スポーツの祭典第61回国民体育祭が今年は阪神淡路震災の被災地
兵庫県で開催されることになり、今日は天皇、皇后陛下をお迎えしての
開会式でした。
その開会式の様子をテレビで見ました。三重県も474名の選手団が緑の
濃淡縞のユニホーム姿で入場していました。今日から10月10日までさまざまな
スポーツが若い力で繰り広げられます。
国体で思い出すことがわたしにはあります。昭和50年三重国体ですが、当時
わたしは鳥羽小学校でした。県からの要請を受け、鳥羽のマーチングバンドが
前年開催県の茨城から三重への国体旗の受け渡しのセレモニーにとのこと
でした。
組合の方では反対の立場をとっていましたから、スポーツ少年団としての
出場でした。決まってからが大変でした。音楽担当の教師3名(女子)が主に
なり、男の先生も監督、叱咤激励のサポート役となりチームを編成し、保護者
の応援も得て5,6年生41名で1年半に至る練習をしました。
作曲は東京芸大の教授で指導にも度々来られました。またドリル(隊形づくり)
にはもとオリンピックの際に指導したといわれる方にも何度か 来ていただき、
姿勢、歩き方、隊形作りなど指導してもらいました。
何しろ歩幅は55センチと限られメインまで何歩と言うほど綿密でした。
メインではドラムを敲きながらミエの人文字に隊形を変化していくことも
しました。
このとき鳥羽市では、フェンシングと相撲競技が行なわれ、入場行進や
表彰式などで 吹奏楽(トランペット、トロンボーン、スーザホーンなど)で
「君が代」や「ファンファーレ」を演奏させたこともありました。
そのときの子ども達も今や40歳を過ぎ、国体の開会式を見ると思い出す
こともあることでしょう。子ども達も教師も、保護者も熱く燃えた50年国体
を今は懐かしく思い出します。