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宮応かつゆきの日本改革ブログ

●日本共産党
総選挙で市民と野党の共闘で政権交代を、共産党の躍進をめざします。

飯島喜美は故郷(千葉県旭市)の大先輩ー党の歴史と役割を考える(2)

2018年07月12日 | 日本共産党の歴史と役割

 「しんぶん赤旗」10日付は、党創立96周年特集記事を掲載しました。 「戦前の”天皇絶対”政治とのたたかいーー日本国民全体の財産、憲法に実を結ぶ」の頁では、市川正一、岩田義道、小林多喜二の写真とともに、飯島喜美の写真が掲載されました。

 本文の中では、「遺品のコンパクトに『闘争・死』の文字を刻んだ飯島喜美(35年獄死)をはじめ少なからぬ女性党員が不屈にたたかい、命を落としました」とあります。 彼女は栃木刑務所で獄死しました。

 飯島喜美が私の故郷(現旭市)の大先輩、私の母親と同世代の人であることを大分前に知りました。 何度か墓碑を訪れたこともあります。

 「日本共産党の80年」(1922~2002)には次のような記述があります。(47頁~48頁)

 「戦前、少なからぬ女性党員が、天皇制政府の弾圧に抗して、不屈にたたかい、社会進歩の事業に青春をささげました」

 「女性の活動や組織化に力をつくすなかで33年5に検挙され、35年に獄死した飯島喜美の遺品のコンパクトには『闘争・死』の文字が刻まれていました。 共青中央機関紙『無産青年』編集局ではたらき、各地に配布網を組織した高島満兎(まと)は、33年3月、活動中特高におそわれ、2階から飛び降りて脊髄複雑骨折の重傷を負い、翌年7月、下半身不随のまま死去しました」

 「『赤旗』中央配布局で『赤旗』の配布をうけもった田中サガヨも弾圧に倒れた1人です。 33年12月に検挙された田中は、獄中でチリ紙に姉への手紙を書き、『信念をまっとうする上においては、いかなるいばらの道であろうと、よしや死の道であろう(と)覚悟の前です。 お姉さん、私は決して悪いことをしたのではありません。 お願いですから気をおとさないでください』としるし、35年5月に生涯をとじました」

 「『3・15事件』(1928年)で検挙された伊藤千代子は、天皇制権力に屈服して党と国民を裏切った夫への同調を拒否し、拷問、虐待にたえてがんばりぬき、翌年、急逝肺炎で亡くなりました。 彼女の女学校の先生だったアララギ派歌人の土屋文明は、言論統制のきびしい戦時下の1935年に、理想に殉じた伊藤千代子によせて『ここざしつつたふれし少女よ新しき光の中に置きて思はむ』とうたいました」

 「彼女たちが、党の若く困難な時期に、それぞれが24歳という若さで、侵略戦争に反対し、国民が主人公の日本をもとめて働いたことは、日本共産党の誇りです」

 同紙は、哲学者の鶴見俊輔さん(故人)の言葉を紹介しています。

 「すべての陣営が、大勢に順応して、右に左に移動してあるく中で、日本共産党だけは、創立以来、動かぬ一点を守りつづけてきた。 それは北斗七星のように、それを見ることによって、自分がどのていど時勢に流されたか自分がどれだけ駄目な人間になってしまったかを計ることのできる尺度として、1926年(昭和元年)から1945年(昭和20年)まで、日本の知識人によって用いられてきた」(「現代日本の思想」久野収氏との共著)

 


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