わたしが就職した昭和30年に教えた子ども達が、昨年還暦を迎え、同級生
で旅行したと、今年の年賀状に書かれていました。
今年から戦後の段階の世代と呼ばれる人(昭和22年~25年生まれ辺り)
たちの退職が始まるのです。生徒数の多い時代でした。終戦の20年生まれは
最も少なく、戦地から帰ってからどっと生まれたのでした。
教室が足りず、仮設校舎もありました。わたしが勤めた学校は志摩でも
大きな漁村で、当時は1学年4クラス52人いました。1000人を超える学校
もかなりありました。 (父親は遠洋漁業や出稼ぎ(石工)で不在が多かった)
木造校舎で障子の入った欄間があり、教室や廊下など雑巾がけ(雑巾で拭く)
をしました。給食もなく、お昼は家に帰り食べてまた学校へと、お昼からになると
教室には小さな子どもが来て座っていることもありました。保育園とてない時代
でしたから子守りにつれてくるのです。 まあおとなしく床に座ってお絵かきなど
して いましたが・・・・
何しろ大勢でしたから、毎日大声で叱りとばしてもいました。どんなに叱られ
ても素直(親と先生には口答えできなかった時代?)でした。20歳そこそこの
新米先生でも困ることなく楽しく仕事が出来ました。今はどうでしょう?
半世紀も前ですから今では到底考えられない状況でした。
生活も家から通うことは出来ず、(今なら車で30分)下宿生活、(教員住宅
もありましたが)共同炊事場、石油コンロ、スーパーもインスタント食品もない、
お風呂は近くの銭湯へ・・・・・ 赤い手ぬぐ いマフラーにして(歌 神田川)ではないで
すが、下駄の音をカランコ、ロンと響かせて通ったものです。
あの頃の子どもたちが、退職の時を迎え、改め50年という年月の長さを
感じます。最初の教え子は、特に思い出多く、忘れられないことが多いです。
今の先生は大変だね。