実に奇妙なミステリーだ。リアルな行動とドリームな行動、現実と夢の境が不分明な文章の流れで話が次々に展開していく。現実の行動と思いながら読み進めていると、あれっと思う。そこにははや夢の話が展開しているのだ。全編が実に巧妙に仕組まれている。
『胡蝶の夢』という言葉が本書に幾度か繰り返し出てくる。これがこのストーリーの根底にある一つのしかけのような気がした。
『荘子』内編の斉物論篇に、こんな文が載っている。(『荘子 内篇』森三樹三郎訳注・中公文庫)
昔昔、荘周は夢に胡蝶と為る。栩栩然として胡蝶なり。自ら愉しみて志に適する与。周たるを知らざるなり。俄然として覚むれば、則ちきょきょ然として周なり。知らず、周の夢に胡蝶為るか、胡蝶の夢に周為るか。周と胡蝶とは、則ち必ず分有り。此を之物化と謂う。
森氏はこう訳されている。
いつか荘周は、夢のなかで胡蝶になっていた。そのとき私は喜々として胡蝶そのものであった。ただ楽しいばかりで、心ゆくままに飛びまわっていた。そして自分が荘周であることに気づかなかった。ところが、突然目がさめてみると、まぎれもなく荘周そのものであった。いったい荘周が胡蝶の夢をみていたのか、それとも胡蝶が荘周の夢を見ていたのか、私にはわからない。けれども荘周と胡蝶とでは、確かに区別があるはずである。それにもかかわらず、その区別がつかないのは、なぜだろうか。ほかでもない、これが物の変化というものだからである。
このストーリーは『胡蝶の夢』のように、楽しい話ではない。40歳代の漫画家である姉、淳美と自殺を試み、遷延性意識障害となった昏睡患者の弟、浩市とにまつわる話である。姉は、『西湘コーマワークセンター』に入院し昏睡状態のままでいる弟との間で、SCインターフェースによる機械的コーマワークという手段を使い、意思の疎通(センシング)を繰り返している。このセンシングの最中に、浩市との間でさも現実のような夢の中に入る。浩市との意思疎通がうまく行く時もあれば、そうでない時もある。この医療技術を取り扱うのは<神経工学技師>榎戸である。センシングにはこの榎戸が付き添う。榎戸を指示するのは精神科専門医の相原英理子だ。相原は意識障害に至るまでの原因の究明を試みる。
このストーリーの基礎には、コーマ(昏睡)ワークというプロセス指向心理学の実践的かつ臨床的な心理療法がある。アーノルド・ミンデルという心理学者が提唱したものだという。昏睡状態の患者とのコミュニケーション技術の領域として臨床体験世界が描きだされている。ただし、それがどこまでこの小説の世界と整合しているのか、私には判断出来ない。
ここに米国エール大学教授ホセ・デルガードが開発したスティモシーバーという脳埋め込みチップの開発から発展したSCインターフェースという工学的技術がセンシングを介在するものとして登場している。これは著者がSFとして作りだしたツールなのか、現実に開発応用されている技術なのか、ネット検索では捕まえどころがなかった。この部分かられは多分著者のしかけとしてのSFなのだろうと思う。(勿論、その技術自体は本筋ではないのでどちらでもよいことかもしれない。)
センシングの中で、淳美にはくり返し子供の頃のある島での体験が夢世界に出てくる。遠浅の磯浜で、伯父さんが魚毒(何倍にも薄めた青酸カリ)を流して準備してくれた潮だまりで、弟の浩市と魚毒で弱って出てきた魚を網で捕ったり銛で突いたりして遊んだ情景である。魚毒を流した場所には、赤い布を括り付けた竹竿を立てる決まりなっている。この場所が微量だが猛毒を使った危険な場所だということを示すためだ。満ち潮になり竹竿が自然に沖に流される。浩市はその竹竿が欲しくて手を伸ばし、深みにはまる。弟を助けようとしてその手を握りしめ、助けを呼ぶ。父が助けようとして海に飛び込む。淳美はその弟の手の感触を鮮明に覚えているという。それが島での記憶の一部なのだ。東京に戻った後、両親は離婚する。
もう一つ、センシングの中で、浩市との会話は、幾度も浩市が自殺の形をとることで終わってしまう。なぜかサリンジャーの小説に出てくるオルトギース自動拳銃をこめかみにあてて自殺するのだ。それでセンシングは中断される。
センシングのプロセスで、その浩市が夢世界の中で自分以外の他者が、フィロソフィカル・ゾンビ(=現象学的意識やクオリアを持たない存在)ではないか。淳美自身がそうではないか、と語りかける。クオリアとは、「例えば、赤色を赤色と感じる心、心地好い音楽を心地好いと感じる心、怒り、笑い、その他の現象学的意識のこと」だと浩市は姉に説明する。フィロソフィカル・ゾンビというのも多分著者の作りだし概念なのだろう。
淳美の現実世界は、『ルクソール』という漫画を杉山という編集者と二人三脚のような形で十五年越しで大きく育て、連載してきたが、連載が打ち切られる状況に立ち至っている。漫画を書くこと一筋に生き、独身で40歳代になった淳美がそこにいる。優秀なアシスタント、真希の最近描いた作品が好評で受け入れられ始めているという。淳美は真希を応援しながらも、反面、落ち目になってきた自分に寂しさを感じ始めている。一途に走ってきた生き方に疲れがでてきているのか。現実世界と夢世界が不分明に展開し始めるのだ。
淳美が好きな絵だとして、ルネ・マグリッドの『光の帝国』が出てくる。「マグリッドの絵は、・・・・一つ一つは写実的だが、全体を見渡した時に、初めてその異様さに気が付くというものが多い。」と語らせている。まさに、このストーリーの展開そのものである。
この姉弟に仲野泰子という淳美と同年配の女性が関わって来る。息子の由多加が同じセンターに入院していたという。泰子が由多加とセンシングしていた最中に、何度か浩市に会っているのだという。それで、泰子が浩市と直接センシングしてみたいという。
そこから、淳美の現実世界の話と関わりあいながら夢世界での話が急速に展開していく。
最初に述べたように、リアルとドリームの錯綜したかなり奇妙な感覚を味わいながら、意外な展開を経るという構成に、最後は脱帽である。この最後の終わり方、これは本当に現実と夢の世界の交錯なのか。すべて夢世界の中での現実と夢なのか・・・・
実に奇妙で、なぜこんな繰り返しの多い記述があるのかと戸惑いながらも、いつしか、乾ワールドに引き込まれていく。
プロセス指向心理学という臨床心理学分野を踏まえて、ミステリーを絡めたSF世界に発展させた、実に奇妙で興味深いストーリーだ。
本書を読み終えた時、私はゲシュタルト心理学でよく例に出される「ルビンの杯(/ルービンの盃)」という絵を思い浮かべた。図(前景)と地(背景)が見方によってくるくると入れ替わっていくあの有名な絵。最後まで、そういう関係性の切り込みどころを気づけなかったのが残念だ。
後にして思う。各所に著者がしかけをそっと組み入れていたことを。
付記
ちょっと惜しいと思ったことがある。
それは言葉の定義をしている会話のところで、誤植と判断するところがあったことだ(p121とp122)。この両ページで、「プロセス思考心理学」となっている。
p123は「プロセス指向心理学」である。
ネット検索をしてみると、「プロセス指向心理学」が専門家の使う訳語のようだ。英語では Process oriented psychology と称するようである。
「この物語はフィクションです。もし同一の名称があった場合も、実在する人物、団体等は一切関係がありません。」という本書末尾のことわり書きは当然のこととして、それとは別の次元で、注意を払ってほしいと感じた次第だ。
事実情報自体の要のところでの誤植はやはり気になる。
(2011年1月22日第1刷発行を読んでのことです。正誤表が入っていたかどうかは不詳。)
ご一読、ありがとうございます。
年央から始めたこの「遊心逍遙記」を2012年も続けていきたいと思っています。
本書に関連する事項をネット検索してみた。一覧にしておきたい。
プレシオサウルス :ウィキペディア
コーマワークとは :
プロセス指向心理学 :「風使いの小屋」
プロセス指向心理学 :ウィキペディア
アーノルド・ミンデル :ウィキペディア
Arnold Mindell ← Process oriented psychology :From Wikipedia
コーマワーク :株本のぶこ氏
☆昏睡状態の人と対話する☆
☆究極のあるがまま☆
遷延性意識障害 :ウィキペディア
スティモシーバー :ウィキペディア
ホセ・デルガード :ウィキペディア
ニック・ボストロム :ウィキペディア
ガジュマル :ウィキペディア
ルネ・マグリッド 「光の帝国」 :ブログ「青空の世界」
ネーム :ウィキペディア
ネームの画像検索結果
コピック
キジムナー :ウィキペディア
キジムナーの画像検索結果
マブイ :沖縄辞典
ルビンの杯:「Follow My Heart」
インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。
(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)
『胡蝶の夢』という言葉が本書に幾度か繰り返し出てくる。これがこのストーリーの根底にある一つのしかけのような気がした。
『荘子』内編の斉物論篇に、こんな文が載っている。(『荘子 内篇』森三樹三郎訳注・中公文庫)
昔昔、荘周は夢に胡蝶と為る。栩栩然として胡蝶なり。自ら愉しみて志に適する与。周たるを知らざるなり。俄然として覚むれば、則ちきょきょ然として周なり。知らず、周の夢に胡蝶為るか、胡蝶の夢に周為るか。周と胡蝶とは、則ち必ず分有り。此を之物化と謂う。
森氏はこう訳されている。
いつか荘周は、夢のなかで胡蝶になっていた。そのとき私は喜々として胡蝶そのものであった。ただ楽しいばかりで、心ゆくままに飛びまわっていた。そして自分が荘周であることに気づかなかった。ところが、突然目がさめてみると、まぎれもなく荘周そのものであった。いったい荘周が胡蝶の夢をみていたのか、それとも胡蝶が荘周の夢を見ていたのか、私にはわからない。けれども荘周と胡蝶とでは、確かに区別があるはずである。それにもかかわらず、その区別がつかないのは、なぜだろうか。ほかでもない、これが物の変化というものだからである。
このストーリーは『胡蝶の夢』のように、楽しい話ではない。40歳代の漫画家である姉、淳美と自殺を試み、遷延性意識障害となった昏睡患者の弟、浩市とにまつわる話である。姉は、『西湘コーマワークセンター』に入院し昏睡状態のままでいる弟との間で、SCインターフェースによる機械的コーマワークという手段を使い、意思の疎通(センシング)を繰り返している。このセンシングの最中に、浩市との間でさも現実のような夢の中に入る。浩市との意思疎通がうまく行く時もあれば、そうでない時もある。この医療技術を取り扱うのは<神経工学技師>榎戸である。センシングにはこの榎戸が付き添う。榎戸を指示するのは精神科専門医の相原英理子だ。相原は意識障害に至るまでの原因の究明を試みる。
このストーリーの基礎には、コーマ(昏睡)ワークというプロセス指向心理学の実践的かつ臨床的な心理療法がある。アーノルド・ミンデルという心理学者が提唱したものだという。昏睡状態の患者とのコミュニケーション技術の領域として臨床体験世界が描きだされている。ただし、それがどこまでこの小説の世界と整合しているのか、私には判断出来ない。
ここに米国エール大学教授ホセ・デルガードが開発したスティモシーバーという脳埋め込みチップの開発から発展したSCインターフェースという工学的技術がセンシングを介在するものとして登場している。これは著者がSFとして作りだしたツールなのか、現実に開発応用されている技術なのか、ネット検索では捕まえどころがなかった。この部分かられは多分著者のしかけとしてのSFなのだろうと思う。(勿論、その技術自体は本筋ではないのでどちらでもよいことかもしれない。)
センシングの中で、淳美にはくり返し子供の頃のある島での体験が夢世界に出てくる。遠浅の磯浜で、伯父さんが魚毒(何倍にも薄めた青酸カリ)を流して準備してくれた潮だまりで、弟の浩市と魚毒で弱って出てきた魚を網で捕ったり銛で突いたりして遊んだ情景である。魚毒を流した場所には、赤い布を括り付けた竹竿を立てる決まりなっている。この場所が微量だが猛毒を使った危険な場所だということを示すためだ。満ち潮になり竹竿が自然に沖に流される。浩市はその竹竿が欲しくて手を伸ばし、深みにはまる。弟を助けようとしてその手を握りしめ、助けを呼ぶ。父が助けようとして海に飛び込む。淳美はその弟の手の感触を鮮明に覚えているという。それが島での記憶の一部なのだ。東京に戻った後、両親は離婚する。
もう一つ、センシングの中で、浩市との会話は、幾度も浩市が自殺の形をとることで終わってしまう。なぜかサリンジャーの小説に出てくるオルトギース自動拳銃をこめかみにあてて自殺するのだ。それでセンシングは中断される。
センシングのプロセスで、その浩市が夢世界の中で自分以外の他者が、フィロソフィカル・ゾンビ(=現象学的意識やクオリアを持たない存在)ではないか。淳美自身がそうではないか、と語りかける。クオリアとは、「例えば、赤色を赤色と感じる心、心地好い音楽を心地好いと感じる心、怒り、笑い、その他の現象学的意識のこと」だと浩市は姉に説明する。フィロソフィカル・ゾンビというのも多分著者の作りだし概念なのだろう。
淳美の現実世界は、『ルクソール』という漫画を杉山という編集者と二人三脚のような形で十五年越しで大きく育て、連載してきたが、連載が打ち切られる状況に立ち至っている。漫画を書くこと一筋に生き、独身で40歳代になった淳美がそこにいる。優秀なアシスタント、真希の最近描いた作品が好評で受け入れられ始めているという。淳美は真希を応援しながらも、反面、落ち目になってきた自分に寂しさを感じ始めている。一途に走ってきた生き方に疲れがでてきているのか。現実世界と夢世界が不分明に展開し始めるのだ。
淳美が好きな絵だとして、ルネ・マグリッドの『光の帝国』が出てくる。「マグリッドの絵は、・・・・一つ一つは写実的だが、全体を見渡した時に、初めてその異様さに気が付くというものが多い。」と語らせている。まさに、このストーリーの展開そのものである。
この姉弟に仲野泰子という淳美と同年配の女性が関わって来る。息子の由多加が同じセンターに入院していたという。泰子が由多加とセンシングしていた最中に、何度か浩市に会っているのだという。それで、泰子が浩市と直接センシングしてみたいという。
そこから、淳美の現実世界の話と関わりあいながら夢世界での話が急速に展開していく。
最初に述べたように、リアルとドリームの錯綜したかなり奇妙な感覚を味わいながら、意外な展開を経るという構成に、最後は脱帽である。この最後の終わり方、これは本当に現実と夢の世界の交錯なのか。すべて夢世界の中での現実と夢なのか・・・・
実に奇妙で、なぜこんな繰り返しの多い記述があるのかと戸惑いながらも、いつしか、乾ワールドに引き込まれていく。
プロセス指向心理学という臨床心理学分野を踏まえて、ミステリーを絡めたSF世界に発展させた、実に奇妙で興味深いストーリーだ。
本書を読み終えた時、私はゲシュタルト心理学でよく例に出される「ルビンの杯(/ルービンの盃)」という絵を思い浮かべた。図(前景)と地(背景)が見方によってくるくると入れ替わっていくあの有名な絵。最後まで、そういう関係性の切り込みどころを気づけなかったのが残念だ。
後にして思う。各所に著者がしかけをそっと組み入れていたことを。
付記
ちょっと惜しいと思ったことがある。
それは言葉の定義をしている会話のところで、誤植と判断するところがあったことだ(p121とp122)。この両ページで、「プロセス思考心理学」となっている。
p123は「プロセス指向心理学」である。
ネット検索をしてみると、「プロセス指向心理学」が専門家の使う訳語のようだ。英語では Process oriented psychology と称するようである。
「この物語はフィクションです。もし同一の名称があった場合も、実在する人物、団体等は一切関係がありません。」という本書末尾のことわり書きは当然のこととして、それとは別の次元で、注意を払ってほしいと感じた次第だ。
事実情報自体の要のところでの誤植はやはり気になる。
(2011年1月22日第1刷発行を読んでのことです。正誤表が入っていたかどうかは不詳。)
ご一読、ありがとうございます。
年央から始めたこの「遊心逍遙記」を2012年も続けていきたいと思っています。
本書に関連する事項をネット検索してみた。一覧にしておきたい。
プレシオサウルス :ウィキペディア
コーマワークとは :
プロセス指向心理学 :「風使いの小屋」
プロセス指向心理学 :ウィキペディア
アーノルド・ミンデル :ウィキペディア
Arnold Mindell ← Process oriented psychology :From Wikipedia
コーマワーク :株本のぶこ氏
☆昏睡状態の人と対話する☆
☆究極のあるがまま☆
遷延性意識障害 :ウィキペディア
スティモシーバー :ウィキペディア
ホセ・デルガード :ウィキペディア
ニック・ボストロム :ウィキペディア
ガジュマル :ウィキペディア
ルネ・マグリッド 「光の帝国」 :ブログ「青空の世界」
ネーム :ウィキペディア
ネームの画像検索結果
コピック
キジムナー :ウィキペディア
キジムナーの画像検索結果
マブイ :沖縄辞典
ルビンの杯:「Follow My Heart」
インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。
(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)