遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『無双の花』 葉室 麟  文藝春秋

2013-04-28 10:47:58 | レビュー
 秀吉が小田原攻めの際、立花宗茂を西国無双の武将と称え、諸大名の前で東国無双の武将として家康の家臣、本多平八郎忠勝に引き合わせた(p159)という。「無双」という言葉は、この西国無双からきているのだろう。そして、本書では98ページで作者は千代にこう語らせている。「お前様は西国無双の武将にございます。必ずや返り咲いて、誰にも負けぬ無双の花を咲かせてくださりませ」
 本書のタイトルは、ここからとられていると思った。

 話は慶長5年(1600)10月から始まる。西軍に味方した宗茂が、関ヶ原の敗報後、柳川城に戻ってくる。それは、押し寄せてくる加藤、黒田の兵との戦いになるはずだった。その帰路、宗茂は宮永村の居館に住む妻・千代を訪ねる。千代が口にした「立花の義」は、宗茂にこれまでの歳月を思い起こさせる言葉になる。「立花の義とは、裏切らぬということでございます」というかつての千代の言葉だ。今、千代は太閤亡き後の豊臣家の乱れと関わらずに立てるのが立花の義だと語る。
 宗茂の回想は、秀吉の九州征伐の時の手勢での島津勢追撃、朝鮮での戦い、伏見城での屋敷拝領に及ぶ。伏見での真田信繁との出会いが、この作品では一つの軸になっていく。伏見では宗茂と信繁の屋敷が隣り合う形になったのだ。そして宗茂と信繁は同年齢でもあった。一国の大名として活躍する宗茂に対し、信繁は上杉家に続き豊臣家への人質という立場で過ごす。その信繁が「真田の義」とは生き抜くことだと語られる。
 伏見屋敷を拝領後、細川藤高を介して秀吉の意だとのことで、八千子を側室とすることになる。また、宗茂が朝鮮に渡海して戦をしている時、他の大名の奥方と一緒に、名護屋の秀吉の許に千代も呼び出される。このときの経緯をきっかけに、千代が宮永村の居館に住まいを移すという行動が彼女らしい。それを宗茂が自分の問題として解釈するのもおもしろいところだ。

 柳川城に戻った宗茂は、加藤・黒田よりも先に鍋島直茂から攻撃を受けることになる。そこに加藤勢が加わることになる。宗茂は立花の義を立てるという基準での行動を取り始める。「これ以上、家臣たちを死なせるわけには参らぬ」という原点からの宗茂の行動である。そこから、宗茂には徳川への異心はないという、己の立場、立花の義を貫くための苦難の歩みが始まるのだ。
 本書は、加藤・黒田に降伏し、加藤清正の庇護を受け肥後国高瀬に仮寓する境遇から、徳川秀忠の信認を得て、柳川城に大名として返り咲くまでのプロセスを辿っていく。そこに貫かれるのが「立花の義」である。本書に描かれたその足跡を年表風に要約してみる。その具体的展開プロセスこそが宗茂の生き様である。本書を読み、宗茂、千代の思いと行動を味わってほしい。

 慶長5年(1600)10月25日 宗茂と東軍の和睦成立
 同年 11月 島津攻めの先鋒となる
  同年 12月 大坂にて本領安堵の沙汰待ちをするが認められない
  加藤清正の庇護下で仮寓生活
 慶長6年(1601)7月  京に上り、徳川家康との面談機会を待ち続ける
 慶長7年(1602)5月 長宗我部盛親と真田信繁の接近。
  同年8月 家康の母、於大の方の死去。葬儀の日の密かな影働き
  同年11月 千代の死がもたらされる
 慶長8年(1603)3月 江戸に下り、己の意志を示す。「それが立花の戦いぞ」
 慶長11年(1606)江戸城に召し出され、将軍秀忠に拝謁
  大番頭5000石での召し抱え。間もなく奥州南郷に1万石を得る。
 慶長15年(1610)3万石に加増。南郷という立地が一種の試金石となる。
 慶長19年(1614)7月 大坂冬の陣の始まり。秀忠に従う。 
 慶長20年(1615)5月 大坂夏の陣
 元和2年(1616)2月 大御所家康の容態悪化。宗茂は江戸城大手門守備を命じられる
 元和7年(1621)2月 筑後柳川11万石に再封され、柳川城受け取りに九州に赴く
 元和9年(1623)4月 柳川に下国中に、八千子急逝。江戸からの報せが届く
 寛永15年(1638)2月 島原の乱。原城を囲む立花陣営に宗茂着陣
 寛永19年(1642) 江戸在府にて没す。享年76歳

 この軌跡の中で、やはり前半の忍従・雌伏時期の処し方、そして大坂夏の陣・冬の陣での宗茂の思考と行動が読ませどころである。立花の義のありかたが鮮やかに描かれていく。そして、この大坂の戦の中で、真田信繁の真田の義にスポットライトをあてている。宗茂との関わり、家康のあり様が描かれている。もう一つ、伊達正宗と宗茂の駆け引きが幾度か書き込まれていく。正宗と宗茂の武将として力量を端的に表す場面のように思う。
 ここに著者に本書のサブテーマがあるのではないかという気がする。
 それは、こんな言葉が随所に出てくるからだ。誰が発した言葉かはご推測いただけるだろう。
*わしは汚い手を使うてでも天下を取らねばならぬと意を決したのじゃ。跡を継ぐ者にかような戦をしたいと思わせぬようにわしは手を尽くす。秀忠を跡継ぎにいたしたのも、戦が下手だからじゃ。秀忠は無用の戦をせぬであろうゆえな。 p205
 立花はひとを裏切らぬという義を立てていると聞くが、泰平の世を作るためには、手を汚すことを恐れぬが徳川ぞ。 p205
*わが行く手に崩れかかる者は、味方であっても打ち払うのが伊達の軍法でござる。p211
*大御所様はそれがしに泰平の世の画竜点睛となれ、と仰せになられた。伊達殿は世に独眼竜と言われており申す。それがしとともに泰平を開く竜の両眼となるのはいかがか。
 この後、われらが咲かせる花はそれしかないか。
 さようでござる。   p233
ここに、本多正信が宗茂に語る言葉も付け加えておきたい。ここにも一武将の生き様がある。
*徳川に帰参がかなった時、ひとつだけ胸に誓ったことがござる。
 二度と大御所さまを裏切らぬとおのれに誓い申した。
 それがしは謀によって大御所様をお助けして参った。たとえどのように謗られようとも大御所様のためにならぬ者には容赦いたさなんだ。・・・・それゆえ、他の者をいかに裏切ろうと平気でござった。かような者の心根をわかってもらおうなどとおこがましいことは考えており申さぬ。ただ、立花殿だけには・・・・ひとを裏切らぬという義を守られておられる立花殿に、かようなる者もおると知っていただきたいと存じたまでのこと。 p237-238

 宗茂に柳川藩再封が決まり、柳川に赴くことから、菊子という公家の姫を同行させることになる。八千子からの頼み事なのだが、この菊子が深い縁の糸が結ばれている存在なのだ。菊子に様々な人間関係の色合いが重ねられていることが興味深い。本書で味わっていただきたいエピソードでもある。

 最後に、別の視点で印象深い文を引用しておきたい。
*武門には勝敗はつきもの。負けた時にどう生きるかが何より大事じゃ。 p85
*たいがいの者はさように生きたいと願うても、力が及ばず許されぬのです。されど、殿にはその力がおありでございます。自らが望む生き方をしていただきとう存じます。 p93
*ひとはそれぞれ考えがあって生き様を決めておる。ひとがどのような道を歩もうと、とやかくは言えぬ。 p121


ご一読ありがとうございます。

追記 
 山本兼一著『まりしてん千代姫』(PHP)の読後印象を以前に掲載している。
 この作品は、千代を主軸にしているが、柳川城に転じる前の段階にストーリー展開の重点が置かれた作品である。
 『無双の花』は宗茂を主軸にしているが、柳川城を退去せざるを得なくなって以降の時代、柳川藩に大名として返り咲くまでの人生後半の段階を焦点にストーリーが展開される。
 両者を併読すると、一層感興が高まることと思う。
 千代の最後について、両著者の取りあげ方が異なる点も興味深くかつおもしろい。
 本書の感想とは外れるが、付記しておきたい。


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本書に関連する語句をネット検索してみた。その一覧をまとめておきたい。

立花家史料館 ホームページ
  鉄皺革包月輪文最上胴具足
  金甲 → 金箔押桃形兜

立花宗茂 :ウィキペディア

立花ぎん千代 :ウィキペディア
千代 :「立花家17代が語る立花宗茂と柳川」

柳川城 :ウィキペディア
柳川城(柳河明証図会より)  :「SHOFUKU BIC SITE」
筑前・宝満城 :「城郭放浪記」

徳川秀忠 :ウィキペディア
本多忠勝 :ウィキペディア
伊達正宗 :ウィキペディア
伊達正宗 :「武士の館」
本多正信 :ウィキペディア
真田信繁 :ウィキペディア
真田幸村(信繁) :「日本歴史 武将人物伝」
長宗我部盛親 :ウィキペディア


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ネットで上掲の関連語句などを検索していて、偶然著者・葉室氏の語る記事に出会った。著者の思いが伝わってくる。

自著を語る 私にとって男の理想像  葉室 麟 :「本の話WEB」


徒然に読んできた作品の印象記に以下のものがあります。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。

『冬姫』 集英社
『螢草』 双葉社
『この君なくば』 朝日新聞出版
『星火瞬く』  講談社
『花や散るらん』 文藝春秋

===== 葉室 麟 作品 読後印象記一覧 ===== 更新1版


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『冬姫』 葉室 麟  集英社

2013-04-26 10:14:37 | レビュー
 織田信長の娘、冬姫の伝記小説である。冬姫が重要な局面で自分が見た夢あるいは幻夢について、思いを深め夢見判断をするというある種の超能力的要素を持たせた伝奇的側面があって面白い。
 冬姫は、信長の娘であるが、母の形見だという水晶の数珠をいつも首にかけている。冬姫の母は体が弱く、冬姫を産んで間もなく亡くなったと聞かされていて、母親代わりでもある乳母いおに育てられて成長する。このいおは夜中になると<宇治の橋姫>などの怪談話を冬姫に語り聞かせたのだ。それは冬姫に胆を練らせるためなのだという。そしていおの自慢は、冬姫が叔母にあたるお市(冬姫の父・信長の妹)に似ていることだった。
 そんな冬姫が信長の意向で、蒲生忠三郎賦秀-後の蒲生氏郷-に嫁ぐこととなる。信長が彼をひと目みて気に入り、自らの官位、弾正忠の「忠」を与えて忠三郎と名のらせたのだ。彼は、父蒲生賢秀が信長に臣属するにあたって差し出した人質だった。ここから、このストーリーの一つの流れが生み出されることになる。

 それは、信長が永禄12年(1569)に鍋の方を側室にしたことによる。その鍋の方が抱く執念が問題となる。
 近江八幡の土豪高畠源十郎の娘だったお鍋は、近江国愛知郡の八風峠に近い八尾山城主小倉右京亮に嫁ぐ。だが右京亮は六角氏に攻められ切腹する。右京亮を直接攻め滅ぼしたのは、蒲生賢秀の父、定秀だった。そして鍋の方の子供は定秀の出家後、六角氏の家臣だった蒲生賢秀の人質となっていた。信長は千草越えの際に小倉右京亮の道案内で助けられたことがあった。その縁で鍋の方が信長に頼り、蒲生賢秀は信長に臣従することを考えていたので、鍋の方は容易に子供を取り返すことができる。鍋の方は信長の側室になるのだが、蒲生家は鍋の方からすれば、夫の敵になる。吉乃が亡くなった後、側室の鍋の方は信長に一番に寵愛される存在になる。そして、鍋の方は信長の子を産む。鍋の方には、信長の正室・帰蝶に子どもがいないため、己の産んだ子を織田家の後継者にしたいという欲望が生まれていく。
 一方、冬姫は永禄12年12月、日野城に輿入れする。忠三郎が輿の脇を馬で進みながら、ともに日野城に向かうのだ。信長への人質の立場を許されたことになる。この時、忠三郎14歳、冬姫12歳の夫婦である。
 冬姫は信長の一の娘。忠三郎との婚姻後、二人の間に子どもが産まれれば、その子どもが織田家継承者として将来鍋の方の産んだ子と対抗する可能性が生まれることになる。鍋の方にとり、忠三郎・冬姫は、その観点でも許せぬ存在となっていく。冬姫が予期しないことから、鍋の方の執念の対象となり、確執の渦中に巻き込まれていくことになる。

 冬姫が忠三郎に嫁した後、信長の娘であるという自覚・意識を背景としてどのように己の人生を歩んでいったかを作者は描きだしていく。その人生模様の中で、鍋の方の様々なしかけが、太い確執を織りなす軸となり様々な絵模様を描いていく。一方、冬姫が信長の娘という意識で行動を貫いていく軸が織り上げる絵模様がいくつもできていく。これらのエピソードの連鎖が本書の読みどころとなっている。そのプロセスで忠三郎と冬姫の二人の間に通う思いの織りなす絵模様は心暖まるものである。

 本書は冬姫の「女のいくさ」物語である。それは乳母いおが冬姫に語った言葉である。「武家の女は槍や刀ではなく心の刃を研いでいくさをせねばならないのです」(p13)
「いいですか、冬様が忠三郎様に嫁ぐことになれば、鍋の方が敵になるということなのでございますよ」(p19)
「・・・いくさなどを好む者はおりません。しかし、戦わねば生きていくことはできないのです。冬様がいくさをお嫌いなら、戦いに勝っていくさの無い世をおつくりになるしかありません」(p21)
 冬姫は、いおから教わった女のいくさから、自らのいくさの道を歩み始める。

 それでは、どんな絵模様が織り上げられていくのか・・・・
*乳母いおが虎口で袈裟懸けに斬られて殺められた事件:<宇治の橋姫>のせい?
*夜叉の笛と叔母・お市の幻、お市の苦しみに関わって行く冬姫の行動
*織田信康に嫁いだ五徳の受難:まだら蜘蛛の蜘蛛合戦に立ち向かう冬姫
*日野城での猿楽興行。天女舞が引き起こす波紋
*日野城での冬姫と秀吉の対決とお市の呪詛
*本能寺の変、安土城の炎上と冬姫の懐妊
*女人棋譜に仮託したお市の執念と冬姫の対応。冬姫の病変。
*魔鏡の影が生み出す波紋:冬姫とガラシャ
*氏の会津転封と伊達正宗、冬姫の危惧
*氏の死と冬姫の対処
*醍醐の花見における女のいくさ:織田家の女の最後のいくさ

 作者は本作品で冬姫の出生について、一つの仮説を設定している。その設定がストーリーの展開で大きな役割を担ってくる。ここに作者のロマンが織り込まれているように感じる。冬姫の母がだれか? それは本書を繙いていただきたい。
 ウィキペディアの「冬姫」の項は、冬姫の母について言及していない。
 『考証織田信長事典』(西ヶ谷恭弘著・東京堂出版)では、第3章内の「信長をめぐる女性たち(二)」の節中、「秀勝の母」の項で、「だれの女が、生年も没年もともに不明である。永禄12年、御次と幼名をいった秀勝を生み、同年には蒲生氏郷に嫁した信長の女が、やはり秀勝と同腹とみられることから、信長室のうち吉乃より早いか同じ時期から側室だったとみられる。」(p244-245)と記す。西ヶ谷氏は「冬姫」という名を記載してはいない。本書では冬姫の母の設定はがらりと違うことだけ付記しておこう。

 もう一点、先般、津本陽氏の『信長影絵』を読んでいた。その読後印象はこのブログに記している。津本氏の描くお鍋の方と本書で作者が描くお鍋の方はそのイメージが大きく異なる。この点も私のには大変興味深く印象に残る点である。史実という点的情報や二次情報などを核に、想像力を羽ばたかせてフィクションとして創作された世界の色合いの違いが実におもしろい。ストーリーの脇役の人物像も作者次第で大きく変わる。

 本書の最後に、作者はこんな文章を記している。
 「信長と帰蝶、お市の面影が浮かんだ。戦国の世を苛烈に生きたひとたちだった。氏は濁世を踏み越えて、おのれの信じる道を歩んだ。皆、それぞれに生きた。」
 「だが、どれほど嘆こうとも涙を振るい、生き抜くことが<女のいくさ>なのだ。冬姫は自分にそう言い聞かせた。」
 そして、本書の末尾を、こう締め括る。
 「蒲生家の行く末を見届けた冬姫は、7年後の寛永18年、この世を去った。織田信長の娘として戦国の世を彩って生きた、紅い流星のような生涯だった」と。


 ご一読、ありがとうございます。

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 本書に出てくる語句をいくつかネット検索してみた。その一覧をまとめておきたい。

冬姫    :ウィキペディア
冬姫    :「江のふるさと滋賀」
冬姫    :「信長の末裔」

蒲生氏郷  :ウィキペディア
蒲生氏郷  :「日本史人物列伝」
蒲生氏郷  :「日野町」ホームページ
蒲生氏郷公と近江日野商人 :「日野観光協会」
蒲生氏郷、会津の切支丹(キリシタン) 石田明夫氏

蒲生氏郷時代 :「会津の歴史」

魔鏡 :ウィキペディア
魔鏡 :「三幸製作所」
魔鏡のひみつ

濃姫 :ウィキペディア
五徳 → 徳姫 :ウィキペディア
お鍋の方 → 興雲院 :ウィキペディア
お市の方 :ウィキペディア
茶々 → 淀殿 :ウィキペディア
築山殿 :ウィキペディア
ガラシャ → 細川ガラシャ :ウィキペディア


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徒然に読んできた作品の印象記に以下のものがあります。
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『螢草』 双葉社
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『星火瞬く』  講談社
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『「瓢鮎図」の謎 国宝再読ひょうたんなまずをめぐって』 芳澤勝弘  ウェッジ

2013-04-24 11:46:49 | レビュー
 本書発刊の目的は「あとがき」に著者自身が明確に述べている。その発端は『禅林画賛』(毎日新聞社、1987年刊)に収録された解釈にあるのだ。著者がその解釈に疑問を感じたきっかけに端を発するという。「本書ではその旧解をできるだけ紹介し・・・誤謬を指弾することが目的なのではなく、過ちには多くの学ぶべき点があると考えた」結果なのだ。そして、陥りやすい落とし穴として、「上から目線」と「自分中心の思考形式にとらわれてしまうこと」を指摘している。
 本書は、著者がかつて「室町禅林の画賛解釈の再検討に挑戦してみた」(p20)論考をわかりやすく書き換えたものだという。賛詩の解釈の進め方は緻密で硬い部分を含むが、その論理展開と論証は、素人にも読みやすい。ある意味で、文献解釈のやり方を学べる書でもある。

 本書は、如拙の描いた瓢鮎図の絵と禅僧たち三十一人の賛詩は切り離して解釈できるものではなく、渾然一体にして解釈してこそ、本来の「瓢鮎図」の理解に至るのだという立場に立ち、論証されている。それは偈頌の最初に出てくる「新様」という語句の解釈から始まっている。著者は「新様」が「新しい様式の描き方」という美術史の立場からの解釈に疑義を述べる。巻末にあるノーマン・ワデル氏との対談の中で、明確に自分の立場を語る。
 「絵の上の31人のコメント、これをしっかり受け止めないと、この全体の意味はわからないだろう、というのが私の考えなんです。『新様』が『新しい様式の描き方』であったならば、31人のコメンテーターのうち誰かが必ずそのことに触れているはずでしょう」
 つまり、絵の巧みな禅僧も31人のなかに数人含まれていることを根拠とする。

 そこで、初めに結論を要約しておこう。あくまで私の読後理解であるが。
 「瓢鮎図」は禅文化の作品であり、如拙の絵と禅師の賛詩は全体で解釈すべきである。この作品は、人間の「心の模様」を描いたものだ。そこには仏教思想における「心」がテーマとして表されている。つまり、「すぐれて禅的なテーマ」が扱われている。心(認識)で本心を捕らえられるか。瓢箪と鮎はそれぞれ「心」を象徴したものである。「認識」と「本来心」は互いに因となり果となり絡み合うものなのだ。
 著者は35~36ページにこう記す。「あえて結論をいうならば、『瓢鮎図』の企画するところは禅の本旨以外の何ものでもなく、すぐれて禅的なメッセージを詩画にしたものにほかならない。・・・そのテーマは何か。心である。心(ナマズ)を心(瓢箪)でとらえるということです」と。

 「はじめに」と「あとがき」の間は次の構成になっている。
 第1章 賛詩の意味
 第2章 賛詩をどう解釈するか
 第3章 画の意味するところ
 第4章 「瓢鮎図」のその後
 対 談 「瓢鮎図」をめぐって -芳澤勝弘 、ノーマン・ワデル

 旧釈の誤謬がどこに由来するか。美術史家の見方の問題点は何か。これらが精緻に分析され、論証されていく。この論証のプロセスこそ、本書の読みどころである。
 また、この絵の理解が時代を経る中でどのように変化して行ったかの解説もなかなか興味深い。
 
 基本的なことに触れておこう。本書に説明のあることだが・・・・。
*「瓢鮎図」は京都妙心寺山内の退蔵院の所蔵。
*室町時代に、四代将軍足利義持(1386~1428)が如拙(生没年不詳)に描かせた絵。
 如拙は日本人画家。
*水墨画の雪舟の師周文(生没年不詳)のさらに師匠にあたるのが如拙だという。
  → 日本水墨画の源流に「瓢鮎図」が位置づけられる。
*31人の禅僧は京都五山の高僧たちだった。生没年不詳の人が多い。
*「瓢鮎図」のような様式のものは詩画軸とか、画賛と呼ばれる。
*中国において「鮎」の字はナマズの意味で「鯰」と同じ。
*足利義持はきわめて熱心な禅宗の信奉者だった。禅に傾倒していた人物だったとか。
*「瓢鮎図」には江戸時代の模写が3点ある。その内の2点は男の手の形が原本とは異なる。そこから江戸時代に既に「瓢鮎図」の本来の意味がわからない状態になっていたことがわかる。

 本書で、緻密な論証過程をお楽しみ願いたい。著者の論証のための文献資料の渉猟と、それを基にした論理の展開に敬服する。
 詩画軸が描かれた時代までの歴史的背景と描かれた時代の環境・背景に即しながら、理解し解釈するという基本の大事さをここから学べる。これは他の対象物の理解・解釈にも通底することだと感じた。

        ご一読ありがとうございます。

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本書に関連する語句を検索してみた。本書理解の参考として、一覧にしておきたい。

如拙 :ウィキペディア
不思議な絵 ―如拙筆「瓢鮎図」―  :「博物館ディクショナリー」(京都国立博物館)

足利義持 :ウィキペディア

宗鏡録 禅籍データベース :「花園大学国際禅学研究所」
宗鏡録 :ウィキペディア

大津絵 :ウィキペディア
鯰絵 大津絵 :ウィキペディア

「大雅 蕪村 玉堂 と 仙」 出光美術館 :「きらきら星」
   「瓢鯰図」池大雅の絵がこのブログ記事に引用されている。

白隠 曲馬図 :「東京国立博物館」


著者の論文
「画賛解釈についての疑問-五山の詩文はどう読まれているか」

「瓢鮎図・再考」


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『寂しい写楽』 宇江佐 真理  小学館

2013-04-21 11:40:24 | レビュー
 写楽を題材にした小説も他の著明人物と同様に結構ある。作家の想像力を刺激するのだろう。写楽に関心を寄せているが、目にとまったら読み継ぐというペースでいろいろな切り口での写楽像を楽しんでいる。
 著者の本を今まで読んだことがない。この本が初めてである。2009年7月にこの本が出版されていたのを知らなかった。「寂しい」という形容詞が注意を引いた。本書の写楽の扱い方は面白い。

 写楽の役者絵が耕書堂蔦屋から板行された経緯を扱っている。面白いのは、写楽絵誕生に合作説を採っている点だ。それも興味深い人物達が蔦屋重三郎に様々な関わりをもち、結果的に一つの協力関係を結んで、役者絵の板行を助けたという見方である。変動的で緩やか、かつ分担的なつながりとして描かれている。
 写楽絵は、東洲斎写楽こと斎藤十郎兵衛が描いた首絵を使い、役者の構図を決めて、背景も分担して板刷りの原画が作成されたとする。
 誰が協力することになったのか。伝蔵、鉄蔵、幾五郎たちである。
 伝蔵とは山東京伝。戯作者である。
 鉄蔵は春朗先生とも呼ばれていた。勝川派から破門された浮世絵師だ。後の葛飾北斎である。
 幾五郎は上方では近松与七の名で浄瑠璃の『木下蔭狭間合戦』の合作をしたりしたが、江戸に出て来て、黄表紙と滑稽本作家として己の道をめざしていく。後の十返舎一九である。

 現在の私たちの知っていることからみれば、錚錚たるメンバーである。だが、山東京伝を除いて、鉄蔵も幾五郎も無名時代だったといえる。さらに言えば、斎藤十郎兵衛自体が実在かどうか、曖昧さを含みながら本書に登場する。そんな連中が重三郎の意図の下で、写楽の役者絵誕生プロセスに関わったとするのだ。東洲斎写楽という名で役者絵がほんの一時期、打ち上げ花火の如くに、瞬間だけ出現することになった。それは何故か。著者の解釈がちょっと面白い。
 そのプロセスを描きながら、実は京伝、鉄蔵、幾五郎、さらには蔦屋重三郎その人を描こうとしている。その時期に、山東京伝がどういう状態だったか。後の葛飾北斎、十返舎一九が己の生きる道を発見するために、苦しみながらどのように模索していたのか。重三郎自体がどういう生き様をした人か。
 さらに板元としての重三郎がある意味スポンサーとして支援してきた歌麿、倉蔵(後の滝沢馬琴)や、直次(大田南畝)の生き方が、重三郎を軸にした関わりの中で描き込まれていく。
 
 伝蔵の書いた洒落本3冊が老中松平定信の行った寛政の改革に触れる。そして伝蔵は手鎖50日の刑を受け、板元の耕書堂蔦屋は身上半減、闕所の沙汰を受ける。通油町の店がまさにまっ二つに半分打ち壊されてしまうのだ。だが、重三郎は浩然と振る舞っている。この沙汰が出る頃には、歌麿は蔦屋とは袂を分かち、他の板元に移っていき、蔦屋の番頭をしていた倉蔵(馬琴)はその勤めを辞して、飯田町の下駄屋に入夫し、戯作ひと筋で行くと決める。黄表紙や読本の作者として歩み始めるのだ。重三郎とは板元と作者の関係に変化して行く。
 蔦屋の板元としての仕事が下降線にある。本を出したくても戯作者がいない。京伝と馬琴しかいない状態であり、京伝は筆が遅いのだという。そんな状況下で、写楽の絵を売り出そうと重三郎は構想する。
 板元としての商売を役者絵の分野に広げることと、蔦屋から去って行った歌麿への対抗意識でもある。上方の並木五瓶という立作者が江戸に下り、芝居を打つという計画があり、紀の国屋(沢村宗十郎)が全面的に応援するというのだ。紀の国屋を引き立てるような役者絵を出そうということなのだ。江戸の人を驚かせることができるような役者絵を出したいという。歌麿の開拓した大首絵の趣向を利用し、男の意地をかけて出したいという。それが写楽の絵なのだった。
 重三郎は京伝に相談を持ちかけ、京伝のアイデアで鉄蔵(春朗)を巻き込み、さらに幾五郎にも絵心があることで、この企画に加わっていくということになる。それぞれの関わって行く経緯が、また本書のおもしろい読ませどころでもあるだろう。
 役者絵売り出しの相談を持ちかけられた京伝は、重三郎に入銀(出資金)絵になるのかどうか質問する。重三郎は心配無用と取り繕う。この新企画、それなりのまとまった資金が必要だったろう。身上半減の沙汰を受けた後の重三郎は、実際のところどこから資金繰りをしたのだろうか。入銀絵だったのか? 興味の残るところだ。

 写楽の絵の最初の板行は大判黒雲母摺りの役者絵二十八枚となった。鉄蔵に問われた摺師甲子蔵は言う。玄人受けする絵だと思うが、芝居好きの客が喜んで買うかどうかは何とも言えないと。曾我祭りの5月27日が写楽開板となる。店先に並んだ大判黒雲母摺りの役者絵に対する客の反応は微妙だった。否定的な意見が多かったようだ。役者連中には怒りを露わにした者もいたようだ。
 様々な批評に拘わらず、写楽板行は続けられることになる。大判の数は控え、役者の立ち姿を描く細判(ささめばん)を増やしていく。大判は金の掛かる黒雲母摺りから白雲母摺りと黄つぶしで背景を調える形に切り換えていく。

 伝蔵(京伝)と鉄蔵は、ついに斎藤十郎兵衛の顔を見ることもなかった。重三郎が店を留守にしているときに、幾五郎が斎藤十郎兵衛が訪ねてきたのに応対したとして、著者はそのシーンを描いている。
 そして、こんな鉄蔵と伝蔵の会話シーンが挿入されている。
 「ちょいとこのう、張り見世の妓の姿を写しておりやした。まずい絵ばかりやっていると寂しくなりやしてね」
 「つまらないとは言わず、寂しいってか・・・・鉄蔵さんらしいもの言いだ。それで、蔦屋はまだ写楽を続けるつもりかい」
 「旦那はやめるとは言いやせん。全く意地の強い人だ」

 著者は幾五郎におもしろい絵解きをさせている。斎藤十郎兵衛、斎藤を引っ繰り返せば、とうさいとなり、その間に十郎兵衛の十を入れると、紛れもなく東州斎ともなろうと。(p148)また、斎藤十郎兵衛本人に、「見る者の背中をざわざわと粟立たせるような寂しい絵でした」と言わせている。
 
 写楽の役者絵に対する現代の評価と当時の評価はかなり開きがあったのではないか。
 著者は、大田南畝が重三郎に語る言葉としてこう書く。
「あまりにも真に迫っておりました。役者絵は贔屓を喜ばせてこそ役者絵でござる。そこには、いささかの嘘があってもよろしいのではないかと思いますよ。役者の素の顔など、贔屓は誰も望んではいないはずだ。写楽は、そこのところを考えていなかった。本当の絵師ではないと思いました」”本当の絵師”って、何だろうか? おもしろい課題でもある。
 そして、地の文でこうも付け加えている。:芝居町を騒がせていた絵は、しかし、すでにお蔵入りだという。芝居役者を誹謗する絵は、もう江戸に出回らない。蝦蔵はきっと喜ぶだろう。自分のことより他の役者達のことを考える蝦蔵は、やはり千両役者の名に恥じない人徳も備えていると思った。

 最後に、こんな印象深い言葉が記されている。本書のテーマとも関係する。
*先のことなんざ、誰にもわかりゃしねェよ。わかっているのは、今の今だけよ。写楽絵をやって、少しはそれがわかったはずだとおもうが。 p212 ← 北斎の言として
*寂しい人間ばかりの寄せ集めだった。おっと、この場合の寂しいは、つまらねェという意味じゃないよ。・・・だからな、すんなり写楽に手を貸すことができたのよ。大判雲母摺りと、見かけは豪華だが、どうしてどうして、中身は背筋が寒くなるような心地がしたわな。あれを寂しいと言わずに何と言う。  p214
 ← この文中、北斎が幾五郎に語るニュアンスを本書で味わってほしい。
*食客を手放した後に臍をかむ事態になるのは、歌麿だけでたくさんだった。だから馬琴が飯田町へ入夫した時も、縁を切るようなことはしなかった。いつか馬琴の才が開化することを心底信じていたからだ。あの男は書ける。そして時節は読本の流れになっているはずだ。それなのに、このていたらく。
 京伝の洒落本で咎めを受け、写楽で躓き、馬琴の読本でとどめを刺された。何かが、どこかが微妙にずれていたのだろう。すべて自分の蒔いた種とはいえ、重三郎は悔しかった。
 → 蔦屋重三郎は、時代の数歩先を一人突っ走ろうとした起業家だったのか。
   単にうぬぼれと思い込みの強い事業家だったのだろうか。その軌跡が本書に色濃く書き込まれていて、重三郎その人に関心を深めさせる。

 京伝は『娼妓絹籭(しょうぎきぬぶるい)』『錦の裏』『仕懸(しかけ)文庫』の三冊が寛政の改革に触れた。1791年。
 写楽絵は、寛政6年(1794)から翌年にかけ、忽然として現れて消えた。
 馬琴の読本『高尾舩(せん)字文』(1796年板行)は江戸で300ほど売れただけで失敗。重三郎の起死回生の妙薬にはならなかった。

 現在、京伝の洒落本など、文学研究者以外はほとんど関心がないだろう。
 写楽の再評価は、西欧から始まった。独人ユリウス・クルトの『写楽』(1910年公刊)から始まる。写楽が誰か? 50人余の人が様々な説を述べている。
 滝沢馬琴の「椿説弓張月」の板行が1805年。「南総里見八犬伝」が1814年である。
 
 蔦屋重三郎が息を引き取ったのは寛政9年(1797)5月。享年48歳。

 本書に登場する幾五郎つまり、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』の板行は明和2年(1802)。これが大当たりとなる。


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 いくつかの語句を検索してみた。その一覧をまとめておきたい。

蔦屋重三郎 :ウィキペディア

山東京伝  :ウィキペディア
山東京伝  :「京都大学電子図書館」

初代 並木五瓶 :「文化デジタルライブラリー」

大田南畝  :ウィキペディア
大田南畝  依田学海  :「日本漢文の世界」

「吉原細見」 :「古典籍総合データベース」(早稲田大学図書館)

猪牙船(ちょきぶね) :新吉原図鑑
猪牙舟(ちょきぶね)  :「わくわく挿絵帖」

葛飾北斎 :ウィキペディア
十返舎一九 :ウィキペディア

東洲斎写楽 :ウィキペディア
写楽:役者絵
特別展「写楽」 文化庁月報 平成23年4月号(No.511) :「文化庁」


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『考古学が解き明かす古代史 日本の始まりに迫る』 古庄浩明  朝日新聞出版

2013-04-18 11:52:14 | レビュー
 古代史にはロマンがある。各地での発掘調査の新発見が時々新聞報道される。掲載に気づいたとき記事を読み、ひととき想いを馳せるだけで断片的な点的情報の読みきりに終わっていた。近年史跡・遺跡巡りの講座や企画に参加し始めて、古代史との関わりが広がり俄然興味が湧いてきている。古代史の全体像をつかんでおくことから初めて見たい。そこで、本書が目にとまった。「おとなの学びなおし!」という表紙に書き込まれた一文も、手に取ってみたきっかけになった。

 古代史は発掘調査が進展するに従い事実解釈が変化していく。最新の発掘調査の状況と現時点での考古学の動向を踏まえた本を読むのが適切だろう。本書は2012年福岡県太宰府市・国分松本遺跡出土の「嶋評」木簡の発見まで言及しており、直近の発掘調査結果にまで目配りしている。古代史通覧の入門書として有益だった。
 表紙に、「すらすら読める!」という文言が記されているが、読後感としてはほぼその通りである。この種の本としては読みやすいように感じた。大・中の見出しに使用されているフォントがちょっと変わっていて、読み慣れない言葉の沢山出てくる古代史記述の雰囲気を和らげている。おもしろい工夫だ。気楽に読んでね、という感じを出そうとしているように感じた。
 各章に、いくつもコラム記事がある。そのテーマが初心者の関心をまず惹き付けそうなものなので、読み進めるうえでの気分転換にもなる。そのタイトルをご紹介しておこう。科学的な年代測定法/「金印」の意味/天皇と九州を結ぶ神武東征神話/騎馬民族/『記紀』の世界/藤ノ木古墳/古代史解明に重要な難波宮の発掘/山田寺のその後と発掘調査/高松塚古墳とキトラ古墳。
 私が特に印象深いのはコラム「騎馬民族説」だった。文化人類学者の江上波夫氏が提唱したこの説はつとに有名だ。著者は、「騎馬民族説の魅力は、日本が異民族に征服されていたという新鮮な視点と、東アジアのダイナミズムの中での日本の建国を思考しようとしたことにあります」と評価しているが、「考古学の知見からは、九州には騎馬民族に支配された証拠がないこと」を初め、いくつか理由を挙げて、「軍事的な王権の交代が行われた可能性は指摘できるものの、前代以来の体制下での変革と捉える方がよいようです」とバッサリ論じている点だ。古代史へのロマンと実証的事実認識からの論理の相克の一端をここに感じた。
 もう一点。『記紀』が「六世紀以降、朝廷が天皇家の正統性を理論付けるために意図的に体系化し、編纂したもの」だから、「その内容を安易に利用すると危険であることを、神話的歴史観を精神的柱として世界大戦を遂行した私たちは、肝に銘じなければなりません」と記されていること。裏返せば、いまだに安易に利用する動きもあるということなのだろうか。『記紀』に十分な検証と考察が必要であるとする点である。
 コラムの見出しは明確にわかるのだが、本文にすっぽり入った形になっている点、少しまぎらわしい。勿論、読み進めれば問題ないが、このあたり、フォント、文字サイズその他様式の工夫で識別しやすくした方が良かったのではないかと感じた。

 最初に、本書に関わる時代範囲の年表が載っていて、その後が3章構成になっている。 第1章 クニのはじまり
 第2章 前方後円墳体制の確立と変遷
 第3章 古代国家の成立と「日本」      である。

 古代史初心者としては、各章からこんなことを学ぶことができる。
第1章から
・「クニ」と「国」の表記の区分
・ジャポニカ米の起源と稲の道・5つの説及び農耕の東遷
・古代史における年代分析方法と実例
・銅鐸・銅剣・銅矛などの青銅器の形態と分布圏、そして記紀神話との関係
・弥生社会の生活形態と社会構造   など。
第2章から
・古墳の形態の変遷と古墳のもつ意味
・前方後円墳体制-その出現、発展、衰退の経緯とヤマト政権の変遷
・倭と朝鮮半島の関わりの深さ
おもしろいと思ったのは、『日本書紀』にある埴輪起源の記述(垂仁32年の条:考古学視点では説話)と埴輪の起源の考古学的実証(「古墳時代に殉死の習慣はなく、埴輪の起源は特殊器台と特殊壺である」p126)が相違すること。それと伊弉諾が黄泉の国を往還する神話が、古墳の横穴式石室の内部に似ているという説明である。
第3章から
・古代国家の成立プロセス
・飛鳥文化とその国際的、政治的、社会的背景
・大化の改新から壬申の乱への推移

 本書で、特に関心を抱いた箇所をいくつか要約しておきたい。
*著者は邪馬台国論争の論点を概説したうえで、
「わたしは、大塚という名称ですし、中山大塚古墳が卑弥呼の墓ではないかと考えています」(p76)と論じている点。
*古墳時代の文化は弥生時代からの継続が多い。先進文化は九州を通して大陸から輸入され、九州を無視した国造りはできないはず。一方、「考古資料ではヤマト政権につながる勢力が九州から畿内へ東征した証拠は見あたりません」(p90)と記す。
*天下平定、税制の確立、祭祀権の一元化という『記紀』の記載は国家の基礎を確立していった古墳時代前期のヤマト政権の状況を後世にアレンジしたものだろうと記す。p104
*軍事政権としての河内政権は政教分離することによって本拠を河内に移せた。 p113

 最後に、著者の説く、「日本海文化ハイウエイ」という物流ネットワークの考え方も興味深いと思う。

ご一読ありがとうございます。

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本書を読みながら、出てくる語句及びその関連について、並行してネット検索してみた。
併用すると、読むのが一層楽しくなる。検索リストをまとめておきたい。

福岡県・板付遺跡 :「邪馬台国大研究」
夜臼式土器   :「コトバンク」
山ノ寺式土器 ← 弥生時代の開始年代 :「国立歴史民俗博物館」
突帯文土器と支石墓 伊東義彰氏 :「古田史学会報」
稲の源流 ← 縄文イネの品種は :「日本人の起源」
松菊里文化、松菊里式住居 ← 扶余松菊里遺跡
鉄斧 ← 鋳造鉄斧から見た弥生時代の実年代 :「松澤芳宏の古代中世史と郷土史」
島根県・荒神谷遺跡  :「荒神谷博物館」
島根県・加茂岩倉遺跡 :ウィキペディア
島根県立古代出雲歴史博物館 ホームページ
滋賀県・大岩山遺跡 → 大岩山古墳群
大岩山銅鐸と滋賀県出土銅鐸・小銅鐸 :「野洲市」
銅鐸  :ウィキペディア
銅剣  :ウィキペディア
銅矛  :ウィキペディア
金印 → 漢委奴国王印 :ウィキペディア
三角縁神獣鏡  :ウィキペディア
内行花文鏡 → 大型内行花文鏡 :ウィキペディア
伊都国歴史博物館 :「糸島市」
環濠集落 :ウィキペディア
 稗田環濠及び集落 :「大和郡山市」
 弥生社会における環濠集落の成立と展開  藤原哲氏
福岡県・江辻遺跡群 :「福岡県粕屋町」
佐賀県・吉野ヶ里遺跡 :ウィキペディア
愛知県・朝日遺跡 → 朝日遺跡インターネット博物館 :「愛知県教育委員会」
古墳  :ウィキペディア
 前方後円墳 :ウィキペディア
 前方後方墳 :ウィキペディア
奈良県・中山大塚古墳 :ウィキペディア
奈良県・纒向遺跡 :ウィキペディア
 纒向古墳群 :ウィキペディア
奈良県・箸墓古墳 :ウィキペディア
奈良県・藤の木古墳  :ウィキペディア
奈良県・キトラ古墳  :ウィキペディア
飛鳥文化  :ウィキペディア
埴輪  :ウィキペディア
 高槻市はにわ工場公園総合案内 ホームページ
河内政権 → 河内政権肯定論 :「豊中歴史同好会」
難波宮 :ウィキペディア
物部氏 :ウィキペディア
蘇我氏 :ウィキペディア
中臣氏 ← 中臣氏・大中臣氏考(含:卜部氏) :「おとくに」
推古天皇  歴代天皇事典 :「weblio辞書」
聖徳太子 :ウィキペディア
大化の改新 :ウィキペディア
 大化改新 隠された真相 :「NHK」
白村江の戦い  :ウィキペディア
壬申の乱  :ウィキペディア
天智天皇  歴代天皇事典 :「weblio辞書」
斎明天皇 → 皇極天皇 :ウィキペディア
天武天皇  歴代天皇事典 :「weblio辞書」
持統天皇  歴代天皇事典 :「weblio辞書」
文武天皇  歴代天皇事典 :「weblio辞書」
藤原京  :ウィキペディア
平城京  :ウィキペディア
 特別史跡平城宮跡 
平城京歴史館 ホームページ
飛鳥資料館 ホームページ
奈良文化文化財研究所 ホームページ
奈良県立橿原考古学研究所 ホームページ

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『出星前夜』 飯嶋和一  小学館

2013-04-15 14:21:40 | レビュー
 『検定不合格日本史』(家永三郎著・三一書房)は、一般に言われる「島原の乱」という語句を使わない。「信徒を主力として九州の島原・天草に起こった百姓一揆」と記す。そして、こう補足説明している。
 「1637年(寛永14年)、島原半島の農民が、領主松倉氏の圧政に耐えかねて一揆を起こし、天草四郎時貞という少年を首領にいただき、キリシタンの旗を掲げ、島原の原城にたてこもった。幕府軍の攻撃はなかなか効を奏せず、ついに老中松平信綱を派遣してようやく城をおとしいれた。」(p129)

 また、『詳説日本史研究』(五味・高埜・鳥海編、山川出版社)は、「1637(寛永14)年から翌年にかけて島原の乱がおこった。」と書き、「この乱は、うち続く飢饉であるにもかかわらず島原城主松倉重政(?~1630)父子や天草領主寺沢広高(1563~1633)が領民に苛酷な年貢を課したり、キリスト教徒を弾圧したことに抵抗した農民の一揆である。島原半島と天草島は、かつてキリシタン大名の有馬晴信と小西行長の領地で、一揆勢のなかにも有馬・小西氏の牢人やキリスト教徒が多かった。小西行長の遺臣益田好次(?~1638)の子で16歳の天草四郎時貞(1623?~38)を首領にいただいて一揆勢3万余りは原城跡に立てこもった。幕府は板倉重昌(1588~1638)を派遣して鎮定にあたらせたが失敗に終わり、ついで老中松平信綱(1596~1662)が九州の諸大名ら約12万の兵力を動員して、原城を包囲し兵糧攻めにした。またオランダ船による海上からの砲撃を求め、ようやくこの一揆を鎮圧した」(p242)と説明している。

 これらに記された「圧政に耐えかねて」「苛酷な年貢を課したり。キリシタン教徒を弾圧したこと」という言葉の意味することがどういうことだったのか。「攻撃はなかなか効を奏せず」、一揆勢3万余人に対し、結果的に「約12万の兵力を動員して」鎮圧する規模までになったのはなぜだったのか。本書はこのプロセスを微細克明に描き出して行く。4行あるいは14行で記されたことを541ページのフィクションにしてリアルに描きだしたのだ。史料的裏付けがどこまであるのか、どこからが史料の行間から羽ばたいていった著者の想像なのか、判断はできない。しかし、この一揆が発生せざるを得なかった必然性というのは、フィクションだからこそ臨場感をいや増してくるのだと思う。
 本書は歴史認識を深めて行くために、この一揆の史実と幕藩体制を考えるうえで、一読の価値がある。読み応えのある作品だ。
 本書には、末尾に参考書目の記載がない。どれだけの史料文献などが渉猟されているのだろうか。本書を読み、その点への関心も芽生えてきた。

 本書は見出し語のないプロローグ、第1部、第2部部、及び見出し語のないエピローグから構成されている。
 プロローグは、本書の主要人物の一人、外崎恵舟が馬に額を蹴られ頭蓋骨陥没の状態で死の淵を彷徨う貞八の治療において無力感を感じるシーンである。その場は、伝説の名医修道士ルイス・アルメイダとの出逢いの機会になる。南蛮人の医術に対する真の目覚めでもある。恵舟という医者を浮彫にする。

 第1部は、寛永14年(1637)陰暦5月から陰暦8月11日までを南目村を舞台に描く。
 ここ2年ほどの天候不良や大颶風の襲来が飢饉をもたらす。南目の一帯では「傷寒」が蔓延し始めている。有家村においても、子供たちが次々に「傷寒」に罹っていく。そんな場面から話が始まる。本書の主要人物、鬼塚の庄屋甚右衛門が長崎袋町の外崎恵舟を訪ね、恵舟に有家村への往診を依頼する。自宅での診療に忙しい恵舟は、有家村に往診し治療に専心するが、持参の薬が底をつく。恵舟は有家代官所に助成を頼むが逆に長崎に立ち去れと命じられる。恵舟は有家村の苛酷な状況を悉に知り、長崎の代官陣屋を訪ね、末次平左衛門に直接訴えるのだ。
 有家村の甚右衛門の家は代々鬼塚土着の豪族であり、有馬家が領主だった日野江城時代は鬼塚監物時次と称し、朝鮮出兵での戦の経験をしている。有家村はもともと水軍衆の村でもある。キリシタン大名有馬晴信が甲斐配流の後斬首され、松倉家が転封により島原に入封し統治を始める。キリシタン禁令の後、朝鮮での酷い戦を知る監物は、早々と棄教の道を選ぶ。松倉家の命令に唯々諾々となっているかに見えることに周りからの非難が浴びせられる。しかしそれらの声を相手にせず、農民としての生活を率先する。松倉家の悪政の下で、農業生産力の向上をはかりつつ耐える生活に徹していく。だが、うち続く自然災害による疲弊が有家村の人々にとって、限界近くの状況に追い詰めてきているのだ。
 陰暦5月7日、有家村桜馬場の集落に住む矢矩鍬ノ介、「寿安」という呼称で知られる19歳の青年が、心に怒りを秘めたまま、かつて教会堂が建てられていた「ミゲルの森」に籠もってしまう。それを伝え聞いた「傷寒」に罹っていない子供たちが次々に後を追うように森に入る。そしてミゲルの森の教会堂跡に若衆宿のような集いを形成する。赤いクルスを額に描き込み、徒党を組んで行動を始めるのだ。
 ある夜の有家代官所の火災が契機となり、代官所はその原因が寿安らの集団にあるとし、キリシタン宗復活の企てだと責任転嫁を始める。寿安が首謀者とみなされ、代官所と森に集う集団との争いに発展していく。
 そして、棄教した甚右衛門が、25年もの歳月を経て、「集会の儀」の初めに歌われる『詩編』の一節を歌声として口ずさむことになる。なぜ、何のためらいもなく歌声が甚右衛門の内から漏れ出すに到るのかの経緯がこの前半で描き出される。

 第2部は、陰暦10月10日から原城落城まで。及びその後日潭を描く。
 有馬の旧日野江城跡に終結した南目各村の7人の庄屋が「聖餐杯の井戸」のひとつの場所で誓約を交わし、一揆に立ち上がる。松倉家の島原・森岳城との戦いの始まりである。そして、天草との連合、島原・原城跡を拠点とする籠城戦へと展開していく。
 第2部は、この戦いの経緯が、松倉家初め周辺の九州諸大名の思惑、長崎奉行の対応、江戸幕府の実態などを絡めながら、戦の進展プロセスのなかで微細にそして克明に描き込まれていく。通常、島原の乱と呼ばれるものが、どんな戦であったのか、本書を読むとリアルに感じとれる。筆者は執拗なまでに、その戦の経過を描き出して行く。圧巻である。
「キリシタンに立ち戻った彼ら彼女らが武装蜂起に踏み切ったからには、単なる一時の感情任せのものではなく宗教倫理に裏付けされたものとなる。そこでの死は、再生を約束する殉教となり、結果死さえも恐れないことになる。女、子ども、老人にいたるまで、のもとにおける平等と人としての権利を求め、戦におびえるどころか、むしろ進んで死を選ぶ。」(p394)
「幕府の圧力が強まれば強まるほど、蜂起勢のキリシタン宗への傾斜は強まる。ひたすら教義のために死ぬことばかりが救いとなり後戻りはきかなくなる。」(p413)
と、著者は書いている。

 松倉家の圧政とそれへの南目の大人達の対応に内なる怒りを抱き森に入るという道を選び、争いの渦中に踏みだした寿安。朝鮮出兵の戦の中で争いの無惨さ、無益さを痛感し、争いを避けるためには圧政にもできうる限り耐え忍ぶという道を選んだ甚右衛門。その両者が、島原の一揆の過程で逆転していく。の道への聖戦を志向して、現実とぶつかり、幻滅して争いの渦中から抜け出て行く寿安に対し、キリシタンの教義の下に己の信仰を復活させるが、戦の現実を受け入れ、戦いのリーダーとしての道を結局選択し突き進んでいく甚右衛門。第2部は、その甚右衛門を基軸にし、様々な思いを抱く一群の人々が連合した対幕藩体制との戦いの展開である。
 戦の渦中を抜け出した寿安は、ある経緯を経て、長崎の恵舟の許に「傷寒」の薬を入手するために出かけて行く。そして、長崎の子供の中に蔓延を始めた赤斑瘡の医療対応に苦慮する恵舟の手助けをすることになる。寿安の新たな道の始まりでもあった。

 天草・島原の乱として天草四郎が登場するが、本書では脇役にすぎない。この描き方に、著者の見識と視点が表されているように思う。
 第2部には、著者の視点が書き込まれているように思う。例えば、
*すべては将軍の大名統制のための一方的な国替えに端を発していた。それに加えてやっかいなのは、自らの悪政を顧みもせずキリシタンと言えばすべて賊徒として位置づけられることをあてにした松倉勝家とその重臣たちの安直な発想が、逆にキリシタンへの復帰による結束を協力に推し進め、迫害に耐え生きることからの殉教へと方向を変えてしまったことだった。 p407
*この度の一斉蜂起は、佐賀藩鍋島家にとって関が原戦での汚名を返上するまたとない好機の到来を意味した。関が原の戦いにおいて藩主鍋島勝茂は石田三成の西軍に与し、伏見城攻撃に始まって伊勢の安濃津城、松坂城攻めを敢行した。そのぬぐい去れない汚点を依然引きずったままだった。 p419
*キリシタンはキリシタンである。オランダ人から武器弾薬を供与されるなどということは、これまでのキリシタン弾圧の大前提としてきた論理を幕府自ら覆すことにほかならない。 p432
*討伐軍の攻撃は、濱田新蔵ら長崎町衆のカルバリン砲による連日十発の砲撃とあわせ、直接鎮圧にあたるべき討伐軍とは無関係なオランダ人と長崎町民によって行われるという奇妙なものだった。 p490
 著者は、幕府側の諸藩が自藩の思惑だけで行動する樣を、執拗に描き込んでいる。「古来より戦というものは、勃発してしまえば独り歩きを始め、当初掲げられた意義などどこかへ消え失せて、結局は自国の民を大量に殺すだけのことである」(p491)と書く。筆者が執拗なほどに描き込んだこの島原の乱は、その証明とも言える。それはまた、籠城している人々についての次の記述からも窺える。
*二の丸出丸跡での銃声は響いて来たが、海岸で糧をあさる者たちは、空腹を満たすことが先決となっていた。長く続く空腹と疲労は蜂起勢の精神をも消耗させ、城跡に籠もった当初の理念も以前の危機感もすっかり薄らいでいた。蜂起勢は内部から崩壊が進んでいた。 p520

 エピローグは、島原の乱から10年後、一人の医家が大坂で開業したエピソードを簡潔に描く。逃禅堂北山友松と名乗り、長崎生まれでオランダ人の血が混じっているという。大坂でも寿安と呼ばれたという。七十余年の天寿を全うしたと記している。

 最後に、心に残る章句をいくつか引用しておきたい。
*思いどおりにならないことは世の常であり、最善を尽くしても惨憺たる結果を招くこともある。最善を尽くすことと、その結果とはまた別な次元のことである。しかし、最善を尽くさなくては、素晴らしい一日をもたらすことはない。  p212
*いざ松倉軍を打ち負かしてみたら、何かが変わるどころか逆に民による手の付けようもない暴動が引き起こされただけのことだった。当初の理念など状況が変われば簡単に棄てられ、あとは小人の我欲に任せた略奪があるばかりとなる。憂き世とはそうしたものだ。しかし、おのれの信じた人という生き物が、おのれが思うほどの意志と自制とを備えた強い存在ではなかったと認めることは、この若者にとってつらいことだったにちがいない。*恵舟も秀助も、蜂起直前の有家に出向き、そこでの破壊された民の暮らしぶりをつぶさに見ていた。すべての原因は、大名を厳しく統制し、結果として民の暮らしを破壊して顧みない幕藩体制の欠陥にあった。もちろん、たび重なる弾圧に対するキリシタンの反乱などという宗教的理由だけで起こるはずもなかった。対幕府向けにキリシタンの蜂起というすり替えを行うため、早くから首謀者としてジェロニモ四郎の名を盛んに口にしたのは、むしろ松倉の家臣たちだった。  p531


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本書に関わる語句をいくつかネット検索してみた。その一覧をまとめておきたい。

島原の乱雑記 坂口安吾 :「青空文庫」

島原の乱 :ウィキペディア

原城(南島原市南有馬町乙原城):「余湖のホームページ」
原城跡  :YouTube

肥前・島原城(森岳城) :「日本の城・日本名城事典」
南島原市 :ウィキペディア

天草四郎 :ウィキペディア
 [付記]本作品で著者は「ジェロニモ四郎」の表記のみ使っている。「フランシスコ」の呼称を使わなかったのはなぜだろう。気になる点だ。
天草四郎 :「熊本歴史・人物 散歩道」
島原・天草の道(長崎県観光)  :YouTube
KIBS「天草四郎には妻がいた!? 伝説と謎に包まれた美少年の素顔」:YouTube

長崎奉行 :ウィキペディア

安堂寺橋から松屋町筋くだって高津さんへ :「sampodowの日記」

北山寿安 デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説 :「コトバンク」
 [付記]本作品で著者の設定した「寿安」との大きな差異点がある。エピローグの著者の締めくくりかたは、単なるフィクションなのだろうか。興味深い論点として残る。
北山友松子 

キリシタン時代のカテキズム教育の宣教的効果と今日的意味  辻井玲子氏

Kakureの歴史[カクレキリシタン] :「長崎の教会群その源流と輝き」
隠れキリシタン
キリシタン用語集


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『化合』 今野 敏 講談社

2013-04-12 10:12:50 | レビュー
 本書の巻末はこんな会話で終わる。
「科学捜査ですか」
「いつか、専門の組織を作りたい、そのときは、君にも手伝ってもらうかもしれない」
「科学捜査専門の組織ですか。ぴんと来ませんね」
菊川が言うと、三枝が穏やかにほほえんだ。

 本書冒頭に、警視庁捜査一課菊川吾郎、そして菊川と組んでいる三枝俊郎という主要人物が出てくる。どこかで読んだ名前だな・・・・と思いつつ、読み終え、最後の会話で気がついた。あ!そうだったのか。この「遊心逍遥記」を書き始める以前に既に読んでいた「ST警視庁科学特捜班」シリーズもののスタート時点の前に時を遡らせたのだ。なぜ、STが創設されたのか、だれがなぜ発案・推進したのか。つまり、本書はST誕生の序曲、ST序章だったのだ。

 自白という証拠の追求ではなく科学的検証による物的証拠を基盤に論理的推論の展開を進める捜査の重要性を痛感させるというところに、本作品の視点が置かれている。 
 本書のテーマは、自白と冤罪という問題にある。ある思いが内奥にあって、参考人として任意出頭させた容疑者を、状況証拠から犯人と推定して、速やかに自白をとるための尋問を自ら執拗に推し進め、さらにその傍証固めを指示する烏山検事が一方に居る。多方に、冤罪の可能性を危惧し真犯人追求の捜査行動を密かにとる少数の刑事達が居る。
 捜査本部はトップの指示により刑事達が組織的に役割分担して、求められるものを追求・追跡する。効率的な集団行動だ。だが、その指示に疑問を感じ、本来の捜査を追求しようとすると、それは命令違反にも相当し、己の職をかけることにも繋がる。捜査の本質、冤罪を発生させてはならないという意識。自白がなされれば捜査は幕を閉じるのだ。それまでに真犯人が実在するのかの追求、それは時間との闘いになる。つまり本書の主人公達の捜査プロセスが描かれていく。そこに本書のおもしろさがある。
 ストーリー展開の中で、自白を絶対的証拠としてきたあり方への問題点、冤罪を生み出す余地を内包する警察の組織行動への批判点などを明確に語らせる。著者はこの作品で冤罪の観点をかなり重視している。警察組織への批判を盛り込んでいる点も興味深い。

 本作品の構成・構造にまず触れていこう。
1.事件内容 1990年6月14日木曜日未明。殺人事件の通報により事件発覚。
  1)場所 板橋区西台1丁目の西台公園。
  2)被害者 生田忠幸 32歳。住所:港区麻布10番2丁目・・・
    髪を茶色に染め、日焼けしている。スーツ・ネクタイ着用。
    サラリーマンには見えない。
    後で、イベント会社の代表と判明。登記された会社ではなく、サークル。
  3)第一発見者 田代裕一 35歳。不動産業。住所:渋谷区神宮前4丁目
  4)刑事調査官の検分内容
    刃物による刺創数カ所。失血死。死後約1時間。
    凶器は現場近くで発見。庖丁。指紋発見なし。
  5)発見者証言
    黒っぽい背広を着た人物の走り去る後姿を目撃したという。
  被害者・発見者ともに土地鑑のなさそうな場所で発生した事件
2.捜査本部 板橋署に設置
  本庁捜査一課の12名(夏木浩係長、三枝、菊川他)が組み込まれる。
  捜査本部主任 捜査一課長 百目鬼篤郎(キャリアの警視正)
  牧野篤志理事官(50歳、警視、ノンキャリア)。
  上原良吉管理官(40台半ば、警視、ノンキャリア)

 捜査本部で、菊川は板橋署の滝下洋造部長刑事(45歳)と組み、鑑取り班に入る。一方、三枝は板橋署の若手と組み、同じく鑑取り班になる。菊川・滝下はイベント会社の交友関係、三枝は遺族関係を分担する。そして、事件の捜査が進展していく。
 だが、この事件では、烏山検事が殺人現場に現れただけでなく、捜査本部に直に現れトップとしての陣頭指揮を執り始めるのだ。そこから話が複雑にならざるを得なくなる。検事がこうだと決め、指示した行動をとらされるという方向への力が徐々に作用しはじめる。犯人追跡捜査と収集情報からの断定要素、危険性が大きくなっていく。
 それに対し、どのように対応していくか。それが読みどころのひとつにもなる。

 イベント会社の交友関係のルートから、生田はマチ金から多額の融資を受けていたこと。イベント企画が思わしくなく、生田は資金繰りに苦しくなっている状況だったこと。マチ金の社員である向井原勇が生田に融資する担当者で、個人融資をした形であること。その返済が滞ることから、向井原が生田につきまとっていた事実が明らかになってくる。融資の焦げ付きは向井原にとって大変な問題になる状況だった。
 事件当夜、自室に居たと言う独り暮らしの向井原は自らのアリバイを証明できない。彼は金融業でもあり、常に紺色の背広を着ているという。この向井原を菊川・滝下は烏山検事の指示で、参考人として任意出頭させることになる。事情聴取は検事自らが行うという。状況証拠を踏まえた中で、向井原が自白すれば、捜査本部は事件解決、解散となる。

 一方、菊川・滝下は捜査の現状で釈然としない疑問点を持ち、冤罪の起こる可能性を畏れる。特に、滝下は過去に冤罪と思われる事件に関与した苦い経験を持っている。捜査本部の方針に反して犯人追求の主張を上司と一緒に行ったのだが、自白が有り事件は終結したのだ。そして、反論した上司は左遷されたという。

 見かけの滝下の捜査行動や会議での行動に反発を感じつづける菊川が、先輩滝下とペアの捜査活動をつづける過程で、滝下の本音の側面に気づいていく。そして、捜査について滝下から学んでいくのだ。
 このプロセスにおける二人の対話、菊川の滝下観察とその描写が読みどころである。冤罪の可能性を排除するために、向井原以外の真犯人の存在の可能性を追求していく行動は、捜査本部の捜査指示違反にも繋がりかねない。烏山検事自身の方針は動かせないとして、百目鬼捜査本部主任や理事官、管理官には、真犯人の存在の可能性追求の捜査を何とか認めてもらわなくてはならない。捜査の必要性を訴える証拠を見つけ出し、働きかける必要に迫られる。証拠発見は時間との勝負になる。自白より前に、真犯人存在の証拠を発見できるのか・・・・

 なかなかおもしろい展開となっていく。捜査の過程で、鑑識係員の犯行現場の分析結果の発言が重要になる。烏山
検事は鑑識係員の報告内容を自分の論理に都合良く解釈しようとする。鑑識課員はそのやり方に憤懣を抱く。菊川は鑑識係員に再度分析結果の説明を受け、理解を深めようとする。「烏山検事は、何が何でも向井原を起訴して有罪にしたいと考えている。暴走する機関車みたいなものだ。俺たちは、なんとかそれにブレーキをかけようとしている」。菊川の話に、小森哲朗巡査部長は驚きつつ、言う。「俺に言わせればね、刑事裁判で客観的な判断なんてないんだよ。血液型の証拠だっって、いいように解釈されてしまう」。そして菊川に再度血液型の分析を説明していく(p248-251)。このあたり、初めて知ったことなので大変おもしろい。

 土地鑑のないと思われる場所でなぜ殺されたのか。やはりそこが事件解明への鍵のひとつだった。
  
 さて、著者の指摘点を抽出しておこう。漏れがあるかもしれないが・・・・後は本書を読んで、この論点も考えていただきたい。

*事件性のある遺体は、すべて司法解剖をすべきだ。だが、全国的に見ると、ほとんど司法解剖は行われていないに等しい。専門の医師が不足していることもあるが、何より予算がないことが大きな理由になっている。犯罪性が疑われる遺体すべての司法解剖を行っていたら、捜査費用などたちまちパンクしてしまうだろう。さらに大学側は、それでも一件当たりの解剖費が安すぎると受け入れを渋るのだ。  p16

*刑事事件の場合、起訴するかどうかを決めるのも検事だ。 p23

*捜査本部ってのは人海戦術だ。本部が立てた方針に従って捜査員が動く。俺たちは、将棋の駒でしかない。  p52

*捜査本部なんて、検察が公判を維持するための材料集めに過ぎないんだ。検察の方針に逆らうことなんてできない。誰がどんな証拠を持って来ようと、結局は検察の思い通りの容疑者を裁判にかけることになる。  p126
*刑事裁判の有罪率の話、したよな。・・・99.9%だよ。裁判まで持って行かれたら、ほとんど有罪にされちまうってことだ。本当に犯人かどうかなんて関係ない。検察が犯人だと思ったら、犯人にされちまうんだよ。  p127
*検事に逆らって別の容疑者を立てようとした刑事たちが処分された。あからさまな処分でなかったが、飛ばされたんだよ。  p129
*滝下さんは、検事が望むような報告をするのだと言っています。どうせ、検事は公判のために、取りあげやすく、都合のいい証拠だけを採用するのだから、と・・・・ p135
*重要参考人などという言い方はあるが、ほとんど容疑者と同意語だ。決定的証拠がない場合、重要参考人として取り調べをして、そこで自白を迫る。それが一般的なやり方だ、そこに誤認逮捕が生まれる恐れがある。  p147
*自白さえ取れば、あとは検事の思うがままだ。刑事裁判は、検察の牙城だ。そこに逃げ込んでしまえば、誰も手が出せない。裁判官も、最初から有罪と決めてかかっているんだからな。弁護士は、有罪か無罪かを考えるわけじゃない。最初から、罪をどれだけ軽くするかを考えるだけだ。  p211
*検事は、自分に有利な証拠だけを採用して、不利な証拠は無視することができる。判事は、一刻も早く裁判を終わらせたいので、それを黙認する。なにせ、判事も被告はすべて有罪だと思っているんだからな。知ってるか? 判事というのは研修を受けるときに、被告を無罪にするやり方を教わらないんだ。 p211

*冤罪に対して徹底的に戦うような弁護士は、実はかなり特殊な人々と言わねばならない。  p146


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本書に出てくる語句で関心を持った事項をネット検索してみた。一覧にしておきたい。

ABO式血液型 :ウィキペディア
血液型判定 
臨床検査技師 オープンキャンパス『ABO式血液型判定に挑戦』 :YouTube

DNA型鑑定  :ウィキペディア

冤罪事件及び冤罪と疑われている主な事件 :ウィキペディア
こんなにある20世紀の冤罪事件 :「FUKUSHI Plaza」
いま、闘われている冤罪事件 :「甲山のとなりに」

刑事事件に慌てないための基礎知識 :「アディーレ法律事務所」

科学捜査 :ウィキペディア
最先端技術を活用した科学捜査最前線 -1  :「科学技術政策」
科学捜査官(化学)-先輩の声  :「警視庁」
科学警察研究所 ホームページ
科学捜査研究所 :ウィキペディア


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徒然に読んできた作品の印象記に以下のものがあります。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。

『逆風の街 横浜みなとみらい署暴力犯係』 徳間書店

『終極 潜入捜査』 実業之日本社

『最後の封印』 徳間文庫

『禁断 横浜みなとみらい署暴対係』  徳間書店

=== 今野 敏 作品 読後印象記一覧 ===   更新1版


『逆風の街 横浜みなとみらい署暴力犯係』 今野 敏  徳間書店

2013-04-08 12:03:01 | レビュー
 近刊書から順次遡り、この連作の出発点(2003年12月刊)に至った。
 本書は現在、2006年6月出版として同名タイトルで徳間文庫の一冊になっている。
 暴力団員の抗争事件でマルBが一人死んだと城島勇一(暴力犯係長補佐)が言うところから話が始まる。その暴力団員が実は県警本部の潜入捜査官で、城島が知っている人物だったのだ。だが、潜入捜査という方法は公式には認められていないのだ。城島はその死が見せしめだと言う。諸橋(係長)はその事件が「うちの管轄じゃない」と言う。だが、内心で潜入捜査官ということが心にひっかかる。この導入が、この作品を暗示している。

 話は、小さな印刷工場を経営する寺川が返済の資金繰りに困り、個人闇金融に手を出し、その返済を迫る暴力団風の連中のうちつづく嫌がらせ行為から始まる。通報を受けた派出所の警官が寺川の家の前に来ても、現場を目撃できなければ対処のしようがない。繰り返し、そういう状態が続けば担当者の上司レベルでまたかと対応がなおざりになる。警官は警察では手が出せる状況ではないので、弁護士と相談することを進める。寺川からすると、警察は見て見ぬ振りばかりと目にうつる。梶誠一という若い弁護士が成功報酬の形で案件を引き受ける。しかし、その直後に交通事故に遭う。寺川は追い詰められていく。
 警察署内で、地域課の前の廊下を通りかかった諸橋が、地域課の連中の会話を耳にする。恐喝されているという文脈の話がひっかかったのだ。地域課課長がその話を無関係だと切り捨てて、暴力犯係に伝達していなかったのだ。諸橋はこの案件を自ら採りあげて、現場張り込みを試みる。

 再び嫌がらせの取り立てに寺川の家に来たのは、暴力犯係の浜崎の知らない連中だった。だが、一人の口から「那賀坂組」という名前が飛び出す。そして、彼らは車で逃走する。怪我をさせられた寺川の所に、諸橋と城島が出向き、暴力団と戦う正念場だと説得する。
 「那賀坂組」という言葉を手がかりに、諸橋を筆頭とする暴力犯係の捜査が開始される。だが、管轄内にもかかわらず、情報がまったくないという局面にぶつかるのだ。
 そこで登場するのが、常磐町に居る神風会の神野義治である。博徒系の組だが通常の暴力団とは一線を画した組である。神野の力は地域に浸透している。横浜の裏面の情報通である。城島が言う。「警察よりも裏の稼業のことに詳しいやつに聞いてみればいい」
  よくある小さな闇金融の取り立て騒ぎと見なされた案件が、意外な方向に転がり出していくのだ。

 小さな案件が、泥沼のような側面に関わって行くきっかけになるという展開である。みなとみらい署の管轄範囲の問題におさまらないのだ。諸橋、城島が調べていくと、県警本部からみの側面が絡んでいるのでは・・・と推測せざるを得ない事象が見えてくる。どこかに、潜入捜査の局面が絡んできている匂いがするのだ。俄然、ストーリー展開がおもしろくなる。その中に、諸橋の行動の問題点を厳しく追及する県警本部警務部の監察官・笹本康平が関わって来る。「課長の指示に従わない」諸橋に理由を問いただす形で関わりを持ってくる。この二人の関係が、実におもしろい。そして、事件解決のプロセスで笹本が重要な役割を担う形にもなっていく。

 この作品、事件は解決するが必ずしもハッピーエンドで終わらない。
 諸橋は考えた。そしてこたえた。「ああ。そうだ。俺にはどうしようもなかった。」城島は週刊誌を閉じた。そして、にやりと笑うと言った。「それでいい」
 この終わり方、諸橋のやるせなさが、このフィクションにリアル感を加えている。

 警察が市民の訴えを事件として扱える境界線。怯える庶民の目からみた警察の一側面。切羽詰まった庶民の心理と闇金融の巧妙な手口及びその仕組み。暴力団という組織の構造。警察の捜査方法の法的限界。警察組織の官僚的側面。こういう観点が一見小さな案件から大きな事件に連鎖して行く中で、巧に織り込まれていく。
 

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 本書を読み、少し関心をもつ側面をネット検索してみた。リストにまとめておきたい。
システム金融 :「兵庫県弁護士会」
闇金融  :ウィキペディア
出資法 → 出資の受入れ、預り金及び金利等の取締りに関する法律:ウィキペディア
貸金業規制法 → 貸金業法 :ウィキペディア
貸金業法

カード破産 → カードで破産?自己破産って何? :「ほ~ 納得!」
クレジットカードでカード破産しないための鉄則  :「Money Lifehack」

取り立て屋  :ウィキペディア
取り立て屋がついにきた!家や病院にまでやってきたときのお話:「キャッシングのまとめ」

暴対法 → 暴力団員による不当な行為の防止等に関する法律 :ウィキペディア
 同法律(平成三年五月十五日法律第七十七号)
広域暴力団 → 暴力団 :ウィキペディア

殉職  :ウィキペディア

潜入捜査 → 身分秘匿捜査 :ウィキペディア

囮捜査 → おとり捜査 :ウィキペディア

ラガブリン → ラガブーリン :「Maltnavi.com ~モルトナビ~」

無痛症 :「Pain Relief」

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徒然に読んできた作品の印象記に以下のものがあります。
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『終極 潜入捜査』 実業之日本社

『最後の封印』 徳間文庫

『禁断 横浜みなとみらい署暴対係』 今野 敏  徳間書店

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『おれは清麿』 山本兼一 祥伝社

2013-04-05 16:47:07 | レビュー
 刀剣商ちょうじ屋光三郎に関わる重要な人物がやっと採りあげられた。刀匠・清麿その人である。
 『黄金の太刀 刀剣商ちょうじ屋光三郎』が「小説現代」に連載されたのが2009年6月号~2010年6月号だったと、単行本(2011年9月刊)の末尾に記されている。本単行本の出版が2012年3月であり、「小説NON」に連載されたのが、2010年3月号~2011年9月号と末尾に記されている。つまり、本書の構想時期は不明だが、『黄金の太刀』の脱稿前頃から本作品が歩み出したようだ。読者にとっては、清麿の正体が解き明かされるのはうれしい限りである。光三郎の背景にいた師匠がやっと前面に出てきたのだ。

 刀剣商ちょうじ屋光三郎の作品2冊、『狂い咲き正宗』と『黄金の太刀』を読んでいるとき、光三郎の師匠としての清麿自身に興味を抱いていたが、あまり調べてみようとはしなかった。本書を読み、清麿のユニークさに思わず引き込まれて行った。本書を読んでから、一層この清麿に関心が湧いてきた。
 信濃国小諸藩領赤岩村(現在の東御市)の郷士で村役人をつとめる山浦家の二人兄弟の弟として生を受けたのが、清麿である。山浦環が実名で実在する人物だった。己の納得がいく仕上がりの刀に刻んだ銘が、「山浦正行」であり「源清麿」である。人生最後のステージで刀銘を「清麿」にしたようだ。

 本書は、17歳の時に、小烏丸と名づけた指ほどに小さな両刃の刀を独力で仕上げる場面から始まり、その小烏丸を己の右脇腹の瘤をねらって突き刺して死ぬまでの人生を扱った伝記小説である。鍛刀一筋の人生を歩み、独力独歩、己一人の創意工夫で、「破邪顕正」の力が湧き上がる刀を鍛えたいと願った男の物語。ウィキペディアで「源清麿」の項を読み、「文化10年3月6日(1813年4月6日) - 嘉永7年11月14日(1855年1月2日)」という期間に生きた人物、つまり幕末に活躍した刀工であることを確認できた。
 著者が史実の中に、どこまでフィクションを織り交ぜて清麿という人物像を描き出したのかは知らない。本書の清麿の波瀾万丈の生き様、「破邪顕正」の刀を鍛える一途の人生譚を一気に読んだ。破格な人物だったのはまちがいなさそうである。

 清麿が独力独歩、創意工夫で己の刀を創り出して行くのだが、彼の人生の結末から考えると、やはり清麿の目標達成を理解し、それを可能にしていく支えとなった人々が存在したのだということがわかる。
 清麿の人生ステージにおいて、様々な人々が関わって行く。清麿の人生ステージを大きく捕らえると、大凡6つの活動期に区分出来そうである。
 1)信濃国赤岩村活動期・実家の鍛冶場   2)海津城下活動期・山口善近の鍛冶場
 3)江戸窪田屋敷活動期・屋敷内の鍛冶場  4)萩城下活動期・玉井直清の鍛冶場
 5)小諸城下活動期・山本邸の鍛冶場    6)江戸・四谷活動期・己の鍛冶場
 なぜ、これほど転転としたのか。そこには、一所定住が己の創作に制限を課すと感じ始める衝動が清麿を突き動かして行ったのではないかと思う。著者はこの変転する生き方を描き出していく。

 1)信濃国赤岩村活動期  「一 小烏丸」「二 志津」
 正行の基礎作り期。村役人を勤め、屋敷に建てた鍛冶場で鍛刀を自ら行い、その研究に余念のない兄・真雄(実名・昇)から刀鍛冶の手ほどきを受ける。鍛冶の基本は兄の真雄から学んだことになる。真雄自身は当代随一の名工水心子に鍛刀を学び、上田藩の藩工河村寿に入門し、作刀を学んでいる。
 その兄が描き移してきた絵が小烏丸である。わずかに余った刃鉄と心鉄を兄にもらったことから、独力で指ほどに小さい刀を仕上げる。それが正行自作の最初の刀である。兄はその出来具合に驚き、弟を褒める。「おまえは腕の力が強いうえに器用だ。精進すれば、刀鍛冶として名を上げられるだろう」兄の指導と励ましが、正行の人生を決定づけたのではないか。その証が小烏丸の出来栄えなのだ。ここに正行(清麿)の生涯の原点がある。小烏丸に「信濃国 正行」と隷書で銘切りする。
 「正行と自分で名付けたのは、どうせ刀を打つなら、相州鎌倉の名工正宗や行光を超えるほどの刀をうちたいからだ」(p22)と。
 正行は、大石村の村役人・長岡家の婿養子となり、つると世帯を構えて長男梅作を得る。だが安定した生活を己の制約と感じ始める。
 一方、藩お抱え工の話が出るが横槍が入り話が流れる。それが、一度江戸の窪田清音の屋敷を訪ね、刀剣のことを学ぶ機会に繋がる。

 2)海津城下活動期  「三 海津城」
 正行が江戸から戻ったのは、松代藩海津城下の藩お抱え鍛冶水田国重の鍛冶場で鍛刀する紹介を受けたことによる。だが国重の鍛冶場を訪ねた正行はそこを去り、山口善近の鍛冶場を借りて、己の思う刀の鍛刀に歩み始める。なぜ、去る判断をしたのか。それは正行の生き様にも関わる。
 ここでは、父亡き後、国重の鍛冶場に弟子入りしていた善近の息子善治郎が正行の弟子になる。善治郎の母親が、鍛冶場を貸すことで支援する。子供ができないことで離縁された善治郎の姉・きぬが関わりをもってくる。
 正行は天保4年の年記銘を刻んだ「窪田清音佩刀」を打つことができる。
 天保6年(1835)8月、23歳で江戸に去る。

 3)江戸窪田屋敷活動期  「四 愛染」「五 武器講」
 窪田清音の提案で、窪田の屋敷に鍛冶場を建てる。清音は言う。「おまえがこの屋敷で鍛刀するなら、わしも武家打ちができる」と。当初、清音が鍛冶場準備の支援者となってくれたことが、正行が刀鍛冶としての腕を磨き、腕を振るう土台になったのだろう。
 そして、清音は「武器講」というアイデアまで出してくれるのだ。しかし、これが一方で正行の刀鍛冶の制約にもなっていく。
 また、別の局面では、清音の所蔵する秀逸な刀剣類を正行が観る機会を繰り返し持てたことだろう。清音に正行が試される一方で、鍛刀・作刀のためのいわばデータベースにもなっていくのだ。
 もう一つ、正行の人生を左右することになるのは、清音の屋敷に下働きとして勤めている女中・とくとの出会いである。とくとの関係が深まることが、正行の人生を大きく変えていく原因の一つにもなる。
 この活動期における、一つのエピソードは、試刀家山田浅右衛門の屋敷に清音と正行が出向き行う試斬りの場面である。こういうことが、江戸時代でも頻繁に行われていたのだろうか。
 武器講の約束を果たした正行の望みは、いい刀を打つことのみである。「もっといろんな刀を打ち、自分らしい刀を極めていきたい。自分で思い通りの刀を鍛えて、求める人に譲りたい」(p229)という思いなのだ。いつしか、支援してくれる清音と正行の間に、溝が生まれていく。

 4)萩城下活動期  「六 萩城」
 同じ刀は鍛えたくない思いの正行にとって、長州萩藩家老格の村田清風からの萩城下で刀を鍛えてほしいという要望は、願ってもない機会となる。だが、それも長く続くことはなかった。清風から正行の意に添わない要請が、結局萩を去らせる原因になる。正行にとっては、己の生き方の転機でもある。
 著者は、正行の思いをこう描く。
 「なにがいいのか、わるいのか、正行にはわからない。ただ感じることがある。信濃を出て、江戸、萩に住んで刀を鍛え、正行には世間がすこし見えた気がする。
 世の中は、思い通りに動かない。しかし、おれだって他人の思い通りには動かない。そんな頑なな気持ちが生まれている。
 -人生には潮の満ち引きがあるのか。
 とも思う。萩に来たことで、正行は人の世の浮沈を知った。満ちるとき、引くとき、それを見きわめなければ転んでしまう」と。(p268)
 32歳、6月の暑い日に、正行は萩をあとにする。

 5)小諸城下活動期 「六 萩城」の最後段
 萩から一旦、赤岩村に戻る。父親が具合が悪くなっている。兄に頼まれて小諸藩士・山本の屋敷内の鍛冶場での鍛刀を手助けすることになる。兄の鍛刀を手伝い、己の刀も鍛える。実家の鍛冶場に大石村からつると梅作が訪れる。そして、父親の死。つるの願いを振り切り、家を出る。ほんのわずかの期間・半年余、国の近くに戻ったに留まる。33歳で再び、郷里を去る。

 6)江戸・四谷活動期 「七 清麿」
 江戸・番町の窪田清音の屋敷を訪れた正行は、清音に挨拶し、自分の鍛冶場を開きたいと考えを申し出る。そして、なんとか四谷・北伊賀町の一隅に自らの鍛冶場を開く。稲荷横町の豆腐屋だった家である。結局、正行には、とくが生涯の伴侶となるのだ。
 「破邪顕正の力を漲らせてこその刀」そういう刀を鍛えることに専念していく。
 清音の屋敷に刀を見せに行き、笠倉屋番頭・斎藤昌麿と出会うことになる。
 そして、ついに、「為窪田清音君 山浦環 源 清麿製」と刻んだ刀が仕上がる。
 清麿という号をなぜ付けたのか。著者は正行の思いを語る。
 そして、清麿にとって、鍛冶屋冥利を味わえる時期がしばし訪れたのだ。
 嘉永6年(1853)3月末、清麿41歳のとき、松代藩真田家の試し斬りの場に立ち会うために出かけていく。このエピソードは、壮絶である。こういう試し斬りもあったのだ。
 清麿の思いと無関係に、四谷正宗と世間の人が呼び評価するまでになり、華やかさを伴った充実した活動期も、病魔が奈落の底に突き落としていく。清麿に訪れた人生の潮の満ち引きだった。
 
 筆者の描きたかったテーマは刀のことでは妥協しない清麿の刀工一途の生き様だろう。
 だが、本書には、サブテーマもあるように思う。一つ目は、正行(清麿)の観点に立ちながら、鍛冶場道具の準備から始め、鍛刀工程を描き出すという、刀鍛冶そのものではないか。二つ目は、窪田清音の生き様である。三つ目を挙げるとすれば、清麿と関わりを持った女性たちのあり方ではないだろうか。つる、きぬ、そして、とく。
 
 最後に、佐久間象山が点描としてだけ出てくる。しかし、清麿にとっては重要な人物である。象山の登場のさせかたと、その発言が印象深い。
 「たしかに、よい刀ですな。地鉄はまことによい。しかし・・・つまらん刀だ。・・・若い鍛冶ならば、なによりも志を高くもたねばならん。この程度のできばえを褒めておっては、将来ろくな鍛冶に育ちませんぞ」(p129)
 「日本国の誇りとはなんだと思うかね。・・・刀だ、そのほうら鍛冶が鍛える刀だ。・・・まさに破邪顕正の力が湧いてくる。・・・わしはこれから松代に帰って蟄居せねばならん身だ。ぜひとも大小を拵えてくれ」(p333-334)



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本書に出てくる語句とその関連情報をネット検索してみた。その一覧をまとめておきたい。

源清麿 :ウィキペディア

平成12年11月14日 於 宗福寺 清麿会

日本刀 脇指 山浦環正行 源清麿 Wakizashi Minamoto Kiyomaro 1841 刀剣 三河屋

太刀(銘:為窪田清音君山浦環源清麿製 弘化丙午年八月日)
 :「長野市文化財データベース デジタル図鑑」

山田流試し斬り ← 業物について :「おさるの日本刀豆知識」

解りやすい刀工の話

近藤勇の 試衛館と 虎鉄の話 :週刊新潮「タワークレーン」

佐久間象山 :ウィキペディア

窪田清音 デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説 :「コトバンク」

日本刀 :ウィキペディア

日本刀一覧 :ウィキペディア

刀に関する用語 :「僕の日本刀日記」

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 以前に、次の読後印象を掲載しています。お読みいただければ幸です。

『黄金の太刀 刀剣商ちょうじ屋光三郎』 講談社

『まりしてん千代姫』 PHP

『信長死すべし』 角川書店

『銀の島』   朝日新聞出版

『役小角絵巻 神変』  中央公論社

『弾正の鷹』   祥伝社

『黄金の太刀 刀剣商ちょうじ屋光三郎』 山本兼一 講談社

2013-04-02 11:32:57 | レビュー
 御腰物奉行黒沢勝義の長男・光三郎は勘当されて、町人となり己の好きな道を歩んでいる。刀剣商ちょうじ屋光三郎となって、刀剣の売買に勤しんでいるのである。この話は「黄金の太刀」にからむ因縁話に巻き込まれていくというものだ。

 話は、毘沙門天門前の料理屋で、旗本の刀剣好きの集まり「よだれの会」(垂涎ものの刀を見て、純粋に刀の鉄と鍛練の良さを愛でるのが眼目)に、光三郎が久しぶりに参加することから始まる。
 その席で話題になるのが、田村庄五郎持参の黄金鍛えの刀。鉄の鍛練に黄金をまぜて仕上げるのだという。金の筋が入って、剣相が良くなると大評判になっているものである。田村はその黄金鍛えが毘沙門天につくられた鍛冶場で実演されるという。全員がその実演を見物に行く。黄金鍛えをするのは剣相家の白石瑞祥。田村庄五郎は最近この白石瑞祥の剣相見識に傾倒しているのだ。そこでこの見物を企画した。一方、この瑞祥が細工して悪い剣相のついた刀を光三郎が入手し、瑞祥との間で前年の暮れに一悶着起こしていたのだ。光三郎からみれば、瑞祥は詐欺師だという。傾倒する庄五郎は目を?いて怒る。これがまあイントロである。

 話は、光三郎が父・勝義の呼び出しを受けることから動き出す。勘当した嫡男を呼び出すのは、刀に絡んだ話のこじれに違いないと見当をつけてでかけると、正にそのもの。白石瑞祥が剣相し、伊勢家所蔵のものとは違い、これぞ正真正銘の黄金の太刀だと称し、名宝小烏丸をさる大名に売りつけたのが発端となっているのだ。それが贋物だと判明する。 事件関係者は光三郎にとって無視できない人々ばかり。
 庄五郎が瑞祥の剣相した黄金の太刀のことを教えられ、現物の来歴を聞き、持ち主の庄屋に礼金百両を渡して持ち帰る。四人いる勘定奉行の一人である父・忠明にそれを見せる。伊勢家の小烏丸はかつて権現様・家康が不要としりぞけたもの。だから今も、黄金の太刀は徳川家には不要だろうということになり、忠明は家宝として保持しようと考える。だが、さる大名から譲ってほしいと頼まれる。1万両で買うと言われ譲ることになる。
 忠明はお礼のために瑞祥を招くが、瑞祥はその1万両の小判に妖気が漂うと言い、田村屋敷の庭で三日三晩護摩を修法することを申し出る。だが二晩目の夜明けに、1万両すべてが消えており、瑞祥は逐電してしまったのである。この経緯に、光三郎の父も関わっていたのだ。
 詐欺師白石瑞祥を取り押さえ、1万両を取り戻さなければ、忠明は切腹しわびなければならない立場に追い込まれる。事件の発端は庄五郎である。光三郎にとっては友人だ。

 光三郎は鍛冶平と一緒に、庄五郎の家来という形になって、瑞祥の追跡・捕縛の旅に出る。というのは、瑞祥が五か伝の名刀を揃えたいと言っていたという話を聞き込んだ為である。そこで、五か伝の地に瑞祥を追跡していく旅が始まる。
 江戸を振り出しに、瑞祥に一歩先に進まれ、鍛冶場で出くわしてもうまくすり抜けられてほぞを?む。あれやこれやで五か伝の鍛冶どころを西へ西へと追いかけていくという旅もののストーリー展開である。五か伝の鍛冶どころをめぐる地に足を向けるのは、光三郎にとりこころがときめく、行ってみたいに決まっている土地でもある。刀剣・鍛冶の蘊蓄話と瑞祥追跡譚が重ねあわされているところがおもしろい。
 
 五か伝とは、相州鎌倉、美濃関、山城、大和、備前の地である。
 作者は、これら鍛冶どころの歴史と名だたる刀匠の来歴や名刀話をストーリーの彩りとして絡ませながら、この追跡譚を展開していく。
 ここには次の刀匠名などが次々と語られていく。そして、光三郎の刀剣屋の目利きとしての批評がはさまれるのも楽しいところだ。
 相州鎌倉: 新藤五国光、五郎入道正宗、
  ・相州伝の上出来の刀が、あれもこれも正宗と極められてしまった。 p67
  ・正宗はよい鍛冶だったに違いないが、ただ一人の正宗がそのようにたくさん
   の名刀を鍛えられるわけではない。 p82
 美濃関: 関七流-善定、三阿弥、奈良、得印、徳永、義賢、室屋。兼門宗九郎。
  関孫六兼元。関兼定(之定)。
  ・関の刀鍛冶が、もっとも腕を振るい、数も多かったのは、永正、大永、天文の
   ころである。 p110
  ・関には、領主がいなかった・・・支配者がいないのなら、どこの大名から注文が
   あっても、それに応じて刀を売ることができる。鍛冶にとっては、まさに自由を
   謳歌できる別天地であったわけだ。 p113-114
  ・善定流は、大和手掻派の作風を伝える一流である。鎬が高く、柾目まじりの地金
   が特徴だ。 p116
 山城: 三条小鍛治宗近。粟田口一門(国友、久国、藤四郎吉光)。来。堀川国広。
  ・宗近の在銘は、「三条」か、もしくは「宗近」、あるいは「宗近造」と決まって
   いる。「三条宗近」と切ってあるのは、まちがいなく贋物であるというのが、刀
   好きの常識である。 p163
 大和: 天国(あまくに)、大和五派-千手院、当麻、手掻、保昌、尻懸。
  ・地味ながらも、実用的で質実な刀を鍛えていた。しかし、それはせいぜい南北朝
   から室町末期ころまでの話である。・・・いま奈良刀といえば、安物の刀のことで
   ある。 p176
 備前長船: 祐定。友成。正恒。包平。一文字の名工たち。長光。景光。
  ・備前伝のなによりの特色は、可憐な丁子刃にある。 p226
   拳丁子、逆丁子、腰開きの丁子など、・・・さまざまな変化がある。
 激しさのある相州の刀は、鮮烈である。備前の丁子刃は、優美で美しくも鋭利である。大坂新刀の濤瀾刃は、相手を竦ませる効果がある。・・・美濃刀はちがう。・・・ただ、人を斬る道具として、ゆるぎなくそこに屹立している。  p131-132

 刀鍛冶についての蘊蓄話も興味深いところ。相州鎌倉での語りをいくつか引用しておこう。
*姿だけできた刀に、へらで焼刃土を置いて、焼き入れする。火床の炭火で、熟柿ほどに赤めた刀を、細長い水舟に入れて急速に冷やすのだが、じつは、そのときこそ、相州伝の特徴である沸(にえ)や刃中のはたらきがあわわれる。 p84
*よい沸は潤いがあふれ、光にかざすと、七色にきらめいて輝く。 p85
*気泡が刀の表面についてしまうと、急速な冷却ができない。きりりと引き締まった焼刃にならず、滓がついたように眠く曇ってしまう。 p85
*相州伝は、焼き入れの温度が高いといわれている。温度が高ければ、刃が硬くなるが、その一方で折れやすくもなる。・・・正宗のころなら、おそらくは、鎌倉の浜の砂鉄をつかっていたにちがいない。鉄が違えば、焼き入れの条件もがらりと変わってくるから、いちがいに温度だけがどうのこうのとはいえない。 p86-87
 こういう風に、鍛冶話が各所にちりばめられていて、刀剣鍛冶入門的な側面が学べるのが本書の副産物といえる。

 旅ものはどの作品でもそうだろうが、土地土地の名所旧跡での小話が作品に花を添える。この作品も、そんなシーンがいくつも出てくる。銭洗弁財天、相槌稲荷、宮川町、お水取り(修二会)など。作品中のコラムのような楽しさのある箇所だ。


 相州鎌倉の野鍛冶の鍛冶場で、白石瑞祥の忘れ物だという掛け守りの錦の袋を会う機会があれば渡して欲しいと、野鍛冶から光三郎は預かる。紫色の錦の袋の中の紙包みを開くと、入っていたのは二寸ばかりの折れた切先だった。数打ちの束刀の切先のようなのだ。親の形見か・・・刃こぼれは人を斬った跡だろうと判断する。細かくささくれた刃こぼれに、強烈な怨念がこもるような気を光三郎は感じ取る。この切先が実はこの作品を成り立たせるコインの片面でもあったのだ。
 どのように結びついて行くか・・・それは本書を開いて、お楽しみいただくとよい。

 最後に、いくつか印象深い文をメモさせていただこう。
*人も刀も同じだ。
 深奥を見極めたいなら、ただ虚心坦懐に、じっと観ればいい。怒ったり、嘆いたり、惚れたり、こちらが余計な感情をもっていると、目が曇ってしまう。ただ、なにも思わずに、そこにあるものとして観るがいい。  p108
*刀身に反りがあれば、振り下ろす力に遠心力がはたらき、物打ちあたりで物を断ち切る力が格段に増す。加藤清正が、反りの大きな力を好んだというのは、馬上から打ち下ろす打撃力の強さを知っていたからだろう。打撃力があれば、たとえ兜がわれなくても、脳震盪を起こさせて、兵を撃退できる。  p191
*水は殺してあるのをつかえよ。  p234

 「刀は男の生き方だ」
 つぶやいて、光三郎は深々と頷いた。
黄金の刀騒動が落着して、清麿の鍛冶場で己が鍛える刀焼き入れをし終えたときの呟きである。この終わり方が、こきみよい。


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