日本共産党綱領(2004年1月17日採択)の第1章「戦前の日本社会と日本共産党」には戦前の党の選挙活動についての記述はありませんが、天皇が全権限を握る専制政治の下で非合法活動を余儀なくされた日本共産党が選挙戦を堂々とたたかったことはよく知られていることです。
こうしたたたかいがなぜ出来たのか、改めて、多数者革命論の立場から研究され、今日の活動にも生かしたいと思っています。
「日本共産党の80年」には、次のような記述があります。
「28年2月、党は、普通選挙法による最初の総選挙をむかえました。 総選挙にあたり、党は、君主制の廃止、民主共和制の樹立、18歳以上の男女の普通選挙権、言論・出版・結社の自由、8時間労働制、大土地所有の没収、帝国主義戦争反対、植民地の独立などをよびかける『政綱』をまとめました」(同書33頁)
「そして、『赤旗』やビラで党の政策をひろく訴える活動を展開しました。 また、地方政治の分野では、任命制だった知事を公選制にかえ、地方自治を保障するよう要求しました」(同前)
「党は、この選挙で11人の党員を労働農民党(労農党)から立候補させました。 天皇制政府は、内務省、警察などを動員したはげしい選挙干渉を無産政党に集中しましたが、無産政党は、約49万票(得票率4・7%)を獲得し、8人の議員を当選させました」(同前)
「労農党は19万票と無産政党では最大の得票をえて、山本宣治(京都2区)ら2名を議会におくりました。 政友会は217議席、民政党(27年6月憲政会と政友会が合同)が216議席と両党で衆議院の90%をこえる圧倒的多数をしまました」(同前)
また、同書には、「天皇制政府は、29年3月5日、前年に緊急勅令で死刑法に改悪した治安維持法の事後承認を衆議院で強行し、これに反対してたたかった旧労農党の山本良宣治は、その夜、右翼テロリストによって刺殺されました。 党は、山本の活動をたたえ、日本共産党員の資格をおくりました」(36頁)と記述されています。
なを、この総選挙の有権者は、25歳以上の全ての男子でした。
党綱領の冒頭部分には、党創立の背景が簡単に適格に記載されています。
「日本共産党は、わが国の進歩と変革の伝統を受けつぎ、日本と世界の人民の解放闘争の高まりのなか、1922年7月15日、科学的社会主義を理論的な基礎とする正当として、創立された」
この記述に関わって、私が注目させられたのは、不破氏の著書「日本共産党史を語る」(上)の次ぎの部分です。
〔比較的健全だった時期〕(同書92~93頁)
「日本共産党がコミンテルンに加盟したのは1922年、レーニンがまだ健在で、多数者獲得、統一戦線などの課題の探究をはじめた時期でした。 そして、日本共産党中央が活動の中断を余儀なくされたのは1935年、コミンテルンが第7回大会で人民戦線の方針を打ち出した年でした」
「この時期は、『社会ファシズム』など戦術上重大な誤りがおかされたとはいえ、コミンテルンの歴史のなかでは、まだ割合に健全な時期でした。 ですから、日本との関係では、戦術論では誤まった路線のもちこみはあっても、戦略論では、22年『綱領草案』、『27年テーゼ』、『32年テーゼ』と有益な援助をうけましたし、党の解党決議のときにも、福本主義の横行のときにも、党建設の組織論の確立でも、党の発展に役立つ助言を得たのでした」
「そして、これから見るコミンテルンの最悪の変質の時期には、日本共産党とコミンテルンとの連絡は絶たれていました。 ですから、世界の共産党のなかでも、コミンテルン変質による悪影響をもっとも受けなかった党、ということができるかもしれません」
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます