本書を手に取って表紙を眺めても、本を開けるまでは、なぜか随筆集と思い込んでいた。3ページ目を開いて小説なのだと気づいた。なぜ随筆集と思い込んだのか? このタイトルのイメージから勝手な先入観を抱いてしまったようだ。
ならば、このタイトルは何に由来するのか。その解はこの小説の途中と末尾にあった。
菘圃葱畔(しゅうほそうけい)
路を取ること斜に
桃花多き処是れ君が家
晩来何者ぞ門を敲き至るは
雨と詩人と落花なり
書名は、この漢詩・七言絶句「春雨到筆庵」の最終行に由来する。作者は広瀬旭荘(きょくそう)である。調べて見ると、広瀬旭荘は、文化4年(1807)5月17日生まれで、文久3年(1863)8月17日に逝去した幕末の儒学者・漢詩人。
この小説は、広瀬旭荘・松子夫妻の物語である。松子は筑後国吉木の神職・合原の娘。天保3年(1832)12月、旭荘にとっては後妻ではあるが新妻として松子を迎える婚礼の日の朝から書き出される。そして、
「松子にとって、一番、幸せであったことは何だ」
「旦那様の詩を聞くことでございました」
・・・・・・・・
「旦那様、詩を聞かせてくださいまし」
「詩といっても、どのような詩だ」
「あの桃の花がいっぱいに咲いているあたりに君の家がある。夕暮れ時に門を敲いて訪ねてくるのは誰だろうという詩でございます。」
この夫婦のやりとりの後で、旭荘が吟じたのが、上記の詩なのだ。
この詩は、旭荘が広瀬淡窓にともなわれて、筑後の松子の実家を訪ねた折に詠んだ詩だった、と旭荘は思い出す。
この小説は、弘化元年(1844)12月10日、享年29歳で松子が病の果てに逝ったことと、摂津池田にて旭荘が57歳で没したことを記述して終わる。
末尾の一行は「旭荘は松子のことを思い続けた詩人であったかもしれない。」である。
この小説、儒学者・詩人である広瀬旭荘を妻・松子の視点を基盤にしながら描いて行く。1832年12月から1844年12月という期間における旭荘・松子夫婦の伝記風小説である。10年余というある意味では短い期間の二人の人生の歩みと夫婦愛を描き上げる。
それがこの小説の中心軸となる。が、二人が生活したこの江戸時代末期に、詩人としての高き望みを持つ旭荘がその時代環境とその動向にどのように翻弄されたかという意味で、この時代背景そのものを旭荘との関わりを通し描くという視点を併せ持つ。旭荘の思いを察する松子がどのようにこの時代環境の中で旭荘を支えたかということにもなる。
また、それは旭荘という人物と直接的に関わりをもった人々のうち、特定の人物群の生き様を点描していくことになる。
旭荘は、九州・日田の広瀬家に生まれた。広瀬家は天領の日田金をあつかい、大名貸しまで行う富商である。25歳年長の兄が広瀬淡窓。儒学者であり詩人として名を馳せており、私塾の咸宜園を開設した人。天保元年に旭荘は子供のいない淡窓の養子となり、咸宜園を引き継ぎ、二代目の塾主となっていた。広瀬家本家は、淡窓の弟、久兵衛が継いでいる。
旭荘は塾主となった年に、妻を迎えたが1年5ヵ月で妻が家を去る。旭荘の激情が妻に向けられる。今風に言えば、旭荘は家庭内暴力を振るったのだ。DVとの違いは、内奥から噴出した憤りが去り、興奮が冷めると、旭荘は自らの落ち度を悔いるのだが、時折己を制御できなくなるのだ。それが旭荘の弱点といえる。それ故、旭荘は再婚に躊躇する。
淡窓が温和な君子人であるのとは対照的に、旭荘は矯激さのある人物だった。
咸宜園の塾主が独り身ではまずいと、天領・日田に置かれた西国郡代役所、日田代官所の塩谷郡代が淡窓に対し、旭荘の再婚を要望する。淡窓がしるべを頼り、見出したのが松子である。このストーリーは、旭荘と松子の婚礼の日からスタートする。
婚礼の夜に、旭荘は己の性が「暴急軽躁」であると松子に告白し、誓約書ともいうべき書状を松子に手渡すという場面が描かれる。その場で、松子は旭荘の本質を感じる。そして、「わたしに何ができるだろう」と思いをめぐらしたと描かれる。読者にとっては、この先二人がどうなるのか、とまず興味津々と惹きつけられることになる。
旭荘は眼病を患い、目が悪く、紙面に顔をこすりつけるようにして書物を読んだそうである。福岡の亀井昭陽に師事し、師から「活辞典」と呼ばれたほどの博識を身につけたという。一方で、昭陽は旭荘に「非常ノ材有ル者ハ、必ズ非常殃有リ」と告げたという。一方、広瀬家本家を継いだ久兵衛は、旭荘を嚢中の錐ととらえていて、淡窓に対し、兄上は何事も力強く打ち固める槌であり、旭荘は世間に風穴を開け、新しき風を呼ぶ錐なのではございますまいかと語るのである。
旭荘は、日田での咸宜園塾主としての経緯の後、淡窓に進められ大坂に出る。さらには時代の流れに翻弄されるように江戸に向かう。この間の旭荘の生き様が時代の変転と絡めて描き出されていく。それは、日田に根を下ろしそこで己の地歩を固めていくことのできた広瀬淡窓とは対照的な許荘の生きる道でもあったのだろう。
松子は旭荘の下に嫁して、2年後に長女ヨミを生むが、そのヨミが翌年熱を出し、あっけなく死ぬ。大坂に旭荘が出る時には、ふたたび身ごもっていたたために、松子は九州に留まり子育てをする。淡窓は書きとめた<遠思楼詩鈔>を本として大坂の版元で刊行することを大坂に出る旭荘に託す。旭荘はこの出版事業に奔走する。<遠思楼詩鈔>の出版は、淡窓の詩人としての名を高める。その喜びの一方で、旭荘は静かな憂悶にとらわれることにもなる。
天保9年に旭荘が再度大坂に出るときに、松子は大坂に付いていく。旭荘は大阪で私塾を開く。洋学者の岡部玄民宅で、旭荘は緒方洪庵との面識を得る。
その後旭荘は江戸に出て、結果的に江戸でも私塾を開く事になる。松子は旭荘の居る江戸に赴くことになる。旭荘を思う松子の生き様が描かれて行く。
江戸に出た松子が病の床につくようになる。それが旭荘の本質を素直に表出させることになったように思う。松子の病を介して、旭荘と松子の夫婦愛は一層緊密になっていった。著者はその経緯と機微を描きあげていく。ここが読ませどころと言える。
旭荘の人生は、時代の大きな動向、変転と無関係には居られなかった。逆にその時代の動向に深く関わるチャンスを得られそうで得られないという渦中に投げ込まれた。時代が旭荘という儒学者・詩人を磨いたのかもしれない。
天候不順が続き、天保4年から起こり始めた飢饉。大塩平八郎の乱。九州に広がる飢饉の影響が久兵衛にも及んだことへの旭荘の対応行動、幕府が蘭学者を弾圧した「蛮社の獄」、大村藩による藩校への招き、水野忠邦による天保の改革の顛末、小伝馬町の牢の火事と解き放ちによる高野長英の逃亡などに、旭荘は翻弄される羽目になる。著者はこの時代の流れと旭荘の関わりを織り交ぜながらその紆余曲折を描く。
天保13年末に旭荘に来た羽黒外記からの手紙が上記の通り、旭荘が慌ただしく江戸に出るトリガーとなる。当初、水野忠邦への推挙が意図されていたのである。
著者は、この時期の時代の変転の実相と人物群を旭荘の人生に絡む視点から点描風に描き出すことを、このストーリーのサブテーマの一つとして意図したのではないか。
もう一つのサブテーマは、広瀬淡窓と久兵衛という旭荘の兄たちの生き様並びに、緒方洪庵の生き方を重点的に織り込んでいくというということにあるように思う。淡窓と久兵衛は、旭荘が窮地に陥ったときに強力な救済者となり、旭荘の人生を資金面でも支えた人々である。またこの二人の兄は旭荘に影響力を及ぼしていると言える。この二人のそれぞれが、伝記風歴史時代小説が書ける存在でもある。ひょっとして、葉室麟にはその構想が秘められていたかもしれない。
大坂時代の旭荘・松子夫妻が緒方洪庵と深い関わりを持った側面でのエピソードの描写は、このストーリーの中で人間関係の暖かさと彩りを添えている。
広瀬旭荘という儒学者・詩人を描き出すにあたり、ストーリーにリズムを加え、詩人が主人公であるという香りを高めているのは漢詩の引用である。著者の他作品で今までは和歌の引用や織り込みが結構見られた。ここでは漢詩作者旭荘が主人公であり、漢詩が随所に織り込まれることは自然の流れにもなる。
淡窓の休道詩、師昭陽の回想録<傷逝録>を許荘が読みたちどころに作ったという詩の一節、身ごもった松子に対し旭荘が賦した詩(春寒)、後花園天皇が足利義政の行状をたしなめるために贈った詩、『詩経』の詩の数節、さらに『詩経』にある<桃夭>、唐の于濆の詩と旭荘による本歌取りの詩、浅川善庵の<范蠡載西施図>、陸游の<沈園>と<落梅>、文天祥の<正気の歌>の冒頭、三苫源吾と亀井小琹(しょうきん)の相聞詩、原采蘋の詩、李白の<子夜呉歌>、杜牧の<山行>と<秋感>さらに<嘆花>、杜甫の<月夜>と<春望>と、実に広がりがある。
最後に、大津皇子の「ももづたふ磐余の池に鳴く鴨を・・・・」の和歌が一首、引用されている。
冒頭に書名に使われた旭荘の詩を記したので、最後に随所で繰り返し出てくる広瀬淡窓の休道詩をご紹介しておこう。
道(い)うことを休(や)めよ
他郷苦辛多しと
同袍友有り
自ずから相親しむ
柴扉(さいひ)暁に出(いず)れば
霜雪の如し
君は川流(せんりゅう)を汲め
我は薪(たきぎ)を拾わん
奥書を読むと、この歴史時代小説は「読楽」の2016年10月号~2017年6月号に連載された。そして、葉室麟は2017年12月に逝去。第1刷が出版されたのは2018年3月31日である。葉室麟の早すぎる死・・・・・・・惜しまれる。
ご一読ありがとうございます。
本書と関連する事項をネット検索した。一覧にしておきたい。
広瀬旭荘 :ウィキペディ
広瀬旭荘 :「コトバンク」
広瀬淡窓 :「コトバンク」
関係人物紹介 広瀬淡窓・旭荘、門下 :「森琴石.com」
広瀬久兵衛 :「コトバンク」
広瀬久兵衛とその業績について 大分県 南芳裕氏 :「九州地方計画協会」
農業水利施設の礎を造った広瀬久兵衛 :「農林水産省」
広瀬資料館 ホームページ
漢詩紹介 示塾生 広瀬淡窓 休道詩 :「関西吟詩文化協会」
83.広瀬旭荘(ひろせきょくそう)墓所 :「大阪市」
広瀬旭荘に関する収蔵品 :「池田市」
『日本漢詩ノート』71―「東国詩人の冠」,広瀬旭荘の詩 :「私の趣味のブログです」
緒方洪庵 :ウィキペディア
適塾 大阪大学の原点 :「大阪大学」
大塩平八郎の乱 :「コトバンク」
大塩平八郎の乱 :ウィキペディア
高野長英 :ウィキペディア
高野長英記念館 ホームページ
インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。
(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)
徒然に読んできた作品の印象記に以下のものがあります。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。
『古都再見』 新潮社
『河のほとりで』 文春文庫
『玄鳥さりて』 新潮社
『津軽双花』 講談社
『草雲雀』 実業之日本社
『日本人の肖像』 聞き手・矢部明洋 講談社
『草笛物語』 祥伝社
『墨龍賦』 PHP
『大獄 西郷青嵐賦』 文藝春秋
『嵯峨野花譜』 文藝春秋
『潮騒はるか』 幻冬舎
『風のかたみ』 朝日新聞出版
===== 葉室 麟 作品 読後印象記一覧 ===== 更新5版(46+4冊)2017.7.26
ならば、このタイトルは何に由来するのか。その解はこの小説の途中と末尾にあった。
菘圃葱畔(しゅうほそうけい)
路を取ること斜に
桃花多き処是れ君が家
晩来何者ぞ門を敲き至るは
雨と詩人と落花なり
書名は、この漢詩・七言絶句「春雨到筆庵」の最終行に由来する。作者は広瀬旭荘(きょくそう)である。調べて見ると、広瀬旭荘は、文化4年(1807)5月17日生まれで、文久3年(1863)8月17日に逝去した幕末の儒学者・漢詩人。
この小説は、広瀬旭荘・松子夫妻の物語である。松子は筑後国吉木の神職・合原の娘。天保3年(1832)12月、旭荘にとっては後妻ではあるが新妻として松子を迎える婚礼の日の朝から書き出される。そして、
「松子にとって、一番、幸せであったことは何だ」
「旦那様の詩を聞くことでございました」
・・・・・・・・
「旦那様、詩を聞かせてくださいまし」
「詩といっても、どのような詩だ」
「あの桃の花がいっぱいに咲いているあたりに君の家がある。夕暮れ時に門を敲いて訪ねてくるのは誰だろうという詩でございます。」
この夫婦のやりとりの後で、旭荘が吟じたのが、上記の詩なのだ。
この詩は、旭荘が広瀬淡窓にともなわれて、筑後の松子の実家を訪ねた折に詠んだ詩だった、と旭荘は思い出す。
この小説は、弘化元年(1844)12月10日、享年29歳で松子が病の果てに逝ったことと、摂津池田にて旭荘が57歳で没したことを記述して終わる。
末尾の一行は「旭荘は松子のことを思い続けた詩人であったかもしれない。」である。
この小説、儒学者・詩人である広瀬旭荘を妻・松子の視点を基盤にしながら描いて行く。1832年12月から1844年12月という期間における旭荘・松子夫婦の伝記風小説である。10年余というある意味では短い期間の二人の人生の歩みと夫婦愛を描き上げる。
それがこの小説の中心軸となる。が、二人が生活したこの江戸時代末期に、詩人としての高き望みを持つ旭荘がその時代環境とその動向にどのように翻弄されたかという意味で、この時代背景そのものを旭荘との関わりを通し描くという視点を併せ持つ。旭荘の思いを察する松子がどのようにこの時代環境の中で旭荘を支えたかということにもなる。
また、それは旭荘という人物と直接的に関わりをもった人々のうち、特定の人物群の生き様を点描していくことになる。
旭荘は、九州・日田の広瀬家に生まれた。広瀬家は天領の日田金をあつかい、大名貸しまで行う富商である。25歳年長の兄が広瀬淡窓。儒学者であり詩人として名を馳せており、私塾の咸宜園を開設した人。天保元年に旭荘は子供のいない淡窓の養子となり、咸宜園を引き継ぎ、二代目の塾主となっていた。広瀬家本家は、淡窓の弟、久兵衛が継いでいる。
旭荘は塾主となった年に、妻を迎えたが1年5ヵ月で妻が家を去る。旭荘の激情が妻に向けられる。今風に言えば、旭荘は家庭内暴力を振るったのだ。DVとの違いは、内奥から噴出した憤りが去り、興奮が冷めると、旭荘は自らの落ち度を悔いるのだが、時折己を制御できなくなるのだ。それが旭荘の弱点といえる。それ故、旭荘は再婚に躊躇する。
淡窓が温和な君子人であるのとは対照的に、旭荘は矯激さのある人物だった。
咸宜園の塾主が独り身ではまずいと、天領・日田に置かれた西国郡代役所、日田代官所の塩谷郡代が淡窓に対し、旭荘の再婚を要望する。淡窓がしるべを頼り、見出したのが松子である。このストーリーは、旭荘と松子の婚礼の日からスタートする。
婚礼の夜に、旭荘は己の性が「暴急軽躁」であると松子に告白し、誓約書ともいうべき書状を松子に手渡すという場面が描かれる。その場で、松子は旭荘の本質を感じる。そして、「わたしに何ができるだろう」と思いをめぐらしたと描かれる。読者にとっては、この先二人がどうなるのか、とまず興味津々と惹きつけられることになる。
旭荘は眼病を患い、目が悪く、紙面に顔をこすりつけるようにして書物を読んだそうである。福岡の亀井昭陽に師事し、師から「活辞典」と呼ばれたほどの博識を身につけたという。一方で、昭陽は旭荘に「非常ノ材有ル者ハ、必ズ非常殃有リ」と告げたという。一方、広瀬家本家を継いだ久兵衛は、旭荘を嚢中の錐ととらえていて、淡窓に対し、兄上は何事も力強く打ち固める槌であり、旭荘は世間に風穴を開け、新しき風を呼ぶ錐なのではございますまいかと語るのである。
旭荘は、日田での咸宜園塾主としての経緯の後、淡窓に進められ大坂に出る。さらには時代の流れに翻弄されるように江戸に向かう。この間の旭荘の生き様が時代の変転と絡めて描き出されていく。それは、日田に根を下ろしそこで己の地歩を固めていくことのできた広瀬淡窓とは対照的な許荘の生きる道でもあったのだろう。
松子は旭荘の下に嫁して、2年後に長女ヨミを生むが、そのヨミが翌年熱を出し、あっけなく死ぬ。大坂に旭荘が出る時には、ふたたび身ごもっていたたために、松子は九州に留まり子育てをする。淡窓は書きとめた<遠思楼詩鈔>を本として大坂の版元で刊行することを大坂に出る旭荘に託す。旭荘はこの出版事業に奔走する。<遠思楼詩鈔>の出版は、淡窓の詩人としての名を高める。その喜びの一方で、旭荘は静かな憂悶にとらわれることにもなる。
天保9年に旭荘が再度大坂に出るときに、松子は大坂に付いていく。旭荘は大阪で私塾を開く。洋学者の岡部玄民宅で、旭荘は緒方洪庵との面識を得る。
その後旭荘は江戸に出て、結果的に江戸でも私塾を開く事になる。松子は旭荘の居る江戸に赴くことになる。旭荘を思う松子の生き様が描かれて行く。
江戸に出た松子が病の床につくようになる。それが旭荘の本質を素直に表出させることになったように思う。松子の病を介して、旭荘と松子の夫婦愛は一層緊密になっていった。著者はその経緯と機微を描きあげていく。ここが読ませどころと言える。
旭荘の人生は、時代の大きな動向、変転と無関係には居られなかった。逆にその時代の動向に深く関わるチャンスを得られそうで得られないという渦中に投げ込まれた。時代が旭荘という儒学者・詩人を磨いたのかもしれない。
天候不順が続き、天保4年から起こり始めた飢饉。大塩平八郎の乱。九州に広がる飢饉の影響が久兵衛にも及んだことへの旭荘の対応行動、幕府が蘭学者を弾圧した「蛮社の獄」、大村藩による藩校への招き、水野忠邦による天保の改革の顛末、小伝馬町の牢の火事と解き放ちによる高野長英の逃亡などに、旭荘は翻弄される羽目になる。著者はこの時代の流れと旭荘の関わりを織り交ぜながらその紆余曲折を描く。
天保13年末に旭荘に来た羽黒外記からの手紙が上記の通り、旭荘が慌ただしく江戸に出るトリガーとなる。当初、水野忠邦への推挙が意図されていたのである。
著者は、この時期の時代の変転の実相と人物群を旭荘の人生に絡む視点から点描風に描き出すことを、このストーリーのサブテーマの一つとして意図したのではないか。
もう一つのサブテーマは、広瀬淡窓と久兵衛という旭荘の兄たちの生き様並びに、緒方洪庵の生き方を重点的に織り込んでいくというということにあるように思う。淡窓と久兵衛は、旭荘が窮地に陥ったときに強力な救済者となり、旭荘の人生を資金面でも支えた人々である。またこの二人の兄は旭荘に影響力を及ぼしていると言える。この二人のそれぞれが、伝記風歴史時代小説が書ける存在でもある。ひょっとして、葉室麟にはその構想が秘められていたかもしれない。
大坂時代の旭荘・松子夫妻が緒方洪庵と深い関わりを持った側面でのエピソードの描写は、このストーリーの中で人間関係の暖かさと彩りを添えている。
広瀬旭荘という儒学者・詩人を描き出すにあたり、ストーリーにリズムを加え、詩人が主人公であるという香りを高めているのは漢詩の引用である。著者の他作品で今までは和歌の引用や織り込みが結構見られた。ここでは漢詩作者旭荘が主人公であり、漢詩が随所に織り込まれることは自然の流れにもなる。
淡窓の休道詩、師昭陽の回想録<傷逝録>を許荘が読みたちどころに作ったという詩の一節、身ごもった松子に対し旭荘が賦した詩(春寒)、後花園天皇が足利義政の行状をたしなめるために贈った詩、『詩経』の詩の数節、さらに『詩経』にある<桃夭>、唐の于濆の詩と旭荘による本歌取りの詩、浅川善庵の<范蠡載西施図>、陸游の<沈園>と<落梅>、文天祥の<正気の歌>の冒頭、三苫源吾と亀井小琹(しょうきん)の相聞詩、原采蘋の詩、李白の<子夜呉歌>、杜牧の<山行>と<秋感>さらに<嘆花>、杜甫の<月夜>と<春望>と、実に広がりがある。
最後に、大津皇子の「ももづたふ磐余の池に鳴く鴨を・・・・」の和歌が一首、引用されている。
冒頭に書名に使われた旭荘の詩を記したので、最後に随所で繰り返し出てくる広瀬淡窓の休道詩をご紹介しておこう。
道(い)うことを休(や)めよ
他郷苦辛多しと
同袍友有り
自ずから相親しむ
柴扉(さいひ)暁に出(いず)れば
霜雪の如し
君は川流(せんりゅう)を汲め
我は薪(たきぎ)を拾わん
奥書を読むと、この歴史時代小説は「読楽」の2016年10月号~2017年6月号に連載された。そして、葉室麟は2017年12月に逝去。第1刷が出版されたのは2018年3月31日である。葉室麟の早すぎる死・・・・・・・惜しまれる。
ご一読ありがとうございます。
本書と関連する事項をネット検索した。一覧にしておきたい。
広瀬旭荘 :ウィキペディ
広瀬旭荘 :「コトバンク」
広瀬淡窓 :「コトバンク」
関係人物紹介 広瀬淡窓・旭荘、門下 :「森琴石.com」
広瀬久兵衛 :「コトバンク」
広瀬久兵衛とその業績について 大分県 南芳裕氏 :「九州地方計画協会」
農業水利施設の礎を造った広瀬久兵衛 :「農林水産省」
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漢詩紹介 示塾生 広瀬淡窓 休道詩 :「関西吟詩文化協会」
83.広瀬旭荘(ひろせきょくそう)墓所 :「大阪市」
広瀬旭荘に関する収蔵品 :「池田市」
『日本漢詩ノート』71―「東国詩人の冠」,広瀬旭荘の詩 :「私の趣味のブログです」
緒方洪庵 :ウィキペディア
適塾 大阪大学の原点 :「大阪大学」
大塩平八郎の乱 :「コトバンク」
大塩平八郎の乱 :ウィキペディア
高野長英 :ウィキペディア
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(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)
徒然に読んできた作品の印象記に以下のものがあります。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。
『古都再見』 新潮社
『河のほとりで』 文春文庫
『玄鳥さりて』 新潮社
『津軽双花』 講談社
『草雲雀』 実業之日本社
『日本人の肖像』 聞き手・矢部明洋 講談社
『草笛物語』 祥伝社
『墨龍賦』 PHP
『大獄 西郷青嵐賦』 文藝春秋
『嵯峨野花譜』 文藝春秋
『潮騒はるか』 幻冬舎
『風のかたみ』 朝日新聞出版
===== 葉室 麟 作品 読後印象記一覧 ===== 更新5版(46+4冊)2017.7.26