遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『川あかり』 葉室 麟  双葉社

2011-11-29 11:40:21 | レビュー
 読後感の爽やかな時代小説だった。

 鹿伏山から南に流れ、川幅が五町にもなり流れの急な巨勢川が御定法により川止めとなる。その汐井宿がこの物語の舞台である。ここは上野藩六万石の領内で、隣国の綾瀬藩に仕える軽格の武士・伊藤七十郎が巨勢川の川止めに遭う。そこで、六尺褌だけの裸同然の姿にぼろぼろの半纏をひっかけた素足の男、川止めのため宿賃稼ぎの土俵積みをしていた牢人・佐々豪右衛門に声をかけられる。そして川明け待ちまで、泊まる木賃宿の世話を受ける。こんな場面から話が始まる。
 粗末な藁葺二階建ての木賃宿。武士が泊まる宿にふさわしいものとは言えないが、川止めがいつまで続くか解らないし、軽格の武士でもあり、七十郎は案内された木賃宿に宿泊することにする。
 一階には中年の百姓や町人の泊まり客。二階は豪右衛門の他に、徳元という坊主、弥之助という猿回し、門付けの鳥追いらしき女、やくざ風の風体の若い男が泊まっている。七十郎は、この二階に泊まり込む。

 七十郎は自らも認める綾瀬藩内一の臆病者。藩内には派閥の対立が起こっている。一つは中老稲垣頼母の派閥であり、他の派閥の領袖は江戸家老甘利典膳だ。小身の出だが藩財政の建て直しに尽力した成り上がりで、再建過程で大阪商人と結託している人物だ。稲垣頼母が下城途中で襲撃され亡くなると、頼母の指南役のような立場で派閥に属していた元勘定奉行の増田惣右衛門が派閥の領袖におさまる。この人物、頼母の父が在世中、その懐刀として派閥を動かしていた狡猾無類な策士である。稲垣派は頑迷な保守派の色彩を濃くする。増田惣右衛門は、甘利典膳が私腹を肥やしているという証拠をつかむ。その渦中で、儒学者佐久間兼堂に師事していた若者十八人が藩政改革の建白書を国家老の沼田四郎兵衛に出して、上宮寺に立て籠もる。この上宮寺党に七十郎が加わらなかったのも臆病故だった。国家老は、江戸在住の藩主に早馬を走らせ裁可を仰ぐ。江戸家老甘利典膳が急遽帰国してくるという。
 こんな状況の下で、七十郎は増田惣右衛門の呼び出しを受け、甘利典膳の刺客となる命令を受ける。七十郎の亡父が稲垣派に属していた為である。藩内一の臆病者に刺客がつとまるのか?「そなたの臆病は有名だ。だからこそ、甘利典膳も油断して、そなたを刺客とは思わぬだろう」「不意をつけば、なんとかなるのではないか」
 そこに、稲垣頼母の娘美祢が上宮寺党の十八名の命を助けてほしいと関わってくる。
 刺客を引き受けた七十郎は、巨勢川の川明けで甘利典膳が渡川してきたところを待ち、与えられた使命を果たそうとする。

 川止めで木賃宿に泊まり込んでいる間に、七十郎は豪右衛門に尋ねられ、二階にいる皆の前で刺客としてここにきている内情を話してしまう。一方で、豪右衛門のお節介もあり、一階に泊まり込む百姓や二階の町人などの事情にも関わっていくことになる。また、この木賃宿で起こった事件に巻き込まれていく。上野藩領内で巨勢川が氾濫した時の状況と顛末、刃傷沙汰、藩内を騒がせている流れ星と名のる盗人事件など・・・・・

 上野藩という小藩の政事の非情と人間模様、綾瀬藩の派閥抗争に渦巻く策謀と策謀の二重構造などが、鮮やかに描かれていく。
 なぜ、藩内一の臆病者が刺客を命じられたのか。そこに現れる駆け引きと人々の関わり方が読みどころであり、おもしろい。そして、百姓・町人との関わりを深める中で、ひとの思いの真実を見分けることができるようになり、武士という己を捉え直していく七十郎の姿が興味深い。父から体を鍛えるためにと教えられ修練した秘技を武士として卑怯だとし使わないと決め、臆病者と自認する男が持つ自覚のない強さとユーモラスさがおもしろく描かれている。

 文中のこんな一節が心に残る。
*(わたしは武士だ-)
 何か大切なもののために刀を抜かなければならないと思った。
*もうじき川明かりが見えます。日が暮れて、あたりが暗くなっても川は白く輝いているんです。ほら-
 川面だけが白く輝いているのを見ると、元気になれる。なんにもいいことがなくっても、ひとの心には光が残っていると思えるからって。
*豪右衛門さん、女はね、一度でも誰かに大切にしてもらうと、自分を大切に思って生きていくことができるんです。わたしは七十郎さんから一生、胸に抱いていける宝物をもらったんですよ。
*わたしは臆病者かもしれませんが、それでもひとを守ることを知っています。
*身をもって得たものこそが、そなたにとって大切なものとなろう。
 大切にせねばならぬ者のことを何と呼ぶか存じておるか。
 友だ-


 副次的に、川止めがどのように一般庶民を悩ませたものかということを感じることができた。
 臆病者を自認する武士の物語、おもしろい設定だ。武士とは何か。

ご一読、ありがとうございます。

人気ブログランキングへ
↑↑ クリックしていただけると嬉しいです。

この小説に出てくる語句の幾つかをネット検索してみた。時代背景を考える材料になるだろう。横道にそれた話材として・・・・

巨勢川 :佐賀市地域文化財データベースサイト
このあたりがこのフィクションの舞台設定なのかどうか、さだかではないが・・・

川越し と 川止め :kidsnet 

川止めと文金高島田 :俳優・守田比呂也の見たり聞いたり、話したり

「川越制度と川会所」について :島田市のサイトから

鳥追い :ウィキペデイア

旅籠屋と木賃宿の違い :よここくnavi
「東海道ルネサンス」というページ、けっこう楽しめそうです。

東京の木賃宿 孝徳秋水
明治の風景。ネット検索のおもしろい余録です。

桃割れ :アズマ かつらの変わり髷

日本刀の手入れ方法 :日本美術刀剣保存協会

微塵流 :ウィキペディア

無外流 :ウィキペディア


人気ブログランキングへ
↑↑ クリックしていただけると嬉しいです。


『乾山晩愁』 葉室 麟  新人物往来社

2011-11-28 01:17:04 | レビュー
 この読後記録を始める前に読んだ『秋月記』から4冊目でこの本を手にした。奥書に「乾山晩愁」で歴史文学賞を平成17年(2005)に受賞と記されていたので、どんな作品か興味が湧いたためだ。手に取る前は勝手に長編だろうと思っていたのだが、本書を開いて、短編であることを知った。

 本書には、受賞作「乾山晩愁」の他に4編の短編-「永徳翔天」「等伯慕影」「雪信花匂」「一蝶幻景」-が載っている。乾山がやきものの世界(晩年は書画が中心だが)であるのに対し、残りの4作は日本画の世界を題材にした短編だ。それも御用絵師・狩野家の歴史に深く関連しているものである。本書を読むと、安土桃山時代から江戸時代の日本画の一つの大きなの流れ、その中での絵師達の確執の一端を感じることができる。各短編について簡単に触れ、感想を述べてみたい。

「乾山晩愁」
 尾形深省(乾山)の54歳から81歳で没する期間を扱った作品。華やかな画才を京、江戸で花開かせて享保元年(1716)6月2日に59歳で兄・光琳が没する。その翌月からの深省の生き方がテーマになっている。深省は義姉多代に呼び出しを受け、光琳の家に行く。そこで引き合わされたのが、江戸から子連れで訪ねてきた親子。光琳が江戸住まいの時に関係した女だという。深省がちえとその子市助の生活が成り立つように世話することを引き受けるところから、話が始まる。華やかで奔放な兄・光琳の生き様、江戸での生活が語られる中に深省の思いが表出され、亡き光琳との関連で深省の生活が影響されていく。光琳を偲ぶ茶会の席で布商人宇津木甚伍が、光琳が赤穂浪士の討ち入りに関わったかもしれないという話をしたことをきっかけに、意外な展開となる。
 70歳になった深省は江戸に行く決心をする。深省は言う。兄は光輝く光琳だが、自分は乾いた山、道を見つけ出すのに時間がかかると。
 江戸で乾山が描いた「花籠図」に対して、甚伍が「いや、ほんまに深省はんは大器晩成でしたな」という。それに深省は答える。「大器晩成やなくて年取ってからは愁いばかりの晩愁や」と。この絵についての甚伍の解釈がおもしろい。そこに筆者の解釈が投影されているのだろう。
 この絵の上に書かれた和歌が本文に出てくる。これは、手許の展覧会図録を読み返すと、室町時代後期の公家・三条西実隆の家集『雪玉集』から引用されたものだという。
 展覧会で見た乾山の諸作品から、今まで愁いの乾山を想像すらしていなかった。著者の描出した晩年の乾山像が、その作品を鑑賞する上で、別の光と影を与えてくれるように思う。

「永徳翔天」
 狩野源四郎(のちの永徳)が、前関白近衛前久の邸に駆けつけようとする場面から始まる。近衛邸を織田勢が破壊するのだ。この邸には源四郎が襖絵や屏風絵を描いて納めたばかりなのだ。「せっかく描いた絵を無茶苦茶にしおって、将軍も阿保やが織田信長も愚かな大名や」と言い放つ。だが、それが織田の小姓万見仙千代との出会いになる。
 天正元年、信長から召し出しを受ける。その年、源四郎三十歳。家督を引き継ぎ永徳と名のっていた。信長との初対面の場には永徳が描いた「洛中洛外図屏風」があった。永徳が安土城を飾る絵を描く道を開くことになる。信長に「天を飛翔する絵」を望まれたのだ。
 信長の死後、永徳は秀吉のために絵を描く。だが、信長が永徳の絵の価値を評価していたのに比べ、秀吉はそうではない。長谷川等伯がそこに登場し、絵師の確執が始まる。狩野の天下を守らねばならぬ永徳。永徳の政治的動きが始まっていく。
 筆者は永徳と絵の目利きだった万見仙千代の出会いを描きたかったのではないかとすら思う。筆者は、永徳に対し「心が、上様とそっくりだと申しているのです」と仙千代に言わせている。
 
 「等伯慕影」
 等伯は江戸に入ってわずか二日を過ごして亡くなる。その場面で等伯が自らの人生を回想する形でストーリーが展開する。40年前に甲斐国甲府に信玄の肖像を描きに行くことが始まりである。この絵が「信玄公寿像」として有名な肖像画だ。その礼として又四郎(のちの等伯)は勝頼から碁石金を賜る。この碁石金から絵師人生が大きく動き出す。甲府からの帰路、人には言えない秘密を抱えることとなるが、念願の京に家族と移り住み、絵師の道を深めるもとでを得たことになる。
 京・堺で絵師としての技術を研鑽して、等伯と称するようになる。千利休との出会いが絵師として一派を確立していくきっかけになる。御用絵師として認められるには、狩野の領域を切り崩していかねばならない。そこに等伯と永徳の確執が始まる。この短編は、等伯の立場からその確執を描いているといえる。
 筆者は千利休を等伯が世に認められる契機を与えた人とし、その利休を踏み台にして絵師としての生き様を貫いていく等伯を描く。息子久蔵の絵師としての成長に期待をかける等伯。だがその久蔵は、等伯自身の過去の行為の因縁に捕らわれていく。
 数々の名作品を残した等伯だが、御用絵師としての立場を確立しようとする彼の執念を筆者は描こうとしていると思う。又四郎の思いを筆者は記す。「わしが道を開いて、この子に継がせるのだ」と。等伯を御用絵師に仕上げた様々な要因・背景の描写に筆者の想像力とロマンを感じる。史実の裏を紡ぎ出すことの面白さだろうか。

「雪信花匂」
 ネット検索してみると、狩野派には60人近い女流画家がいたそうだ。その中の随一の絵師がこの短編の主人公、清原雪信である。
 京、島原の菱屋の宴席で、井原西鶴が島原一と評判の花魁・四代目薫太夫の衣装に魅了される。その宴席に清原雪信も出ていた。その衣装は雪信が描いたものなのだ。西鶴は花魁から女絵師が狩野探幽の姪の娘だと聞かされる。なぜ京に上ってきてそこにいるのか。不思議に思う西鶴が、わけを知る花魁に教えてくれと頼むと、花魁が「恋の話」だと言って、長い話を語り出す。
 承応元年(1652)3月、雪9歳の時に、父・久隅守景に連れられて、初めて雪が狩野探幽に顔みせすることから始まる。探幽邸からの帰り際、門前に立つ十二、三の少年に父が声を掛けることがきっかけとなり、この狩野に入門を希望する平野清三郎を雪は知る。この清三郎との恋の話である。
 雪は17で探幽門下となり、探幽から直接手ほどきを受ける。二十歳のとき、「一字拝領」として探幽の名、守信から信を与えられ雪信と名のる。久隅の本姓の清原と合わせて清原雪信と款記を入れるようになる。そして閨秀画家としての評価を得る。
 どういう風に恋の話が展開するかは読んでいただく方がよい。
 この短編には、2つの隠れたテーマがあるように思う。一つは、狩野派の系譜話である。安土桃山時代を象徴する永徳。江戸幕府の下で御用絵師となっていた狩野三家の系譜とその関係。そして三家の中での永徳の再来といわれた探幽の位置づけとその影響である。雪や守景との関わりの中で、彼等の目に映じた探幽の姿が浮かび上がってくる。
 探幽の内面に狩野派御用絵師の筆頭という自負と制約、狩野派の枠に捕らわれない絵への思いが葛藤しているという筆者の解釈は興味深くておもしろい。史実の捉え方に著者の思いが広がっている。
もう一つは、雪の兄、彦十郎に関わるエピソード話だ。それが結果的に雪と清三郎を結び付けることに関わっていく。彦十郎は、狩野三家の間での確執の影響も受け、不行跡から佐渡送りになる。
 清原雪信という絵師を今まで私は知らなかった。文中にでてくるその父・久隅守景の「夕顔棚納涼図」という絵を見たことがある、ネット検索で確かめてみた。知っている絵の話が出てくると、楽しいものだ。

 「一蝶幻景」
 絵師・多賀朝湖が俳諧師・宝井其角の家を訪ねる途中で蝶の群れを見るという場面から始まる。朝湖は、狩野家の宗家、狩野安信に弟子入りし修業するが、吉原に入り浸り放蕩者となったことで破門された絵師である。其角と友人付き合いをし暁雲の号で作句もする。洒脱で華やかな気質をもつ。画技では安信をしのぐといわれるようになる。狩野派の絵に飽きたらなさを抱く朝湖の数奇な後半生を描く。
 朝湖は遊蕩仲間二人の誘いに乗り、一緒に谷中感応寺で若い僧日珪を通じ、大奥女中・右衛門佐に引き合わされる。その大奥女中は吉原の噂話を聞きたいという。これを契機に大奥における桂昌院派と公家の女派との確執に巻き込まれていく。公家の女派の右衛門佐のために情報を集め、場合によっては画策に手を染めていくのだ。なかなかにおもしろいストーリー展開である。著者は、朝湖を通して、大奥の世界に秘められた政治の暗部と女たちの確執の実態を描くことをサブテーマにしたのではないか。
 洒脱・放蕩・都会派で俳諧を嗜む朝湖が畏敬の念を抱く松尾芭蕉が対極の人間として要所に描かれている。「わたしは、お師匠のように艱難の路を歩むことができません」と朝湖は自嘲する。芭蕉と朝湖のやり取りに、俳諧の世界の奥行きを描きだす。
 この朝湖、表向きは「朝妻舟」の絵をえがいたことが理由でお咎めを受け、三宅島への流人となる。遅れてそこには日珪も流されてくるのだ。
 朝湖は十二年後、島でもうけた二人の男子を伴い江戸に戻る途中、舟中で一匹の蝶を見る。江戸に戻ると、英一蝶と画号を変える。島にいる間に描いた絵は「島一蝶」と呼ばれて人気を集めたという。
 英一蝶という絵師の絵を見た記憶が無い。この短編を読み、美術館や展覧会で、一蝶の絵に直に出会う楽しみができた。清原雪信の絵も同様に・・・

 美術展覧会好きなので、鑑賞後に購入した図録が手許にある。本書を読み、掲載の諸作品を新たな目で見直す機会にもなった。
 2007年10月 「特別展覧会 狩野永徳」(京都国立博物館)
 2008年 3月 「乾山の芸術と光琳」展 (京都展・京都文化博物館)
 2010年 4月 「没後400年 長谷川等伯」展(京都展・京都国立博物館)
 図録 「国宝 上杉本 洛中洛外図屏風」(狩野永徳筆)
 しかし、本書を発刊直後に知って読んでいたら、本書の印象を重ね、ひと味違った眼差しで、それぞれの展覧会の展示作品を鑑賞できていたかもしれない。

 改めていま思う。様々な作品の背景に、絵師の純粋な美の探求心だけでなく画家達の実生活をかけた熾烈な確執・情念が秘められていたということを。

 「永徳翔天」と「等伯慕影」は上記の通り絵師の確執という視点でリンクしている。「乾山晩愁」と「一蝶幻景」は、赤穂浪士討ち入りという視点で、また「雪信花匂」と「一蝶幻景」は雪の兄・彦十郎という点でリンクする部分がある。このあたりに、短編同士が関わり合い、行間の世界を生み出している面白さを感じた。

 蛇足かもしれないが、長谷川等伯については、萩耿介著『松林図屏風』 (日本経済新聞出版社)という長編小説がある。2009年に読んだが、この書も等伯像を考える上でおもしろいと思う。

ご一読、ありがとうございます。

人気ブログランキングへ
↑↑ クリックしていただけると嬉しいです。

本書を読みながらまた読後にも、ネット検索を活用した。リストにまとめておきたい。


尾形乾山 :ウィキペデイア

尾形乾山(おがたけんざん)について :法蔵禅寺
法蔵禅寺のホームページには、「乾山関係年表」「乾山関係文献目録」のページもあります。

尾形乾山 略歴と関連美術品 :HIHO MUSEUM
 所蔵作品(38点)の写真及び解説が見られます。

尾形乾山の作品展示美術館

尾形乾山の画像


狩野永徳 :ウィキペディア

狩野派  :ウィキペディア

紙本金地著色洛中洛外図〈狩野永徳筆/八曲屏風〉:文化遺産オンライン

狩野永徳の画像


長谷川等伯 :ウィキペディア

長谷川等伯(信春)とは :石川圏七尾美術館
等伯の生活拠点の時代毎の解説と年表が載っています。

とうはくん公式サイト →とうはくん:長谷川等伯没後400年記念キャラクター
「長谷川等伯について」のページがあります。作品をフルスクリーンにしてスライドショーで見られます。

長谷川等伯 七尾が生んだ桃山美術の画聖 :七尾商工会議所
等伯の一生/等伯の時代/等伯の作品1/等伯の作品2/年表のページがあります。

長谷川等伯の画像


清原雪信・花鳥図屏風 :板橋区立美術館 ねっとび

描く女性たち~女性画家の作品と生き方~ 仲町 啓子
動画 清原雪信が最初に取りあげられています。

清原雪信 蓬莱山図  :古美術太湖

久隅守景  :ウィキペディア

国宝 納涼図屏風 :e国宝
図を拡大しかつ拡大ポイントを移動させることができます。


英一蝶  :ウィキペディア

流人絵師・英一蝶(はなぶさいっちょう) 元禄快男児伝説 :NHK日曜美術館

英一蝶の画像

一蝶リターンズ ~元禄風流子 英一蝶の画業~ :板橋区立美術館
作品リストが載っています。作品3点の画像。

英一蝶 板橋区立美術館 :個人ブログ「すぴか逍遙」
「朝妻舟図」の画像その他5作品が載っています。

俳諧鑑賞あれこれ(三十) :八半亭(YAHANTEI)のブログ
このあたりから、一蝶(俳号・暁雲)のことを触れられていく。



人気ブログランキングへ
↑↑ クリックしていただけると嬉しいです。

『倭の正体 見える謎と、見えない事実』 姜吉云  三五館

2011-11-22 01:26:10 | レビュー
非常に刺激的で、興味深くかつおもしろい本だ。
「倭」とは何か、日本の古代史の解釈を大きく覆す見解で一杯という本である。比較言語学の観点及び中国の史書と古代の韓国の史料である『三国史記』を基盤にして、『日本書紀』の記述と比較し読み解いていく。
 私を含めて一般人が通念的に持っている知識(?)が次々に覆されるという点で、刺激的であり、こんな読み解き方ができるのか・・・・という点で大変おもしろい。

 奥書によれば、著者はソウル大学校文理科大学国語国文科を卒業され、文学博士で、比較言語学を研究する言語学者である。『三国史記』と『日本書記』のそれぞれに記載されている史実においてギャップがあるところを詳細に分析し、人名や地名などの読み方に比較言語学的な考察を加える。音韻学的な変容で朝鮮(駕洛国)の語彙と日本の語彙の関係性を分析し、その関連付けから朝鮮と日本の関係を解明していく。この解明プロセスと謎解きが非常に興味深い。

 ただ、音韻学的な変化が学問的体系的上、客観的で適正なのかどうかを判断出来ないので、言われるがままに読み進めていくことしかできないのが残念である。もしこの見解が第三者の専門家の立場から認められるなら、通説日本史の大幅な書き換えが必要になるのではないか。多くの古代史研究者の過去の論文成果はどうなるのだろうかという点が気になる。一方、この分析に諸専門家の賛否見解の論議していただきたいものだ。既になされているのだろうか。そうすれば、我々素人には、日本古代史に目を向けるのに一層役立つと思うが、如何だろう。

 本書で著者が主張されている主要な見解を箇条書きで要約してみる。
 これについて、あれっと思われたら、この本をまずは開いてみてほしい。
(私は、そういう風な読み方ができるのか・・・という位置に止まっている。とりあえず著者の見解を読み通したに過ぎない。だけど、おもしろい!)

*『日本書紀』の読み方のキーワードは「倭」にある。  p2
*「倭」はもともと加羅(伽耶)族全体をさす。5世紀末までの「倭」とは日本列島内の「倭」を指すのでなく、伽耶(=駕洛国、『日本書紀』では加羅)を指す。 p19-20
 伽耶と倭は同義語であり、その一部が日本列島に渡って日本の支配層を形成した。 p27
*「任那」とは伽耶諸国の盟主国をさす。正式の呼称は任那加羅で、直接には駕洛国を指す。  p54
*(著者の研究では)「文献に表れている加羅の宗主国の駕洛国語はみなドラヴィダ語と対応するのが確認された」(p59)加羅語はドラヴィダ語系である。 p61
 (→本書ではこの結論からはじまり、語彙について、ドラヴィダ語を基軸に音韻学的な変容を韓国語・日本語に関連づけていく。著者の独壇場であり、そんなものかと読み進めたにとどまる。また、ウィキペディアで「ドラヴィダ語族」を検索したが、私にはここでの説明と駕洛国が未だすんなりとはリンクしていない。)
*任那日本府が実在したとしても、大和倭が本国である任那加羅に置いた常設の連絡・協議機構である。占領地に置いた総督府のような統治機関ではない。 p66
*伽耶と大和倭は墓制上から同じであり、出土品もあまりにも似すぎる。そこから、少なくとも駕洛国(任那)と倭国の権力者は同族と断じるのが自然だろう。 p73
*西日本には、加羅・伽耶に由来する地名が新羅・百済・高句麗に比べ圧倒的に多い。人名の由来も同様である。  p74
*神功皇后は架空の人物で、彼女の三韓遠征は作り話であると考えるほかはない。 p88
*『日本書紀』は百済三書-『百済記』『百済新撰』『百済本紀』を底本にしている。百済が滅びた後の百済の亡命者たちの手によって書かれていて、百済と倭の関係を逆にするという変造があるから、百済の任那加羅支配も倭の指図として表されている。 p89
 駕洛国史をもとに百済史を織り交ぜて作りあげた史書である。  p114
*広開土好太王陵碑文の中の倭の実体は、任那加羅を中心とする加羅族の集団である。この中にはもちろん大和倭も少数ながら含まれていたかもしれない。  p111
*古代の天皇の読み解き
 崇神天皇の諡号から :駕洛国初代の金首露王をさす。
 神武天皇      :新羅の初代朴赫居世の弟
 応仁天皇の諡号から :駕洛国第五代の伊尸品王
 仁徳天皇の諡号から :駕洛国第六代の坐知王
 允恭天皇の諡号から :駕洛国第八代銍知王の成り代わり 
 雄略天皇の諡号から :駕洛国第七代金喜王の成り代わり
 欽明天皇      :駕洛国末王・仇衡王の成り代わり
  「駕洛国の実質的な末王である仇衡王が欽明天皇に成り代わったとなれば、駕洛国という本家が倭国に移ったのであるから、『日本書記』の編纂に当たって駕洛国の全史が織り込まれていくのも当然な流れであろう。」(p138)
 継体天皇      :百済の東城王の成り代わり。
 舒明天皇の諡号から :百済の威徳王の王世子「阿佐王子」の成り代わり
 香極天皇      :百済の武王の娘・宝公主
 孝徳天皇      :百済武王の王子で義慈王の弟の智積
 天智天皇      :百済の義慈王の王子翹岐(一名:勇王子)の成り代わり
 天武天皇      :大佐平智積王弟(=孝徳天皇)の息子の達率長福
*『日本書記』推古31(623)年7月条にある「天皇付庸」を天皇に属する小国と解釈するのは誤訳である。天皇が付庸する、つまり頼っている宗家という意味になる。 p148
*百済と倭国の間には敵対的関係が全然見当たらない。新羅や高句麗とは比較にならないくらい親密な関係にあった。 p169
*百済から日本に派遣された檐魯(タムロ)主であった王子や王弟は、倭国の実質的な統治者と言える。 p170

 「おわりに」で著者は「この本は日本の学者たちが試みたことのない本格的な比較言語学的方法による古代史の研究であり、成果を密かに自負するものです」と述べている。

 歴史の事実とは何なのだろうか?
 歴史の謎が解明されたのか、はたまたさらに一石が投じられて議論が一層紛糾することになるのか。著者の見解は、日本史専門家にどう受け止められているのだろうか。学会では無視されているのだろうか・・・・興味が広がり、深まる。

 最後に著者はこう記す。
 「私の願いと目的は、この本が古代の歴史的事実を正し、日韓の和解と和合の一助となればという点にあります。歴史的には兄弟同士なのですから、日韓が協力しながら激動の兆しを見せる東アジアと世界をリードしていってほしいと願うものです。」

 著者の見解を読み、日本の古代史に一層興味が深まっていく。


ご一読、ありがとうございます。

人気ブログランキングへ
↑↑ クリックしていただけると嬉しいです。


語句を検索しだすときりがないのでとりあえず関心度の高いところで拾ってみたものをまとめました。

比較言語学 :ウィキペディア

音韻論  :ウィキペディア

ドラヴィダ語族 :ウィキペデイア

三国史記 :ウィキペディア

倭・倭人関連の中国文献 :ウィキペディア

倭国  :ウィキペディア

倭   :ウィキペディア

伽耶  :ウィキペデイア

伽耶  :朝鮮の歴史wiki

倭国と関係が深い 伽耶・任那・任那日本政府 :天の森総合サイト

任那  :ウィキペディア

百済  :ウィキペディア

天皇  :ウィキペディア

記紀系譜(神々の系譜・天皇の系譜)

皇室の系譜一覧 :ウィキペディア

天皇系図(pdfファイル):これ、首相官邸のホームページにある資料です。

継体天皇 :ウィキペデイア

足羽神社 継体天皇 ←こんな神社が福井県にあるのですね。



人気ブログランキングへ
↑↑ クリックしていただけると嬉しいです。

『原発を止めた町 三重・芦浜原発三十七年の闘い』 北村博司  現代書館

2011-11-16 21:01:29 | レビュー

 本書は2001年9月に出版され、2011年4月に新装版として再刊されたものだ。3.11が改めてこの本発刊の契機となったのだろう。私は3.11がトリガーとなりこの本を手にした。
 関西電力圏に住むこともあってか、中部電力に絡むこの芦浜原発計画阻止の長き闘いの存在を、正直なところ知らなかった。原発の概念・表層的な状況に関心を寄せてはいたが部分的関心を超えてはいなかった。日常生活で原発問題と対峙する人々の存在とその実態に対する意識が乏しかったのが根底にあると反省している。また、関西圏の新聞報道で、三重県内の日常闘争の記事を目にすることも多分少なかったのではないだろうか。

 副題に三十七年の闘いと記されている。
 本書は1963年から1986年2月までの23年間を扱った『芦浜原発はいま』(1986年刊)の続編として位置付けられている。それ以降の1986年~2000年の期間を本書は記録している。本書末尾に44ページに及ぶ「芦浜原発史年表 1962~2001年」が掲載されているので、本書だけでも闘争期間全体の経緯と闘争のすさまじさを大凡理解することができる。
 原発計画現地において現実の日常生活に組み込まれた反原発闘争がどういう実態だったのか、さらにその延長線上に現在があることに思いを致すことの重要性を感じる。原発から生み出された電気だけを享受してきた都会生活者-私もその部類に入る-は、3.11を機会に、少なくとも一冊、反原発闘争の本を読んでおくべきだと思った次第である。
 その実態を踏まえて、「それでも原発の電気が必要ですか?」という問いに繋がっていく。

 本書は原発闘争終焉から時を遡る形で構成されている。こんな具合である。
第一部 芦浜原発の終焉(2000年2月22日)  
 「北川知事白紙撤回表明」の終焉に焦点を当てその最後の段階を記録する。
第二部 白紙撤回への道(1994年11月~1999年)
 中部電力による海洋調査申し入れから知事の現地調査を経た芦浜幕引きの予測まで。
第三部 古和浦漁協攻防戦(1986~1994年10月)
 芦浜海岸にある町の一つ南島町古和浦の漁協内部における原発反対派と推進派の攻防を記録する。芦浜原発反対の原点だった古和浦漁協が推進派に破れ「反対」の旗を降ろすまでの経緯を克明に記録する。もう一つの町である紀勢町は、紀勢単独立地誘致すら展開する推進派の立場で、「火種は今も続いている」と筆者は記す。

 本書は原発反対闘争の展開を事実にもとづいて実に克明に記録している。原発反対派・推進派の両関係者の行動の事実と経緯展開を詳細に記述する。主要関係者の実名が記載されているのでその発言は最小限にとどまり、当然のことであるが筆者による関係者の本音や心理の推測は排されている。また、芦浜原発に関わる反対派・賛成派の組織グループが各町村や各漁協それぞれに、あるいはそれらの連合レベルで組織化され、そのためやたら多くの名称がでてくる。そういう点で本書を通読する際読みづらかったのは否めない。(全体がなんとなく理解できて再読するなら、読み方が変わるかもしれない。)
 
 ウミガメの故郷である芦浜海岸に原発計画の話が持ち上がる。反対で結束していた組織が反対闘争の過程で世代交代したり、分裂分派したりする。漁業経済環境の悪化の中で人々の生活状況の変化や心理変化が起こる。反対派で活動した人が、推進派に転回することも起こっている。反対派・推進派の組織が、長い闘争史の中で新たに生まれる。壮絶な闘争が日常生活に組み込まれ常態化した地域社会が描きだされている。 
 闘争の変遷過程はご一読いただくとして、本書を読み、感じたこと、思ったこと、疑問点などを箇条書きにしてみたい。

*県の曖昧な対応が、37年に及ぶ推進、反対の対立を激化させ地域破壊を促進させた気がする。白紙撤回において、交渉過程で交わされていた確認書・覚書が果たした重要性は特筆すべきだ。また、町民投票条例の制定が直接民主主義として機能すれば有効な手段になり得るのがわかる。さらに芦浜原発阻止に対し、81万人余の県民署名が知事に手渡されたという。県内有権者の署名は、「75万4216人で、県内の総有権者数141万人の過半数を超えた」という事実は重い。これは原発問題に対する国民投票という問題提起に通じるものだと思う。

*法令や行政指導が変わると、状況が急変することの怖さを改めて知った。「特に、国や県の行政指導の基準が変わったとしても、ほとんど報道されず、関係者以外は知らないのが普通だ」一般人は普通、公告をつぶさに読むなんてことをしない。どこで公告されているかも認識していないのが実情だろう。政府の官報すら、余ほど関心事項でないと読む気もしないくらいだから。
 著者は1994年5月31日に公告された「三重県環境影響評価の実施に関する指導要綱」を当初知らなかったと記す。環境アセスメントの実施手続きとしては、その第二条に「知事及び関係市町村に通知しなければならない」と規定するだけだった点を事例にあげている。この規定では通知すればよく、知事や町長の同意はいらないという解釈になる。一方で、県は住民との間で「四原則三条件」の一つに「地域住民の合意」を掲げていたのだ。こんな矛盾が平然と行われているということもあるのだ。

*原発を前提として、中部電力が海洋調査を申し入れ、漁協が受け入れた途端に、中部電力が漁業補償金と協力金を各漁協に振り込んだという。海洋調査を開始すると漁業に影響が出るという理由からなのだろうか。それは合意を取り付ける単なる名目だけなのか。
 白紙撤回後、返還問題が表面化したが決着していないという。 漁業補償金と協力金は、億単位の額だ。「その時点で、反対派も含めて全組合員に、二百万円と三百万円ずつ配分されており、受け取りを拒否したのは、錦漁協に二人いただけである」そして、「中部電力は一応、返還を求めていたが、漁民は返すつもりもないし、取り立てられるとも思っていなかった。現地記者もほとんどが承知していた話である」と著者は記す。金が大きく動いているという事実。

*「ただ、どこの反対運動でも中核になる漁民の動きはにぶい。」と著者は記す。なぜ、そなのだろうか。(明確な理由は記されていない。)

*1963年から始まった反芦浜原発闘争史の過程で、大きな節目になりそうな原発事故があった。それでも止まることなく闘争が続いてきたのだ。一つは、1986年4月のソ連チェルノブイリ原発の大事故だ。この時、紀勢町議会に初めて「原発反対」議員1人が当選するという状況が起こり町内外を驚かせるという一方で、大事故半年後の10月には原発推進講演会開催され推進派の攻勢が目立ち始める。このとき反対派漁民は海上デモを実施したという。
 二つ目は、1999年9月の東海村臨界事故だ。その5日後に隣接の紀伊長島町議会が、原発広報安全等対策交付金を使って、二泊三日の原発視察に福島県の広野町でかけていた。同時期に大内山村議会は北海道の泊原発を視察していたという。一方、「11月16日に、北川正恭知事が、紀勢、南島両町に入り、賛否両派住民から直接、原発問題の聴き取り調査をすることになったという」何と、芦浜原発計画浮上後、36年にして「県知事が初めて現地入りした」のだとか。この行動を著者は「南島の芦浜原発幕引き」と予測したという。それまで36年間、県は何をしていたのだろうか。

*原発推進を主導してきた中曽根康弘氏を団長とする衆議院科学技術特別委員会の芦浜現地視察団の視察を実力阻止し、反原発闘争のリーダー達が起訴された「原発長島事件」(1966.9.19)及び推進派と反対派の漁民がけが人を出す乱闘に発展した「羽下橋事件」。反対運動をするリーダーが推進派との対立から二度も自宅を襲われる事件。駆けつけた警官は、暴漢の身柄を拘束せず自宅に帰したという。ワープロやコピー印刷した新左翼の機関誌「前進」が漁業組合正組合員の家庭に次々送付されてくる。組合員名簿にもとづくことは明らかなのだ。しかし筆者の確認では新左翼のこの派は関与していないと否定した事件。また、漁業組合長の自宅に次々といやがらせ宅急便が送り届けられる。何者かがゴム印を使い注文して自宅に送らせるという悪質な手口の事件などが起こっている。
 闘争過程の熾烈な一幕が様々に記録されている。その過程で、反対派から推進派に転回する人たちも現れている。様々な要因が絡むのだろうが、関与する人々の信条も揺れ動いていくようだ。
 古和浦漁協総会において会議が紛糾混乱し、推進派漁民が退場、その中で自分で切り落とした左手小指を持って戻り、議長席の前に置いて去るという行動すら起こっている。
 これら、闘争過程の壮絶な様相には愕然とする。

*1986年12月、養殖ハマチ事業を生活基盤にする漁民の多い南島町にとって打撃の大きい報道番組が東京のテレビキー局の一つで放送されたという。「養殖ハマチは薬漬けのうえ、漁網防汚剤として使われていた有機スズ(TBTO)がハマチの奇形を起こす原因だ」というハマチ・バッシングの発生。この番組は当該地方では放送されなかったとのこと。全国紙が「警鐘」を鳴らすこともしたらしい。マスメディアの報道が、養殖ハマチの単価の大暴落を引き起こす。そこにはやらせの疑いがあったようだ。
 漁民の生活基盤を不安定化し、原発推進の方向へマスコミを情報操作の道具として使うという策謀が潜んでいそうな気がする。

*中部電力は上記の補償金・協力金の他に原発推進のために様々な手段を併用してきたようだ。それにしても金をふんだんに投入しているような気がする。
 ・紀勢町錦の玄関口に大型サービスステーションと独身寮の建設。総事業費11億6000万円という。ちょっとした公民館なみの規模らしい。(それほど金をかける必要があったのか。)
 ・漁業不振の状況が出てくる中で各漁協の運営が厳しくなっていく。中部電力が各漁協に対し、5000万円から数億円の預金を実施していく。数十億円という預金例も記録されているようだ。
 ・町から頼まれれば、様々に寄付をする。商工会や森林組合への寄付もなされていた。
 ・中電立地環境本部の芦浜担当グループとして各地域に担当班員を増員していく。現地に入り、推進PR活動をする社員、いわゆる「工作員」だ。PRと併せて情報収集をする。
 ・(原発)先進地視察の見学会勧誘を活発に実施
 ・通常の営業活動の形をとったイベントや文化講演会を多く実施する。

*原発計画が立案され立地場所の目処が立てられるや、その時点から国家の交付金がスタートすることを初めて知った。本書には、「この年、紀勢町には原発関連交付金が、広報安全等対策交付金、地域振興推進対策補助金、漁業資源調査補助金、特定地域振興対策補助金の四つを合わせて、4000万円が入っていた。南島町は、竹内前町長が、地域振興推進対策補助金900万円と、特定地域振興対策補助金600万円に限って受け入れていた。通産省は、新しく温排水対策補助金などの制度拡張を打ち出しており、・・・・」と記している。(この年というのは、文脈からでは1992年のことと推測した。)
 国は原発推進の手段として交付金攻めをしている実態が読み取れる。つまり、税金が様々な名目で使われているのだ。

 この闘争史を読み進めていくほど、闘争の生々しさ、壮絶さが伝わって来る。その事実のほとんどがマスコミの全国報道には載らず、一地域にとどまるか、限定的報道になっているところに、マスコミの限界があるのかもしれない。報道はなされていても、全国には伝わりにくい。限定的情報操作のようなものすら感じてしまう。情報の断絶そして安全神話の流布が無知・無関心を生む。
 事実を知るための情報を自ら求めて行かないと、やはり断絶の壁の前で佇みとどまることになるのだろう。ありは、それすら意識に上ってこない。改めてその怖さを感じる次第だ。
 「序にかえて」に著者はこういう文を記している。とても印象深い。
 「一昨年も、昨年も、数は少なくなったが、母ガメたちがやってきて、卵を産み落としたという。マスコミも近寄らなくなった。彼らにすれば、『原発がらみ』でなければ意味はない。」

 3.11の福島第一原発の爆発事故以来、芦浜の原発推進派の人々はどいういう思いを抱いているのだろうか。


ご一読、ありがとうございます。

人気ブログランキングへ
↑↑ クリックしていただけると嬉しいです。


本書を読了してから、関連情報をネット検索してみた。

芦浜原子力発電所 :ウィキペディア

「長島の自然を守る会 スナメリ通信」
2009/6/11 芦浜原発 計画断念まで37年の闘争

原発反対三重県民会議  1997年10月4日  於:サンワーク津
97年総会への報告と提案

「芦浜原発断念」と日本の原発建設計画 [総合] 2000年3月2日
「エネルギー政策の見直しを-新聞論調」こんな見出しが最後の段落に掲げられているが、この記事以降、3.11以前までに原発が3基(51→54)増えたことになる。

紀勢町住民主権の会の記録
1994年~1997年の状況の一端を知る資料になります。

芦浜縦横無尽 「どらんくとーちゃんのDIY日記」から
個人日記ですが、芦浜海岸の景色が撮られていて、参考になります。

「社会科学者の時評」から  2011.7.21
第3回「カネで推進,転換点〈原発国家〉中曽根康弘編3」(『朝日新聞』2011年7月19日朝刊)
「長島事件」のことが記されています。本書と違ったタッチの記述なので重ねて読むと役立ちます。リアル感がさらに出ます。

ちらっと「しんぶん赤旗日曜版」
2011/08/15 原発計画止めた・全国にたたかいの歴史、三重芦浜にみる
「原発を断念させた地域」の全体図と芦浜の当時の状況の記述がある点、この記事も重ね読みする参考になります。

「記事の裏だって伝えたい」 フリージャーナリスト 樫田秀樹氏のブログ記事
原発に反対するわけ。その2「地域を壊す」
地元住民の証言が載っています。

「たかふさんのマイページ」
原子力発電を考える~原発を止めた町から~ 上村康広さんの話
2011/06/05 14:33
南伊勢町議会の議員・上村康広氏の講演内容の概略を記されたもの。

海亀の来る浜 ('92年1月初稿/改筆'96年12月)  山川和基氏
28年目の芦浜原発計画
闘争プロセスのある局面の状況がわかりやすい。重ね合わせ読みに有益です。


人気ブログランキングへ
↑↑ クリックしていただけると嬉しいです。

『京都名庭を歩く』 宮元健次 光文社新書

2011-11-14 02:16:36 | レビュー
 世に名庭・名園を説明する京都観光案内書は沢山ある。しかし、通り一遍の説明というものが大半だ。本書は単なる名庭案内書ではない。京都の名庭を眺めて、一つの見識で解説し、作庭について幾つかの仮説も提示している。観光案内書として本書を携えて行き庭に佇めば、一般のガイドブックとはひと味違った庭の鑑賞ができそうだ。
(各寺についてそれぞれ1ページで観光に便利なデータが集約されている。)

 プロローグで筆者は、晩年に近づくにつれ徐々に庭園に惹かれはじめるのは、「老いや死といったものに対峙してはじめて庭の魅力がよりわかるようになるといえないだろうか」という。そこに、時として庭園を訪れたくなる理由があるとする。
 筆者は庭園を、死後の世界=あの世を表現するという行為を施したものという見解を本書で論じている。死=他界の概念を庭に形式化・様式化したとする。この視点に立って、京都の名庭に対峙し、庭の本質を探っている。この視点は、枯山水、池泉廻遊式、あるいは浄土式、寝殿造系、書院造系のいずれの形式にも通底する本質だという。
 学生時代から寺社仏閣の庭が好きでしばしば訪れてきた。読み始めてみて、楽しい一冊だった。本書を読み、新たな目で再訪し、庭を鑑賞できそうに思う。目から鱗というところもいくつかあった。

 著者がどこの庭をどのように取りあげたか。それは章の構成に現れている。
 章の構成をご紹介し、併せて主要点と読後印象を加えたい。

第1章 日本庭園の原形 :西芳寺・天龍寺
 室町初期に夢窓国師が作庭した西芳寺の庭園は、最も古い時代の池泉回遊式庭園である。この庭に「あの世」(他界)を再現したのだという。「天国と地獄」の上下二段構成、即ち須弥山世界を穢土と浄土として構成したコンセプトなのだという。そしてこのコンセプトが、作庭のルーツとして、様々な庭園に引き継がれ展開されていくとする。天龍寺の庭園も夢窓国師の作庭である。
 一方で、江戸時代にはいれば、作庭としての定石化、コンセプトの形骸化する側面を指摘している。

第2章 あの世を再現する :平等院・浄瑠璃寺
 宇治川を「三途の川」に見立て、平安京から橋を西に渡ったところに極楽浄土を立体的に現出したのが平等院なのだ。鳳凰堂(阿弥陀堂)に安置された阿弥陀如来は東向きである。宇治川東岸の仏徳山山麓にある宇治神社が阿弥陀堂の軸線上に位置し、一対で計画された配置の可能性があるという。地元に居ながら、そんな視点で眺めたことがなかった。
 浄瑠璃寺の方は平等院と対極的に、民衆の信仰、寄進により作られた浄土式庭園とのこと。九体の阿弥陀仏と庭を見たくて訪れたことがあるが、民衆が支えてきた寺だったとは知らなかった。

第3章 勝者と敗者のモニュメント :鹿苑寺(金閣寺)・慈照寺(銀閣寺)
 足利義満が京都室町に花の御所を持ちながら北山殿を造営したのはなぜか。古代中国において皇帝の住居は真北に配されていた。それが伝わり、真北を聖地と位置づける風習が日本に定着。義満もそれに倣って北山を自分にふさわしい地と考えたのだろうと筆者は推測する。自分にとっての極楽浄土を具現化したかったのだろう。それにしても贅をし尽くしたのには驚く。
 筆者は義満との対比で、義政の造営した銀閣寺庭園を解説している。こちらの説明に力点が置かれている。浄土寺の墓地だったところを無断で敷地にしたという。それは義政が最も愛していた西芳寺庭園の作庭の由来に通じる点があるという。義政が理想の庭作りのための樹木・石等の調達に無茶苦茶なことをしていたということを初めて知った。
 銀閣寺が廃墟と化していたのを、1615年、宮城丹波守豊盛が再建に着手し、慈照寺が復活したそうだ。庭園内外部にみられる人工的造形はどうもそれ以降のものと理解した。

第4章 一期一会の空間  :妙喜庵待庵・三千家の露地
 秀吉に対峙して「侘び」を具現化した極小規模の草庵茶室。露地と延段の果たす機能、躙口に託された意味などがわかって興味深い。利休は名物を排し、秀吉の物欲を戒めようとしたという。利休の茶室創造の略史がわかっておもしろい。
 茶道に縁のない私は、本書を読み、三千家それぞれの邸内の庭には数多くの茶室が配されているということを初めて知った。宗家なればこそか。

第5章 普請狂・豊臣秀吉の死期と庭 :醍醐三宝院・西本願寺
 醍醐の花見のために秀吉がその準備にかなり力を入れたことは知っていたが、その前に醍醐の庭造りに専念していたことは知らなかった。本書で教えられた。そして秀吉が技術者集団「ワタリ」と関係していたという小和田説を本書で知った。おもしろい。
 醍醐三宝院の作庭は秀吉亡き後、住職・義演が継承して現在の姿に整えたようだ。そこには、日本で初めてルネサンス・バロック形式の整形式庭園のテクニック及び、書院に教会に顕著にみられるパースペクティブ手法が採り入れられていたということも初見である。そういう観点での説明文を三宝院の拝観の折りに見た記憶がないので、興味深く読んだ。「ソテツ」が一つのキーワードになるなんて、思いもしなかった。
 西本願寺の秀吉ゆかりの遺構と飛雲閣の移転についての考察が興味深い。

第6章 秀吉神格化の阻止と徳川家康 :東本願寺渉成園(枳穀邸)・豊国神社・智積院
 秀吉が本願寺(西本願寺)を保護し、家康が東本願寺を支援したのは知っていたが、智積院も家康が建立したというのは知らなかった。現在の渉成園(枳穀邸)は三代将軍家光が東本願寺十三代宣如に与えたという。そして、西本願寺と阿弥陀ヶ峰を結ぶ軸線に秘められた家康の策謀という読み解きは、歴史解釈としてはワクワクする。さもありなんというところ。
 秀吉を祀る豊国神社の祀官であった吉田梵舜なる人物が、秀吉の死後、家康の側近となったというのは、そんな時代だったのかと思う反面、俗っぽさを感じてしまう。

第7章 王権としての庭 :神泉苑・二条城
 現在の神泉苑を見ても結構大きいなと思うが、二条城の二の丸庭園も元は神泉苑の一部だったと本書で知り驚いた。御池通りの「御池」が神泉苑を意味するとはついぞ結びつけて考えたことがなかった!
 二条城には西欧手法が様々に採り入れられているという。平安京の街路とは約3度のずれがあるという。これは北極星ではなく、磁石(方位磁針)を用いて決定したからではないかといわれているそうだ。西欧手法の採り入れについての説明はおもしろい。

第8章 日本庭園の否定 :仙洞御所
 この章で筆者は、小堀遠州が宣教師から庭園や建築についての西欧技術を学んだ「宮廷付工人」に該当するという仮説を展開し、ここでは仙洞御所の事例を述べている。これは目から鱗の仮説だ。この後の章で、さらに具体的な作庭事例が傍証されていく。なかなかおもしろい展開となる。

第9章 石庭のエキスパート  :大徳寺・南禅寺
 大徳寺・孤蓬庵とその庭には西欧技術がいろいろ応用されているようだ。配置に黄金分割を利用、アイストップ(目印)、サイフォンの原理の利用、パースペクティブの利用など。「ちなみに、このサイフォンの原理は、遠州の名刺がわりになっていたといってよく、彼は、行く先々でこの西欧手法を応用している」と筆者は書く。
 大徳寺本坊方丈庭園の配石すべてが黄金分割の応用だとか。南禅寺方丈前庭も然り。筆者は金地院の庭園にはシンメトリー(左右対称)の応用、人工的刈り込みの利用を説く。
 機会を見つけて、現地でじっくり眺めて見たい。
 
第10章 庭園史最大の謎を推理する :龍安寺・高台寺傘亭、時雨亭
 筆者は、龍安寺の石庭の造形意図に対して、西欧手法の活用を指摘し、作庭・設計者に小堀遠州の可能性を追究している。興味の深まる章である。枯山水庭園、日本文化の真髄と思う中に西欧手法を読み解くとは・・・・
 高台寺の傘亭、時雨亭についても、筆者は遠州作の可能性を考証してみせる。

第11章 作者と創建年代の謎 :桂離宮・曼殊院
 桂離宮は、創建者智仁親王の「挫折の果てに、逃避の末に」造営したものだという解説が詳しくなされている。ここにも徳川家康の深慮遠謀のなせるわざがあるといえそうだ。お読みいただくとその経緯がよくわかる。納得させる記述だ。
 筆者は庭園史家森蘊氏の桂離宮遠州作否定説を取りあげ、ここに遠州の関与の可能性を考察している。なかなか面白い論点である。
 曼殊院の庭園には遠州関与の伝説があるようだが、筆者はこちらは遠州の関与を否定している。その一方で、西欧手法が随所にみられる点を考察してみせる。

第12章 反骨の天皇の内なる声 :修学院離宮・円通寺・詩仙堂
 修学院離宮は、後水尾院自らの設計になるものという。その庭園の構成と後水尾院の絶望感、「忍」の心が詳しく語られている。また、円通寺は後水尾院の別荘・幡枝御殿を寺院にしたものだとか。筆者は円通寺庭園は修学院離宮のプロトタイプの一つだと考察している。
 最後に詩仙堂が取りあげられている。石川丈山の隠棲地。この人物、後水尾院や公家を監視する徳川家のスパイ説があるそうな。どこかで昔聞いた記憶があるが、筆者がその説明を加えている。詩仙堂は嘨月楼という望楼を設けた楼閣建築だが、ここには忍び返しが取り付けられているとか。詩仙堂に行ったことがあるが、そのことは知らなかった。再訪するときの楽しみができた。現地で確かめられるのかどうか知らないけれど。(公式ホームページには、記載がない。)
  (付記: 嘨は、部首が口、その右に肅と書く字です。 ショウ月楼)

エピローグ
 筆者は京都の鬼門軸とそれに関連する建物群の説明を展開する。修学院離宮も桂離宮もともにこの鬼門軸に位置することになる。そしてこの鬼門軸を小堀遠州が十分に意識していたと説く。これは興味深い解説だ。

 京の名庭を「あの世」「他界」の視点で見る著者の記述も、本書後半になると、庭園への西欧手法の活用と小堀遠州の作庭の可能性の考察に比重が移っていき、「他界」の視点についての説明が希薄になっているように感じる。
 時代が下がるとともに、作庭の本質が形骸化して行ったという指摘が最初にあったが、その形骸化の具体的説明は後半であまりなされていない。キリシタン文化・宣教師との接触によって、日本庭園の作庭のコンセプトが変容していったということにもなるのだろうか。コンセプトの変容はないとみるべきなのか。この点、筆者の明確な説明はないように思う。だが、日本の庭園を考える上で興味深いところだと感じる。
 それにしても、小堀遠州、また石川丈山という人物に興味が湧いてきた。


ご一読、ありがとうございます。

 取りあげられた寺院の庭の多くは訪れたことがあるので、本書を読み進める際、部分的にでも思い出すことが多かった。本書にはイラストの復元図や写真が掲載されている。しかし、参考に後付けでネット情報を検索して通覧してみた。
 それをリストにまとめる。

日本庭園  :ウィクペデイア
夢窓疎石  :ウィキペディア
小堀遠州 ← 小堀政一 :ウィキペディア
小堀遠州の画像
西芳寺の画像
天龍寺の画像
平等院 :ウィキペデイア
浄瑠璃寺の画像
鹿苑寺(金閣寺):ウィキペデイア
慈照寺(銀閣寺):ウィキペディア
銀閣寺の画像
妙喜庵待庵の画像
表千家不審庵の画像
裏千家今日庵の画像
武者小路千家官休庵 :財団法人官休庵
醍醐三宝院庭園の画像
西本願寺・飛雲閣の画像
東本願寺・渉成園の画像
智積院の庭
神泉苑の画像
二条城二の丸庭園の画像
仙洞御所の画像
大徳寺孤蓬庵の画像
大徳寺の画像
金地院庭園、南禅寺方丈庭園 :morino296さんの旅行ブログ
竜安寺の画像
高台寺の画像
桂離宮の画像
曼殊院の画像
修学院離宮の画像
円通寺  :名所旧跡めぐり 賀茂・岩倉を歩く
詩仙堂 ホームページ
詩仙堂の画像
京都御所の鬼門  :「自遊日記」ブログ

インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)

『忍び秘伝』 乾 緑郎  朝日新聞出版

2011-11-05 21:37:06 | レビュー
この著者の作品は、私にはこれが第一冊目、読み始めだ。タイトルの『秘伝』という言葉に引き寄せられて手に取った。著者が『忍び外伝』で2010年8月に第二回朝日時代小説大賞を受賞しているということすら知らなかった。

 時代小説は史実の背景に隠された部分に想像力を働かせ、断片的な史実が一つの図柄に織りなされていく面白さにある。忍者物はその中でも、空想が加味された奇抜な技や能力が発揮されるという面白みとその活躍が表舞台の史実の動きを如何にサポートしているかというところ読みどころだ。
 いままで忍者物を読んできたが、忍者の秀でた能力と技が駆使されるというその巧みさや行動のダイナミックさに魅了されるオーソドックス(?)なストーリー展開によるものが多かった。
 本書を読み、そのストーリー構成に一驚したというのが正直な感想だ。
 忍者物をこんな風に展開できるなんて想像しなかった。この話、どう展開するのだろうという思いを抱きながら、その奇想天外さを楽しみつつ一気に最後まで読んでしまった。忍者物を現代感覚でアレンジするとこんな発想に結びつくのかとその構想力に脱帽した。エンタテインメントとしては結構楽しめる本だった。忍びの素材にオカルトの風味をたっぷり加え、タイムスリップ要素を盛り込んだといえようか。
 この小説を映像化するなら、コンピュータ・グラフィクスの映像、それも3D技術を駆使するのに適しているように思う。それでなければ、映像が死ぬのではないか。バーチャル世界を取り込んだ忍びものというおもしろさ。だが、史実、地誌、民話、民俗学的視点はきっちりと押さえられているようだ。

 本書は、甲斐・諏訪の国が舞台。序章が『御柱祭』の描写で始まる。武田信玄が信濃諏訪家を滅ぼし、その領土を併合する。そして、川中島の戦い、家康との三方ヶ原の戦い、信玄の死の秘匿、勝頼の武田軍と家康・織田軍の設楽原の戦いという時代背景が本書の舞台である。

 信玄の軍師と言われた山本勘助が本書のカラクリ回しの黒衣といえる。この勘助、一種の神通力を持っていて、それは『在阿条経』の秘法から来ているという設定。この『在阿条経』が、小説を通底するまがまがしきものとなる。

 主人公は小梅という美少女だ。小県の里・禰津村においてノノウと呼ばれる「歩き巫女」になるべく育てられている。胞衣(えな)を被ったままの、生まれたての姿で道端に捨てられていたのが、今は、親方宿の抱主である姥百合の下で生活し、愚図と疎まれながら、この村でノノウとなるべく訓練を受けている。口減らしに捨てられたり、合戦で孤児になったり、または人買いから二束三文で買われてきた、身寄りのない子らが親方宿に預けられ、ノノウとして育てられるのだ。
 禰津村には『甲斐信濃巫女修練場』があり、そこの巫女頭(道場主)に収まっているのがお千代である。忍びの家である近江望月家から信濃の望月本家に嫁ぎ、川中島の戦いで夫を亡くしている。ウィキペデイアには「歩き巫女」の項がある。そこには「戦国時代、望月千代女が武田氏の為に、この巫女を訓練し、いわゆるくの一として使ったとされる」と記す。 
 歩き巫女の本業は口寄せや神降ろしであり、その裏家業は忍びとしての活動だ。甲斐のための情報収集である。ノノウとして全国を経巡っていき、この村に帰巣するごとくに戻ってくる。そのためノノウ修業者は、口寄せをおこなうための技術や神降ろしに使う呪文を学び、一方で忍びとしての剣術や忍びの術を訓練する。一人前のノノウになると、里に弓取と呼ぶ伴侶をあてがわれる。弓取はノノウの夫と同様の存在だという。諸国を巡る巫女としては生涯未婚という建前で、場合によっては行く先々で売笑もする。しかし、里に戻れば弓取がいるということになる。それが巫女を里につなぐ力にもなっている。

 本書には後二人重要な脇役が登場する。
 加藤段蔵。伊賀の藤林家に預けられ忍者として育つ。隻眼跛行の怪しい容貌をした男。子供の頃に、甲賀の近江望月家のお千代と一緒に遊び育った仲でもある。この段蔵、実は武田信玄に怨みを抱き、信玄を亡き者にしようと狙う男なのだ。その理由は、本書を読む楽しみにして欲しい。川中島の戦いでは、上杉側に立って働く。その段蔵、山本勘助との間には奇しき因縁が存在する。それが、本書のサブテーマでもある。
 もう一人は、真田昌幸。小梅は、姥百合から名を知らされ、一人前のノノウとなるために弓取をあてがわれる。その弓取との逢瀬の宿に初めて訪ねて行くが、そこに居たのは小梅の弓取になる男を殺した段蔵であり、その段蔵に襲われてその難を逃れようと格闘する。そのとき宿の前を通りかかった武藤喜兵衛(後の真田昌幸)が小梅を助ける役回りになる。小梅は姥百合から教えられた名前とよく似ていることから、武藤喜兵衛を自分の弓取と間違えて、契りを結ぶことになる。この喜兵衛はその後、要所要所でノノウとしての小梅と関係を持っていく。

 小梅は、歩き巫女となるための重要な道具として、粗末な下法箱を姥百合から与えられる。この下法箱には、誰にも知られないようにして自分でヒトガタを決めて、入れなければならない。捨て猫を哀れみ、密かに祠の中に飼っていた小梅は、降り続く雨の季節に行方不明になった猫を探しに出た時、足を滑らせ泥田の中でころび、右手の先に触れた石の棒の如きものを拾う。それには上から三分の一ほどのところにくびれがあり、目鼻の如き窪みもある。もしそれが祠に奉られていた石神ならヒトガタとして申し分ないと考えて、自分の下法箱に入れるヒトガタとする。
 この石神を拾ったことが小梅を奇妙な夢の世界に導くことになる。夢には太古の諏訪の眺めが現れ、ふいに何かの気配が駆け抜けていく。石神はそれが御左口(みしゃぐち)神だという。またあるときは、梅姫と呼びかけられ、黒装束の男が『在阿条経』を目の前で開く夢。そして、傍で母の死を嘆く男児、腹の上を擦ると膨らんでいた腹が萎んで皮膚が弛み皺がより、どす黒い血が流れている夢を見る。さらにまた別の夢。まるでそれらが、デジャビュであるかの如く・・・・。
 
 この小梅がノノウとしてする初仕事は、三方ケ原への信玄出陣につき、信濃巫女衆として数名が同行する中に加わることだった。陣中での戦勝祈願の祈祷だという。お千代につき従い、選りすぐりの巫女の中に加えられたのだ。だが、小梅にはなぜ自分のような技倆レベルの者が加えられたのかわからない。
 大菩薩山の欠下城から西へ向かい、追分で祝田に向けて進み、根洗松の生える小高い丘の上の本陣が置かれる。そして、小梅はお千代に呼ばれて、本陣に入り信玄の前に出向くことになる。そこでノノウ・小梅は特別の祈祷を行うことになるのだ。それも自らがしらない形で・・・・。
 ここから、ノノウ・小梅が他のノノウとは違った形でノノウの役割を果たし始める。
 信玄の亡き後、信濃に帰り咲いた武田信虎の暗殺受命、呼ばれて出向いた真田幸隆への祈祷・口寄せ、さらには、武田勝頼へのお目通り・・・。
 そして、小梅の数奇な過去が明らかになっていく。その過去が、小梅に禍をもたらし始める。小梅を助けるのは喜兵衛なのだ。

 ストーリーのクライマックスの場は蓼科山、この山には甲賀三郎の伝説があるという。本書にはこの伝説がうまく取り込まれているようだ。それもオカルト・モードで。

 本書34ページにこんな一行がある。川中島の戦いに絡んだ記述だ。
 「この戦が、甲越相方に甚大な被害を及ぼし、戦に出た兵の実に六割が命を落とす、地獄の戦になることを、しかし勘助はすでに知っていた。」
 この末尾の「しかし勘助はすでに知っていた」に付点が打たれている。この付点、なぜ強調するのか・・・・最後になってやっと、その伏線の謎が解けた!
 実に奇妙な転回だ。筆者のニヤリとする顔を想像したくなる。

 終章は天正11(1583)年春、小梅と喜兵衛こと真田昌幸の再会。そして小梅は昌幸の前を去る。その後、近江路では子連れの歩き巫女の話題が持ちきりとなる。託宣、口寄せ、祈祷の悉くが評判になっていた。
 演出家・脚本家でもあった筆者の作品だけあって落としどころが良い。

 史実を浮かび上がらせるように織りなす忍び働きを楽しみたいなら読むのは止めた方がいい。
 史実を材料に組み立てたエンタテインメントを存分に楽しみたいなら読むのをお勧めする。


ご一読、ありがとうございます。

小説の世界に対して、基礎となっている事実情報を参考にネット検索してみた。
(本書に添付の参考文献を読むのが一番基礎的事実情報に肉薄できるのだろうけれど・・・)

御柱祭  :ウィキペディア
御柱祭!これが本当の木落しじゃぁ~!  :YouTube
諏訪大社御柱祭木落とし 2010年3月   :YouTube
諏訪大社上社御柱祭 前宮三之御柱 3/4  :YouTube
長野県 茅野市 諏訪大社上社前宮 御柱祭 里曳き 建御柱
ミジャグジ :ウィキペディア
ミシャグジ様 :「日本の伝説」
歩き巫女 :ウィキペディア
忍者  :ウィキペディア
伊賀流 :ウィキペディア
甲賀流 :ウィキペディア
甲賀五十三家 :ウィキペディア
甲賀望月家 ←望月家 :ウィキペディア
武田信玄    :ウィキペディア
山本勘助    :ウィキペディア
川中島の戦い  :ウィキペディア
三方ヶ原の戦い :ウィキペディア
長篠の戦い   :ウィキペディア
真田昌幸    :ウィキペディア
魚鱗の陣  ← 陣形 :ウィキペディア
蓼科山のライブ画像 :山のライブカメラ
蓼科山 :「山たまごの東海岳行」(岳行ノート)

インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。


(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)


『原発を終わらせる』 石橋克彦編 岩波新書

2011-11-01 01:39:14 | レビュー
 本書は題名通り「原発を止めるための一石となれば幸いである」という主旨で出版された。編著者を含め14名の各分野の専門家が原発をなぜ終わらせるべきかを論じている。

 本書は4パートで構成されていて、専門家のコラボレーションの成果である。
 パートⅠは福島第一原発事故の実態を事故そのものの実態分析(「1.原発で何が起きたか」「2.事故はいつまで続くのか」)と被害者視点からの実態分析(「3.福島原発避難民を訪ねて」)を行っている。
 その上で「原発の何が問題か」について、科学技術的側面と社会的側面の双方から分析する。つまり、
 パートⅡでは、技術的側面を分析し、「1.原発は不完全な技術」であることを再認識させ、「2.原発は先の見えない技術」である理由を的確に指摘している。そして、「3.原発事故の災害規模」について警鐘を発する。併せて、「4.地震列島の原発」という最大の問題点を指摘している。日本列島における「原発震災」の必然性を警告する。
 パートⅢでは、社会的側面から原発を止めるべき理由を訴える。「1.原子力安全規制を麻痺させた安全神話」の形成・進展・崩壊を明確に描き出す。併行して「2.原発依存の地域社会」がなぜ・どのように形成されたのか、そのメカニズムを分析し、原発依存がある種の麻薬性体質であることをあきらかにする。さらに、「3.原子力発電と兵器転用」というNUCLEARの二面性をわれわれに突きつける。だが、この二面性がマスメディア等で正面から論じられることはほとんどないのが実態だ。それは情報操作につながることではないだろうか。
 問題点と原因が明瞭になれば、「原発をどう終わらせるか」(パートⅣ)という展開になる。終わらせるためには、当然「1.エネルギーシフトの戦略」が必然的な政策になる。そして、一方で「2.原発立地自治体の自立と再生」が課題となる。原子力を終わらせるために、マクロ視点ではやはり「3.経済・産業構造をどう変えるか」に取り組まねばならない。原子力依存構造を解体しなければ、終わらせることができない。最終的には、「4.原発のない新しい時代に踏みだそう」という国民の認識・自覚と創意・行動がキーになる。
 目次の見出しを使いながら全体構成を眺めて見たが、コンパクトに論点が整理されてまとめられていると思う。まず執筆者を明記しておこう。
 パートⅠ 1:田中三彦 2:後藤政志 3:鎌田 遵
 パートⅡ 1:上澤千尋 2:井野博満 3:今中哲二 4:石橋克彦
 パートⅢ 1:吉岡 斉 2:伊藤久雄 3:田窪雅文 
 パートⅣ 1.飯田哲也 2:清水修二 3:諸富 徹 4:山口幸夫
 本書の末尾には、執筆者紹介がまとめらている。
 編著者・石橋氏は「はじめに」ではっきりとこう明言されている。「それぞれの紙数が少ないために、個々の論述は必ずしも十分とはいえない。しかし、本書を読めば、いまなお原発を続けようとする原子力村や財界の思考が時代遅れで危険きわまりないものであることがわかるだろう」と。
 総合的な視点から原発を終わらせる必然性を理解するのに役立つ新書である。原子力推進派の情報操作・情報誘導に嵌まらないための情報への感性、報道されない局面への感度と情報認識を高めていくことが今まさに重要なことだと思う。

 田中氏の事故解析は緻密であり、後藤氏の解説はわかりやすい。上澤・井野両氏による原発が不完全、先の見えない技術である点の論証は、文系人間にも理解しやすく書かれていると思った。何が問題か、どう終わらせるかについて、14名の執筆者の論点から認識を深めることができた。そして、いくつか基礎情報のソースを知ることもできた。

 本書の主張点のいくつかを引用させていただこう。

*原発での小規模な事故はあとを絶たない。p80
  → 2010.4.1~2011.3.31 の1年間に、大小あわせて307件 (公開データ)
*巨大なプラントシステムでは、地震や津波によって複数台の機器が多重故障を起こす可能性が高く、機器の故障も確実には避けられない。・・・危機的な状態で人間がミスを起こすのは当たり前である。
 事故は、きっかけとなる自然環境現象と、機器の故障と人為的なミスが複雑に折り重なって大規模に進展していくものである。
 われわれは、すべての技術が制御可能だと思ってきたが、それは幻想である。  p49
*福島原発事故の直接の原因は、地震動と津波だが、安全対策が劣悪だったことが事故の深刻化を招いた。  p131
  第一の欠陥-重大事故についてのシミュレーションの欠如   p131
  第二の欠陥-指揮系統の機能障害              p132
  第三の欠陥-原子力防災計画の非現実性と避難指示の遅れ   p133
*「この人たち(国会議員)には、俺たちの生活はわからないだろう。たとえ1000万とか2000万とかいう補償金をつかまされたにしても、この先20年、30年は家に戻れない、それにいつから漁を再開できるのかもわからないのだから、決して十分な金額ではない」 大事なのは、生活を建て直し、その後の暮らしを支えるための長期的な補償だ。(被災者・山形一朗氏の言) p63
*地域に原発を無理やり押し込み、安全対策をさぼり、事故が起きると、「想定外」といっては責任を回避する政府と東電には、被災者の声に耳を傾けながら、生活再建を考える謙虚さはみられない。   p63

*原発は”技術といえない技術”だといってよい。「圧力容器の照射脆化」もそのひとつである。・・・原子炉で核分裂を起こさせて発生する中性子線が原子炉の容器や配管などに当たると金属材料を傷つける・・・・それを「中性子照射損傷」という。その結果、材料が割れやすくなれば「中性子照射脆化」という。  p87~88
*玄海1号炉をはじめ、1970年代に建設された古い原発は、中性子照射脆化が進んでいる。美浜1号炉・2号炉、大飯2号炉、高浜1号炉、敦賀1号炉、福島第一・1号炉(これは廃炉)などである。原発の危険性は地震や津波によるだけではない。原発はもともと30年ないし40年の寿命を想定して設計された。これらの老朽化原発は早期に廃炉にすべきである。 p93
*予測は、それを必要とする人たち(事業者や社会)が要求するものであり、その人たちの価値判断や予断が予測に影響を及ぼす。「予測は、ほぼいつも『期待』という色眼鏡を通した予測なのです」(名越康文)とは、心理面からのバイアスを指摘した精神科医からの名言である。・・・・「結論ありきの予測」をしないことである。   p99

*「日本では起こり得ない」や「絶対安全」といった強い表現が使われなくなっても、「リスクがきわめて小さく現実的には無視できる」と言い換えただけでは実質的に何も変わらない。   p135
*9.11の後、米国では、設計当初の設定を大幅に超える量を詰め込んだ各地の原子力発電所の使用済燃料貯蔵プールへのテロ攻撃の可能性が問題となった。  p176
*必要のないプルトニウムを作り続けるという不可解な政策をとる日本の意図に外国が疑問をもっても仕方がない。  p176

*「21世紀型パラダイム」へと大きく進化する必要がある。
 自然エネルギー・省エネルギー中心へ、規模分散型へ、ネットワーク型へ
 21世紀型の知識・環境重視へ    p193-194
*総じて「古い産業思想」に留まっている日本は、「ガラパゴス」と揶揄されるとおり、温暖化規制とは関係なく、グローバル経済から取り残されつつある。  p195
*第三次産業革命後は、経済成長と環境負荷の増大が切り離されることになる。 p219
*専門家や学会とは何だろうか。その人たちにまかせていたら、どこへ連れていかれるかわからない。おそろしい。自分たちの安心と安全は自分で確保しなければと考えるようになった市民が増えた。   p241


 原子力推進の動きは根強く深い。原発を終わらせるには、我々一人ひとりの認識がまず深まり、その思いが力に、動きに結集されていくことが必要だろう。まず、事実と展望を知らねば・・・・

ご一読、ありがとうございます。

この新書の共著者の発表されているものとその他基礎情報をネット検索してみた。

サイエンスライター 田中三彦氏
録画日時 : 2011/10/26 13:01 JST
政府・東京電力の福島第一原発事故報告批判
 -なぜ地震の可能性を排除するのか-
4分過ぎのところから田中氏の話が始まります。

録画日時 : 2011/10/26 13:19 JST
政府・東京電力の福島第一原発事故報告批判-2
 最初から25分すぎまで解説。
 44分あたりから後藤政志氏の話に移ります。

政府・東京電力の福島第一原発事故報告批判-3
 聴講者の質問に対する田中氏の回答説明が冒頭から始まっています。
 質問は2本目の末尾に入っています。田中氏の回答(15分頃まで)の後に、渡辺氏の回答説明の後、後藤氏への質問の回答説明(17分過ぎから)に入ります。

2011/7/10 公開フォーラム「福島原発の真実」セッション1田中三彦氏
2011/7/10 公開フォーラム「福島原発の真実」セッション1田中三彦氏 質疑応答1
2011/6/21 CNIC News 福島原発事故シナリオ 田中三彦氏 1/2
2011/6/21 CNIC News 福島原発事故シナリオ 田中三彦氏 2/2

井上博満氏
2011/4/16 CNIC News 第255回現代史研究会 「福島原発事故 -原因と結果」

今中哲二氏
20110727_衆議院_厚生労働委員会_参考人意見
放射能汚染調査から見た福島とチェルノブイリ
3/18京大原子炉ゼミ4「チェルノブイリ事故と日本の汚染」1/2
3/18京大原子炉ゼミ5「チェルノブイリ事故と日本の汚染」2/2

石橋克彦氏
2011/7/10 公開フォーラム「福島原発の真実」セッション3
地震と老朽化
2011/7/7 石橋克彦先生 講演 - 玄海原発運転再開を許すな 院内集会
2011/4/26 石橋克彦先生講演 「福島原発震災」の彼方に

飯田哲也氏
環境エネルギー政策研究所 所長 2011.4.5
日本の自然エネルギーの未来

飯田哲也の新・エネルギー原論
「脅し」でなく適切な「政策」で今夏の電力は充分足りる!
迷走続く原発事故賠償の枠組み 東京電力“ゾンビ”スキームの欺瞞
原発の急速な縮小は不可避 今、大胆なエネルギーシフトをめざす理由
自然エネルギーの実力は世界が実証済み
日本で拡大しない要因は政治と政策の不在


東京平和映画祭 飯田哲也氏講演

福島原発事故についての緊急建言 :「Peace Philosophy Centre」のサイトから
16人連名での陳謝声明 2011.3.30付 4.1記者会見