城台山日記

 城台山の麓で生まれ、毎日この山に登り、野菜・花づくり、読書、山登りをこよなく愛する年寄りの感動と失敗の生活日記です。

GALAPAGOS 21.12.18

2021-12-18 20:07:24 | 面白い本はないか
 新型コロナの蔓延により、旅行中でも海外旅行は難しくなっている。加えて日本経済の衰退により、為替レートは円安のままであるから、海外に出かけるには、かつてなくお金がかかるようになってきた。一方で、外国の人々にとっては、日本の物価は安く、お買い得商品、サービスに溢れていることになる。一時期、スペインあるいは南米に行ってみたいと思っていた。そのために、ラジオのスペイン講座を数年聴いていた。生憎その願いはコロナ及び年をとったことによる出不精によって減退しつつある。ヨーロッパだと最低でも11時間狭い空間に押し込められる。そこに時差による睡眠不足、さらには旅の後半になると必ず胃腸の不調に悩まされる(食べ過ぎが原因だと分かっているのだが、つい食べ過ぎてしまう)ので、これを覚悟しなければならない。さらに連れ合いは、海外よりも温泉のある国内を希望していて折り合わない。

 そんな時に福岡伸一著「生命海流ーGALAPAGOS」に出会った。この本には著者のほプロの自然写真家も随行していることもあり生き物写真はもちろんのこと借り上げた船(マーベル号)の乗組員、料理なども掲載されており、十分行った気にはなる。

副題からもわかるように、南米エクアドルの西の太平洋上にあるガラパゴス諸島(名前の付いている島123、主要な島だけでも13島、しれが関東地方くらいの範囲に分布)の紀行文である。この著者は生物学者、かつての昆虫好き少年で、彼の書く文章はわかりやすく、かつ面白いので、是非読んでみて欲しい。ちなみにここを観光で訪れようとすると日数で9日間、費用50~60万円くらい最低でもかかるようである(もちろん今はコロナで行くことはできないと思うが)。

 (中の地図)南米大陸から1000km離れている、(左)海イグアナ(右)ガラパゴスゾウガメ いずれもガラパゴスを代表するは虫類である

 さて、著者はどのような旅を計画したのであろうか。1835年にイギリスの軍艦ビーグル号(排水量242トン、軍人70余名が乗船)が訪れたガラパゴス諸島、この時訪問した島々に上陸する計画だった。そしてこの船には、後に「種の起源」として結実することになる22歳のダーウィンが船長のコネで乗船していた。だから著者はここへ是が非でも、そしてビーグル号のたどった航路で行ってみたかったのである。この本前書きが長いがさすがに飽きさせることはない。最初テレビ局の仕事でここに行く計画(有名タレントに説明する役回りの生物学者)もあったが、著者の意向もありこれは破談。あきらめかけていたところに今回スポンサーとなった出版社(朝日出版社)の有名編集者との出会い等モあり、実現の運びとなった。

 ダーウィンはこの時、進化論の構想は全く心の中に準備されていなかった。ダーウィンは島々に分布する「フィンチ」(文鳥やカナリヤの仲間)を持ち帰った(今では生き物ばかりでなく無生物も持ち出し禁止で持ち出せば刑務所いきとなる、南米の刑務所はとても怖いとも書いてある)。硬い実を割るフィンチは太くて硬いくちばし、一方細い穴から虫を掘り出すフィンチは細長くて繊細なきちばしを持っている(以前テレビで見た)。この時ダーウィンは環境に適応し進化したものだとは考えていなくて、全く別の種だと考えていた。

 フィンチ右が太いくちばし、左が細いくちばし

 ガラパゴスの謎が三つあるそうです。一つはこの島に生息する奇妙な生物たちはどこから来たのか。そしてなぜこのような特殊な進化を遂げたのか。一番近い南米の大陸からも海上1000km離れている。ガラパゴスゾウガメは甲羅の長さ1m、体重数百kgだが、その祖先といわれるリクガメはもっと小振り、しかもガラパゴスの方が環境が厳しいにもかかわらず。おなじみのイグアナ、海イグアナと陸イグアナでは生息環境が全く違うが、交雑することがたまにある(子どもはできないそうだが)。二つ目は誰がガラパゴスを発見したのか。スペインから南米インカに派遣された伝道師の船が漂着したのが1535年だが、それ以前に到達した人がいるのではないか。そして三つ目は1535年から300年世界史の中から忘れ去られていたこと。エクアドルが独立したのは1830年、そのすぐあとガラパゴスの領有を宣言した。ビーグル号到着のわずか3年前だった。

 最後にガラパゴスの生き物たちは人間を怖れない。なぜだろうか?伝説ではガラパゴスの生き物たちが人間世界から隔絶されており、人間をよく知らず、人間の恐ろしさに無知だからという説だ。ダーウィンは人間の脅威というものが学習されていない。人間の恐怖を経験しても、それが世代を超えて伝承されるためには膨大な時間がかかると考えた。著者は、こう考えた。すなわち、人間を怖れないどころか、人間に興味を持つような行動を示すのは、ガラパゴスの生き物たちには「余裕」があり「遊び」を知っているからだと。その理由はこの諸島へ来ることができたものは、そもそも選ばれし生き物であり、熱や乾燥に強く、植物性のそれもごく限られた貧しい餌に耐え、水もわずかしか必要としない生き物。ゆえにこの諸島では大陸で起きているような生存競争とは無縁の世界である。だから余裕、遊びが出てくる。なんとも羨ましいような環境ではないか。著者の言葉、ガラパゴスはあらゆる意味で進化の最前線であり、本来の生命の振る舞いを見せてくれる場所なのである。

 ※以下はおまけ。今日の早朝里でも雪が降った。冬靴を履き、いつもの城台山から城ヶ峰まで足を伸した。去年の里の雪はブログによると12月16日だった。

 揖斐小から城ヶ峰 8:51

 一心寺 9:01

 城ヶ峰(351.5m) 9:50

 城台山から池田山 10:20(帰り) ⒉回目か3回目の冠雪




 
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ポーツマスの旗を読む 21.12.15

2021-12-16 19:57:39 | 面白い本はないか
 今年も残すところ半月となった。随分少なくなった年賀状も既に書き終えた(もちろん「筆ぐるめ」を使っているので書いてはいないのだが)。これが最後の年賀状とか言ってやめて行く人も年をとったせいか多くなってきた。残る大きな仕事では窓ふきがあるが、これも一階の窓には高圧洗浄機を使って水をかけたので、あとは拭き取りのみとなる。

 さて、10月16日付けブログ「司馬史観とは」で司馬遼太郎の歴史小説を取り上げた。この司馬と同様膨大な歴史小説を書いている作家に吉村昭がいる。前から彼の作品は読みたいとは思っているのだが、ついつい後回しになっていた。先日佐高信著「時代を撃つノンフィクション100」(岩波新書)の一冊に「ポーツマスの旗」が取り上げられていたので早速購入して、昨日と今日読んでみた。先週の日曜日、大河ドラマ「青天を衝く」でまさしく日露戦争の前後を放映していたこともある。そこでは戦勝の知らせに沸く民衆、そして対照的に講和条約後の暴動、それは渋沢栄一にも及んだ様子が描かれていた。司馬も「坂の上の雲」の中で大きく日露戦争を書いているので、両方を比較して読むと面白いと思う。小村寿太郎は教科書の中でも大きく取り上げられており、講和会議さらには関税自主権の回復に果たした役割は大きく、明治以降で最大級の偉人であろう。

 新潮文庫

 小説の冒頭に日本橋の人形商に国旗や旗竿を買い求める人でごったがえす様子が書かれている。日露戦争で日本軍が大きな犠牲を払いながらも、ロシアに対して勝ち戦をしていることに民衆が喜んで、手に入れたばかりかもしれない国旗を掲げて万歳と叫んでいる。旅順攻略、日本海海戦などで大きな戦果を上げているのだが、実態は兵も弾薬もなく、追撃できないという軍の事情があった。一方でロシアは内乱の危機が迫っているが、国力的にはまだ余力がある。戦い続ければ困るのは、ロシアより日本である。しかし、当然ながら民衆はこのような事情を知らない。これが小村寿太郎が全権となって望んだ講和会議における交渉が困難を極めることになった理由であった。戦争に動員された兵力は約109万人、戦死4万64百人、負傷約16万人、軍費陸軍約13億円、海軍2億4千万円、講和会議でその損害がおぎなえるかどうかは極めて疑問だった。

 ※戦争における賠償額
  日清戦争 下関条約で日本は清国から2億両(日本円にして3億1100万円 日本の当時の国家予算の4倍
  第一次世界大戦 ベルサイユ条約で敗戦国ドイツに化された賠償額は1320億金マルク(「天文学的数字」だと言われた。支払対象国フランス、イギリス、イタリア、ベルギー)この時イギリス大蔵省主席代表を務めたのが後に経済学者として有名になるケインズであった。そして書いたのが「平和の経済的帰結」。結局ドイツはナチス政権のヒトラーが1933年に支払いを拒否した。
  日本の戦後賠償 サンフランシスコ平和条約で連合国に対する賠償は放棄された。日本は占領国に対し賠償金を支払った(ドイツの例が参考にされた)

 随分前に小村の出身地、日南市飫肥を旅行で訪れ、小村の記念館でみた実物大の人形には驚いた。身長四尺七寸(1.43m)、当時の日本人はかなり小柄だったとしても随分低い。しかし、頭脳明晰で文部省の第一回目の海外留学生としてハーバード大学に学んだ。父親の残した多額な借金の返済に常に追われ、生活は慎ましいものだった。さらに美貌に惹かれて結婚した妻(家事、お付き合いができない)とは生涯うまくいかなかった(このため芸者遊びを随分行った)。外交官となったが、英語はできるものの、漢学の教養に乏しいこともあってなかなか出世街道に乗ることはなかった。陸奥宗光が小村の不遇に同情し、北京l公使館に代理公使として赴任し(この時情報収集に動き回る小村の姿を見た外国の外交官が「rat minister」と影で呼んだ)、後に起こる日清戦争において、その存在を際立たせることになった。その後、外務省の政務局長、駐韓公使、外務次官、駐米特命全権公使、駐露特命全権公使などを歴任し、明治34年桂太郎内閣の外相に就任した。そしてロシアを牽制するために日英同盟を実現させた。

 
 勝算の薄い講和会議なかでも領土の割譲、賠償金をめぐってはほとんど絶望的だった。日本軍はロシア軍がほとんどいない樺太を占領して、この割譲に最後の望みをかけたのだった。講和が決裂するばかりとなった時、日本政府からもたらされたのは、あくまで講和成立をはかること、そのため賠償金請求を放棄、それでも合意できない時は樺太の割譲も放棄せよという命令だった。政府としては戦争を続行することは不可能で、朝鮮、満州の権利の獲得で十分だと考えたのである。土壇場でロシア皇帝の譲歩があり、辛うじて樺太の南半分の割譲に成功した。しかし、戦争の実態を知らない知識人を含む人々はこの講和条件に著しく反対し、小村は英雄から国賊となってしまうのであった。

 読み終わって感じたことを最後に書いておく。1868年に明治維新、1904年に日露戦争、そして1941年に日米戦争開始と日露戦争が丁度中間地点にあることがわかる。司馬が強調するように、日露戦争は軍人、政治家ともに戦争の実情を正確に把握し、その止めどきを誤りなく実行した。一方、太平洋戦争は軍が独走し、政治家が追随し、すでに敗戦が濃厚になっているのにもかかわらず、止めようとしない軍の組織と政府のあまりの違いに驚くほかない。また、この作者は登場人物の描写について実に徹底している。それは小村一行に加わった外務省雇いのアメリカ人のデニソン(アメリカの外交官だったが退職し、日英同盟など日本が外国と結ぶ文書の作成に当たった)にも及んでいる。彼の年俸1万円(対する上司である小村の年俸は6千円)、彼の妻は日本の湿気を嫌いエジプトに住まい、デニソンからの仕送りで優雅に暮らしていたとまで書いている。小村の妻も外務大臣官邸に暴漢が来たことなどより精神に異常を来し、小村臨終の席にいなかったとある。人間小村の実像が明らかになる様はやはり読んでいて大変面白い。
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月一健康山歩クラブの思い出 21.12.11

2021-12-11 19:23:32 | 山登り
 月一の例会はいつものように大野アルプスで行われた。例年、12月と1月(百々ヶ峰)は場所が決まっており、2021年最後の例会となるはずだった。運動公園を9時に出発し、ゆっくりと大谷山、滝谷山、雁又山を経て、鉄塔の道を下りに使い、14時に公園に戻ってきた。終了の挨拶は少しいつもと違う雰囲気の中で行われた。この会の代表のKさんから代表を辞めるという挨拶があった後、役員であるYさんからこの会を解散することにしたと報告があった。今日の参加者30名の中には随分唐突な印象を受けた人もいるであろうことは容易に想像できた。解散の理由は代表がけがを負って、まだ回復には時間がかかること、参加者が年々高齢化しつつも、会員が45名、例会への参加者20名~30名と多く、例え易しい山を選んだとしてもけがなどの危険は高まり、役員の負担、責任は高まっていかざるをえないなどと推測される。もともとこの会は、20数年前にHさんが代表となって始められた会で、数年前にKさんが代表の職を引き継ぎされた。

 私がこの会に入ったのは、2011年3月12日(なんと東北大震災の翌日)南宮山からだった。当時は月一の例会ではなく、月二だった。最初に驚いたのは、雨が降っても中止にならなかったことである。蕪山では土砂降りの中登り、雨具どころか傘をさしてお昼を食べた。冬には、ワカンを付けて土蔵岳や鍋倉山などに挑むのだが、毎回時間切れで山頂に達することはなかった。年間の計画はHさんが立てられ、1月には立派な冊子が配られた。そこには例会の山の詳しい説明や登山に当たっての注意みたいなものが満載されていた。申込みも全てHさんが把握していた。決まった会費もなく、ほとんどがHさんの持ち出しで行われていたと思う。私は2014年にOSKに加入したので、それからの活動の内容については承知していないのだが、北アルプスや南アルプスにも足を伸したと聞いた。2019年年末ににOSKを辞め、厚かましくながら、翌年の3月から再び月一に参加させていただいた。

 2011年8月5日 冠山冠平

 2012年3月3日 貝月山 なかなか山頂に立つことはできなかった 前おじさん、後Iさん
 
 今どこの山の会でも高齢化が進んでいる。中には厳しい山の登山からハイキング、さらには飲み会中心の会となっていると聞く。さらに問題なのは目的の山までの移動手段であろう。人様を乗せるわけだから、自己責任では済まされない。かといっていちいちプロの業者を頼むわけにはいかない。昔の年寄りとは違い、今の年寄りはおじさんを含めてまだまだ元気だが、やはり山の事故さらには目的地までに起こるかもしれない事故が心配となる(うちの家内はそれを特に心配している)。しかし、年寄りにしてみれば、一人では行きたくないし、その自信もない。また、グループで登る時の会話は大きな喜びとなっている。月一のメンバーの中には、すでに複数の山の会に所属している人も多い。どこにも所属していない人には、是非自分にあった山ともやグループを見つけて欲しいと思う。

 最後にこの会を長いこと運営されてきたHさん、Kさん、Yさん、Mさん、N女史に最大の敬意を捧げるとともに本当にご苦労様でした。再び一緒に登る日があることを祈ります。

付録 今日の大野アルプス







 鉄塔の道

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新雪の霊仙山 21.12.5

2021-12-05 19:50:58 | 山登り
 今日は快晴の中柏原登山道から霊仙山(1083.5m)に登ってきた。同じルートから2年前(2019年12月28日)に登ったが、その時とは打って変わって4合目付近からの雪の道そして快晴かつ無風という幸運に恵まれた。柏原登山道は長い行程だが、避難小屋の手前を除くと緩やかな尾根道が続く魅力的な道である。おまけに登山者が少ない(今日は4組)ところも良い。経塚山当りから急に登山者が増えてきた。

 ルートの説明は2年前にしているので、今日は写真とその説明だけにしておく。

 2年前はEさんの軽トラ、今回はおじさんの乗用車だったので、その時より随分手前の旧養鶏場の少し先の林道の脇に駐車 出発8:27
 駐車地の先にもう少し広い場所があった

 二合目二本松 9:11 ここで別の林道を上がってきたダブルOさんと合流 合計6名となる
 ダブルOさんとの山行は2月の天狗山以来

 四合目コンテナの避難小屋 9:51 雪がうすく積もっている
 雪が出てくると胸が高鳴るような感じに襲われる

 雪の道その1 10:03

 雪の道その2 10:23

 霧氷 昨夜降った雪が木々に付いた 10:25

 避難小屋が見えてきた 10:49

 伊吹山 11:05

 避難小屋から経塚山  左が最高点(1094m) Eさん提供 

 最高点に向かう 11:25 右端が霊仙山山頂

 最高点 11:40

 左から伊吹山、能郷白山、白山

 無風の最高点、絶景を眺めながらの昼食!!(当初は山頂は寒いので小屋を予定していたのだが)

 藤原岳、御池岳方面 12:13 

 コースタイム 駐車地8:27→二本松9:11→四合目避難小屋9:51→最高点11:40~12:20→駐車地14:45



 
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熱き人々その2 21.12.3

2021-12-03 19:41:17 | 面白い本はないか
 最近のニュースでこんなのがあった。辺野古沖で進む埋め立て工事について、地盤が軟弱なため設計変更を沖縄県に求めているが、県は認めないとしている。再び振り出しに戻ったような話である。随分前から軟弱地盤であることは分かっていたはずなのに、工事はどんどん進み、今頃になって設計変更だときた。莫大な費用をかけて強行(ひよっとしたら未完成のまま終わる可能性だってある)するだけの価値があるのか疑問符がつく。さらに今度の超大型の補正予算により、防衛費は初の6兆円を超えるときた。この中には効果不明なミサイル防衛のための費用が含まれる。北朝鮮から飛んでくるミサイルを撃ち落とすのだそうだが、本当に打ち落とすことができるのだろうか。中国が開発を進めているマッハ5で飛んでくるミサイルは撃ち落とすことができない。アメリカの言うことなら何でも聞く日本政府は、効果もないような装備を買わされているように思える。現代版の軍拡競争を中国、北朝鮮、韓国、台湾等が繰り広げている構図。一体誰が最も得をするのだろうか。アメリカは軍産複合が強い国であるし、彼らにとっては軍事的緊張があることは望ましいのだ。東アジアはまさに彼らの金城湯池(稼ぎ所)なのだ。しかし、この中では日本は最も分が悪い。なにせ借金大国だし、経済成長していないので返済することも難しい。

 おじさんが高校生だった頃、ある歴史の会に出たことがある。その会では参加者は正座し、日本の戦後の歴史をめぐる理解不能な高尚な議論(どちらかというと国粋主義あるいは皇国主義とでも今なら分類するが)が行われていた。あるとき不意におじさんに発言の順番が回ってきた。当時のおじさんの戦後の歴史認識と言えば、戦前は軍国主義に支配され、敗戦により日本に民主主義や平和主義がもたらされたという中学校で習った程度の知識しかなかったので、それについて発言した。それに対して、おそらく周囲の人たちはあまりにも何も知らないと思ったに違いないが、皆さん大人でそれを注意することはなかった(とにかくこの正座に閉口して二度とこの会へ出ることはなかった)。高校では日本史を学んだが、授業は明治時代で終わりだった。大学時代にはベトナム戦争に対する反対や沖縄返還運動の中でデモなども参加したのだが、基本はノンポリであった。ベトナム戦争と沖縄の関係もっと以前なら朝鮮戦争との関係についても注意を払うことなどなかった。1990年代頃までは日本経済が好調であり、日米構造協議など難しい問題はあったが、おじさんも含めてまだ自信と余裕があり、日本がアメリカに従属していると感じることはなかった。日本経済が勢いを失いつつあった2000年前後の頃から戦後の日米関係について沢山の本を読み、敗戦から続く従属体制について少しばかりのい知識を得た。

 やっとここで今日の熱き人を登場させる。その人は2013年に「永続敗戦論」を書いた白井聡。もちろん戦後の欺瞞、問題を指摘する多くの知識人がいる。このブログで取り上げた加藤典洋(21.3.2「日本の戦後を考える」)、佐伯啓思、西部邁(21.8.29「日本のいびつな保守主義」)などもそうである。永続敗戦論とは、アジア太平洋戦争において膨大な犠牲者を出したうえに負け戦に終わったことの責任をとらないばかりか、直近の敵国に取り入り、この敵国の軍隊が駐留することを進んで促してまで自己保身を図った人物とそれの取り巻きとなることで権力を維持してきた。そして敗戦を終戦と言い換えてきた人たち。白井は「永続敗戦論」のあとがきでこう言っている。「元来政治哲学や社会思想を専門とする研究者である私が、本書のような時事的政論を主題とする書物をかく日が来るとは、考えたこともなかった。」「本書はこれまで何度も指摘されてきた、対内的にも対外的にも戦争責任を極めて不十分にしか問うていないという戦後日本の問題をあらためて指摘したにすぎない。」ここでガンジーの言葉が引用されている。「あなたのすることのほとんどは無意味であるが、それでもしなくてはならない。そうしたことをするのは、世界を変えるためでなく、世界によって自分が変えられないようにするためである。」

 最近出た「主権者のいない国」では、安倍政権について厳しく断罪している。長期安定政権にもかかわらず、ろくな成果を出せず、ほとんどの政策が失敗に終わった。失敗を続けているにもかかわらず、それが成功しているかのような外観を無理矢理作り出し、嘘の上に嘘を重ねている。「公正」や「正義」といった社会の健全性を保つために不可欠な理念をズタズタにした。そしてそれに荷担したメディアの責任。民意に追い込まれて退陣したはずが、体調不良によるものとされてしまった。

※少し箸休めをしよう
 
  数々の政策、どれが実現しただろうか 次々と目先を変えて国民を騙す手法は見事
 
  リベラル政党の認識は高齢者と若者で大きく異なる 原典 読売新聞・早稲田大学共同世論調査(2017年)
  「日本社会は保守化・右傾化しているのでなく、革新=リベラルが絶望的なまでに退潮しているということです。革新政党を自認する共産党は、若者からは「保守政党」と見なされ、それ以外の生まれては消えていく野党も、保守かリ   ベラルかというイデオロギー対立以前に、そもそも政治勢力として扱われていません。」以上橘玲「事実vs本能ー目を背けたいファクトにも理由がある」から引用。「保守主義」とは理性に基づいた無条件の進歩を疑う、伝統を重視し、漸進的な改革を主張する。自民党は左翼ばりに改革ばかりを主張する。

引用を続ける。戦後日本は「敗戦を否認」してきたのであり、これを可能にした最大の要素こそ戦後の「親米」の名を借りた対米従属である。アメリカの最重要パートナーに収ることで、比較的速やかな復興をはじめとして、戦後日本は敗戦の意味を極小化することができたことはには幸福であった。その幸福の代償が政治と社会のゆがみとして全面的に露呈してきている。統治エリートの領域では世界に類を見ないような卑小さを伴う自己目的化した対米従属として現れている。冷戦時代の終わりにより対米従属の合理性は失われたはずなのだが、ポスト冷戦期において、さらに従属姿勢はより露骨になってきた。

 中国、北朝鮮そして同盟国であるはずの韓国という「良い関係」を結ぶことができない、あるいは良い関係作りに失敗している国に囲まれて、この過度の対米従属(西側の国で対米従属していない国はないとの主張もあるが、卑小な従属はいけない)から抜け出ることは容易ではない。でもガンジーの言葉に我々も勇気づけられていこうではないか。 
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