遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『雨と詩人と落花と』 葉室 麟  徳間書店

2018-07-26 13:44:41 | レビュー
 本書を手に取って表紙を眺めても、本を開けるまでは、なぜか随筆集と思い込んでいた。3ページ目を開いて小説なのだと気づいた。なぜ随筆集と思い込んだのか? このタイトルのイメージから勝手な先入観を抱いてしまったようだ。 
 ならば、このタイトルは何に由来するのか。その解はこの小説の途中と末尾にあった。

  菘圃葱畔(しゅうほそうけい)
  路を取ること斜に
  桃花多き処是れ君が家
  晩来何者ぞ門を敲き至るは
  雨と詩人と落花なり

 書名は、この漢詩・七言絶句「春雨到筆庵」の最終行に由来する。作者は広瀬旭荘(きょくそう)である。調べて見ると、広瀬旭荘は、文化4年(1807)5月17日生まれで、文久3年(1863)8月17日に逝去した幕末の儒学者・漢詩人。
 この小説は、広瀬旭荘・松子夫妻の物語である。松子は筑後国吉木の神職・合原の娘。天保3年(1832)12月、旭荘にとっては後妻ではあるが新妻として松子を迎える婚礼の日の朝から書き出される。そして、
 「松子にとって、一番、幸せであったことは何だ」
 「旦那様の詩を聞くことでございました」
  ・・・・・・・・
 「旦那様、詩を聞かせてくださいまし」
 「詩といっても、どのような詩だ」
 「あの桃の花がいっぱいに咲いているあたりに君の家がある。夕暮れ時に門を敲いて訪ねてくるのは誰だろうという詩でございます。」
この夫婦のやりとりの後で、旭荘が吟じたのが、上記の詩なのだ。
 この詩は、旭荘が広瀬淡窓にともなわれて、筑後の松子の実家を訪ねた折に詠んだ詩だった、と旭荘は思い出す。

 この小説は、弘化元年(1844)12月10日、享年29歳で松子が病の果てに逝ったことと、摂津池田にて旭荘が57歳で没したことを記述して終わる。
 末尾の一行は「旭荘は松子のことを思い続けた詩人であったかもしれない。」である。
 この小説、儒学者・詩人である広瀬旭荘を妻・松子の視点を基盤にしながら描いて行く。1832年12月から1844年12月という期間における旭荘・松子夫婦の伝記風小説である。10年余というある意味では短い期間の二人の人生の歩みと夫婦愛を描き上げる。
 それがこの小説の中心軸となる。が、二人が生活したこの江戸時代末期に、詩人としての高き望みを持つ旭荘がその時代環境とその動向にどのように翻弄されたかという意味で、この時代背景そのものを旭荘との関わりを通し描くという視点を併せ持つ。旭荘の思いを察する松子がどのようにこの時代環境の中で旭荘を支えたかということにもなる。
 また、それは旭荘という人物と直接的に関わりをもった人々のうち、特定の人物群の生き様を点描していくことになる。

 旭荘は、九州・日田の広瀬家に生まれた。広瀬家は天領の日田金をあつかい、大名貸しまで行う富商である。25歳年長の兄が広瀬淡窓。儒学者であり詩人として名を馳せており、私塾の咸宜園を開設した人。天保元年に旭荘は子供のいない淡窓の養子となり、咸宜園を引き継ぎ、二代目の塾主となっていた。広瀬家本家は、淡窓の弟、久兵衛が継いでいる。
 旭荘は塾主となった年に、妻を迎えたが1年5ヵ月で妻が家を去る。旭荘の激情が妻に向けられる。今風に言えば、旭荘は家庭内暴力を振るったのだ。DVとの違いは、内奥から噴出した憤りが去り、興奮が冷めると、旭荘は自らの落ち度を悔いるのだが、時折己を制御できなくなるのだ。それが旭荘の弱点といえる。それ故、旭荘は再婚に躊躇する。
 淡窓が温和な君子人であるのとは対照的に、旭荘は矯激さのある人物だった。
 咸宜園の塾主が独り身ではまずいと、天領・日田に置かれた西国郡代役所、日田代官所の塩谷郡代が淡窓に対し、旭荘の再婚を要望する。淡窓がしるべを頼り、見出したのが松子である。このストーリーは、旭荘と松子の婚礼の日からスタートする。
 婚礼の夜に、旭荘は己の性が「暴急軽躁」であると松子に告白し、誓約書ともいうべき書状を松子に手渡すという場面が描かれる。その場で、松子は旭荘の本質を感じる。そして、「わたしに何ができるだろう」と思いをめぐらしたと描かれる。読者にとっては、この先二人がどうなるのか、とまず興味津々と惹きつけられることになる。

 旭荘は眼病を患い、目が悪く、紙面に顔をこすりつけるようにして書物を読んだそうである。福岡の亀井昭陽に師事し、師から「活辞典」と呼ばれたほどの博識を身につけたという。一方で、昭陽は旭荘に「非常ノ材有ル者ハ、必ズ非常殃有リ」と告げたという。一方、広瀬家本家を継いだ久兵衛は、旭荘を嚢中の錐ととらえていて、淡窓に対し、兄上は何事も力強く打ち固める槌であり、旭荘は世間に風穴を開け、新しき風を呼ぶ錐なのではございますまいかと語るのである。

 旭荘は、日田での咸宜園塾主としての経緯の後、淡窓に進められ大坂に出る。さらには時代の流れに翻弄されるように江戸に向かう。この間の旭荘の生き様が時代の変転と絡めて描き出されていく。それは、日田に根を下ろしそこで己の地歩を固めていくことのできた広瀬淡窓とは対照的な許荘の生きる道でもあったのだろう。

 松子は旭荘の下に嫁して、2年後に長女ヨミを生むが、そのヨミが翌年熱を出し、あっけなく死ぬ。大坂に旭荘が出る時には、ふたたび身ごもっていたたために、松子は九州に留まり子育てをする。淡窓は書きとめた<遠思楼詩鈔>を本として大坂の版元で刊行することを大坂に出る旭荘に託す。旭荘はこの出版事業に奔走する。<遠思楼詩鈔>の出版は、淡窓の詩人としての名を高める。その喜びの一方で、旭荘は静かな憂悶にとらわれることにもなる。
 天保9年に旭荘が再度大坂に出るときに、松子は大坂に付いていく。旭荘は大阪で私塾を開く。洋学者の岡部玄民宅で、旭荘は緒方洪庵との面識を得る。
 その後旭荘は江戸に出て、結果的に江戸でも私塾を開く事になる。松子は旭荘の居る江戸に赴くことになる。旭荘を思う松子の生き様が描かれて行く。
 江戸に出た松子が病の床につくようになる。それが旭荘の本質を素直に表出させることになったように思う。松子の病を介して、旭荘と松子の夫婦愛は一層緊密になっていった。著者はその経緯と機微を描きあげていく。ここが読ませどころと言える。

 旭荘の人生は、時代の大きな動向、変転と無関係には居られなかった。逆にその時代の動向に深く関わるチャンスを得られそうで得られないという渦中に投げ込まれた。時代が旭荘という儒学者・詩人を磨いたのかもしれない。
 天候不順が続き、天保4年から起こり始めた飢饉。大塩平八郎の乱。九州に広がる飢饉の影響が久兵衛にも及んだことへの旭荘の対応行動、幕府が蘭学者を弾圧した「蛮社の獄」、大村藩による藩校への招き、水野忠邦による天保の改革の顛末、小伝馬町の牢の火事と解き放ちによる高野長英の逃亡などに、旭荘は翻弄される羽目になる。著者はこの時代の流れと旭荘の関わりを織り交ぜながらその紆余曲折を描く。
 天保13年末に旭荘に来た羽黒外記からの手紙が上記の通り、旭荘が慌ただしく江戸に出るトリガーとなる。当初、水野忠邦への推挙が意図されていたのである。
 著者は、この時期の時代の変転の実相と人物群を旭荘の人生に絡む視点から点描風に描き出すことを、このストーリーのサブテーマの一つとして意図したのではないか。

 もう一つのサブテーマは、広瀬淡窓と久兵衛という旭荘の兄たちの生き様並びに、緒方洪庵の生き方を重点的に織り込んでいくというということにあるように思う。淡窓と久兵衛は、旭荘が窮地に陥ったときに強力な救済者となり、旭荘の人生を資金面でも支えた人々である。またこの二人の兄は旭荘に影響力を及ぼしていると言える。この二人のそれぞれが、伝記風歴史時代小説が書ける存在でもある。ひょっとして、葉室麟にはその構想が秘められていたかもしれない。
 大坂時代の旭荘・松子夫妻が緒方洪庵と深い関わりを持った側面でのエピソードの描写は、このストーリーの中で人間関係の暖かさと彩りを添えている。

 広瀬旭荘という儒学者・詩人を描き出すにあたり、ストーリーにリズムを加え、詩人が主人公であるという香りを高めているのは漢詩の引用である。著者の他作品で今までは和歌の引用や織り込みが結構見られた。ここでは漢詩作者旭荘が主人公であり、漢詩が随所に織り込まれることは自然の流れにもなる。
 淡窓の休道詩、師昭陽の回想録<傷逝録>を許荘が読みたちどころに作ったという詩の一節、身ごもった松子に対し旭荘が賦した詩(春寒)、後花園天皇が足利義政の行状をたしなめるために贈った詩、『詩経』の詩の数節、さらに『詩経』にある<桃夭>、唐の于濆の詩と旭荘による本歌取りの詩、浅川善庵の<范蠡載西施図>、陸游の<沈園>と<落梅>、文天祥の<正気の歌>の冒頭、三苫源吾と亀井小琹(しょうきん)の相聞詩、原采蘋の詩、李白の<子夜呉歌>、杜牧の<山行>と<秋感>さらに<嘆花>、杜甫の<月夜>と<春望>と、実に広がりがある。
 最後に、大津皇子の「ももづたふ磐余の池に鳴く鴨を・・・・」の和歌が一首、引用されている。

 冒頭に書名に使われた旭荘の詩を記したので、最後に随所で繰り返し出てくる広瀬淡窓の休道詩をご紹介しておこう。
   道(い)うことを休(や)めよ
   他郷苦辛多しと
   同袍友有り
   自ずから相親しむ
   柴扉(さいひ)暁に出(いず)れば
   霜雪の如し
   君は川流(せんりゅう)を汲め
   我は薪(たきぎ)を拾わん

 奥書を読むと、この歴史時代小説は「読楽」の2016年10月号~2017年6月号に連載された。そして、葉室麟は2017年12月に逝去。第1刷が出版されたのは2018年3月31日である。葉室麟の早すぎる死・・・・・・・惜しまれる。

 ご一読ありがとうございます。
 
本書と関連する事項をネット検索した。一覧にしておきたい。
広瀬旭荘  :ウィキペディ
広瀬旭荘  :「コトバンク」
広瀬淡窓  :「コトバンク」
関係人物紹介 広瀬淡窓・旭荘、門下 :「森琴石.com」
広瀬久兵衛 :「コトバンク」
広瀬久兵衛とその業績について 大分県 南芳裕氏 :「九州地方計画協会」
農業水利施設の礎を造った広瀬久兵衛  :「農林水産省」
広瀬資料館 ホームページ
漢詩紹介 示塾生 広瀬淡窓  休道詩 :「関西吟詩文化協会」
83.広瀬旭荘(ひろせきょくそう)墓所 :「大阪市」
広瀬旭荘に関する収蔵品  :「池田市」
『日本漢詩ノート』71―「東国詩人の冠」,広瀬旭荘の詩 :「私の趣味のブログです」
緒方洪庵  :ウィキペディア
適塾 大阪大学の原点  :「大阪大学」
大塩平八郎の乱  :「コトバンク」
大塩平八郎の乱  :ウィキペディア
高野長英  :ウィキペディア
高野長英記念館 ホームページ

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徒然に読んできた作品の印象記に以下のものがあります。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。
『古都再見』   新潮社
『河のほとりで』  文春文庫
『玄鳥さりて』  新潮社
『津軽双花』  講談社
『草雲雀』  実業之日本社
『日本人の肖像』  聞き手・矢部明洋   講談社
『草笛物語』  祥伝社
『墨龍賦』 PHP
『大獄 西郷青嵐賦』   文藝春秋
『嵯峨野花譜』  文藝春秋
『潮騒はるか』  幻冬舎
『風のかたみ』  朝日新聞出版

===== 葉室 麟 作品 読後印象記一覧 ===== 更新5版(46+4冊)2017.7.26


『恋歌 れんか』  朝井まかて  講談社

2018-07-22 11:13:16 | レビュー
 手許にある高校生向け学習参考書『クリアカラー国語便覧』(数研出版・第4版)を見ると、「樋口一葉」についてまとめた1ページに、樋口一葉が明治19年(1888)14歳で歌塾「萩の舍」に入門したという記述がある。一方、「近現代文学の流れ」というチャート図に、短歌の欄がある。そこには、「旧派(桂園派)高崎正風」という項は記載されているが、その後は「浅香社 落合直文」から始まっている。歌塾「萩の舍」も設立者中島歌子の名前も出て来ない。
 この小説は、東京・小石川区の安藤坂に歌塾「萩の舍」を設立した中島歌子について書かれた自伝風歴史時代小説である。

本書はサンドイッチ型の面白い構成に仕立てられている。序章と終章は現在(明治36年)時点を扱い、第1章から第6章と終章の一部は、幕末時点の状況とともに「登世(とせ)」の人生が語られていく。登世と呼ばれた女性が、中島歌子である。そのところどころに現在時点とのリンクはあるが。
 序章と終章に主に登場するのは、三宅雪嶺夫人となった花圃。花圃は中島歌子の門人であり、女学生のときに『藪の鶯』を書いた。その処女作は、明治の婦女子が小説を上梓した初めての作品だったという。当時は評判になったようである。花圃の後輩として、ヒ夏(樋口夏子)の名が出て来て、ヒ夏が樋口一葉の名前で小説を書いたということと、その背景が点描としてこのストーリーに描かれている。それはあたかも樋口一葉という現代人にも親炙している人物を介して、この小説の主人公、一葉の師でもあった中島歌子に目を向けさせる働きになっている。もう一人の登場人物は「萩の舍」の事務方の仕事を任されてきた「澄」という女性である。
 花圃は、中島先生が風邪をこじらせ入院したということを小石川からの遣いの人から知らされる。花圃は入院先に見舞いに行く。そこで、師から病気見舞いの礼状代筆や書類の整理を依頼される。花圃は澄と二人で手分けしてその仕事をする羽目になる。澄は礼状の代筆と書類整理を主に引き受ける。花圃は澄から中身が膨らみ蓋が斜めに持ち上がるほど書類が詰め込まれたとみえる長辺が一尺ほどもある文箱を分担することになる。文箱の中身の整理を始めた花圃は、文箱の内縁が見え始めた頃に、布紐で括られた奉書包み、厚みが五寸ほどあるものを見つけた。中からは半紙の束が現れ、それは師が千蔭流の書で記したものだった。花圃は、師による和歌の下書きの類いとは思えないその内容を、いぶかしく思いながら、読み始める。

 半紙の束に記されていたのは、師中島歌子が己の半生を第一人称で綴った自伝ストーリーだった。花圃はその内容に引きこまれて行く。一区切りのところまで読むと順次、それを澄に手渡し、澄もその内容に目を通していくことになる。二人が師の自伝語りを読む。その結果、終章で、師が死去した後に二人がどのように対処するか、その有り様に大きく関わって行く。この現在時点に立ち戻ったとき、意外性を含めた結末を迎えるところが読ませどころになる。

 中島歌子の書き残した自伝風ストーリーは、正月14日節分、浅草の市村座での芝居観劇から書き出される。登世17歳の時である。その芝居見物は、登世の母が仕組んだ桟敷越しでの見合いのためだった。登世はこの見合いを壊す行動をとる。この出だしから、登世の個性が出ていておもしろい。この先どなるのか・・・。

 ある日、登世が可愛がり大事にしている犬・獅子丸の姿が見えなくなり、大騒ぎとなる。母は動顛する登世に、「瀬をはやみ、岩にせかるる滝川の」という崇徳院の詠んだ歌を口ずさみ、その上の句を短冊に書き、吊しなさいと言う。この上の句、当時、「失せ物、待ち人に出会えるように」との願掛けに使われたとか。そんなやり取りが自然な母娘の会話になっている。そんなところに、爺やが一人の武家を伴って戻って来る。奴ややくざが連れ歩くでっけえ犬に獅子丸が吠え立てられていたところに通りがかり、その武家が獅子丸を助けたという。その武士は「われても末に、逢はむとぞ思ふ・・・・・待ち人来たりですね」と下の句を低い声で告げて、獅子丸を差し出した。爺やはその武士を池田屋の客として見知っていたのだ。その武士は水戸藩の家中の一人で、林忠左衛門以徳という。獅子丸を助けてくれ、さり気なく下の句を告げた林は、前年の秋の夕暮れに池田屋に一泊していた。実は登世はそのとき林を垣間見ていて、一目惚れしていたのである。登世にとって獅子丸騒動の結果としての運命的出会いと言えよう。それは、母がお見合いを仕組んだ前に起こっていたのである。

 登世の母・幾は川越の豪商の娘で、川越藩の奥御殿女中勤めをした後、中島家に嫁ぎ、江戸の水戸藩上屋敷の近くで池田屋の女将として手腕を振るう。池田屋は水戸藩の定宿の指定を受けていた。池田屋に泊まる水戸藩家中は「尊王攘夷」の急先鋒の輩が多い。磯は長年の水戸藩定宿としての立場から、水戸藩の内情もかなり知っていた。それ故、水戸家の家中との話は、頭から反対という立場。母からの戒めを登世が聞いた翌朝、とんでもないことが発生する。桜田門の手前で起こった井伊直弼暗殺事件である。水戸藩浪士が引き起こした所謂桜田門外の変。林もそれに加担するはずだった。しかしある事情が直前に発生していてそれが叶わなかったのだ。
 だが、そのことで逆に、林以徳の許に登世が嫁ぐことが成就することになる。大反対だった磯は、最後は登世の思いを認め、さらに林の尊王行動のために資金を提供する側にまわることになる。

 このストーリーは、維新後に家塾「萩の舍」を設立し、一時期一世を風靡した歌人のまさに波乱万丈の半生を自伝ストーリーで語る。
 ストーリーは、いくつかの段階を経て行く。
1.登世が水戸の林家へ嫁ぐ道中のプロセスの描写。
2.水戸の林家での登世の立場と日常生活の描写。
 夫となった以徳は、役目柄水戸に居ることは殆ど無い。水戸藩内は、尊王攘夷を叫ぶ天狗党と保守派の諸生党の二派に分かれ、内紛が絶えない状況にある。桜田門外の変の後、藩内の天狗党は劣勢になっている。林以徳は天狗党のリーダー格とみなされている。天狗党自体の内情は、尊王攘夷の思想と行動に様々な幅があるのだ。
登世の日常生活の有り様の描き出しが興味深い。第一は、夫以徳の妹が実質的に家政を采配するという日常が描かれる。それに登世がどう対応していくかのプロセス。
 第二に、夫以徳が家に数日でも戻って来た時は、天狗党の仲間が集まり、論議する場となる。登世にとっては、夫と会えた時間の多くが、非日常的な時間となり、登世は時代の証言者のような立場になる。当時の水戸藩の尊王攘夷の実体が鮮やかに切り取られて描き出される場面なる。この小説は、幕末における水戸藩の藩運営と内部の政争、尊王攘夷の実態がどのような状況にあったかを描く。それをサブテーマに設定していると思われせるほどである。
3.水戸藩主慶篤と一橋慶喜の生母である貞芳院様との偶然の出会い。
 このストーリーでは、この出会いが、明治維新後に、別の場面に結びついていくという興味深いエピソードとして描かれている。
4.元治元年2月末に天狗党の同志60名ほどが筑波山で蜂起した。それに伴う水戸藩騒動の顛末。そのことが登世並びに林家にも大きな影響を及ぼしていく。
 水戸藩内は、執政市川三左衛門のもとで諸生党が勢力を握り、天狗党を粛清する行動を展開する。それは、天狗党に属した家中の武士の妻女・子供に及んでいく。
5. 登世と以徳の妹もまた獄中の囚人となる。登世の視点で獄舎の惨状が描かれて行く。登世は以徳が無事であり、いつか救助に来てくれるという希望にすがる。
 水戸藩の尊王攘夷の動きの背後に、どのような惨劇が存在したかを克明に描き出していく。これは上記したサブテーマの一側面をあきらかにしている。
 著者は、同心に対し登世に怒りを発露させている。
 「惜しむらくはこの水戸藩でありましょう。内紛で有為の人材を死なせ、無辜の妻子を殺戮し、この血染めの土地にいかなる思想を成就されるおつもりですか」と。
6. 藩重臣の協議により、天狗党の才女召し放しと各々の縁戚預けという下知が出る。
  生き延びた登世は、以徳の妹・てつと共に、水戸藩を脱出する決断をする。ここから先が、歌人・中島歌子としてのその後の生き方へと展開していく。

 そして、なぜ歌子がこの自伝ストーリーを認めたのかが、文箱から出て来た遺書により、終章で明らかになる。加えて、なぜ登世が歌人として世に立つ決意をしたのかの理由が明らかになる。さらに「萩の舍」での事務仕事に携わってきた澄の人生と生き様に関わる大きな秘密が明らかになる。自伝ストーリーと現在の時点のリンクのしかたと結末が読ませどころになっている。

 これは史実を踏まえた上でフィクションとして構成された歴史時代小説だと思う。しかし、ここには、幕末・明治維新の歴史概説書や文学史概説書では触れられることのない史実の存在に光を当てるという営為が鮮やかに結実している。今までは、それは知る人ぞ知るということになるのかもしれない。
 だが、ここでは、義務教育の学制では触れられる事のない歌人・中島歌子をあたかも氷山の一角として、その水面下に潜む巨大な部分を描き出している。登世・中島歌子が何を想い、何を胸に秘めつつ、明治維新後に一世を風靡する人生の最終ステージを過ごしてきたのか。一方で、その背後に、著名な歴史書を営々と書き継ぎ残し、水戸学を生み出し、尊王攘夷の先鞭となった水戸藩の内情、実体がどうだったのか。歴史の影の部分を明るみに出すことで、幕末動乱期・明治維新初期へ目を向けさせる。
 歌人中島歌子の存在を認識させるとともに、幕末明治維新を改めて考えてみるという視点を提供する作品である。
 内容は血腥い局面を扱うが、最後の歌子の決断が、読後印象として爽やかさを生み救われる余韻が残る。

 ご一読ありがとうございます。

本書に関連する事項をネット検索してみた。一覧にしておきたい。
中島歌子  :ウィキペディア
中島歌子  :「コトバンク」
樋口一葉文学事典 メインページ 
 萩の舍 
 田辺花圃 
三宅花圃  :ウィキペディア
三宅雪嶺  :ウィキペディア
三宅雪嶺  :「コトバンク」
水戸学・水戸幕末争乱(天狗党の乱) :「茨城大学図書館」
水戸天狗党の悲劇 :「傅弘庵」
水戸天狗党 敦賀で斬首352名 :「敦賀の歴史」
石地に眠る水戸諸生党兵士の刀痕頭蓋骨 :「幕末刀痕弾痕探訪記」
徳川慶篤  :ウィキペディア
吉子女王  :ウィキペディア
  水戸藩第9代藩主・徳川斉昭の正室。院号は貞芳院。

朝井まかてインタビュー『恋歌』を語る  :YouTube
朝井まかてインタビュー「直木賞受賞の裏話を語る」:YouTube

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こちらもお読みいただけるとうれしいです。
『眩 くらら』  新潮社

『古都再見』 葉室 麟  新潮社

2018-07-19 10:54:28 | レビュー
 葉室麟は2017年12月23日死去した。享年66歳。これからの更なる活躍を期待していた「遅咲きの作家」がまた一人没してしまった。嗚呼・・・・・・ 合掌。
 本書は、2017年6月20日に出版されている。奥書を見ると、初出は週刊新潮に連載されたエッセイを1冊の単行本にまとめたものである。2015年8月13・20日号から2016年12月22日号の連載と記されている。当初予定の連載期間を終えて、1冊にまとめられたのだろう。単行本が発行された時点で、その半年後に著者が没すると誰が思ったことだろうか。
 
 冒頭「薪能」の末尾に2015年2月から京都暮らしを始めたと述べている。
「これまで生きてきて、見るべきものを見ただろうか、という思いに駆られたからだ。何度か取材で訪れた京都だが、もう一度、じっくり見たくなった。」とその理由を記す。そして、この随筆の最後は「幕が下りるその前に見ておくべきものは、やはり見たいのだ」と吐露している。
 著者は、己の人生の「幕が下りる」ことを予期していたのか? 「見ておくべきもの」を悉く見尽くしたのだろうか? 自ら「遅咲きの作家」の一人だと自認し、先に逝った同類の作家のことに触れる折りに、まだやることがあるならば・・・・と控え目に著作への意欲を記した心には、「幕が下りる」のは今しばし先という思いがまだあったのではないか、そう思いたい。だが、己に来る死の近づきと脳中に抱くテーマ、構想の広がりとの間のジレンマが著者の思いとして、深まっていたのだろうと思う。また、「見ておくべきもの」は未だ多く残されているという思いの中で著者は没したように感じる。例え連載期間は予定通りに終わったのだとしても、古都再見のテーマは無数だと思う故に。

 「心はすでに朽ちたり」(p193-196)では、『平家物語』に登場する斎藤別当実盛の最後の戦から、唐の詩人・李賀の詩「贈陳商」に話を転じた上で、末尾に次の文を記す。
「死を覚悟して最後の戦いに臨むとき、ひとは白髪になるのだ、と覚えておけばいいのではないか。わたしもそうなのかもしれない。」と。己の白髪のことを重ねながらも、ここに著者の思いが実盛、李賀の上に重ねられているように思う。

 「中原中也の京」(p213-216)では、夭折した詩人がしばらく京都に滞在した時期があることとその後のことを語り、最後に次の文で締めくくってる。
「ひとは輝かしい光に満ちた夢のごとき何かに駆り立てられて生き急ぐ。それが『青春』かもしれないが、近頃、同じものが『老い』の中にもあるのではないかと思わぬでもない。死を予感した心のざわめきが似ているからだ。」と。ここにも、著者の心境が現れている。

 本書の最後は「義仲寺」(p277-280)で終わる。このエッセイでは滋賀県大津市にある義仲寺で行われた、作家伊藤桂一との「お別れ会」に出席した経緯を取り上げている。そして、文末は次の通りである。
「このエッセイの連載は、 --幕が下りる、その前に、 とサブタイトルをつけた。
 幕が下りる前にしなければならないことがある。」
 幕が下りる前にしなければならないことを未だ残して、著者は逝ってしまった!!
 惜しい・・・・・。「遅咲きの作家」にせめてあと十年、作品を積み重ねて欲しかった。嗚呼。

 少し沈みがちなことを並べてしまった。このエッセイを通読して特徴的なところをいくつかご紹介しておこう。
 第1は、エッセイを通読すると、京都に仕事場を置いた著者の京都での日常生活が各所に触れられていることから、著者の京都での日常生活が垣間見えておもしろい点である。数年の間に京都での仕事場を変えていることがわかる。そして、日常生活での運動や・食・飲酒に関連して一部書き込んでいる。大凡の生活スタイルが見え始める。著者の読書遍歴の一端も見えて興味深い。本書からその箇所を探してほしい。葉室麟好きの読者の楽しみどころである。ああ、こんな一面もある人なのか(だったのか)・・・・と。

 第2は、京都再発見に繋がるちょっと好事家好みのミニ情報がけっこう織り込まれていることである。
 この『古都再見』を通読し、京都市に生まれ育ち、今はその隣接地に棲む私にとっては、京都再発見という部分が数多く含まれていて楽しく読めた部分が結構多かった。見慣れていて、考えてもいなかった視点で語られた箇所がある。いくつか例示する。末尾の括弧内はエッセイのタイトルである。
*漂泊の俳人尾崎放哉が知恩院塔頭の常称院の寺男になっていた時期がある。一方、荻原井泉水が今熊野剣宮に寄寓していた。放哉はその萩原の許に身を寄せた。(「尾崎放哉が見た京の空」)
*四条河原町の交差点から先斗町の入口に向かう途中に煙草店「栗山大膳堂」がある。その名前が福岡に関係し、著者が『鬼神の如く 黒田叛臣伝』で取り上げた栗山大膳との関わりがあったという。  (「京のゲバラ」)
*斎藤道三の息子のひとりは京に出て法華宗の僧、日饒となり、妙覚寺の貫主を務めた。信長が、足利義昭を奉じて上洛し、翌年の再上洛のおり、初めて妙覚寺を宿所とした。  (「本能寺」)
*1612年、徳川幕府がキリシタン禁令を発布した後、「京都の大殉教」があった。
 鴨川六条河原に二十七本の磔柱が立てられ、1本にふたりを結びつけるなどして52人が火あぶりに処せられた。 (「殉教」)
*東福寺の塔頭・同聚院にモルガンお雪の墓がある。(「モルガンお雪」)

 第3に、著者の見解、仮説が率直に語られている箇所がある。それは、書き残されなかった作品構想に繋がるネタ的視点だったかもしれない。あるいは、既に著者の作品に描かれた人物像の見方に関わる所見になるかもしれない。葉室麟の作品世界の研究材料にリンクする。これも、いくつか印象的なものを抽出例示してみよう。
*「一杯の茶に心の平穏を求める茶人が修羅の最後を遂げるのが不思議に思えた。だが、・・・・一期一会というが、血潮を浴びて生き抜いた男たちにとって、茶は常に末期の水に等しいだろう。」 (「大徳寺」)
*長禄・寛正の飢饉における京の惨状と御花園天皇が足利義政に贈った諫めの漢詩を紹介したうえで、著者は記す。
 「幽玄・わびなどの感覚を磨きあげた文化活動のパトロンであった義政の美意識は後世の日本人に大きな影響を与えた。それなのに、この人間離れした無慈悲さはどういうことなのだろう。」  (「首陽の蕨」)
*御池通の賀茂川に近い路傍に夏目漱石の句碑があると知って、その場所を見に行ったことがある。「春の川を隔てて男女哉」という句が刻まれている。森鴎外の『高瀬舟』の場面紹介から転じて、この句碑をエッセイに取り上げて、著者は末尾に記す。
 「多佳と待ち合わせて北野天満宮に行っていたとしたら、漱石は、そのとき何が言いたいことがあったのかもしれない。」  (「漱石の失恋」)
*「信長の持つ鮮烈な美意識は永徳を刺激したと思える。そんな永徳にとって信長の死は衝撃であり、絵師としても痛手だったはずだ。・・・・・・・
  永徳には、信長がいない世への失望と同時に織田家の天下を簒奪した秀吉への憤激があったのではないか。」   (「信長の目」)
*「利休の気魄は、一休に通じる禅者の反骨だったと考えたほうが、わかりやすいのではないか。」  (「利休の気魄、一休の反骨」)
*幕末に<人斬り彦斎>と呼ばれ恐れられた彦斎は、高瀬川沿いで佐久間象山を暗殺した。
 だが、「彦斎は斬るべき相手を間違えたのだ。」  (「彦斎」)  

 最後に、「三十三間堂」というエッセイを締めくくる一文が、私には謎を秘めたままの余韻とともに残る。
 「だが、わたしの人生での星野勘左衛門との出会いはまだ先のことだった。」という一文である。星野勘左衛門は三十三間堂の通し矢に関わるエピソードに出てくる人物として著者がこのエッセイで紹介している。エッセイのまとめとしては余韻を生み出す一文になっている。その一面で、著者の人生での出会いとして星野勘左衛門は誰のことで、それは何時だったのか、ということである。
 葉室麟はエッセイその他の文中のどこかで、この一文でいう「出会い」について書き残しているのだろうか? その謎が残る。

 葉室麟の文学世界と葉室麟という作家をより深く、より身近に感じるために役立つエッセイ集である。

 ご一読ありがとうございます。

徒然に読んできた作品の印象記に以下のものがあります。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。
『河のほとりで』  文春文庫
『玄鳥さりて』  新潮社
『津軽双花』  講談社
『草雲雀』  実業之日本社
『日本人の肖像』  聞き手・矢部明洋   講談社
『草笛物語』  祥伝社
『墨龍賦』 PHP
『大獄 西郷青嵐賦』   文藝春秋
『嵯峨野花譜』  文藝春秋
『潮騒はるか』  幻冬舎
『風のかたみ』  朝日新聞出版

===== 葉室 麟 作品 読後印象記一覧 ===== 更新5版(46+4冊)2017.7.26

『世界のトップアスリート英語名言集』 デイビッド・セイン 佐藤雅子 Jリサーチ出版

2018-07-14 11:21:56 | レビュー
 世界のトップアスリートとコーチ135人が語ったメッセージ、英語名言が収録された本である。既にご紹介した『世界のトップリーダー英語名言集 BUSINESS』と同様に、本書もCD付で出版されている。
 世界のトップに立った、華やかに見えるアスリートたちが何を語っているか。本書の副題は「夢を抱け 前を向け 心奮い立たせよ」である。世界のトップアスリートたちの、その思い・意志と体験が語られている。トップアスリートたちのメッセージから精選されているものと言える。名言の大半は数行の英文である。長いものでもせいぜい十行前後の英文が収録されている。比較的読みやすいと思う。

 名言の内容は12章に分類されてまとめられている。章の和文見出しを列挙すると、次のとおりである。どういう観点のメッセージが収録されているかのイメージがこれでできるかもしれない。
 1.励む 2.向上する 3.信念を持つ 4.勝負する 5.挑む
 6.頂点に立つ 7.揺れる 8.乗り越える 9.共に戦う 10.楽しむ
 11.決断する 12.人生を考える

 各章には、英語の見出しが併用されている。そちらも書き出してみよう。
 1. Practice 2. Progress 3. Believe 4. Challenge 5. Attempt
6. Triumph 7. Manage 8.Overcome 9.Cooperate 10. Enjoy
11,Decide 12. Evolve

 この並記で私が興味を抱いたのは、勝負をする=Challenge、挑む=Attemptと区分していることと、英語のManageという単語が「揺れる」という見出しになっているところだ。 manage という単語は名詞ではマネージメント(management)がビジネスの世界では頻繁に経営や管理という意味で使われている。動詞も英語の辞書を引くと、真っ先に「<事業などを>経営する、管理する;<家事などを>切り盛りする」という説明があり、次に「<人・道具などを>上手に扱う、うまくあしらう・・・」などと記されている。いままで、こういう意味合いで使ってきていたので、「揺れる」と並記されているのがおもしろいと言える。 
章立ての構成から、類推がつくかもしれないが、第11章の「決断する」は、トップアスリートたちが引退を決断した折のメッセージである。この章では10人の名言が精選されている。

 勿論、ここで取り上げられたアスリートの中には、いくつかの章にまたがって繰り返し登場するアスリートが幾人もいる。そのアスリートの一例をご紹介しよう。多分殆どの人が知っている超有名な元バスケットボール選手。そう、アメリカの Michal Jordan(1963~ )が語ったメッセージである。これらの名言がどのように翻訳されているかは、本書を開いて読んでみて欲しい。易しい単語で意義深いメセージが私たちに投げかけられている。

☆ Progress
 Never say never. Because limits, like fears, are often just an illusion.

☆ Believe
 Some people want it to happen, some wish it would happen, others make it happen.

☆ Attempt
 I can accept failure. Everyone fails at something. But I can’t accept not trying.

☆ Overcome
 I’ve failed over and over and over again in my life and that is why I succeed.

☆ Cooperate
 Talent wins games, but teamwork and intelligence wins championships.

☆ Decide
 I choose to walk away knowing that I can still play the game. And that’s what I’ve always wished for my career to end. That’s exactly the way I wanted to end it.
 
☆ Evolve
Life is often compared to a marathon, but I think it is more like being a sprinter; long stretches of hard work punctuated by brief moments in which we are given the opportunity to perform at our best.

日本人のアスリートは135人の中に含まれているか? 
  YES である。わずかだが・・・・・。

一人は、Ayako Okamoto(1951~ ) で、Progress の章に載る名言。
 I’m the type that no matter how long it takes, I am going to make it there. On other words, no matter how slow it is, just step by step, even though people around me sometimes do not understand me. There’s an Aesop fable, the Tortoise and the Hare --- that’s my favorite story, and I’m just like little by little walking towards my goal.

もう一人は、Decide の章に載る、Kimiko Date-Krumm (1970~ )の名言。
 This is not the end, this is a new beginning for me.

 世界に名を馳せたトップアスリートたちが、己自身が夢を抱き、高い目標を掲げ、目標に立ち向かうために、人の目に触れない舞台裏で日々の弛まぬ鍛錬と努力を重ねた。そこには、己を奮い立たせる信念・思いがあった。世界の競技場で、試合の中の華々しいトップアスリートの姿からは見えない部分が、ここにメッセージとして抽出されている。
 凡人の私たちの心を揺さぶるメッセージがここにある。夢を抱き、それを実現させるためには、何が必要なのか? その秘訣が体験・経験を踏まえた実践的なメッセージとして語られてる。副産物は、この名言を読みCDを聴くことが英語学習にもなるということである。

 ご一読ありがとうございます。
 
こちらも、ご一読いただけるとうれしいです。
『世界のトップリーダー英語名言集 BUSINESS』デイビッド・セイン 佐藤淳子 Jリサーチ出版


『蟻の菜園 -アント・ガーデン-』 柚月裕子  宝島社

2018-07-12 10:14:08 | レビュー
 このストーリーの中心人物は、フリーライターの今林由美。彼女は、栄公出版社が運営するニュース週刊誌「ポインター」の仕事を外注として受けている。
 この週刊誌の編集長は長谷川康子。由美が新入社員の頃からの付き合いでかれこれ20年になる。康子は出版社に留まりニュース週刊誌の編集長となる。一方由美は結婚で退職するがバツイチとなり、昔の職場のコネで外注フリライーターを生業とする。離婚後に購入した中古マンションのローン返済を抱え、収入の定まらないフリーライターの受注仕事で悪戦苦闘している。 
 由美はニュース週刊誌「ポインター」の「現代のヒューマンライフ」という連載ページを担当している。様々な分野で活躍している人物、事件や話題性で世間が注目している人間を追う特集である。それも、ひとりの人物の出生から現在に至るまでという観点での特集記事というスタイル。この企画ネタを探そうとして、パソコンをネットに繋ぎホームに設定している情報サイトのトップニュースを見て、由美は関心を惹かれる。
 『車中練炭死亡事件 結婚詐欺容疑で43歳女逮捕 複数の男性殺害に関与か』
容疑者は千葉県に住む介護士で、名前は円藤冬香。半月ほど前に、東京と千葉の県境の山中で、車内に練炭を引き込んでの自殺と見られた事件が起こる。だが不自然な点が多く、捜査過程で、死亡した50前後の会社員佐藤孝行が自分の口座から円藤容疑者の口座に、500万円に及ぶ金を振り込んでいた事実が出る。円藤容疑者が佐藤さんとの交際中、72歳の独り暮らしの男性とも交際していた。この男性は半年前に心不全で死亡。円藤容疑者と交際を始めた以降に、大金を幾度か引き出していて、死亡時点では預金額はゼロに近かった。他にも何人かの不審死疑惑が浮かぶ。そんな報道である。

 記事の横に載る容疑者の画像を拡大し、由美はその円藤冬香の姿を見て、「もう若くはないが、落ち着いた色香がある。彼女は万人が認める美しさを持っていた」と感じたのである。それが由美が疑問を湧き起こすトリガーになる。これほど魅力的な女性なら、幸福を掴める権利を人より多く持っていたはずだと。異性には不自由しないはずだし、本人が望もうと望むまいと男の方が寄ってきて、良縁の結婚話もあったはずだと。それが結婚詐欺容疑と複数の男性殺害への関与疑惑で逮捕されている。
 「いったい彼女に何があったのか」 由美は事件そのものよりも、容疑者の円藤冬香自身に関心を抱く。気持が昂ぶり、いい記事が書ける予兆を感じる。そこで特集の企画書を作成し編集長に提出する。康子は企画書を読み終えると即決し、ゴーサインをだす。企画書のタイトルは、『疑惑の美人結婚詐欺師-彼女はなぜ転落したのか-』である。

 刑事事件のスクープや事件捜査の進展経緯の即時報道性を追うニュース記者たちとは違い、由美は「彼女はなぜ転落したのか」という人物自体に疑問を抱き、着目していく。
 このストーリーは、女性のフリーライターが円藤冬香という女性を調べ、その過去を明らかにしていこうとする取材行動のプロセスを描き出していく。結婚詐欺事件と数名の不審死事件の事実追跡そのものではない。結果的に、車中練炭死亡事件・結婚詐欺事件・数名の不審死の背景と原因・経緯が明らかになっていく。
 このストーリーが読者を惹きつけるのは、由美が取材のための聞き込み調査をどのように展開し、取材行動の糸口を見出していくかにある。その糸口が彼女をどこに導いていくか・・・・その先を読みたいと思うところだろうか。由美は聞き込み調査をしていて、先が見えそうにないところで思わぬ糸口に出会う。聞き込み相手の一言が、その表情が、由美にとり次の行動のきっかけになる。一見無関係と思える情報、事実が繋がって行く。その連鎖反応がおもしろい。

 由美はフリーライターに成り立ての頃、友人を介して知った津田憲吾に事件の詳しい情報を持つ人物の紹介を依頼する。彼は都内で編集プロダクションを経営している出版プロモーターである。彼は長い編集経験を通じ、裏から表までの多岐にわたる独自のネットワークを持っている。津田が由美に紹介したのは、千葉の地方新聞、千葉新報の片芝敬だった。
 由美はまず片芝敬に面会を取り付けることから始める。迷惑がる片芝は、津田の紹介ということもあるが、由美が「十の事実があっても新聞には一しか載りません。でも、残りの九にこそ、当事者にしかわからない真実があると思います。私はその九を記事にしたいんです」と言ったことに対し、思うところがあったのか面談に応じる。
 事件自体の詳しい情報とその後の捜査経緯や由美の取材活動・聞き込み調査では崩すのがよういではない壁の向こうにある情報について、片芝が由美をサポートする重要な人物になっていく。片芝は、由美の視点と取材感性に関心を抱く。片芝自身が動き回れない部分での取材活動を由美に肩代わりさせる意図も含めて、ギブ・アンド・テイクの関係を深めていく。言葉には出さないが、由美の取材能力を認め、信頼感を持つようになる。
 
 由美は片芝との最初の面談で、事件に関わる基本的で詳細な情報を入手する。警察詰めの新聞記者なら入手し既に裏取りをしてしまった情報レベルなのだろうが、新聞記事にはそこまで報じられていない内容レベルである。
 車中練炭死亡事件では、車の鍵が現場に見あたらなかったこと。円藤冬香の現住所、勤め先の詳細情報。婚活サイトへの登録とそのサイトで知り合った男性たちの間で発生した婚活詐欺であること。警察側は円藤冬香を結婚詐欺容疑で逮捕し、その勾留期間中に殺人容疑を固めるシナリオでいること。だが、不審死の時期には円藤冬香にはそれぞれアリバイがあること。円藤の口座にかなりの金が振り込まれている事実はあるが使徒が不明であること。事件の裏に、冬香には別の男がいるのではないかという推測、などである。
 初対面の由美を適当にあしらわず、詳しい情報を片芝は提供した。なぜか?
 「百人中、九十九人が支持している映画がある。それを、つまらないと言い切るやつがいた。俺もつまらないと思っていた。そんなところだ」と由美に告げる。
 この後、由美の聞き込み調査が始まって行く。要所要所で由美は片芝と携帯電話で、あるいは実際に会う形で、情報交換を重ねていく。その情報交換が次の行動への強い梃子となる。

 由美の聞き込み調査は、ある意味では定石的な手順で始まって行く。円藤冬香の住居地周辺の聞き込み。円藤冬香の勤め先だった特別擁護老人ホームしらゆりの苑への取材。
 勤め先では、個人情報保護法を理由に円藤冬香の情報提供は拒否される。だが、施設職員の一人が由美の体当たり聞き込みに応じてくれる。なぜなら、笹岡と名乗る女性は、施設で入所者に対応する円藤の行動と日頃の姿から、「この事件は何か変です」という疑問を持っていたからである。それを由美にぶつけてきたのだ。
 由美は笹岡の話から、知られていない情報の糸口を得る。冬香が幼いとき両親を事故でなくし、施設で育ったと冬香が言っていたこと。入所者の一人、北陸訛が強い伊与マサという女性が職員を困らせていたが、冬香だけが伊与の言葉を理解し熱心に世話をしていたという。冬香は自分が千葉出身であり、北陸に行ったこともないとも言っていたという。これらがヒントになるか・・・・・細い糸の糸口が見えた。千葉県内の施設で育ったということが、円藤冬香の過去を調べる次の糸口になる。だが、ここにも再びいくつかの壁が立ちはだかる。どこの施設か? さらに個人情報保護法の壁である。
 由美はこの糸口を手繰り寄せることができるか? 北陸がどうからむのか?
 波紋が少しずつ、広がって行く。

 この小説は6章で構成されている。この章立ての構成がかなりユニークである。映画でいうあらすじレベルで少しご紹介しておく。

第1章
 円藤冬香を特集企画に取り上げるゴーサインをえた由美が聞き込み調査を始める初期段階のプロセスを描く。ほぼ上記の経緯である。由美は円藤冬香の中学時代の同級生・及川省吾にまで辿りつく。及川は近寄りがたい円藤にも、可愛い一面があったという。「ちぶたい」という言葉を使い、周りからからかわれていたと言うのである。及川はその土地コトバがどこのものなのか、由美にきっぱりとした表情で言った。「北陸です」と。

第2章
 場面は一転する。時期は不詳。季節は冬。場所は北陸の三国町。東尋坊の断崖の上に設置された公衆電話「いのちの電話」に絡まるストーリーが綴られる。
 自殺の名所として有名になった東尋坊。その不名誉なレッテルをそのままにしないために命の電話が設置された。三国町役場の児童福祉課に勤める与野井啓介は妻の勧めもあり、命の電話に応対する担当となることを名乗り出る。
 その与野井の自宅に命の電話からの電話が掛かる。与野井は嵐の中を電話ボックスまで行き、少女を保護する。自宅まで連れて帰り面倒をみるが、ちょっとした隙に、少女は抜け出てしまう。少女の名は沢越早紀、父親の名前は剛。妹がひとりいる、ということが聞き出せただけ。妻が濡れた服を着替えさせたとき、早紀の体に虐待の跡を見つけていた。 追いかけたが、早紀は与野井夫妻の前から姿を消してしまった。
 一週間後、陽が落ちた初冬の6時頃。雨が降り出していた。早紀から与野井に電話が掛かってくる。与野井は、電話ボックスからだと判断し、駈けだしていく。
 その日の夕方、三国町では一つの事件が起こっていた。その事件は、翌日の朝刊の地方欄に『父親を刺した少女 行方不明』と二段抜きで報じられていた。

第3章
 由美の聞き込み調査の続きに戻る。由美は及川から北陸言葉ということを教えられた。その後片芝と直接会っての情報交換で、由美は新たな情報を得る。車中練炭死亡のあったあ日の夜、円藤の携帯電話に、江田知代からの着信履歴が残っていたという。警察の調べでは、江田知代は鎌倉の由比ヶ浜に住み、レストランを数軒経営する実業家の妻。江田知代は、警察に対して掛け間違ったと言ったという。この江田の出身地が福井だった。
 由美は江田知代に聞き込み調査をかける。そして、福井に行く決断をする。江田が福井出身で、夫も承知していることなのだが、擁護施設育ちという情報について確認してみることにしたのだ。勿論ここでも、個人情報保護法の壁は厚い。だが、求めていけば、なにがしかの糸口が見つかってくる。どう繋がるかは不明瞭なまま、聞き込みのできる相手を紹介される。かつて三国町で警察官をしていた山村、今はソーレあわらに入所している与野井に細い糸が繋がることになる。それが波紋を広げていく。また、由美は福井の図書館で、30年前の三国町での事件報道の記事を見つけ出す。

第4章
 自分に対して「あなたは・・・・・」と語りかけてくる「私」の語りが綴られていく。それは、親と呼べる人間ではない男と姉のこと、自分が置かれてきた過去の経緯を順序立て整理し、回想させてくれる語りかけなのだ。

第5章
 その後、由美は最後の一人に聞き込み調査を続けるが、十分な成果が得られない落胆の思いにとらわれる。一方、片芝が、円藤冬香と北陸が繋がったと、由美の携帯に掛けてくる。由美は東京に戻り、片芝と会う。その場には海谷基樹と名乗る人物が同席していた。
 この章では、由美の行動プロセスと、第4章の「あなたは・・・」という「私」の語りかけの続きとが併行していく。この語りかけがこのストーリーの謎解きの一翼を担っていく。さらにこの語りかけ自体が重要な意味を持っていることが、終章で明らかになる。
 
終章
 このストーリーの総括が、片芝、海谷、由美の三人が千葉駅構内のドトールの一隅で行われる場面で行われる。一方、由美の特集記事内容を編集長は単発物から10回の長期連載に切り替える、その後に書籍化すると宣言することになる。由美の取材活動は、ある法律のあり方についての問題提起を行いたいという次元にまでその思いが深まっていた。

 最後に、この小説のタイトルに触れておこう。
 終章で、片芝が共依存という言葉を使う。その言葉から、由美は「蟻の菜園」を連想したのだ。そして、この特集原稿の出だしの文章にすると決めたという。蟻と植物の共依存によって成り立っている事象が南米に見られ、それが「蟻の菜園」と呼ばれるそうだ。本書のタイトルはそこに由来する。同時に、この推理小説を読み解くキーワードである。

 個別に分解してみると、それぞれが個々に新聞記事ネタになった事象が組み込まれている。それらの事象が換骨奪胎されて、巧みな構想のもとに一つのストーリーに結実し、ジグソーパズルのように再構築されていく。ストーリーの展開に人工的な不自然さを感じさせない。単なる机上のフィクションではなく、こんなことがあってもおかしくないという感じすら抱かせる。読み応えのある作品に仕上がっていると思う。

 ご一読ありがとうございます。

本書からの関心事の波紋を広げてみた。一覧にしておきたい。
ant gardens :「antwiki.org」
Ant Garden in a Tree: Smells Help Explain Rainforest Relationship Between Ants and Plants :「NC STATE NEWS」
共依存とは  :「アスク・ヒューマン・ケア」
共依存の人に多い性格の傾向と特徴を徹底解説します :「モンテッソーリ子どもの家」
気をつけて!婚活詐欺の手口と被害にあいやすい人の特徴 :「まりおねっと」
婚活女性を狙う結婚詐欺師の手口と見抜き方|騙されやすい人の特徴6つ :「あなたの弁護士」
東尋坊  :ウィキペディア
東尋坊 世界有数の柱状節理  :「Web旅ナビ」
東尋坊の絶景を見に来てね!  :「坂井市三国観光協会」
児童虐待の定義と現状  :「厚生労働省」
急増する児童虐待の「深刻な実態」 もはや税金だけでは守れない:「現代ビジネス」

インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)


徒然に読んできた著者の作品の中で印象記を以下のものについて書いています。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。
『朽ちないサクラ』  徳間書店
『孤狼の血』  角川書店
『あしたの君へ』 文藝春秋
『パレートの誤算』 祥伝社
『慈雨』 集英社
『ウツボカズラの甘い息』 幻冬舎
『検事の死命』 宝島社
『検事の本懐』 宝島社

『眩 くらら』  朝井まかて  新潮社

2018-07-05 22:20:03 | レビュー
 「この世は、円と線でできている。」という一行から始まる。絵師が5つの幼い娘を大きな胡座の中に坐らせて、真剣に「画法」を説きながら絵を描いている場面である。苛立った娘は父親を見上げて「おやじどの」と呼ぶ。絵師の号は北斎。弟子や版元からは葛飾親爺と呼ばれている。だから「おやじどの」。「お前ぇ、まさか・・・筆が握りてぇのか」大きな目を瞠る父親に、娘はこくりとうなずく。娘の手の中に初めて筆が置かれた。この場面の末尾は「眩々した」の一文で締めくくられている。娘の思いである。娘の名はお栄。北斎の三女である。
 「娘はただ、己の裳の中に初めて置かれた筆が嬉しかった」(p9)という瞬間から、お栄の人生の方向が決まった。北斎は甘党で下戸であるが、娘のお栄は酒好きとして描かれている。そして一時期は、お栄をもじって酔女という号を書いたと著者は書く。後に葛飾応為と号する。最終章の第十二章は見出しが「吉原格子先之図」であり、この絵は冒頭に掲げた本書の表紙に使われている。この絵を描いたお栄の発想を著者は次のように記述する。
 「そして手前の通りには大きな陰を作る。実際の陰影を写し取ろうとしたら、ちまちまとした点描にせざるを得ないだろう。けれどあたしは今、その逆をしようとしている。命が見せる束の間の賑わいをこそ、光と影に託すのだ。そう、眩々するほどの息吹を描く。」(p342)と。
 本書のタイトルはこれら2箇所に出てくる「眩」に由来するのだろう。
 
 本書は、女絵師・葛飾応為の人生を描いた歴史時代小説である。葛飾応為は北斎の三女として知られるが、多くの浮世絵師同様、生没年は不詳だという。このストーリーは、冒頭で五歳の娘の頃の場面をエピソードとして、水油屋の次男で南沢等明という画号を持つ町絵師に嫁いで3年目、22歳のお栄の状況から書き出される。そして、幼い頃に加瀬家に養子に入り、家督を継ぎ御家人暮らしをする同腹の弟・﨑十郎の許に、江戸の大地震の後一端居候の身となるが、安政4年(1857)4月のある日の場面で終わる。「でももう潮時だ。安穏な日々から出立するなら、今しかない。もう六十かもしれないが、先々のあたしから見たら、今日のあたしがいっち若いじゃないか」と、気詰まりだが安穏な居候の身を自ら振り捨てて、出て行くところまでが描かれている。
 「あたしは、どこにだって行けるのだ。どこで生きても、あたしは絵師だ。」(p346)お栄が目指すのは「あと十年、いや五年、あればと願った親父どのの気持」(p346)だった。

 この小説、お栄の女絵師としての人生を描く。だが、その絵師としての生き方は当初は父・北斎の工房での修行である。その腕が上がってくると、北斎の弟子達に混じって北斎の助手として工房の画業をこなすという期間が続いていく。そのため、この小説では葛飾北斎の生き様が直接・間接に描きこまれていくことになる。浮世絵師葛飾北斎の生き様を家族という内輪の目線から眺めて描き出している点が興味深い。絵師という立場・視点から北斎を見つめたのは三女のお栄だけだったようである。お栄の姉も嫁ぐが、長男を伴い戻って来る。北斎にとっては孫になる時太郎が葛飾家の疫病神となっていく。このストーリーでは、この時太郎に手を焼き、煮え湯を飲まされる北斎とお栄の尻拭いの話が、一筋の流れとして織り込まれていく。これが結構北斎を金銭的な面で苦しめた要因になっているようである。多分、史実を踏まえて著者はフィクション化しているのだろう。

 お栄は、できればいつも絵筆を握っていたい、己にしか描けない絵をいつか生み出すという思いに駆られる根っからの絵師として描かれていく。人の女房として料理を含め家事に時間を取られたくはないという考えである。食べるものはできれば買い食いで十分という感覚。着物にも頓着しない。親の勧めで嫁いだが、己から見限って、絵師として生きるために父の工房に戻ってくる。
 そんなお栄が互いに競う意識を持つのが、善次郎である。彼は、渓斎英泉という号を持つ浮世絵師。秘画艶本の戯作者でもある。元は侍であり、狩野派に学び歌麿にも私淑していたが、お栄が十四、五の頃から北斎工房に出入りし、工房でも寝起きする位になっている絵師である。善次郎もまた己の絵の世界を求めている。お栄と善次郎は互いの絵について率直な批評をしつつ、高みを目指す存在でもある。この二人の有り様がストーリー展開での太い筋になっていく。絵師としては互いに切磋琢磨する視点を持つ存在であり、一方で男と女としての思いと関係もできていくが、互いに気遣いながらも、互いを縛らない仲である。ストーリーとしては、興味津々とならざるをえない。読ませどころでもある。
 善次郎との関わりを介して、「第九章 夜桜美人図」、「第十章 三曲合奏図」というお栄の代表作として残る絵の背景話が綴られていく。この背景話辺りは、著者の巧みな構想力と想像力が読ませどころとなっていると言える。

 女絵師として生きるお栄の北斎工房での修行の有り様、北斎の助手として長年勤めた工房の実態、北斎の生き様を見つめるお栄を描くところが、やはりこのストーリーの要となる筋だろう。それは浮世絵師と版元との関係、浮世絵という世界に広がっても行く。
 北斎の絵は今までにいくつかの展覧会で見てきている。しかし詳し北斎の伝記や年譜の類いを読んだことがなかった。この小説で初めて北斎が中気を患ったことを知った。北斎が中気で寝込んだ時期の家族と周囲の人々の対応を描き込んでいく。寝込んでいる北斎を訪ねる滝沢馬琴の場面がおもしろい。それが北斎復活の起爆剤になっていくところが一つの読ませどころになっている。「富嶽三十六景」が創造されるのは、北斎が中気から立ち直った後だという。この「富嶽三十六景」は、第八章として、その背景話が展開していき興味深い。併せて、北斎の「富士越龍図」が第十一章で取り上げられている。嘉永2年(1849)正月、北斎が90歳となり描いたという。そして、この年の節分を過ぎて、北斎は逝く。
 
 善次郎は、滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』の挿画を担当したという。このことは、馬琴が北斎の病床を訪れる場面で触れられている。
 善次郎は北斎の絵を見て、どの部分をお栄が助手として描いたかを言い当てたとストーリーの中で書き込まれているところがおもしろい。当時の絵師は、どの流派、工房でも分業で描くというのが当たり前だったのだから、どうということはないのだろう。だが、それを見抜ける目というのは、よほどお栄の筆筋や力量を評価できないと難しいと思う。それは裏返せば、お栄のことを善治郎が知悉していることの裏返しなのだろう。

 2006年に「江戸の誘惑」と題する展覧会を神戸展で鑑賞した。この展覧会の副題は「ボストン美術館蔵 肉筆浮世絵展」である。手許にある図録を引っ張り出して眺めると、葛飾応為の「三曲合奏図」が出展されていたことがわかる。その図録の写真を見ると、右下に「葛飾酔女筆」と署名落款がある。
 余談だが、この絵の解説文の一部を引用しておこう。”常に父・北斎の指図を受けていた葛飾応為は、「こっちへ来い」という呼び声の幾分野卑な表現「オーイ」を自らの画号とし、その名によって今日我々に知られている。”
 尚、ウィキペディアにも同種の説明が載っている。

 ご一読ありがとうございます。

本書と関連する事項をいくつか検索してみた。一覧にしておきたい。
葛飾応為  :ウィキペディア
あまり知られてないけど葛飾北斎の娘が天才過ぎてため息が出るレベル! :「NAVERまとめ」
コレクション  :「太田記念美術館」
関羽割臂図 Operating on Guan Yu’s Arm  :「UKIYO-E」
葛飾応為「関羽割臂図」 :「Japaaan」
月下砧打ち美人図 :「東京国立博物館」
葛飾北斎 「富嶽三十六景」解説付き  ホームページ
富士越龍図 北斎 jpshokusaib85 :「重右衛門」
稀代の浮世絵師・葛飾北斎の大規模な展覧会『北斎-富士を越えて-』:「サライ」
渓斎英泉 :ウィキペディア
南総里見八犬伝 9輯98巻. [1] :「国立国会図書館デジタルコレクション」

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