体の儚さを知る
自分が今どこに住んでいるのか、あの人は分からないらしいですよ。自分の住所を書いていて自分が今どこに住んでいるのか分からなくなってしまうようですよ。
このような話を同室の入院患者さんから聞いた。この話を聞き、自分の体験から他人事ではないと思った。「今日は何月何日か、分かりますか」。医者が患者に問う声が聞こえる。入院患者にとって今日が何月何日になるのか、難しい問のようだ。入院患者の毎日は単調なものだ。毎日が同じことの繰り返し。昨日と同じ毎日が続く。今日が何月何日だということに意味がない。今日の日に入院患者の関心はない。退院の日が決まった者にとっては今日が何月何日なのかに強い関心がむく。しかし退院がいつになるのか分からない者にとって今日の日に関心を持つ必要がない。医者の設問が続く。「ここはどこか分かりますか」、「分かります。病院です」、「何という病院ですか」、「分かりません」、「どうしてAさんはここにいるのですか」、「分かりません。気が付いたらこの病院のベッドの上にいたのです」。
こんなことが実際にあるのだ。立派な顔をした70歳前後の紳士が若い医者の設問に答えている。この医者と患者の問答を聞き、私は人間とは記憶だと思った。私は私だというのがアイデンティティーだと昔教わった記憶がある。私が私だと言えるのは私に確実な記憶があるから言えることだと実感した。自己同一性とは、記憶に担保されているものだと認識した。人間をして人間たらしめているものとは記憶だ。記憶があるから私は私だと言える。私が私であることに耐え難いと強く感じている人間が自分という記憶を捨てたい思い、自分を捨てた人間が二重人格だという文章を読んだ記憶がよみがえった。人間は記憶を失うことができる。人間は記憶を失うことがある。人間は記憶を失うことによって新たに生きる道を探すことがある。人間は記憶を失うことによって自分を失うことがある。
人間の記憶とは実に儚いものだ。儚いが故に助かる人がいる。儚いが故に自分を失う人がいる。脳の一部が損傷されることによって記憶を失う人がいる。精神的苦痛が記憶を奪うことがある。記憶とは厄介で傷つきやすい、赤ちゃんの肌のようなもの。失う恐怖があると同時に記憶にあることによる苦しみをもたらすものである。
記憶とは誰にとっても大事なものとして大切に大切に守っていきたいものだ。