著者は、1926年ヴェトナム生まれで16歳で出家し禅僧になるが、1966年に欧米への平和使節として歴訪以降、政府に帰国を拒否されたという。以後、フランスで亡命生活に入り、1982年にボルドーに仏教の僧院・共同体「プラムヴィレッジ」を開設し、難民を受け入れ、生活と一体となった瞑想を実践しつつ諸活動をしている人である。行動する仏教または社会参画仏教の命名者であり実践者である。
本書は<気づき>の瞑想、即ち「四種の<気づき>を確立する」実践方法について説かれている。「瞑想とは、深く見つめ物事の真髄を見抜くこと」(p15)だという。具体的には、「サティパッターナ・スッタ」(「四種の<気づき>を確立する経典」/「四念処経」)について、著者が四種の<気づき>のエクササイズ・実践法として説明している。説明がわかりやすいのは、著者の日々の実践体験に裏打ちされていることと、説明に使われる例示が身近なものであることによると思う。一方、読みやすい翻訳のおかげでもあるだろう。
本書は、最初に原典「四念処経」の現代語訳が載っている。その後に、四種の<気づき>について、順次それぞれのエクササイズ・実践方法をリスト化した目次構成になっている。四種の<気づき>とは、
「身体を観察する」 (10エクササイズ)
「感覚を観察する」 (2エクササイズ)
「心を観察する」 (3エクササイズ)
「心の対象を観察する」(5エクササイズ)
つまり、四種の<気づき>が合計20のエクササイズで説明されている。
この「<気づき>のエクササイズ」が著者本文の前半である。本文の後半は、「<気づき>の瞑想のポイント」について述べられている。ここは5項目にまとめられている。
そして、付録として三種の訳本についてのまとめが掲載されている。この点、客観的な対応であり、本文でもその内容に触れ、一部取り入れられている。
目次をご覧になると、エクササイズ全体のフレームワークが一目瞭然である。まずここを読み、先を読むかどうか決めるのも一法かもしれない。
本書ではこれがどのような方法かを解りやすく説明しているだけである。つまり、エクササイズを実践しないことには勿論真価を体感できないのは言うまでもない。
(本書を読み「四念処経」の内容が具体的に理解できたというにとどまる。そのため、表層的な理解による引用と読後印象を記載したにすぎない。この点ご寛恕願いたい。)
[身体を観察する]
<気づき>の第一の確立は「身体」から始まる。説明されているエクササイズをまず列挙してご紹介しよう。
(1) 意識的な呼吸
(2) 呼吸の観察(随息)
(3) 身体と心の統一(身心一如)
(4) 身体を静める
(5) 姿勢の気づき
(6) 動作の気づき
(7) 身体の各部の観察
(8) 身体とすべての存在とのかかわり
(9) 変わり続ける身体(身体の無常)
(10) 喜びに気づき、心の傷を癒す
意識的な呼吸の成果は、 1)自分自身に戻る、2)いのちとつながる、点だとされる。
「身心が一体になってはじめて、いのちの本質であるこの今に起こっている出来事と、本当につながることができます。」(p68)
「身体と心が一体になったとき、感情、心、身体の傷の癒しがはじまります。」(p75)
これらの文が理解ではなく、感得できるためには実践が必要だろう。私は本書を読みその意味が理解できた程度だ。
「どんな思いつきや思考にも気をそらさず、息のはじまりから終わりまで自身と呼吸との一体感を途切れさせない」で自分自身の呼吸を注意深く観察する方法なので「随息」と呼ぶようだ。ちょっと試してみると、心と呼吸をひとつにすることそのものが、そう簡単なことではないと感じる。そう感じること自体が<気づき>の一部ともいえようか。
エクササイズ4には、呼吸とあわせて、心で唱える偈が載っている。
息を吸い、体を静める
息を吐き、微笑む
今ここに心をとめて
すばらしいひとときを味わう
こういう偈を読むだけでも、エクササイズをイメージでき、またこの偈文にもどこか引き込まれていくところがある。この偈の後の段落に、
「瞑想の核心は、今ここに還り、そこに心をとめるとともに、その一瞬に起こってくる物事を観察することにあります」(p79)と記されている。そして、
「本来の自分を失い自己が分裂しているときには、いのちとの真の絆は存在しません。本来の自分でいるときに、はじめて深いつながりが生まれるのです」(p81)つまり、「自らの全体性」を実現することが強調されていて、それが「すべての意味ある深い交流の基礎」となり、その実現は「一瞬、一瞬、自分が新たになること」(p82)だという。
エクササイズ5にも、偈が載っている。歩き始めるときに唱える偈である。
心は八方へとさ迷いゆくもの
けれど私は、美しきこの道を歩む、安らかに
一歩ごと、やさしい風が吹き
一歩ごと、花ほころぶ
また、このエクササイズに、坐る瞑想で呼吸を観察しながら唱える偈もある。
ここに坐る
菩提樹のもとのように
この身は<気づき>そのもの
思いはどこへもさ迷わず
偈を呼吸の瞑想と組み合わせることで、<気づき>を保つことが容易になるそうだ。こういう短詩の内容を読むと、そんな気がしてくる。
「<気づき>は一つひとつの動作を落ち着かせ、私たちを身心の主とするのです。また<気づき>は私たちの内に集中力を(禅定)を養います」(p87)。
エクササイズ7において、身体の各部を念入りに観察するのは、「自分の身体とつながる」(p90)ことであり、それが「解放と目覚めへの扉となりうる」(p91)からだと述べられている。
エクササイズ9は、「貪欲」と「嫌悪」を克服した後に、身心ともに健康な状態で行う瞑想だという。わかりやすく説明が加えられている。これは身体の無常を死骸が朽ち果てていく9段階で観想する瞑想法である。日本に「九相図」としていくつかの有名な絵がある。博物館で絵を見たことがあるのを思い出した。九相図がこの経典を元にした瞑想法だいうことを、初めて知った次第だ。
[感覚を観察する]
感覚には快、不快、中性の三種があるとする。今の自分の心に生じている、流れている感覚自体に意識を向け注意深く観察することを第2の<気づき>の確立としてとりあげている。エクササイズは2つある。
(11) 感覚を確認する
(12) 感覚の源を見つめ、中性の感覚を確認する
「感覚の観察とは、感覚の流れの岸辺に腰を下ろし、一つの感覚が生まれ、育ち、消えていくまでを確認することです」(p121)という。感覚が、私たちの思考や気持ちを方向づけるうえで重要な役割を果たすので、感覚が生ずる原因と本質を見抜くことが重要となる。その原因は身体的、生理的、または心理的要因のどれかから生じている。だが、感覚の原因には習慣や時間、心理的、生理的状態などの要素がかかわっているので、観察により自分の癖が見えてくるそうだ。瞑想で<気づき>の観察をすれば、原因と結果が見え、感覚の本質が見抜けるという。感覚が相対的な性質をもっていることに気づき、「幸福に必要な条件はみんな自分の手元にそろっている」(p128)と気づくことになるという。「安らぎ、喜び、幸福感とは、とりもなおさず、私たちにはもともと幸福の条件が備わっていると自覚すること」(p130)なのだ。
私たちのもつ感覚のうち、中性の感覚がほとんどを占めているが、その受け止め方や扱い方を知らなければ、苦痛に変わり、中性の感覚にどう接するかがわかれば心地よさに変化するのだという。
[心を観察する」
第3の<気づき>の確立は、心の確立だ。ここでは3つのエクササイズがある。
(13) 欲求を観察する
(14) 怒りを観察する
(15) 慈しみの瞑想
ここでは、感覚以外のすべての心理現象-認知、思いの形成、意識という心の機能-を観察することになる。つまり、心における心の観察を確立するということだ。
四念処経では、思いの形成について、欲望、怒り、無智、動揺・・・から始まり、<気づき>、嫌悪、安らぎ、喜び、くつろぎ、解放まで22を列挙している。また欲求について「不健全な願望にとらわれること」という意味合いで、五欲、具体的には富、性的欲求、名声、美食、睡眠の欲求という感覚的欲求対象を挙げている。今の心の状態、そしてそれが変化していく状態を観察し、気づくという実践法なのだ。
怒りの観察の利点は「心に怒りがないとわかれば幸福感が強まる」、「怒りがあることを確認するだけでその破壊的な性質がいくぶんやわらぐ」の2点だという。
「怒っているとき、私たちは怒りそのものです。怒りを抑えこんだり追い払ったりすれば、自分自身を抑え込み追い払うことになります」(p150)怒りはある種のエネルギー、だから、怒りを変容させるには、まず怒りの受容方法を知ることからはじめるべきだということになる。「怒りそうになったら一呼吸おけ」とか、「怒りそうになったら十数えよ」などと言われるが、これらはこの14番目のエクササイズに通じる初歩的な生活の智慧なのかもしれない。怒りの原因を観察しその本質に気づくこと。そのための実践方法がこの第14項で語られている。原因を究明せず、怒りを抑え込めば、またいつか爆発するのだ。「怒りが起こったとき、まず必要なのは、意識的な呼吸に戻り、<気づき>によってそれを見守ることです」(p156)と説明する。
[心の対象を観察する]
第4の<気づき>の確立は、心の対象の確立である。ここには5つのエクササイズがある。
(16) 現象の識別(択法)
(17) 心の固まりを観察する
(18) 抑圧された心の固まりを解く
(19) 罪悪感と怖れを克服する
(20) 安らぎの種を蒔く
心の対象も法(ダルマ;存在を思い描けるすべての現象)とよばれ、六根・六境・六識という心理、生理、物理的な側面を網羅した計十八界に思いの形成が含まれる。「心が心を観察するときには、心自体が心の対象になるのです」(p174)という。
すべての法は「基本的に相互依存的生起(縁起)という性質」を持っているので、縁起の法則を観察するということを意味する。この第4の<気づき>では、仏教で説く縁起についてわかりやすい説明が加えられており、心の対象をいかに観察するかが理解できるようになっている。この辺りは、やはり本書をじっくり読む価値があるところだと思う。「相互依存こそすべてのものの本質であることを実体験」(p178)するためのエクササイズだと受け止めた。
エクササイズ17、18でいう「心の固まり」とは、思いの形成のことである。具体的には、混乱、欲、怒り、高慢、疑い、肉体と自己との同一視、極端な見方、誤った見方、歪んだ見方、迷信にとらわれた見方をさしている。そして、心の対象を観察した<気づき>によって、日常の出来事に対する受け取り方を変えること、心の固まりを解くやり方が説明されている。気づいて変化させる方法を見つける手引きといえる。
[<気づき>の瞑想のポイント]
そのポイントを列挙し、本文説明キーフレーズを使いアレンジして付記しよう。
a) 心の対象(法)は心にほかならない
→ 観察対象が自分の心、個別的なまたは集合的な自分の意識から生まれる
b) 観察する対象とひとつになる
→ 観察(=気づき)とは、対象に入り込んで変化させる働き。観察者=参加者
c) 真実の心と迷いの心はひとつ
→ この2つは心の裏表。物事の本性と幻想は同源からきている
d) 争いを越えた道
→ 非二元性の理解、本質を見抜く。ありのままの観察と受容。
e) 観察とは教義を植えつけることではない
→ 深く見つめ、対象の本質を見究めるとその存在が自ら姿を現す。自己の経験
印象に残る一節を引用しておく。
*自由の道とは、五蘊から逃避するのではなく、五蘊に面と向かい、その本質を理解することなのです。・・・・物事の無常を観察するのは、対象を否定するためではありません。欲望や執着にとらわれずに、深い理解によって物事に接するためなのです。 p108-109
*本当の幸福は、欲や財産をほとんど携えずに生き、自分の内面とまわりの世界にある多くの不思議を味わう時間をもつことだ、ブッダはこのようにも言い残しています。p144
*瞑想で大切なのは、対象を深く観察し、その本質を見抜くことです。物事の本質とは、相互に依存しつつ生じること(縁起)であり、万物の源である、あるがままの状態(真如)です。 p154
*空とは相互依存(縁起)のことです。すべては依存しあうことで生じ、続いていくことができます。つまり、ひとつの法が他の法と無関係に存在することはできないという真実を、法の本質は空であると表現しているのです。どんなものも単独で存在することは不可能です。 p177
*仏教で<気づき>の瞑想をするのは、感情を抑圧するためではありません。瞑想を通して感情の世話をし、慈しみと非暴力の姿勢でそれを見守るためです。 p196
*仏教の懺悔は、過ちは心が作り出すという事実に立っています。それゆえ過ちは心によって消去できるのです。 p202
*<気づき>は仏教の瞑想の核心です。 p238
サンガなしで瞑想を続けるのは難しいと思います。 p240
<気づき>の瞑想とは、「一瞬一瞬をいかに目覚めて生きるか」(p199)を知るための実践法であると私は受け止めた。
「訳者あとがき」には、プラムヴィレッジの洗面所には、日常の<気づき>を養うための偈(詩文)として、こんな短詩がかかげられていると記す。
両手の上を流れる水よ
私のこの手で
大切な地球を守る働きが
できますように
ご一読ありがとうございます。
↑↑ クリックしていただけると嬉しいです。
本書の語句の検索とそこからの波紋として検索した結果を一覧にまとめておきたい。
ティク・ナット・ハン :ウィキペディア
Thich Nhat Hanh :From Wikipedia, the free encyclopedia
Thich Nhat Hanh :「Who are you」(BODHI PRESS)のサイトより
Plum VillageのHP
動画 YouTubeより
Thich Nhat Hanh's Wish for the World
Thich Nhat Hanh ~Short Mediation ~
Mindfulness as a Foundation for Health: Thich Nhat Hanh and Health@Google
Body and Mind Are One - Zen Master Thich Nhat Hanh
Thich Nhat Hanh - Open Mind Open Heart Retreat - Day 3
Awakening the heart with Zen Master Thich Nhat Hanh (8/14/2011) Chanting 1-3
Thich Nhat Hanh - Open Mind Open Heart Retreat - Day 3
九相図 :ウィキペディア
『九相図資料集成』
小野小町の九相図(1) ~ (9) :「とみ新蔵 ブログ」
9回のシリーズで、ブログ記事を書かれています。
九相観図 :「奥三河の古刹・釣月寺」のページから
檀林皇后の描かせたという九相図をモデルに前住職(源宗一和尚)が描かれた絵だとか。
一方、ネット検索すると「檀林皇后九相図」が様々なところで引用掲載されています。
法(仏教) :ウィキペディア
法 :WikiDharma
サティ(仏教) :ウィキペディア
サティ・パッターナ・スッタ(大念処経) :「仏教の瞑想法と修行体系」morfo氏
念処経の修行(「四念処」)
:「もう一つの仏教学・禅学」(新大乗ー本来の仏教を考える会)
サマタ瞑想 :ウィキペディア
ヴィパッサナー瞑想 :ウィキペディア
ヴィパッサナー バーヴァナー (ヴィパッサナー冥想) :「初期仏教の世界」
↑↑ クリックしていただけると嬉しいです。
本書は<気づき>の瞑想、即ち「四種の<気づき>を確立する」実践方法について説かれている。「瞑想とは、深く見つめ物事の真髄を見抜くこと」(p15)だという。具体的には、「サティパッターナ・スッタ」(「四種の<気づき>を確立する経典」/「四念処経」)について、著者が四種の<気づき>のエクササイズ・実践法として説明している。説明がわかりやすいのは、著者の日々の実践体験に裏打ちされていることと、説明に使われる例示が身近なものであることによると思う。一方、読みやすい翻訳のおかげでもあるだろう。
本書は、最初に原典「四念処経」の現代語訳が載っている。その後に、四種の<気づき>について、順次それぞれのエクササイズ・実践方法をリスト化した目次構成になっている。四種の<気づき>とは、
「身体を観察する」 (10エクササイズ)
「感覚を観察する」 (2エクササイズ)
「心を観察する」 (3エクササイズ)
「心の対象を観察する」(5エクササイズ)
つまり、四種の<気づき>が合計20のエクササイズで説明されている。
この「<気づき>のエクササイズ」が著者本文の前半である。本文の後半は、「<気づき>の瞑想のポイント」について述べられている。ここは5項目にまとめられている。
そして、付録として三種の訳本についてのまとめが掲載されている。この点、客観的な対応であり、本文でもその内容に触れ、一部取り入れられている。
目次をご覧になると、エクササイズ全体のフレームワークが一目瞭然である。まずここを読み、先を読むかどうか決めるのも一法かもしれない。
本書ではこれがどのような方法かを解りやすく説明しているだけである。つまり、エクササイズを実践しないことには勿論真価を体感できないのは言うまでもない。
(本書を読み「四念処経」の内容が具体的に理解できたというにとどまる。そのため、表層的な理解による引用と読後印象を記載したにすぎない。この点ご寛恕願いたい。)
[身体を観察する]
<気づき>の第一の確立は「身体」から始まる。説明されているエクササイズをまず列挙してご紹介しよう。
(1) 意識的な呼吸
(2) 呼吸の観察(随息)
(3) 身体と心の統一(身心一如)
(4) 身体を静める
(5) 姿勢の気づき
(6) 動作の気づき
(7) 身体の各部の観察
(8) 身体とすべての存在とのかかわり
(9) 変わり続ける身体(身体の無常)
(10) 喜びに気づき、心の傷を癒す
意識的な呼吸の成果は、 1)自分自身に戻る、2)いのちとつながる、点だとされる。
「身心が一体になってはじめて、いのちの本質であるこの今に起こっている出来事と、本当につながることができます。」(p68)
「身体と心が一体になったとき、感情、心、身体の傷の癒しがはじまります。」(p75)
これらの文が理解ではなく、感得できるためには実践が必要だろう。私は本書を読みその意味が理解できた程度だ。
「どんな思いつきや思考にも気をそらさず、息のはじまりから終わりまで自身と呼吸との一体感を途切れさせない」で自分自身の呼吸を注意深く観察する方法なので「随息」と呼ぶようだ。ちょっと試してみると、心と呼吸をひとつにすることそのものが、そう簡単なことではないと感じる。そう感じること自体が<気づき>の一部ともいえようか。
エクササイズ4には、呼吸とあわせて、心で唱える偈が載っている。
息を吸い、体を静める
息を吐き、微笑む
今ここに心をとめて
すばらしいひとときを味わう
こういう偈を読むだけでも、エクササイズをイメージでき、またこの偈文にもどこか引き込まれていくところがある。この偈の後の段落に、
「瞑想の核心は、今ここに還り、そこに心をとめるとともに、その一瞬に起こってくる物事を観察することにあります」(p79)と記されている。そして、
「本来の自分を失い自己が分裂しているときには、いのちとの真の絆は存在しません。本来の自分でいるときに、はじめて深いつながりが生まれるのです」(p81)つまり、「自らの全体性」を実現することが強調されていて、それが「すべての意味ある深い交流の基礎」となり、その実現は「一瞬、一瞬、自分が新たになること」(p82)だという。
エクササイズ5にも、偈が載っている。歩き始めるときに唱える偈である。
心は八方へとさ迷いゆくもの
けれど私は、美しきこの道を歩む、安らかに
一歩ごと、やさしい風が吹き
一歩ごと、花ほころぶ
また、このエクササイズに、坐る瞑想で呼吸を観察しながら唱える偈もある。
ここに坐る
菩提樹のもとのように
この身は<気づき>そのもの
思いはどこへもさ迷わず
偈を呼吸の瞑想と組み合わせることで、<気づき>を保つことが容易になるそうだ。こういう短詩の内容を読むと、そんな気がしてくる。
「<気づき>は一つひとつの動作を落ち着かせ、私たちを身心の主とするのです。また<気づき>は私たちの内に集中力を(禅定)を養います」(p87)。
エクササイズ7において、身体の各部を念入りに観察するのは、「自分の身体とつながる」(p90)ことであり、それが「解放と目覚めへの扉となりうる」(p91)からだと述べられている。
エクササイズ9は、「貪欲」と「嫌悪」を克服した後に、身心ともに健康な状態で行う瞑想だという。わかりやすく説明が加えられている。これは身体の無常を死骸が朽ち果てていく9段階で観想する瞑想法である。日本に「九相図」としていくつかの有名な絵がある。博物館で絵を見たことがあるのを思い出した。九相図がこの経典を元にした瞑想法だいうことを、初めて知った次第だ。
[感覚を観察する]
感覚には快、不快、中性の三種があるとする。今の自分の心に生じている、流れている感覚自体に意識を向け注意深く観察することを第2の<気づき>の確立としてとりあげている。エクササイズは2つある。
(11) 感覚を確認する
(12) 感覚の源を見つめ、中性の感覚を確認する
「感覚の観察とは、感覚の流れの岸辺に腰を下ろし、一つの感覚が生まれ、育ち、消えていくまでを確認することです」(p121)という。感覚が、私たちの思考や気持ちを方向づけるうえで重要な役割を果たすので、感覚が生ずる原因と本質を見抜くことが重要となる。その原因は身体的、生理的、または心理的要因のどれかから生じている。だが、感覚の原因には習慣や時間、心理的、生理的状態などの要素がかかわっているので、観察により自分の癖が見えてくるそうだ。瞑想で<気づき>の観察をすれば、原因と結果が見え、感覚の本質が見抜けるという。感覚が相対的な性質をもっていることに気づき、「幸福に必要な条件はみんな自分の手元にそろっている」(p128)と気づくことになるという。「安らぎ、喜び、幸福感とは、とりもなおさず、私たちにはもともと幸福の条件が備わっていると自覚すること」(p130)なのだ。
私たちのもつ感覚のうち、中性の感覚がほとんどを占めているが、その受け止め方や扱い方を知らなければ、苦痛に変わり、中性の感覚にどう接するかがわかれば心地よさに変化するのだという。
[心を観察する」
第3の<気づき>の確立は、心の確立だ。ここでは3つのエクササイズがある。
(13) 欲求を観察する
(14) 怒りを観察する
(15) 慈しみの瞑想
ここでは、感覚以外のすべての心理現象-認知、思いの形成、意識という心の機能-を観察することになる。つまり、心における心の観察を確立するということだ。
四念処経では、思いの形成について、欲望、怒り、無智、動揺・・・から始まり、<気づき>、嫌悪、安らぎ、喜び、くつろぎ、解放まで22を列挙している。また欲求について「不健全な願望にとらわれること」という意味合いで、五欲、具体的には富、性的欲求、名声、美食、睡眠の欲求という感覚的欲求対象を挙げている。今の心の状態、そしてそれが変化していく状態を観察し、気づくという実践法なのだ。
怒りの観察の利点は「心に怒りがないとわかれば幸福感が強まる」、「怒りがあることを確認するだけでその破壊的な性質がいくぶんやわらぐ」の2点だという。
「怒っているとき、私たちは怒りそのものです。怒りを抑えこんだり追い払ったりすれば、自分自身を抑え込み追い払うことになります」(p150)怒りはある種のエネルギー、だから、怒りを変容させるには、まず怒りの受容方法を知ることからはじめるべきだということになる。「怒りそうになったら一呼吸おけ」とか、「怒りそうになったら十数えよ」などと言われるが、これらはこの14番目のエクササイズに通じる初歩的な生活の智慧なのかもしれない。怒りの原因を観察しその本質に気づくこと。そのための実践方法がこの第14項で語られている。原因を究明せず、怒りを抑え込めば、またいつか爆発するのだ。「怒りが起こったとき、まず必要なのは、意識的な呼吸に戻り、<気づき>によってそれを見守ることです」(p156)と説明する。
[心の対象を観察する]
第4の<気づき>の確立は、心の対象の確立である。ここには5つのエクササイズがある。
(16) 現象の識別(択法)
(17) 心の固まりを観察する
(18) 抑圧された心の固まりを解く
(19) 罪悪感と怖れを克服する
(20) 安らぎの種を蒔く
心の対象も法(ダルマ;存在を思い描けるすべての現象)とよばれ、六根・六境・六識という心理、生理、物理的な側面を網羅した計十八界に思いの形成が含まれる。「心が心を観察するときには、心自体が心の対象になるのです」(p174)という。
すべての法は「基本的に相互依存的生起(縁起)という性質」を持っているので、縁起の法則を観察するということを意味する。この第4の<気づき>では、仏教で説く縁起についてわかりやすい説明が加えられており、心の対象をいかに観察するかが理解できるようになっている。この辺りは、やはり本書をじっくり読む価値があるところだと思う。「相互依存こそすべてのものの本質であることを実体験」(p178)するためのエクササイズだと受け止めた。
エクササイズ17、18でいう「心の固まり」とは、思いの形成のことである。具体的には、混乱、欲、怒り、高慢、疑い、肉体と自己との同一視、極端な見方、誤った見方、歪んだ見方、迷信にとらわれた見方をさしている。そして、心の対象を観察した<気づき>によって、日常の出来事に対する受け取り方を変えること、心の固まりを解くやり方が説明されている。気づいて変化させる方法を見つける手引きといえる。
[<気づき>の瞑想のポイント]
そのポイントを列挙し、本文説明キーフレーズを使いアレンジして付記しよう。
a) 心の対象(法)は心にほかならない
→ 観察対象が自分の心、個別的なまたは集合的な自分の意識から生まれる
b) 観察する対象とひとつになる
→ 観察(=気づき)とは、対象に入り込んで変化させる働き。観察者=参加者
c) 真実の心と迷いの心はひとつ
→ この2つは心の裏表。物事の本性と幻想は同源からきている
d) 争いを越えた道
→ 非二元性の理解、本質を見抜く。ありのままの観察と受容。
e) 観察とは教義を植えつけることではない
→ 深く見つめ、対象の本質を見究めるとその存在が自ら姿を現す。自己の経験
印象に残る一節を引用しておく。
*自由の道とは、五蘊から逃避するのではなく、五蘊に面と向かい、その本質を理解することなのです。・・・・物事の無常を観察するのは、対象を否定するためではありません。欲望や執着にとらわれずに、深い理解によって物事に接するためなのです。 p108-109
*本当の幸福は、欲や財産をほとんど携えずに生き、自分の内面とまわりの世界にある多くの不思議を味わう時間をもつことだ、ブッダはこのようにも言い残しています。p144
*瞑想で大切なのは、対象を深く観察し、その本質を見抜くことです。物事の本質とは、相互に依存しつつ生じること(縁起)であり、万物の源である、あるがままの状態(真如)です。 p154
*空とは相互依存(縁起)のことです。すべては依存しあうことで生じ、続いていくことができます。つまり、ひとつの法が他の法と無関係に存在することはできないという真実を、法の本質は空であると表現しているのです。どんなものも単独で存在することは不可能です。 p177
*仏教で<気づき>の瞑想をするのは、感情を抑圧するためではありません。瞑想を通して感情の世話をし、慈しみと非暴力の姿勢でそれを見守るためです。 p196
*仏教の懺悔は、過ちは心が作り出すという事実に立っています。それゆえ過ちは心によって消去できるのです。 p202
*<気づき>は仏教の瞑想の核心です。 p238
サンガなしで瞑想を続けるのは難しいと思います。 p240
<気づき>の瞑想とは、「一瞬一瞬をいかに目覚めて生きるか」(p199)を知るための実践法であると私は受け止めた。
「訳者あとがき」には、プラムヴィレッジの洗面所には、日常の<気づき>を養うための偈(詩文)として、こんな短詩がかかげられていると記す。
両手の上を流れる水よ
私のこの手で
大切な地球を守る働きが
できますように
ご一読ありがとうございます。
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本書の語句の検索とそこからの波紋として検索した結果を一覧にまとめておきたい。
ティク・ナット・ハン :ウィキペディア
Thich Nhat Hanh :From Wikipedia, the free encyclopedia
Thich Nhat Hanh :「Who are you」(BODHI PRESS)のサイトより
Plum VillageのHP
動画 YouTubeより
Thich Nhat Hanh's Wish for the World
Thich Nhat Hanh ~Short Mediation ~
Mindfulness as a Foundation for Health: Thich Nhat Hanh and Health@Google
Body and Mind Are One - Zen Master Thich Nhat Hanh
Thich Nhat Hanh - Open Mind Open Heart Retreat - Day 3
Awakening the heart with Zen Master Thich Nhat Hanh (8/14/2011) Chanting 1-3
Thich Nhat Hanh - Open Mind Open Heart Retreat - Day 3
九相図 :ウィキペディア
『九相図資料集成』
小野小町の九相図(1) ~ (9) :「とみ新蔵 ブログ」
9回のシリーズで、ブログ記事を書かれています。
九相観図 :「奥三河の古刹・釣月寺」のページから
檀林皇后の描かせたという九相図をモデルに前住職(源宗一和尚)が描かれた絵だとか。
一方、ネット検索すると「檀林皇后九相図」が様々なところで引用掲載されています。
法(仏教) :ウィキペディア
法 :WikiDharma
サティ(仏教) :ウィキペディア
サティ・パッターナ・スッタ(大念処経) :「仏教の瞑想法と修行体系」morfo氏
念処経の修行(「四念処」)
:「もう一つの仏教学・禅学」(新大乗ー本来の仏教を考える会)
サマタ瞑想 :ウィキペディア
ヴィパッサナー瞑想 :ウィキペディア
ヴィパッサナー バーヴァナー (ヴィパッサナー冥想) :「初期仏教の世界」
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