『見仏記』という書名は新聞広告などで以前目にしていた。だが手にとったことがなかった。たまたまこの書名が目にとまり、ガイドブックって何かな?という好奇心から手に取った。この本を読んだことから、逆に『見仏記』に遡ってみようと関心を高めたところである。
本書の「はじめ」を読み、いとうせいこう氏とみうらじゅん氏が2人で20年もお寺巡りをして仏像を見てきているコンビ、”仏友”であることを遅まきながら知った。本書を読んだことから推測すると、いとう氏が見仏の結果をエッセイとして文にまとめ、漫画家でありイラストレーターのみうら氏が見仏内容を文入り漫画で描き出すという役割分担が行われているようだ。
本書は冒頭4ページにみうら氏のカラー漫画が載せてある。そして、「はじめ」「もくじ」の後、本編に入ってからは、いとう氏の1つの寺での「見仏記」エッセイに対して、みうら氏の漫画が1枚が対となって載せられている。
書名に「ガイドブック」とあるように、本書には「見仏記+見仏漫画」だけではなくて、地域毎に、多分著者二人が各地域毎でこの20年の間に訪れた寺々について、観光ガイドを兼ねての一言コメントという形でコラムとしてまとめたものが載せられている。また、お寺の建物や仏像の写真、そしてお寺でお土産として販売されているグッズなどの写真も紹介されている。そういう意味では、通常の観光ガイドブックとはひと味違う視点からの観光ガイドブックである。
本書末尾には、特別企画「20年目の見仏対談」という著者2人の対談記録が載っている。ここに著者のスタンスが出ていて面白い。
著者(いとう)は「見仏」という立場を自ら説明する。「見仏は仏像だけじゃないから。仏像と仏像の間にどんな道があったか、どんなバスが通っていたかということも含めての修行だ」(p149)ととらえている。これは、「はじめ」に記された著者・いとうの文の要点でもある。それを著者(みうら)は「松本清張的に点から線へいかないとダメだよね」とフォローしている。つまり、仏友二人の仏像を見る旅は「印象」なのだという。そこが、仏像研究者との大きな違いだという。「仏像だけ見てたら研究者になっちゃうもんね」(p149)仏像を点的に研究の観点で見れば、論争がおこりケンカになるのは必然だと。この仏友たちは、仏像を見たときの「おたがいの想像をバックアップしながら見ているから。それで新しい見方が出来ればそれでいいと思ってやっている」(p150)それが2人にとっての「見仏」なのだ。
このスタンスがなるほどと思うには、著者(いとう)の一編の「見仏記」エッセイを読んでみれば良い。仏友二人の仏像を見に行くプロセス(道中記)の中に、仏像を見ての印象が語られている。道中記部分があるときは弥次喜多道中的でもあり、滑稽感やユーモアがふんだんに溢れている。その中に、出会った仏像の印象がきらりと記されていたりする。おもしろい印象論が見仏記を読み進めるとひょこひょこと登場してきて楽しいところである。自分で見たことのある仏像の場合は、そんな見方もあるのか・・・・と想像を刺激してくれる。また、漫画に描かれた見仏の内容は吹き出しの形で寸言が記されていたり、仏像のポイントを描いた残りの空白に地の文として短文で印象論が記されたりしている。漫画故の遊びが描き込まれていておもしろい。
本書の構成をご紹介しておこう。
本書にはガイドのしかたの基本として3つのパターンがある。一つは、建物・仏像・グッズなどの紹介ページと「見仏記」+漫画がセットになった寺(A)、もう一つは、寺についての説明文と漫画をセットにしたもの(B)、そして、寺名と説明文だけのもの(C)。このパターンCが件数としては一番多くなり、ガイドブックとしての様相が強いともいえる。この場合、基本的に1ページに4つのお寺が紹介されている。勿論、仏像についてはその名称だけでなく見所の寸評が含まれる。この3パターンを使いながら、地域毎にまとめられている。例外的に、写真と説明文というのもある(D)。
そこで幾つの寺が載っているかを本書構成の形で件数としてまとめてみよう。
奈良 (A) 4 、 (B) 6 、 (C) 34
京都 (A) 3 、 (B) 2 、 (C) 28
東北 (A) 0 、 (B) 3 、 (C) 12
中部 (A) 1 、 (B) 2 、 (C) 20 、 (D) 1
関東 (A) 0 、 (B) 1 、 (C) 12 、(D) 2
近畿 (A) 1 、 (B) 2 、 (C) 17
四国 (A) 0 、 (B) 1 、 (C) 8
九州 (A) 0 、 (B) 2 、 (C) 7
このような分布構成になっている。仏像というと、やはり奈良・京都のウェイトが大きくなるのがこのことからもわかる。北海道が含まれていないということは、時代性を反映しているということなのだろうか。
本書には、「見仏豆知識」として最小限のベースづくりをし、「見仏旅持ち物リスト」や「イケ住に聞いてみた」「思い出グッズで振りかえる見仏旅」というみちくさもあったりする。「イケ住」とは著者たちが見仏の旅で出会った「心にグッとくる住職=徳がある住職」ということのようだ。
本書で印象深い記述を見仏記と漫画の中から抽出してご紹介してみよう。
*仏像を眺めては何かを考え、また歩き、次の寺へ行く。 p13
*大仏の鼻の造形的なシンプルさ、大胆さは興福寺の仏頭と同じアルリカ的なものを持っていた。削りに削った造形こそがインターナショナルの基本なのかもしれなかった。 p16
*人体からの想像の延長線上に仏像を置かない、という意思。おそろしさを強調する方法。・・・・以前なら、つたなさはつたなさだった。だが、多くの仏像を見ながら時を経てきた我々にとって、つたなさは意味であった。 p24
*もし我々が美術的な視点でだけ仏像を見ているならば、木魚の中で復活する生命を想像することはない。また、逆に宗教的な視点だけで見るならばどんなときでも文殊は生きている。ならば”木魚の音の中でこそ生きる”と感じる我々はどの視点から仏像を見ているのだろう。 p30
*役行者が感得した蔵王権現には、密教仏の影響は見られるが、日本オリジナル仏!その表情は劇画そのものだ。 p35
*その密教像たちの肘の張り方や、指の曲げ方は、決して日本に根付いた所作ではなかった。むしろ、インド舞踊の方に近い。・・・・・我々は仏像を見ながらも、決してその所作を身体に取り込むことがない。・・・・日本人の仕草として定着することがなかったのである。・・・・ちょっとした腰の曲げ方、指の折り方、胸の張り方のことだ。そこから我々はガイジンの仕草を感じるはずなのだが、その仕草をしているのが仏像であるという理由で、ついつい見逃してしまっている。そして、すっかり自分たちの文化の中にあるものとして、合掌を捧げてしまうのだ。唯一日本に根付いた仕草のひとつを。渡来したものが、その違和の力を保ち続けている。そう思って、私は愕然とした。いかにも日本的なイメージをまといつつ、その実、仏像は帰化しないガイジンであり続けているのである。それなのに、誰もそれを忘れ、ガイジンを見つめて古都の情緒にひたっている。変だ。絶対に変だ。 p53-54
*ふっくらと頬をふくらませるおかめは女性器のシンボルとして、すなわち豊穣を祈念したであろうものとしてあった。(付記:京都・大報恩寺にあるおかめ人形が集められたガラスケースを見ての記述) o63
*仏像とゆうものはフツーがない。ものすごく恐い顔とか、ものすごぉ~く優しそうな顔とか、ものすごぉ~くエロチックな顔とかetc。人間ってヤツは、死ぬまで未完成で終わるわけだけど、仏像は完成しちゃってる姿なわけだからさ。 p120
*仏像界の3Kは、コワイ・巨大・キンピカだ!! p144
*「信仰、見仏、美術のスリーゾーンなんだよ。その見仏っていう態度でみていくうちに、美術としてもよくわかるし、信心のことも考えるようになるんだよね。」「その2つをミックスして見ることだから。」「ぜひ、そういう気持ちで見てもらえれば、幅が広がるよね。」「広がると思うよ。もっと自由に感じるままに見れば仏像は広がってくるからね。『参仏』っていうのもあったよね。」 p152
ご一読ありがとうございます。
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本書に出てくる仏像で、京都圏の私には縁遠い地域の仏像で、ネット検索で入手したものの一部を一覧にしておきたい。
真木大堂の仏様 :「鬼と仏の国東半島めぐり」
福岡県 観世音寺 馬頭観音 :YouTube
高知県・雪蹊寺 :「ひたすら仏像拝観」
道成寺 木造千手観音像 :ウィキペディア
鶴林寺 聖観音立像 :「刀田山鶴林寺」ホームページ
メニューの「鶴林寺の文化財紹介」からアクセス
東慶寺 水月観音菩薩半跏像 :「NAVER まとめ」
羽賀寺 木造十一面観音像 :「ええやん!若狭の國」(若狭おばま観光協会)
明通寺 薬師如来坐像 :「ええやん!若狭の國」(若狭おばま観光協会)
円空一刀彫 寺宝のご紹介 :「尾張四観音 龍泉寺」ホームページ
木造四天王立像 普門寺 :「文化財ナビ愛知」
願成寺 会津大仏 :「まるごと体験 喜多方」
十一面観音像 :「金塔山恵隆寺 立木観音堂」ホームページ
左サイドのメニューからアクセス
薬師如来坐像 仏像紹介 :「妙見山 黒石寺」ホームページ
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本書の「はじめ」を読み、いとうせいこう氏とみうらじゅん氏が2人で20年もお寺巡りをして仏像を見てきているコンビ、”仏友”であることを遅まきながら知った。本書を読んだことから推測すると、いとう氏が見仏の結果をエッセイとして文にまとめ、漫画家でありイラストレーターのみうら氏が見仏内容を文入り漫画で描き出すという役割分担が行われているようだ。
本書は冒頭4ページにみうら氏のカラー漫画が載せてある。そして、「はじめ」「もくじ」の後、本編に入ってからは、いとう氏の1つの寺での「見仏記」エッセイに対して、みうら氏の漫画が1枚が対となって載せられている。
書名に「ガイドブック」とあるように、本書には「見仏記+見仏漫画」だけではなくて、地域毎に、多分著者二人が各地域毎でこの20年の間に訪れた寺々について、観光ガイドを兼ねての一言コメントという形でコラムとしてまとめたものが載せられている。また、お寺の建物や仏像の写真、そしてお寺でお土産として販売されているグッズなどの写真も紹介されている。そういう意味では、通常の観光ガイドブックとはひと味違う視点からの観光ガイドブックである。
本書末尾には、特別企画「20年目の見仏対談」という著者2人の対談記録が載っている。ここに著者のスタンスが出ていて面白い。
著者(いとう)は「見仏」という立場を自ら説明する。「見仏は仏像だけじゃないから。仏像と仏像の間にどんな道があったか、どんなバスが通っていたかということも含めての修行だ」(p149)ととらえている。これは、「はじめ」に記された著者・いとうの文の要点でもある。それを著者(みうら)は「松本清張的に点から線へいかないとダメだよね」とフォローしている。つまり、仏友二人の仏像を見る旅は「印象」なのだという。そこが、仏像研究者との大きな違いだという。「仏像だけ見てたら研究者になっちゃうもんね」(p149)仏像を点的に研究の観点で見れば、論争がおこりケンカになるのは必然だと。この仏友たちは、仏像を見たときの「おたがいの想像をバックアップしながら見ているから。それで新しい見方が出来ればそれでいいと思ってやっている」(p150)それが2人にとっての「見仏」なのだ。
このスタンスがなるほどと思うには、著者(いとう)の一編の「見仏記」エッセイを読んでみれば良い。仏友二人の仏像を見に行くプロセス(道中記)の中に、仏像を見ての印象が語られている。道中記部分があるときは弥次喜多道中的でもあり、滑稽感やユーモアがふんだんに溢れている。その中に、出会った仏像の印象がきらりと記されていたりする。おもしろい印象論が見仏記を読み進めるとひょこひょこと登場してきて楽しいところである。自分で見たことのある仏像の場合は、そんな見方もあるのか・・・・と想像を刺激してくれる。また、漫画に描かれた見仏の内容は吹き出しの形で寸言が記されていたり、仏像のポイントを描いた残りの空白に地の文として短文で印象論が記されたりしている。漫画故の遊びが描き込まれていておもしろい。
本書の構成をご紹介しておこう。
本書にはガイドのしかたの基本として3つのパターンがある。一つは、建物・仏像・グッズなどの紹介ページと「見仏記」+漫画がセットになった寺(A)、もう一つは、寺についての説明文と漫画をセットにしたもの(B)、そして、寺名と説明文だけのもの(C)。このパターンCが件数としては一番多くなり、ガイドブックとしての様相が強いともいえる。この場合、基本的に1ページに4つのお寺が紹介されている。勿論、仏像についてはその名称だけでなく見所の寸評が含まれる。この3パターンを使いながら、地域毎にまとめられている。例外的に、写真と説明文というのもある(D)。
そこで幾つの寺が載っているかを本書構成の形で件数としてまとめてみよう。
奈良 (A) 4 、 (B) 6 、 (C) 34
京都 (A) 3 、 (B) 2 、 (C) 28
東北 (A) 0 、 (B) 3 、 (C) 12
中部 (A) 1 、 (B) 2 、 (C) 20 、 (D) 1
関東 (A) 0 、 (B) 1 、 (C) 12 、(D) 2
近畿 (A) 1 、 (B) 2 、 (C) 17
四国 (A) 0 、 (B) 1 、 (C) 8
九州 (A) 0 、 (B) 2 、 (C) 7
このような分布構成になっている。仏像というと、やはり奈良・京都のウェイトが大きくなるのがこのことからもわかる。北海道が含まれていないということは、時代性を反映しているということなのだろうか。
本書には、「見仏豆知識」として最小限のベースづくりをし、「見仏旅持ち物リスト」や「イケ住に聞いてみた」「思い出グッズで振りかえる見仏旅」というみちくさもあったりする。「イケ住」とは著者たちが見仏の旅で出会った「心にグッとくる住職=徳がある住職」ということのようだ。
本書で印象深い記述を見仏記と漫画の中から抽出してご紹介してみよう。
*仏像を眺めては何かを考え、また歩き、次の寺へ行く。 p13
*大仏の鼻の造形的なシンプルさ、大胆さは興福寺の仏頭と同じアルリカ的なものを持っていた。削りに削った造形こそがインターナショナルの基本なのかもしれなかった。 p16
*人体からの想像の延長線上に仏像を置かない、という意思。おそろしさを強調する方法。・・・・以前なら、つたなさはつたなさだった。だが、多くの仏像を見ながら時を経てきた我々にとって、つたなさは意味であった。 p24
*もし我々が美術的な視点でだけ仏像を見ているならば、木魚の中で復活する生命を想像することはない。また、逆に宗教的な視点だけで見るならばどんなときでも文殊は生きている。ならば”木魚の音の中でこそ生きる”と感じる我々はどの視点から仏像を見ているのだろう。 p30
*役行者が感得した蔵王権現には、密教仏の影響は見られるが、日本オリジナル仏!その表情は劇画そのものだ。 p35
*その密教像たちの肘の張り方や、指の曲げ方は、決して日本に根付いた所作ではなかった。むしろ、インド舞踊の方に近い。・・・・・我々は仏像を見ながらも、決してその所作を身体に取り込むことがない。・・・・日本人の仕草として定着することがなかったのである。・・・・ちょっとした腰の曲げ方、指の折り方、胸の張り方のことだ。そこから我々はガイジンの仕草を感じるはずなのだが、その仕草をしているのが仏像であるという理由で、ついつい見逃してしまっている。そして、すっかり自分たちの文化の中にあるものとして、合掌を捧げてしまうのだ。唯一日本に根付いた仕草のひとつを。渡来したものが、その違和の力を保ち続けている。そう思って、私は愕然とした。いかにも日本的なイメージをまといつつ、その実、仏像は帰化しないガイジンであり続けているのである。それなのに、誰もそれを忘れ、ガイジンを見つめて古都の情緒にひたっている。変だ。絶対に変だ。 p53-54
*ふっくらと頬をふくらませるおかめは女性器のシンボルとして、すなわち豊穣を祈念したであろうものとしてあった。(付記:京都・大報恩寺にあるおかめ人形が集められたガラスケースを見ての記述) o63
*仏像とゆうものはフツーがない。ものすごく恐い顔とか、ものすごぉ~く優しそうな顔とか、ものすごぉ~くエロチックな顔とかetc。人間ってヤツは、死ぬまで未完成で終わるわけだけど、仏像は完成しちゃってる姿なわけだからさ。 p120
*仏像界の3Kは、コワイ・巨大・キンピカだ!! p144
*「信仰、見仏、美術のスリーゾーンなんだよ。その見仏っていう態度でみていくうちに、美術としてもよくわかるし、信心のことも考えるようになるんだよね。」「その2つをミックスして見ることだから。」「ぜひ、そういう気持ちで見てもらえれば、幅が広がるよね。」「広がると思うよ。もっと自由に感じるままに見れば仏像は広がってくるからね。『参仏』っていうのもあったよね。」 p152
ご一読ありがとうございます。
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本書に出てくる仏像で、京都圏の私には縁遠い地域の仏像で、ネット検索で入手したものの一部を一覧にしておきたい。
真木大堂の仏様 :「鬼と仏の国東半島めぐり」
福岡県 観世音寺 馬頭観音 :YouTube
高知県・雪蹊寺 :「ひたすら仏像拝観」
道成寺 木造千手観音像 :ウィキペディア
鶴林寺 聖観音立像 :「刀田山鶴林寺」ホームページ
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東慶寺 水月観音菩薩半跏像 :「NAVER まとめ」
羽賀寺 木造十一面観音像 :「ええやん!若狭の國」(若狭おばま観光協会)
明通寺 薬師如来坐像 :「ええやん!若狭の國」(若狭おばま観光協会)
円空一刀彫 寺宝のご紹介 :「尾張四観音 龍泉寺」ホームページ
木造四天王立像 普門寺 :「文化財ナビ愛知」
願成寺 会津大仏 :「まるごと体験 喜多方」
十一面観音像 :「金塔山恵隆寺 立木観音堂」ホームページ
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薬師如来坐像 仏像紹介 :「妙見山 黒石寺」ホームページ
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