しに行く。
なにかを買ってしまってあとから、あっ!この日なら20%引きだった、と気づくととても損をした気がしてしまう。
急がないことが多いからだ。
ストック品は比較的多く持つほうなので、慌てて、今日買ってこなきゃ、という品は、もやしくらいだ。
もやしは、1日で色が悪くなる。
時刻は、健康の記録の中に、どのくらい歩いたか、自転車に乗ったか、などを書き留めるため、外出の出発時刻と、帰宅時刻を知っておきたいので、時計が気になるのだ。
タイマーもたくさんある。
冷蔵庫に2個、貼り付けてある。
ダイニングのテーブルに一人一つ持っている。これは目薬をさした時、1分間計るためだ。
あと、浴室には、壁にタイマーを貼ってある。防水用のものだ。
というのも、浴槽に入っていると、眠ってしまうことがよくあって、溺れるといけないので、7分間タイマーをセットして、湯舟に漬かるようにしている。
というわけで、どこにも時計とカレンダーがあり、これらに支配されたうちなのだ。
ブログタイトルを年代と共に、何回か変更してきた。
これまでの「『人生は短い』と知る歳になってしまった」は、その時の衝動的な気分で変更してしまったので、
またではあるが、ブログタイトルを変更したいと思う。
新しいタイトルは
「暮らしの差し色」
に致しました。
今後ともよろしくお願い致します。
2008年の5月のこと。
52歳のときだ。
県の施設でバドミントンのスポーツ教室があった。
参加には、傷害保険であるレクリエーション保険に全期間対象の加入が義務付けられており、保険料は400円だった。
高校時代にバドミントン部に入っていたのと、パートのない日に少し運動をしてみたくなって、応募した。
ラケットとバドミントンシューズを買い、お店にガットを張ってもらった。
ラケットも、まあまあ良いクラスのものを選んで、うれしかった。
GWの終わるころ、初日があり、クラス分けをした。
経験のない人は、初心者へ、少し経験がある人は初級へ、と自分の意志で選ぶことになった。
私は長いこと運動もしていないから、初心者へ入った。
少しして、初級へと勧められた。
初級は高校の部活動クラスの練習だった。
「ついていけないので、初心者に行きます」
と言ったが、
「できているから初級でいいですよ」
と指導者に言われた。
10時~12時の全8回だった。火曜、金曜の午前のコースで、当時パートをしていたのだから、どのようにして参加を続けるように考えていたのだろうか。
パートを辞めたかったのかもしれない。
しばらくフットワークを入れたラリーの練習で、後ろに下がった時、右足が岩にでも乗り上げた感じの違和感がした。
「痛い!!」
コートから外れて壁際に寄って座り込んだ。
11:30頃だ。
足首が痛く、ムニュムニュ揉んだら、少し楽になった。
12時がじきに来て、解散になった。
整形外科に行きたいと思ったが駅前のクリニックは昼休み中であるからと、途中湿布薬をドラッグストアで買い、ゆっくり足を引きずりながら自宅まで帰った。
これは絶対筋肉痛のレベルではない。
整形外科の診療時刻に合わせて、タクシーで行った。
検査して、
「アキレス腱断裂です」
と診断が出た。
「病院に行って手術となるけど、◎◎市民病院は、医師が新しく来た先生ばかりなので、民間の病院を紹介します」
と言われた。
翌日が土曜日で朝、電車と、病院通院バスを乗り継いで行った。
診察で
「どうやってきましたか?」
と聞かれ、タクシー、電車、病院通院バスで来たことを話すと、
「今からもう歩かないでください。これ以上歩くとじん帯が伸びてしまうので固定します。」
検査で車いすになると、もう歩けなくなった。
松葉杖のレンタルを受け、使い方を習った。
入院は月曜、手術は火曜、となり、シーネで足を固定して、タクシーで帰宅した。
長期で私が家にいなくなるので、日曜は、夫に炊飯器や洗濯機の使い方、郵便受けのカギのナンバーを説明して、入院準備の荷物をまとめた。
月曜日に夫とタクシーで病院に行き、病棟で説明を受けた。
手術は全身麻酔、入院は10日間、退院後は、一旦自宅に帰り、ギプスの状態で自宅で過ごし、3-4週間後にリハビリ入院して、毎日リハビリを受ける、
ということだった。
「手術は肺塞栓が起きる可能性もあるので、手術室前にはご家族に居てもらってください」
と説明があり、手術日は夫と、老いた母にも病院に来てほしかった。
手術中に突発的なことがあった場合、家族が決断をしなければならないことも起こりうると言われ、83歳の母にもその決断のときに居てほしかったのだ。
手術は無事終わり、夫にも母にも心配と迷惑をかけて申し訳なかった。
5月23日に退院し、6月10日のリハビリ入院まで、途中1回の通院を除いて、自宅にいた。
集合ポストまでも部屋を出ずに、じっとうちにいた。
パソコンも、ブログを書いたりメールする気力もなく、本ブログの更新は頻繫にする気にもならなかった。
ネットでは、アキレス腱断裂を経験した人のブログをひたすら読んでいた。
夫は、
「だから、バドミントン行かないでくれ、と言ったじゃないか」
と、蛇のようにしつこく言い続けた。
リハビリ入院して、一日に1時間くらいのリハビリ以外はベッドにいて、時折お見舞いの方が来てくれて、気が晴れるときもあったが、保険金が降りるだろうかと、お金の心配をしていた。
6月10日にそれまでのギプスをカットして、前と後ろに分解できるギプスになり、普段は巻いて固定し、リハビリの時ははずす。
6月21日に退院して、あとは、リハビリの通院で、足を引きずらずに歩けるようになったのは、その年の12月だった。
保険金について、今回書こうと思ったので、前置きが長くなった。
レクリエーション保険と 個人的には、外資系の医療保険にも加入していた。
執刀してくださった整形外科にも月一回の通院があった。
保険の請求に診断書も記入していただき、医療保険の会社ととレクリエーション保険の損保会社に提出した。
無事、請求後すぐ入金があった。
これが、2008年のことだ。
その後、数年が経ち、けがをした右足は左に比べると、アキレス腱が太いこと、ふくらはぎが細くなってしまってなかなか戻らなかったことはあったが、傷口は縦に3cmくらいしかない。
10cmくらいの傷が残るのではないかと覚悟していたが、3cmほどの傷もいまは、ほとんどわからない。
2012年、テレビを観ていてだと思うが、損害保険の通院保険金は、実際に病院に通院した日だけでなく、ギプスをして自宅にいた期間についても、日額×日数で、受けることができることを知った。
2008年の書類すべて保存していたので、保険会社に電話して尋ねてみた。
調べてくれて、報告があり、結論から言うと、
当時加入したレクリエーション保険では、
「入院と入院のあいだの家庭にいる期間がギプスをして、自分で外せない期間は、通院保険金が出ます」
という回答だった。
「当時の担当者はもう退職してしまったので、本人からお詫びすることもできないのですが、振り込みます。」
ということで、後日4万円が振り込まれた。
2008年当時、すでに入院保険金、手術保険金、通院保険金が出ていた。
医療保険からは、当時手術給付金と入院給付金が出た。
保険のことは、自分から申し出ないとなにも出ないので、毎月払っている限り、しっかり請求しないといけないと実感した。
直近でも、夫が、白内障手術の後遺症の「後発白内障」の手術を日帰りでしたときも、手術と名が付くから問い合わせると、手術給付金が出た。
これは、すでに、ブログに書いてある。
たしかに、年金でも請求しなければ黙っていたら振り込まれては来ないのだから、損をしない努力は必要だ。
もうひとつ書いておくと、年金を受給しているかたは、源泉税を取られていたら、ぜひ確定申告をして、還付を受けてほしいし、証券会社でも、特定口座で、源泉税を引かれていたら、年収が少なければ、還付申告をすることをお勧めする。(3級FP技能士です)
高校3年のとき、受験する大学に国立大学も視野に入れて、国、数、英、社、理と選択科目を国立受験に合わせて取った。
文科系のコースに2年、3年と在籍していたので、生物系に進学したいと思ったとき、理科系のクラスに行かないと当時の数Ⅲという科目は受講できなかった。
難しい数学は2年から理科系を受講してこなければできないので、受験できる大学には制約があった。
浪人することは考えていなかった。どうしても、現役で大学進学したかった。
国立は1期校は中国地方の農学部に、2期校は北関東の大学の農学部に願書を出した。
私立大は、N女子大の理科と、J女子大の英文に願書を提出した。
私の住んでいた家は神奈川県横浜市にあった。
2月の16日に、都内のN女子大、18日に都内のJ女子大の入試があり、20日だったと思う、同じ日に合格発表があった。
私立大の入試が終わると、私は高熱を出し、合格発表に行けなかった。
母が仕事を休んで、私の代わりに、2か所発表を見に行ってくれた。
まだかまだかと家で待っているのに、母は、1番目にN女子大の発表を見たのに、電話をくれず、2か所目を見てから、電話を掛けてくれた。
結果は、どちらも合格だった。
合格したら、緊張の糸が切れた。
これから、国立大学の入試のために、まだ受験勉強を続けるテンションを保てなくなった。
N女子大で合格した学科は、実学の農学ではなく、理学系の生物、生化学を学べるところだった。
受験科目と合格可能性から、国立大は理学部は受験できないので、農学部を志願した。
受験勉強をしていた間は、地方の国立大学に行って、寮生活をして、親元を離れる生活に夢を持って、入試に邁進していたのだった。
緊張が緩んだとき、自宅から大学に通うほうがいいような気がしてきた。
地方に行くことに、心細さを抱くようになった。
甘ちゃんだからだ。
遠方の大学に行ったら、度々実家に帰るために、交通費も高額になり、生活費も仕送りしてもらわなければならない。
自宅から通える私立大学と私のために使う金額は変わらなくなってしまうのではないかとそんなことも思った。
私立大学を決めるとき、学費の少ないところを条件に捜した。
滑り止めにするとしても、行くことになるかもしれない私立大学であるから、それを重視した。
受験勉強の時、国立大学の合格だけを目指して頑張ってきた。
心細さもなく、願書を書くのも、受験の旅館を予約するのも自分でやり、入学した場合の学生寮の入寮の申し込みもした。
結局、N女子大に行きたいと両親に話した。
許してくれた。
4月、都内のN女子大に入学した。
数日後、中国地方の国立大学の学生寮から、自宅に電話がかかってきた。
寮「大学入学はしましたか?」
私「はい」
寮「入寮しますか?」
私「? 東京の大学に入学したのですが」
寮「そうでしたか」
私は、その大学に入学しなければ、同時に入寮もないことになるのかと思っていた。
受験の旅館は連絡してキャンセルしたが、学生寮も直接キャンセルしなければいけなかったらしい。
謝って、キャンセルして頂いた。
もう一つの北関東の大学の学生寮にも連絡を入れた。
N女子大に進学したことが、良かったのか、親元離れて、遠くの大学に行ったほうが、良かったのか、今もわからないが、それが18歳の選択だった。
大学3年の夏だったか、卒論はどの先生につくか、選ぶ時期が来た。
学内、学外と卒論生を受け入れる研究室の一覧があって、師事したいと思う先生との面談に研究室を回る。
2か所の研究室で話を聞いて、若い女性の講師の先生は、植物細胞を培養して、細胞壁にある酵素の生化学研究をされていた。
私は細胞培養に関心があったので、生化学は得意の分野ではなかったが、先生の穏やかそうな笑顔や落ち着いた話し方にも魅かれて、この先生のもとで卒論を研究しようと決めた。
その先生の授業は取ったことがなかった。
先生は出産を控えていて、卒論生は1名しか採らなかった。
3年の秋、卒論の先生は、アルバイトに姪御さんの家庭教師をしないか、と仕事を紹介してくれた。
そのとき、大学院生が中学受験の小学6年生の家庭教師をしていて、家庭教師を辞めるので、後任を捜しているということだった。
私の家は大学からは1時間50分もかかる郊外にあったが、姪御さんは、うちの駅の隣の駅の団地に住んでいた。
その近さのことがあって、私のところに話が来たのだろうと思う。
その前に夏休みにもその先生が、通信教育のスクーリングの助手をしないかという話をくれて、全国から来るスクーリングの学生の生化学実験のアシスタントのアルバイトをしたことがあった。
さて、小学6年生のR子ちゃんは、四谷大塚の進学教室に通っていて、毎週日曜の全国模試でも名前が載る優秀な女子小学生だった。
私の任務は、四谷大塚の模試を受けたあと、間違えたところの解説をしてほしいというものであった。
私は中学受験はしたことがなかったし、選ばれた子が集まる私立に進学することは、あまり賛成の立場ではなかった。
世の中には、いろいろと暮らし向きや境遇がさまざまの子がいて、公立学校には、世の中の縮図のように、人が集まっていることを肌で感じて、中学時代を過ごすことに大きな意義があると思っていたからだ。
しかし、R子ちゃんのお母さんと、先輩と私で面談し、お寿司をごちそうになって、週2日家庭教師として来ることに決まった。
中学受験をしなかったと書いたが、算数では、つるかめ算、植木算、旅人算など、応用問題は全く私は覚えていないし、第一、小学6年のとき、そういうのは解けなかった。
中学からは、x,yを使って方程式にすれば簡単に解けるものでも、小学校では、x,yは使わないので、R子ちゃんには、正直に話しておいた。
数学を交えて、解説するより方法はなかった。
四谷大塚の試験の解説のページを、「見させてもらっていい?」と聞いてから、ふむふむ、こう解くのか、と納得してから、R子ちゃんでもできなかった問題を解説して、類似問題を作って解答してもらった。
算数では、余談も入れて、数学も小出しに話した。
私「ある数が2で割れるかどうかは、偶数かどうかでわかるよね」
R子「はい」
私「では、ある数が3で割り切れるかどうか、瞬間で分かったらいいと思わない?」
R子「はい」
私「九九より大きな数だとすぐにわからないでしょ。割り算しないでは。」
R子「はい」
私「156が3で割り切れるか、割ってみて」
R子「割り切れます」
私「156の 1と5と6を足してみて」
R子「12です」
私「12は3で割り切れるよね。どんなに大きな数字でも数字を足し合わせて、3の倍数なら、
割り切れるのよ。
その12もさらに 1+2にして、3になる。それが3の倍数か見れば、割り切れる。
例えば、16,942は、足すと?」
R子「22」
私「さらに足すと?」
R子「4」
私「実際、割り算してみて?」
R子「割り切れません」
私「そうすれば、3で割り切れる数字かどうか、すぐわかるのよ。
自分で例題の数字を作って、やってみて。
今は、あまり役に立たない知識かもしれないけど、中学で数学をやれば
役に立つと思うよ」
いつも、四谷大塚の正答のページを読ませてもらってから、説明していた、力のない家庭教師のどこが気に入ったのか、R子ちゃんの希望で、週3回の家庭教師になった。
翌年の1月、R子ちゃんは、女子学院と、青山学院の中学校に合格した。
女子学院に進学を決めた。
R子ちゃんの入試問題を解説して、最終日、ケーキのホールをお礼にと頂いて、R子ちゃんの家を後にした。
今日も、夫の1日の食事記録表を掲載する。